明治6年(1873)12月20日,明治政府は府県ごとに「里程元標」を設け陸地の道程の調査を命じた(太政官日誌)。その後,明治44年(1911)現在の日本橋が架けられると「東京市道路元標」が設置された。私たちがよく知る「日本国道路元標」である(日本橋中央にあった道路元標は昭和47年の道路改修により日本橋北西側に移設され,元の場所には50cm四方の元標が埋め込まれた。直上の首都高速高架橋にもモニュメントがある)。
また,北海道庁赤レンガ庁舎の門前に「札幌市道路元標」があることをご存知な方も多いと思う。東京を起点とする国道4号線の終点が北海道庁所在地とされていたからである。そして,道内の国道は此処を起点としていた(現在の碑は昭和57年に再建された)。
更に,大正8年(1919)4月1日公布の旧道路法では,各市町村に一個ずつ「道路元標」を設置することとされている。道内でも各町村に設置されたと思うが,存在が確認されている道路元標は必ずしも多くない。それは,昭和27年に制定された新道路法によって,道路の起点と終点が道路ごとに設定するよう見直され,従来の道路元標が不要のものになった背景がある。多くは道路改修等で壊され,忘れ去られ,朽ち果ててしまったのだろう。
このような中で,「道路元標」を歴史遺産として守っている自治体も少なからずある。ところで貴方は「恵庭村道路元標」の現状をご存知ですか。
1.恵庭村道路元標(昭和7年建設,恵庭市恵庭市中央)
2.漁村外一か村戸長役場(旧恵庭村役場)跡の碑(平成9年7月10日,恵庭市恵庭市中央)
1.恵庭村道路元標(昭和7年建設,恵庭市中央)
この元標は,恵庭市中恵庭(恵庭市役所中恵庭出張所敷地内,大正9年3月の北海道庁告示220号によれば元標位置は漁村551番地とある),北海道道600号島松千歳線に面して建てられている(写真は2014.10.22撮影)。櫟の木の陰に埋もれて,気づく人もあるまい。標石の表面には「恵庭村道路元標」,裏には「昭和七年建設,北海道庁」とある。
明治開拓の時代から大正・昭和にかけて,第二次世界大戦が終わるまで,この地は恵庭の中心であった。この元標を起点にして道路は四方に延びていた。現行法では道路管理者から見捨てられた存在かもしれないが,恵庭市民にとっては歴史のモニュメントであろう。
写真をご覧頂ければお分かりかと思うが,標石の角は朽ち,刻まれた文字も崩れそうだ。立ち姿は,除雪の重機から身を守る術もない。崩れ去る前に何とか保存したいものだ。「恵庭の街遺産」保全の取り組みを提起したい。
2.漁村外一か村戸長役場(旧恵庭村役場)跡の碑(平成9年7月10日,恵庭市中央)
石碑は,恵庭市中恵庭,恵庭市役所中恵庭出張所敷地内に建っている(写真は2014.10.22撮影)。碑文には「明治三十年六月十三日,千歳郡千歳村外五か村戸長役場の所轄を分離し,ここに漁村(外が抜けたか?)一か村戸長役場を置き,同年七月十五日に開庁したことを誌す」とある。
戸長役場のその後の歴史を辿っておこう。明治30年7月15日,千歳郡戸長役場から分離して漁村外一か村(島松村)戸長役場が漁村中央に設置された。恵庭市の行政はここに始まったのである。その後,明治39年には漁村と島松村を併せて恵庭村と称し,恵庭村役場となった。更に,昭和26年7月1日町制が施行され恵庭町となり,昭和27年に町役場は現在市役所本庁がある場所(京町)へ移転した。
この間,役場庁舎は明治43年,大正15年に改築されている。旧役場の「ゆかりの地」に建てられた中恵庭出張所の建物は,大正15年に建てられた役場庁舎をイメージしたと言われる(平成8年1月改築)。恵庭市消防団第三分団の車庫,詰所が併設され,隣には中恵庭会館がある。
恵み野に住宅を構えてから二十年余が過ぎた。中恵庭の道路を通勤で4年間も通ったが,この道路元標の存在を知ったのは数年前のこと。知ってしまうと,朽ち果てそうな道路元標が気になって止まない。