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パラグアイ最初の日系移住地「ラ・コルメナ」は「フルーツの都」と呼ばれる。ミツバチのように勤勉な日系人

2011-07-12 11:45:53 | 南米で暮らす<歴史・文化・自然>

パラグアイ日系移住地の話をしよう(1

 

パラグアイ共和国には日系移住地が数か所あり,それぞれ特徴ある発展をしている。その中で最初に入植が行われたのが,ラ・コルメナ。国道1号線のCarapeguáから左折してしばらく進むと,コルメナ富士と呼ばれるアブラグア山が眺望できる。町が近づくと,Capital de Frutaの看板。中央プラサには南米移住の父「宮坂国人」の胸像がある。称して「宮坂公園」。

 

ラ・コルメナ日系移住地は,首都アスンシオンから南東に130km,パラグアイ共和国パラグアリ県にある。面積11,500ha(うち日系居住地域5,000ha),人口5,500人(うち日系338人)。ちなみに,コルメナ(Colmena)とはミツバチの巣箱,集合名詞ではそこに住むミツバチのこと。日本人の勤勉さを表現したという。

 

1934年パラグアイ拓殖組合の宮坂国人氏らの調査に基づき,この場所を移植適地と選定し,パラグアイ政府の許可を得て11,000haの土地を購入したことから始まる。19366月にはブラジルから指導移住者の入植,8月には日本から第111家族81名が入植し,1941年までの入植者は123家族790名を数えた。

 

この移住地の特徴は,ブラジルでの開拓経験者を指導移民として入植させたことだろう。移住者は,1区画20haに区画されたロッテに抽選で入植,協力して原生林に立ち向かう。仮小屋を建て,森を切り開き,種をまく,日夜の区別なく汗を流した。

 

この開拓期に,移住者は各種作物の試作を行い,193611月には日本より校長を招聘して日本学校の開校式を行っている。

 

 

1941年第2次世界大戦が勃発。19421952年まで干渉官制度が敷かれ,敵国制約が課せられたことは移住者にとって想定外であったろう。日本学校とパラグアイ拓殖事務所の閉鎖,日本学校の没収,言論や旅行の制約など,苦しい時期を過ごす。この時代の1941年,校長に就いたのがアグステイーナ・ミランンダ・ゴンザレス女史。彼女は陰に日向に日本人移住者の擁護に努め,日本語教育の禁止令が出るや文部省と交渉し,非公式ながら教育の継続を図るなど尽力した。後に彼女は大臣官房に入るが,日系移住者の良き相談者として,日パの友好に大きな貢献をする。

 

また,1946年と1947年にはバッタの大発生があり,苦労の末開拓した耕地の作物は生産皆無になるほどの大被害を受けた。さらに,1947年の反乱軍による革命騒ぎでは,17家族がアルゼンチンやエンカルナシオンへ転出するなど,開拓期の苦労は「パラグアイ日本人移住70年誌」に詳しく述べられている。

 

農産業協同組合(1948),ワイン醸造開始(1951,コルメニータのブランド),野菜販売所の創設(アスンシオン市内)など,19481989年にかけて此の地は発展興隆期を迎える。パラグアイ人が野菜を食べるようになったのは日系人の貢献度が高いと言われる。この時期,三井波夫や森谷不二男はブラジルからブドウ並びに果樹の新品種導入を図り,生産向上に努めた。イタイプーダム建設の景気は,此の地にも経済発展をもたらす。ストロエスネル大統領は,農産物共進会の挨拶でコルメナを「Capital de Fruta,フルーツの都」と呼び,果樹生産で栄えるこの移住地を称えた。

 

 

1990年代に入ると,アルゼンチンから安い密輸ワインが入ってくるなどして,ワイン醸造は中止に追い込まれ,農協活動も衰退。ワインに変わる作物を求めて,マンゴーや穀類生産も模索されたが,大豆や小麦など穀類は経営面積が小さいため定着しなかった。模索が続く低迷の一時期と称される。

 

その後,再興を求めて,ラ・コルメナとアスンセーナ農協の合併,経営面積は小さくとも大市場であるアスンシオンに近い特徴を活かして,果樹・野菜栽培など高収益性作物の生産に向けて努力が続いている。また,高齢化が進み,現地住民との共生など課題も大きいが,パラグアイ日系移住者の多くが「移住地発祥のふるさと」としてラ・コルメナにかける思いは強い。それは,この地の成功があったから,他の移住地への入植が進んだことを知っているからである。

 

 

ラ・コルメナ移住地を作った人「笠松尚一」,日パの架け橋として貢献した「笠松エミリア」,日系農協の指導者「森谷不二男」,ラ・コルメナの母と称えられる教育者「ミランンダ女史」,その名は若人達に語り継がれるだろう。パラグアイの日系移住地を訪問するたびに,勤勉なDNAと相互扶助の精神が今もなお日系23世の礎となっていることを,強く感じるのである。

 

参照:パラグアイ日本人移住70年誌(2007),パラグアイ日本人移住50年史(1987

 

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