太平洋戦争が行き詰り,そして敗戦(4歳半の時に終戦を迎えた)。終戦直後の日本は物資が不足し,混乱の時代であった。大人たちは直向きに働き,時代の変化に戸惑っていたように思う。生家は長閑な山村にあり農家だったため,子供心にひもじい思いをした記憶はないが,誰もが食糧生産に追われていた。
当時を振り返ると,
水があるところには一畳ほどの広さでもイネを植えた。うどんや雑炊のためにムギを,豆腐・味噌・醤油を造るためにダイズを播いた。お祝い用にアズキも忘れず,胃袋を満たすためにサツマイモとカボチャを植え,油用のナタネを播き,ハクサイ,キャベツ,菜類,ダイコン,カブ,ニンジン,ゴボウ,サトイモ,コンニャク,ソラマメ,エンドウ,ササゲ,ラッカセイ,ネギ,ショウガ,ミョウガ,シソ,ラッキョ,ニンニク,トマト,ナス,キュウリ,トウガラシなど野菜の種類も多様であった。
鶏の餌になるようにアワやキビを播き,牛の飼料(または緑肥)にとエンバク,トウモロコシ,レンゲソウも忘れない。また,家の周辺には,カキ,ミカン,クリ,ビワ,モモ,イチジクなど果樹,シイタケの種木があり,これは祖父母の小遣い稼ぎになっていた。
野山には,ワラビ,ゼンマイ,ウド,フキ,アシタバ,ノビル,タケノコなど山野草の旬を味わい,秋にはヤマノイモ(ジネンジョ)を掘った。加工にも生活の知恵が生かされていて,何処の家でも味噌を作り,冷暗所に安置された醤油の樽は醗酵促進のため毎日かき混ぜていた。豆腐や蒟蒻ももちろん自分で作り,梅干し,紅ショウガ,ラッキョウや野菜の漬物,干しイモ,切り干し大根,干し柿,乾燥ゼンマイなど保存食も揃えていた。
ある時は棉を栽培した。紅色の花が咲き,卵型の果実が裂開するころ種子についた白い毛が露出する。この実綿を摘み取り,その実から種を除き,綿花から糸を紡いだ。また,ラミーを栽培したこともあった。
養蚕は数年続いた。春になると母屋の座敷を通して棚を作り,種卵が配布される前には部屋を密閉して燻蒸消毒をした。製糸会社から配布された卵が孵化したら羽箒で蚕座に移し,寒い日は炭火で部屋を暖め,稚蚕(1齢から3齢)のうちは桑の葉を刻み,壮蚕(5齢)になると葉をそのまま与えるが,早朝から深夜まで多数回給桑する作業は1か月弱続いた。蚕が桑を食む「バリバリ」という音に目を覚ますと,祖母や母がうたた寝していることが多かった。熟蚕になると繭を作らせるために藁で編んだ「蔟」に移した。蛹化した繭は羽化する前に製糸会社に出荷したが,祖母はくず繭から糸を繰り,機織り機で布を織った。
数頭の乳牛を飼育していたが,給餌,搾乳,敷き藁の管理など忙しい作業であった。牛乳生産が主目的であるが,堆肥の生産も重要であった。化学肥料が手に入らない当時は,牛と人の糞尿(溜桶で醗酵)を大切に利用していた。糞尿からメタンガスを採ろうと大人たちが話すのを聞いて,燃える気体に興味を覚えていた。
鶏は放し飼いであったが,夜は野犬や鼬を避け小屋の高い所で寝ていた。猛禽が近づくとかなりの距離を飛ぶことも知った。ある年,鶏の孵化を請け負った。鑑定士が雛の性別を見分けるスピードに,職人技とはこういうことかと驚きもした。
百姓の時代は,幼少時の体験を通じた知識蓄積の場所であった。
さて,このような多様な農業(百姓*)はいつ消えてしまったのだろう? 江戸時代から第二次世界大戦の頃までは,日本中に自然に向き合った営みがあった。ところが,戦後の経済発展は若い労働力を都会に集めた。昭和40年代以降急激に進んだ農業の機械化は,経営面積の拡大を必要とした。規模拡大が進むにつれ,農業は小品目栽培へ移行し単純化された。
アメリカ,オーストラリア,ブラジル,アルゼンチンなどの農業は,効率化を追求した典型である。大規模・単品目栽培(例えば,ダイズ単作,ダイズ―コムギ交互作)で確かに効率・生産性は向上したが,土壌を損ない,地球環境を壊しているのではないかと感じざるを得ない。経済効率か自然と共生するか,どちらにするか考える時だ。
相対的にみれば,日本の農業は自然調和を指向していると言えよう(百姓ではないけれど,まだ救われる)。荒んだ大規模農業を反面教師とする農業構築の時が来ている。
*百姓:歴史的には色々な意味で使われ,差別用語とされる時代もあったが,ここでは「多様性を持った農業を行う者」と定義する。
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