豆の育種のマメな話

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牛飼い

2021-03-19 10:28:54 | 伊豆だより<里山を歩く>

新型コロナウイルスが収束しない。外出行動を自粛して古い資料の整理を始めたら、書き留めておきたいことがいくつか出てきた。其の4:記憶の断章「牛飼い」のこと・・・。

◇◇◇牛飼い

生れて初めて見た光景として記憶に残っているのは何だろう? 何処かでキラリと光った水滴の輝きだったか、囲炉裏の赤い炎だったか、そんな一筋の光明が最初の記憶だったような気もするが確かではない。ただ、物心ついた頃には牛舎に二~三頭の牛がいたことを覚えている。

初めて乳牛を見たとき図体の大きさに圧倒され、大きな目に睨まれ、鼻息の湯気に後ずさりした記憶が蘇る。そして何よりも驚いたのは、滝のように流れ落ちる放尿の凄まじさだった。温湯の小便は音を立てて床を叩いた。子供なら簡単に吹き飛ばされてしまうほどの勢いだった。二~三歳になる頃には、牛が動きを止め背中を丸めるのは放尿や排便の予兆だと学習し、しぶきの洗礼を受けることもなかったが。

牛は横になっても咀嚼を続け、時には涎を垂らしている。「どうしてだ?」と母に聞いたら、「牛には四つの胃があって、食べたものを戻して噛んでいるのだ」と言う。その時、「牛は堅い草を食べるからゆっくり時間をかけて咀嚼する必要がある。草原で敵に襲われないように急いで食べて、安全なところへ行って噛み直す習慣からそうなった」とでも母親が応えていれば、将来動物学者になっていたかもしれない。

「食べてすぐ寝ると牛になる」と言われ、「人間が牛になるはずがない」と思いながらも素直に従う子供だったが、時には食べ過ぎて苦しくなり仰向けに寝ることもあった。そのような時、「牛なら反芻するのだが・・・」と妙に納得したことを思い出す。四つの胃は、植物繊維を分解する第一胃、餌を食道まで押し戻す第二胃、第四胃へ入る量を調節する第三胃、胃液を分布し消化をする第四胃と役割分担していることは後から知った。反芻動物はウシ、ヤギ、ヒツジ、シカ、キリン、ラクダなどいずれも草食動物である。

牛の尻尾に殴られると痛かった。夏になると虻や蝿(サシバエ)が背中に群がり吸血するのを牛は器用に尻尾で払うのだが、近くに子供がいても容赦なく一撃する。「馬は後足で蹴るから不用意に後ろから近づくな、牛の武器は角だから前から近づくときは注意しろ」と爺さんから教わっていたので、後方は安全だろうと近づき、背中の虻を捕まえようとして尻尾で叩かれることもあった。なお、牛に集まる蝿はサシバエ(Stomoxys calcitrans)で吸血性、形は似ているが「やれ打つな 蠅が手をする 足をする(小林一茶)」で馴染みのイエバエ(Musca domestica)とは属が異なることを学んだ。

飼育していたのは白黒斑紋のホルスタイン種で、搾乳と厩肥生産が目的だった。その頃集落には黒牛もいたが主に農耕作業に使っていた。牛にジャージー種、ヘレフォード種、アンガス種、黒毛和種、褐毛和種、日本短角種、無角和種など多くの種類があるのを知ったのは後年のこと、耐暑性が強いアジア原産のコブウシ系統牛が放牧されているのを見たのは五十年後の南米だった。

朝夕に搾乳した牛乳は流水で冷却したのち検査し集乳缶に入れ集荷場に集め工場へ搬出していたが、自家用としても利用していた。幼い頃は風邪をひきやすく、どちらかと言えば虚弱体質だったので牛乳は毎日飲んでいた。母は沸騰するときの匂いさえも嫌で全く飲めなかったが、遊び疲れて飲む牛乳は美味しかった。祖父は体質改善にとマムシの骨を焼いて食べろと言うが、これには辟易した。祖母は生卵を飲めと言う。ご飯にかけた生卵は美味しいが、そのまま飲み込むと黄身は何とも言えぬ不思議な味がした。

乳牛の餌は生草の場合もあるが、稲藁にカブや青木葉を加え濃厚飼料を混ぜて与えていた。生草や稲藁、青木葉は「押切り機」で裁断するが、この道具は危険なため子供は使わせてもらえなかった。大人でも誤って指を切り落とす事故が多かった。その代わり、カブを桶に入れ采の目に突くのは子供の仕事だった。牛飼いを生業とすれば搾乳、給餌、給水、敷き藁交換と終日忙しく、しかも一年中休めない。子供心にも自然と手伝わねばと思うような環境だったので、率先して手伝ったような思いがある。

牛舎を清潔に保つためには、排出物の片づけと敷き藁交換が必要で大変な作業だったが、厩肥生産は当時の百姓にとって重要だった。化学肥料が潤沢でなく高価だった時代である。堆肥を積み発酵させ、田畑に施し作物を育てた。そんな意味でも乳牛は大切な存在であった。ブラシ掛けして牛体をいつも磨き上げていた。嫁探しに初めての家を訪ねるとき「牛を見せて下さい」と声をかけると爺さんは内輪話をしていたが、牛の飼育状態を見れば其処の家族の働きぶりが分かるということだったのだろうか。

牛舎で飼育していると蹄が延びる。牛の脚を折るように持ち上げ自分の膝に乗せ、小さな専用鎌で蹄を削るのを見た時は、これぞ職人技だと感心した。牛の蹄は二つに分かれている。いわゆる偶蹄類で、第一指が退化、第三指と第四指が発達したのだと言う。これも草原を走るために進化したもので、奇蹄類ウマは第三指(中指)だけが進歩したのでより速く走れるのだと聞いた。

乳生産を続けるためには子牛を出産させなければならない。牛の発情状況を観察し獣医師に連絡すると、技師はオートバイでやってきて冷凍精液を取り出して人工授精する。数ヶ月後には着床と体内子牛の生育状態を観察するため、肛門から腕を入れ触診する様子には子供心に驚いた。子牛は牝であれば血統によってそれなりの値が付くが、牡は肉用にと早々に引き取られて行った。これは悲しい出来事だった。

乳量のコンクールや牛の品評会が毎年行われていた。乳量コンクールでは例年良い成績を収めおり、骨格がどうだ、乳房の大きさがどうだと大人たちは話していた。乳量を増やすには餌の管理が重要だが、祖母がそっと濃厚飼料を追加給餌する姿を見たことがある。家族全員が家畜を宝のように扱っていたのだろう。高学年になると牛を牽いて歩く事もあったが、手綱を緩めて牛に任せておけばどんな細い路でも踏み外さないことを知った。

 

古い資料を整理していたら、血統証明書(血統証券)や種付け証明書、伝染病検査書(畜牛結核病検査受験票、伝染性流産トリコモナス検定証など)が保管されているのを見つけた。血統証明書には当該種の名前、両親の名前、出生日、毛色、毛斑の特徴(後に鼻紋も)、所有者名等が記載されている。

振り返れば、父(啓山石堂)の代も畑仕事や山仕事の傍ら牛飼いを続けていた。牛の匂いを纏った暮らしだったと言えるかもしれない。子供らも給餌、給水、厩肥搬出などの手伝いは勿論だが、代掻きに牛を御し、お産に一人立ち会うこともあった。大学受験で浪人中も牛の世話をしながら、雑誌「蛍雪時代」と通信教育の添削で過ごした。北海道へ渡ることに決まった時、「牛飼いにでも行くのだろうさ」と話す声が何処からともなく聞こえてきた。

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