豆の育種のマメな話

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パラグアイ国から今日は

2011-03-31 11:15:08 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

パラグアイに住んだ初年目,友への便り

 

地球儀をくるりと回転させて,日本のちょうど反対側を見てください。南米の大国,ブラジルとアルゼンチンに挟まれるようにして,パラグアイ国があります。日本との時差が12時間,季節も全く逆で,この国は今,真夏のクリスマス,正月を迎えようとしています。

 

面積は日本よりやや大きく,人口は北海道とほぼ同じ。「南米の田舎」と揶揄されるような,のんびりしたお国柄です。旅行案内書に,「亜熱帯性の気候に支配されるこの国は地味豊かな草原が広がり,南米有数の自然の豊かさを誇っている。近隣諸国の喧騒を離れ,慌しい旅にしばしの安らぎを」とありますが,なるほどと頷けます。人々は木陰に集い,テレレ(冷たいマテ茶)を回し飲みしながら談笑し,時を過ごしています。経済的には貧しいのに,この生活の長閑さ,心の豊かさは何故でしょう。柑橘類,パパイア,マンゴ,バナナが豊かに実り,庭先にマンジョカ数株と鶏を放し飼いしていれば喰うに困らずの気候の所為でしょうか。赤いレンガ屋根と白壁の家が,テラロッサの赤い土と豊富な木々の緑に映え,色とりどりの花々がアクセントを添えています。強い日照が印象的な国です。

 

今年の5月に慌しく日本を発ち,「パラグアイ大豆生産技術研究計画」なるプロジェクトに参加し,若い研究者たちと汗を流しています。プロジェクトサイトは,イグアスの滝からパラナ川に沿って約300km下ったエンカルナシオン市にあります。近郊の丘陵地帯はこの国の穀倉地帯で,見渡す限り大豆畑といった状況です。ちなみに,この国の輸出総額百億ドルのうち,大豆が44億ドル(実に44%),綿花9億ドル,木材7億ドル,食肉7億ドル。その他,小麦,とうもろこし,ひまわり,水稲などが生産され,農牧業がこの国を支えています。

 

この大豆生産をリードしてきたのは,実は日系農家の人々でした。約40年前この地へ入植した日本からの移住者は,楽園を築こうとの夢を心に抱いて原始の森を拓き,幾多の災害をも克服し,各種の作物栽培を試み,パラグアイが誇る穀倉地帯を作り上げました。イグアス,ピラポ,ラパスなど日系コロニアには,300haを超える大豆生産農家も多く,中には,360度の地平線が視野に入る広大な規模で大豆を生産する農家もいます。しかも,収量水準は極めて高く,ヘクタール当り3トンから4トン。特に,日系の農家が導入した不耕起栽培により,エロ-ジョンの防止や適期播種を可能にしたため,生産が安定しました。今ではほとんどが不耕起で栽培されています。もちろん,試験場の試験区も不耕起で機械播種(ブラジル製播種機)です。

 

大豆生産量は,全国で120万ヘクタール,300万トン。世界第5位にランクされるまでになり,パラグアイ経済の重要な柱として位置付けられています。しかも,同国はヨーロッパや日本の遺伝子組換え安全性論議の中で,いち早く非遺伝子組み換え大豆生産の政府決定を内外に宣言し,各農協へ指導を徹底するなど,大国の狭間の国ゆえの機敏な対応もしています。日系農協は,世界有数の大豆輸入国である祖国日本に対し,直接自分たちが生産した大豆を輸出したいと熱望しています。アメリカや中国からだけでなく,パラグアイ日系農家の熱い眼差しにも応えたいものですね。

 

この様に日系コロニアが近くにあり,市内にも日系人が多く住んでいるため,日本食にも全く不自由しません。アサード(焼肉)にマンジョカ,軽食にはチッパー(マンジョカの粉にチーズを混ぜ揚げたもの),エンパナーダ(餃子の皮にひき肉と野菜を包み揚げたもの)などがこの国の代表的な食べ物ですが,味噌や醤油は言うに及ばず豆腐や納豆まで手に入ります。魚は,黄金のドラードなど淡白な川魚が主流ですが。

 

考えてみれば,この国は雑多な人種から成り立っています。先住のガラニーとスペインの混血,その後ドイツ,日本,ロシア,東欧,韓国,中国等からの移民が多く,色々な顔が見えます。パラナ河をはさんでアルゼンチンとも自由に行き来しています。外国人という意識を全く感じさせない国です。したがって,この地に到着したばかりの私どもにも,分かろうと分かるまいと,スペイン語で話し掛け続けるのです。一言でもスペイン語で応えれば,「ムイ・ビエン」,おまえはスペイン語が良く分かるとなるのです。公用語は,スペイン語とガラニー語で,ガラニー族の人々の中にはスペイン語を話せぬ人も多いので,意に介せずと言う事なのでしょうか。

 

一方,エンカルナシオンには,日本語だけで暮らせるような社会も存在します。ある専門家の奥さんは,日本語だけで2年間過ごしたと言われます。そんな訳で,残念ながら私のスペイン語も上達するような環境にはありません。反面,このような社会では,丘の上で朝こぼした牛乳が,夕方には下まで流れ各家庭に知れ渡っていると言うような,面倒な事もありますが,まあ住み良いところと言えるでしょう。

 

政治的な不安定さと経済の低迷が貧富の階級差を生み,失業率も20%に近づいています。国道脇に土地なし農民がテントを張り,街角には物売りや小銭をせがむ裸足の子供たちが増えているとは言え,雑多な人種から成るこの国は意外と強かなのかもしれません。

 

参照:土屋武彦2000「パラグアイ国から今日は」むーべる(上川農試親睦団体機関誌)30,3-5

 

 

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