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ハリスと牛乳のはなし,開国の舞台「玉泉寺」

2012-09-24 18:22:35 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

伊豆下田の柿崎に,静かな佇まいの国指定史跡「玉泉寺」がある。この寺は,幕末の嘉永7年(1854)から安政6年(1859)までの6年間にわたり開国の中心舞台となり,最初の駐日アメリカ総領事館(安政385日~安政652日,初代総領事タウンセンド・ハリス)が置かれたことで知られている。

時は幕末,嘉永6年(1853)ペリー艦隊が浦賀に来航,翌年の嘉永7年には神奈川で日米和親条約が締結され下田が即時開港されたことから,下田港にはペリー艦隊を初めロシア軍艦,アメリカ商船の入港が相次いだ。下田港が当時出船入船三千艘と賑わっていたとはいえ,黒船の出現でひときわ慌ただしくなっただろうことは想像に難くない。江戸幕府役人の混乱ぶり,長閑に暮らしていた人々の戸惑いは如何ばかりだったか。

 

そのような折,寒村の鄙びた寺(玉泉寺)が歴史の舞台として登場する。柿崎の浜にあった玉泉寺は,「日米和親条約議定書付録」によりアメリカ人の墓所に指定され(ペリー艦隊乗員墓碑5基,ロシア・デイアナ号乗員墓碑3基,アスコルド号乗員墓碑1基が現存),日露和親条約の交渉場所(第23回交渉),デイアナ号高官やドイツ商人ルドルフ等の滞在場所になり,初代アメリカ総領事館になったのだ。

 

さて,そのような時代のエピソードの一つ,「ハリスと牛乳のはなし」を紹介しよう。

 

 

ハリスは玉泉寺に入るとすぐ,奉行所に牛乳の提供を要求(安政3年)した。当時のアメリカでは牛肉と牛乳が食生活の中に定着していたのだろう。

これを受けて,下田奉行支配調役並勤方森山多吉郎,調役下役斉藤玄之丞(通詞立石得十郎)は,次のように問答している。

 

森山「このほど当所勤番の者へ,牛乳の提供を求められたことについて,奉行に問い合わせたところ,国民は一切牛乳を食用にしない,牛は専ら土民どもが耕耘や,山野多き土地柄ゆえ運送のために飼っているのであって・・・,子牛が生まれても乳汁は全て子牛に与えるので,牛乳を提供することはできない。申し出には応えられない」

 

ハリス「それでは,母牛を求め,私たちの所で搾乳するようにしたいが宜しいか」

森山「今,申したとおり,牛は耕耘,運送のため大事にしているものだから,他人に譲渡することはしない」

森山「山羊の飼育はどうか・・・」

 

安政51858)日米修好通商条約交渉のため江戸に出ていたハリスは,病状が悪化したため下田に戻り静養に努めるが,数日間危篤状態におちいる。幕府は医師を付き添わせ懸命の治療にあたる。そして,病状が回復するにつれ,ハリスはしきりに牛乳を飲みたがるようになる。

幕府側にも対応の変化があらわれる。初代総領事が赴任地で死亡することを恐れたのであろう。柿崎村名主與平治の日記には「異人が牛乳を所望していると仰せつかり,白浜村から求めた牛乳を玉泉寺に届けた」,町御触書には「牛乳が入用なので,牛を持っている者が相談して,日々2合ほど御用所へ持参されたい」,中村名主日記には「異人病気で牛乳を薬用にするため・・・」などの記録が残されており,牛乳調達に苦心する当時の状況を窺い知ることが出来る。

 

その結果,約2週間にわたり,白浜村,蓮台寺村,大沢村,落合村,青市村,馬篭村(現在の下田市と南伊豆町にまたがる広範囲)から牛乳が届けられている。その総量は九合八勺,代金は一両三分八十八文であったという。その額は,当時の大工の月給に相当するほどで,極めて高価なものであった。これが,わが国における牛乳売買の始まりであったとされている(玉泉寺前庭に,少し異質な風情で建っている「牛乳の碑」の記述)。

 

それまで牛乳を飲用する習慣は,わが国になかったのだろうか

否。実は,わが国における牛乳の歴史は古く,飛鳥・奈良時代に遡る。645年大化の改新のころ,百済から来た帰化人が孝徳天皇に献上したのが始まりで,平安時代には皇族や貴族の間に飲用習慣が広まっていたと言われる。また,日本で最古(984年)の医学書とされる「医心方」には,乳製品の効用(牛乳は全身の衰弱を補い,通じを良くし,皮膚をなめらかに美しくする)が記されている。

その後,仏教で殺生を禁じたこともあり牛乳の飲用はすたれていたが,1727年には8代将軍吉宗がインドから白牛3頭を輸入し千葉県安房郡で飼育を始め(近代酪農の始まり),開国後の明治になって外国人が住むようになると牛乳の需要が増加して行く。1863年には前田留吉が横浜に牧場を拓き牛乳の販売を始めている。

 

50年ぶりに訪れた柿崎の浜は,海遊公園から「松陰の小径」「ハリスの小径」と海岸線が整備され,海水浴で遊んだ子供の頃とはすかり様変わりしていた。玉泉寺も三島神社も砂浜から眺めることが出来たはずなのに,今では周辺の民宿に隠れている。吉田松陰と金子重輔が海外渡航を企て潜んでいた弁天島も陸続きになっている。

だが,玉泉寺の山門前に立つと閑静な風が吹き抜け,歴史が蘇ってくる。皆さんも下田を訪れる機会があったら,この地に足を運ばれるがよい。旅の思い出が深まるだろう。

 

参照:村上文樹「開国史跡玉泉寺」,社団法人日本酪農乳牛協会「牛乳百科事典」

 

 

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