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恵庭の碑-10,新しく歴史に刻む 「拓望」の碑

2014-12-24 16:01:39 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

昭和31年(1956)の「経済白書」に,「もはや戦後ではない」の言葉が使われ(初出は中野好夫,文芸春秋1956.2),当時流行語になった。ここに書かれた真の意味は,「今までは戦後復興ということで成長の伸び代が十分にあったが,戦前の生産水準にまで回帰してしまった以上,この先,この成長をどうやって続けたらよいものだろうか」という,困惑気味なものだったそうだ。ところが実際には,「復興期から脱して,高度成長という明るい未来がやって来る」と独り歩きしてしまう。

事実,この後の昭和時代後半(昭和30~50年代)は,各地に工業団地などが造成され,街の姿が大きく変貌することになる。ここで取り上げた「拓望」の碑は,恵庭工業団地の造成,発展に尽力した方々が,今後の発展を祈念して建立したものである。建設年は平成4年6月。関係者は,昭和44年から始まった工業団地組合の事業完了に際し,「拓望」の言葉を刻み,地域繁栄への夢を託したのだ。

歴史のモニュメントとして,末永く語り継がれることだろう。

 

◆「拓望」の碑(平成4年6月吉日建立,恵庭市北柏木町3丁目)

 

拓望」と刻まれた石碑が恵庭市北柏木町3丁目(柏木工業団地通りの楓球場南側)に建っている(写真は2014.11.11撮影)。碑表面には「拓望」と大書された文字と恵庭市長浜垣実の名前,裏面には恵庭市工業団地組合による「碑文」が記されている。

碑文を転記する。

「碑文,この地帯はかしわの木と野生スズランが群生する火山灰台地を明治三十年代より先人達が開拓の鍬を入れ幾多の苦難に耐えて実り豊かな農地を築き上げて来たところである。恵庭町が昭和三十九年に道央新産業都市に指定され,この地一帯の約七十八ヘクタールが工業用団地として決定し,これを契機に利便性のよい国道三十六号線沿いに数社の企業が工業用地として取得した。昭和四十四年二月札幌通商産業局の恵庭工業用団地造成調査報告書の趣旨にそって,同年十月地域をより一層発展させる為工業団地組合を設立し,以後二十二年余にわたり六十二社の企業の誘致を見た。ここに事業完了にあたり一同相計り,企業各社の繁栄と郷土恵庭市の発展を念願し記念の碑を建立する。平成四年六月吉日,組合設立月日昭和四十四年十月十六日,総面積七七八二四八.一二平方米,組合員十六名,恵庭市工業団地組合」

また,基石には工業団地組合の役員ほか組合員氏名(組合長平野貞雄,副組合長渡辺茂治,会計五束道信,理事中島正雄,理事山本継三,監事柴田稔,監事山本渉,組合員山岸貢ら9名,及び物故組合員元組合長松本定見ら7名)と建立年月日(平成4年6月)が記されている。

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