豆の育種のマメな話

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伊豆の人-5,「中根東里」と伊豆人気質

2013-02-07 16:22:58 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

「中根東里」幼少時のエピソードが知られている。

「・・・東里は幼いころから親に孝行だった。父の重勝はよく飲み歩き,家に帰るのも遅かった。東里はいつも提灯を持って父の帰りを待って外に立ち続けるのであった。ある日,父は泥酔し,迎えに来た東里を東里ともわからず罵り,樹の下に倒れ込んで眠ってしまった。藪蚊が襲ってくる。東里は父を背負って帰ろうとしたが子供の力ではどうにもならず,家に帰り,母に心配を掛けまいと“父は今晩知人宅に泊まることになったが,蚊帳が足りないので借りてこいと言われました。私もそこに泊まります”と蚊帳を持ち出し,父が眠っているところに戻り蚊帳を吊って,一睡もせず泥酔した父を護り,翌朝一緒に帰った。村人は,その孝行ぶりを褒め称えた・・・」とある(参照:井上哲次郎「日本陽明学派之哲学」冨山房明治33(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),下田己酉倶楽部「下田の栞」大正3(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),磯田道史「無私の日本人」文芸春秋2012)。

 

また,1)鎌倉の長屋で弟と暮らした頃,隣人の病を見かね,典籍や衣服を売り払い,これを救い,男の病が回復すると「このまま長屋にいては,あの男も気まずかろう」と,鎌倉を離れた優しさ。2)江戸弁慶橋近くの町木戸の番太郎となり,竹皮草履を作り,売りながら,書を取り寄せては読みふける暮らしの中で,たまたま隣人の幼児虐待の有様を目にするが救済も叶わず,「何のために学問してきたのか」と悩んだ優しさ。3)下野国佐野で,弟の赤子を育てながら村人に書を教え,清貧なうちにも人々に慕われて生活を送ったことなど,東里の人生には心の優しさを示す事象が数知れない。

一方,生活を犠牲にしてまでも貪欲に経書を読み真理を求めた一途さ,禅宗,浄土宗,朱子学,陽明学へと一度矛盾を悟ると次ぎへ進む潔さが東里にはみられる。

 

このような中根東里の性格はどこで形成されたのか?

性格は本来親から譲り受ける遺伝的素質であるが,一つの仮説として,幼少の時を奥伊豆の下田で生きたことが性格形成に影響した,と想定しよう。

気候温暖な土地柄のため性格は温和で優しくなり,江戸から離れた寒村の長閑な暮らしで一途な心(不器用でもある)が育まれたのではないか,と考えるからである。

 

世に,「伊豆人気質」と言う言葉がある。

人国記によれば,「当国の風俗は,強中の強にして,気を稟くるところ都て清きなり。然れども一花の気にして,少しの違いめにても,また親怨を変ずるなりとぞ。案ずるに・・・三方海岸にして,中は山谷なり。寒暑も穏やかなところなり。民族辺境なる故に,よろず一筋なり」という。

 

また,日刊ゲンダイ編集部編「県民性と相性」(グリーンアロー出版社)によると,静岡県は「気候温暖が生んだ気性なのか,金銭欲,上昇志向まるでなし,事あらば酒宴を開く大楽天家,歩くのがのろい,のんびり型,競争を好まない,平和友好的(競争心がない),優柔不断,それなりに」の特性があるという。県内でも,伊豆の乞食(お人好しで人情に厚い,乞食をしても食って行ける)と遠州泥棒(進取の気性に富んでいる,食えなくなると泥棒まがいのこともする。家康の庇護を受けて過当競争をやったことのない静岡市に対し,遠州浜松は大阪や近江商人の進出を受けて安閑としていられなかった)の言葉があると解説する。

 

類型化に意味のないことは承知の上で(東里と比べるのも畏れ多いが),両者を比べてみよう。中根東里の優しさ,一途さが,伊豆人気質に重なって見えるではないか。観光客が訪れ,人々の交流が多くなった現在,前述のような気質は伊豆下田から薄れているが,地元の老人に声を掛けてみれば穏やかな響きと人の良さが伝わってくるだろう。歩く姿や身振りも決してセカセカしていない。

中根東里が腰を下ろし書物片手に竹皮草履を売っていても,違和感がないではないか。

 

伊豆生まれの筆者にとって,妙に納得するところがあるのだが・・・

コメント
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