豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

「新渡戸稲造」と「唐人お吉」,新渡戸稲造は何故「お吉地蔵」を建立したのだろうか?

2014-04-23 18:36:36 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

お吉が淵の「お吉地蔵」

下田から下田街道(国道414号)を稲生沢川に沿って進むと,「河内」という地区に出る。伊豆急行の蓮台寺駅を過ぎて,信号を一つ越えた辺りだ(蓮台寺駅から徒歩5分)。右側の堤防に桜並木と小さな祠が目に入る。ここが「お吉が淵」,唐人お吉が明治24327日豪雨の夜に身を投げた場所である。

現在は堤防と遊歩道が整備され,鯉が泳ぐ池やオキチザクラも見事な大木になっているが,川の流量は少なく長閑な佇まいの場所である。327日には「お吉まつり」があって,下田の芸妓衆がこの祠にお参りするそうだが,普段は犬を連れた老人が散歩している風情が似合いそうな場所。この辺りの国道は道幅が狭く駐車場所もないので,観光バスもスピードを落としてガイドが瞬時の説明をするくらいかも知れない。

この一角に,祠とは別の地蔵尊が川を背にして立っている。新渡戸稲造博士がお吉を慰霊するために建立した「お吉地蔵」である。観光協会が建てた小さな説明板がなければ誰も気づかないだろうし,地蔵尊の存在自体を知る人も少ないに違いない。

 

「新渡戸稲造」と「唐人お吉」,どう考えても接点がない。あまりにも異質な存在だ。新渡戸稲造は何故お吉地蔵を建立しようとしたのだろうか?

 

 

先ず,両人の略歴を見ておこう。

新渡戸稲造1862-1933)(文久2-昭和8

東京英語学校から札幌農学校(二期生,入学翌年に洗礼を受ける)に学び,アメリカ・ドイツ留学。後に,札幌農学校教授(この頃,僚友夜学校を設立),台湾総督府技師,第一高等学校長,東京帝国大学教授,東京女子大学初代学長などを歴任し教育者として尽力。晩年は,国際連盟事務局次長として活躍する傍ら,「太平洋の架け橋」ならんと国際間の使徒として平和のために人生を捧げる。著作には,名著「武士道(Bushido-the soul of Japan)」など。旧五千円札の肖像画でも知られる。


一方,唐人お吉(斉藤きち,1841 -1890)(天保12-明治24

船大工市兵衛の次女として生まれ,7歳のとき河津城主向井将監の愛妾村山せんの養女となり,14歳にして離縁され芸妓。鶴松と将来を誓う仲であったが,17歳のとき下田支配組頭伊佐新次郎に口説かれ,侍妾としてアメリカ総領事ハリスのもとへ。玉泉寺(柿崎)に通ったのは僅か3夜であったとも言われるが,その後きちは“唐人”と罵られ,流浪の末,酒に溺れ乞食の群れに入るまでになり,稲生沢川門栗の淵(お吉が淵)に身を投げる。享年51歳,亡骸もしばらく引き取り手がなかったとされる(竹岡大乗師が宝福寺に弔う,当寺に墓石あり)。数多く小説や映画化され,幕末開港に伴う悲話として語られる。

 

この二人が出会った史実は無い。それでは何故,新渡戸は「から艸(くさ)の浮名の下に枯れはてし,君が心は大和撫子」と詠んだのか? お吉が淵を散策しながら,想いを馳せた。


◆新渡戸稲造,晩年の苦悩 

第一次世界大戦が終結して1920年国際連盟が結成されると,新渡戸は事務局次長としてジュネーブに滞在し,知的協力委員会(後のユネスコ)発足などに尽力する。1926年辞任後も,講演活動の傍ら太平洋問題調査会の理事長など国際人として活躍の場を広げる。

しかし,1931年に満州事変が勃発,日本への非難が高まる中「太平洋の架け橋」ならんと奔走するが,歴史の波に揉まれ,日米両国で多くの友を失い,日米関係改善の目的も達成することが出来ないまま19333月帰国。その直後に日本は国際連盟を脱退し,軍部の台頭著しく,第二次世界大戦への道を転がり始める。

この様な時代を背負って,新渡戸は旧知の人々を訪ね,祖父の墓参りをし,1933(昭8)年716日にはお吉ゆかりの地を訪ねて,お吉が入水した淵に慰霊のための「お吉地蔵」を建立することを頼んでいる。そして8月には,平和への最後の望みを託し,第五回太平洋会議(カナダのバンフ)に出席。代表演説を成功させるが病に倒れ,カナダのビクトリアで71歳の生涯を閉じた(1015日)。お吉地蔵の完成を見ることもなく。

「太平洋の架け橋」ならんとするも時代に翻弄された体験から,新渡戸は開国の歴史の中で両国の狭間で泣いたお吉の心情を(己に重ね)慮ったのではあるまいか。 


◆お吉の侍妾問題
 

領事館の書記兼通訳ヒュースケンは,体調を崩した領事ハリスの世話をする看護師を斡旋するよう申し出る(単にメイドの斡旋依頼だったかもしれない)。幕府は,妾の斡旋依頼と誤解し,交渉事を円滑にするためにも情報を得るためにもこれ幸いと,多額の支度金と給金を与え因果を含め,お吉を駕籠でハリスのもとへ赴かせた。病に倒れたハリスが,健気なお吉に心を開いたことは想像に難くない。

しかし一方,ハリスは下田に着任したとき既に53歳と高齢だったこと,道徳規律の厳しい清教徒であったことなどから侍妾論を否定する説がある。また,戦時中には国辱ものだとして,戦後は宗教上や教育上の視点からお吉抹殺論まで論じられた。

敬虔なクリスチャンである新渡戸稲造も,当初はお吉を創作的人物と受け止めていたようだが,下田に来て菩提寺の過去帳や古老の話を聞いて実在の人物であると認識することになる(竹岡範男「唐人お吉物語」)。そこで,新渡戸は自らの間違いを潔く認め,陰ながら日米間の融和に貢献した一人の女,国策に翻弄された悲劇の人物として,お吉を供養したいと考えたのではあるまいか。

4月中旬この地を訪れたとき,オキチザクラ(大島早生)は既に葉桜だったが,フリージアが地蔵尊の周りに咲いていた。百日紅の木陰に立つ「お吉地蔵」は,今の世に何を思うや?


参照:竹内範男(1983)「唐人お吉物語」,肥田喜左衛門(1985)「下田の歴史と史跡」,十和田市立新渡戸記念館HP2014),村上文樹(2008)「開国史跡玉泉寺」

 

Img_5269a_web

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする