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四分利公債證書と支那事変行賞賜金国庫債券

2021-03-17 09:44:13 | 伊豆だより<里山を歩く>

新型コロナウイルスが収束しない。外出行動を自粛して古い資料の整理を始めたら、書き留めておきたいことがいくつか出てきた。其の2:禮堂文義が保存していた「四分利公債證書と支那事変行賞賜金国庫債券」・・・。

◇四分利公債證書と支那事変行賞賜金国庫債券

禮堂文義(文次郎)は第二次世界大戦前の国庫債券を保管していた。一枚は昭和9年(1934)発行の「大日本帝国政府四分利公債證書」(へ号、無記名)額面50円、他は昭和15年(1940)発行の「大日本帝国政府支那事変行賞賜賞国庫債券」(い号、記名)額面70円及び昭和16年(1941)発行の「大日本国政府支那事変国庫債券」(く号、無記名)額面25円である。

◇昭和九年発行「四分利公債證書」

写真は昭和9年(1934)に発行された「四分利公債證書」である。発行記号は「へ」、額面50円、表面に「(一)此国債ハ発行ノ年ヨリ五箇年据置キ其翌年ヨリ三十箇年内ニ之ヲ償還ス、(二)此国債ノ利率ハ年四分トス、(三)此国債ノ利子ハ毎年六月一日及十二月一日ニ於テ各其ノ日以前六箇月間ニ属スルモノヲ支払フ・・・(五)此国債ノ消滅時効ハ元金ニ在リテハ十箇年利子ニ在リテハ五箇年ヲ以テ完成ス・・・」の記述があり、40枚の利札(6か月分の利金各1円)が付いている。利札は昭和20年前期までの22枚が切り取られ、それ以降の18枚が残っている。昭和20年に利子22円を受け取ったが、元金と以降の利子は支払われなかったのだろう。

昭和初期の50円はどの位の価値があったのだろう? 比較は難しいが、消費者物価指数を基準にすると約2,000倍になると言う。現在の10万円程度であろうか。

◇昭和十五年発行「支那事変行賞賜賞国庫債券」、昭和十六年発行「支那事変国庫債券」

「支那事変行賞賜賞国庫債券」は昭和15年(1940)発行で、発行記号は「い」、額面70円、健吾叔父の名前が記されている。表面の記載によれば「(一)此債券ハ右ノ者ニ対シ支那事変ニ関スル一時賜金トシテ交付スル為之ヲ発行ス、(二)此債券ノ元金ハ昭和三十五年四月一日迄ニ之ヲ償還ス、(三)此債券ノ利率ハ年三分六厘五毛トス、(四)此債券ノ利子ハ毎年四月一日ニ於イテ其ノ日以前一箇年間ニ属スルモノヲ支払フ・・・」とあり、35枚の利札(各2

円55銭)が付いている。昭和24年4月1日までの20回分が切り取られて、それ以降は残っている。昭和20年までに利子51円を受け取ったが、元金と以降の利子は支払われていない。

もう一枚の「支那事変国庫債券」は昭和16年(1941)発行で、発行記号は「く」、額面25円、利率年3分半利の債券である。表面の記載事項は「(一)此債券ノ元金ハ昭和三十三年十二月一日迄ニ之ヲ償還ス、(二)此債券ノ利率ハ年三分六厘五毛トス、(三)此債券ノ利子ハ毎年六月一日及十二月一日ニ於テ各其ノ日以前六箇月間ニ属スルモノヲ支払フ・・・(五)此国債ノ消滅時効ハ元金ニ在リテハ十箇年利子ニ在リテハ五箇年ヲ以テ完成ス・・・」とある。43銭の利札が35枚ついているが、昭和20年4月1日までの8回分が切り取られ、それ以降は残っている。昭和20年に利子3円44銭を受け取ったが、元金と以降の利子は支払われなかったのだろう。

因みに、支那事変は昭和12年(1937)盧溝橋事件を発端に始まった。日支事変、日華事変とも称されたが、後に日中国交正常化を受け1970年代以降は日中戦争と呼ばれている。日中戦争から太平洋戦争への流れの中で、大日本国帝国政府は多くの国庫債券を発行して財政を賄っていた。

 

◇賜金国庫債券を無効とする

賜金国庫債券は、日中戦争(支那事変)及び太平洋戦争(大東亜戦争)の論功行賞として金鵄勲章授与者等の功労者に対し支給する一時賜金に代えて交付された(昭和15年法律第69号)。しかし、終戦後、連合国最高司令官は日本政府に対し軍人等に対する恩給、給与等の支払停止に関する指令を発し(昭和20年11月24日)、賜金国庫債券も無効にすべきと指示した。この指令に基づき、政府は「賜金国庫債券ヲ無効トスルノ件」を閣議決定し(昭和21年2月26日)、昭和21年勅令第112号によって無効とする措置をとった。戦争に関わる対応とは言え、わが国でも法律によって国債を無効にした歴史がある。

◇放棄された戦時国債

禮堂文義は、賜金国庫債券以外の国庫債券を何故に放置したのだろうか。戦後4年間で東京の小売物価が80倍になったと言われる債券価値の下落が原因ではないかと想像できる。日本銀行調査によれば、昭和9~11年(1934~36)の消費者物価指数を1とした場合、昭和29年(1954)の物価指数は301.8(18年間で約300倍)。また、卸物価も昭和9~11年に比較し昭和24年(1949)までに約220倍、昭和20年(1945)後の4年間で約70倍のインフレーションだったと言われる。インフレの原因は、戦時国債や軍人退職金支払いのために日本銀行が国債を引受けたことによるが、戦時国債はこのスーパーインフレによってほとんど紙屑となった。庶民の僅かな預金も同様だった。

なお、保管されていた国庫債券は消滅時効が既に完成しているので現金化出来ない。たとえ紙屑同然だったとしても、禮堂文義(文次郎)や寂空常然(つね)が生きた時代の歴史遺産。大事なものだ。

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