豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

ジョンソン耕地に抱いたコーヒー生産の夢は大豆で実ったか?

2011-02-11 09:56:02 | ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>

パラグアイ東北部のアマンバイ県にある国境の町ペドロ・ファン・カバジェロ市は,ブラジルのポンタ・ポラ市と一体化した町を形成している。市街地を分断する大通りに緑地帯が設けられ,そこに国境線が引かれてはいるが,車も人も,馬車やトラクターも国境を自由に行ったり来たりしている。住民にとってこの街はひとつの生活圏であり,両国が認めるフリーゾーンのため街中に国境を意識させるものはない。しかし,注意深く観察すると,ボーダー緑地帯のパラグアイ側(ペドロ・ファン・カバジェロ市)は石畳の道路に屋台の雑貨商や飲食店が並び,ブラジル側(ポンタ・ポラ市)は舗装道路に街路樹が整然と植えられている等,両国の経済力の違いを見ることが出来る。

 

ペドロ・ファン・カバジェロ市の郊外には広大な放牧地と畑地が広がっている。大豆,小麦,トウモロコシが多く栽培されているが,品種,栽培技術等あらゆる面でブラジル農業の延長線上にあり,生産物の販売もブラジルをにらんでいる。しかし,この地に大豆再培が定着するまでには,日系移住者の苦難の歴史があった。コーヒー生産に夢を託してこの地に移住した140家族日系移住者のうち,現在農業に従事するのは僅か20家族余りである。アマンバイの農業を語るには,いわゆる「ジョンソン耕地時代」を抜きにしては語れない。それは,入植者がコーヒー生産に大志を抱き,かつ幾多の辛酸をなめた苦難の歴史でもあった。

 

アマンバイ日系移住地は,パラグアイ唯一の雇用移住地としてスタートした(他のフラム,ピラポ,イグアス移住地等は,海外移住振興会社による直轄移住地)。1956523日入植の38家族260名を第1陣として,3年間に140家族910名(第18次)がアマンバイの地に入った。C・E・ジョンソン(第36代アメリカ大統領の従弟)が経営する,いわゆるジョンソン耕地(Compañía Ameriana de Fomento Económica,アメリカ経済振興会社CAFE)のコーヒー契約農(コロノ)としての移住であった。しかし,この会社は設立後わずか63ヶ月で倒産することになる。1963646566年と続いた霜害が,経営を圧迫したと言われる。日系コロノ達は,その後もコーヒー生産の夢を抱きチャレンジするが,度重なる霜害には勝てず新たな道を模索することになる。

 

◆アマンバイ移住の悲劇

移住の始まりと契約雇用移民の当時の状況については,「パラグアイ日本人移住50年史」に詳しい。

“・・・第1次入植者38家族は,45日間の航海の後サントス港から1,300kmの鉄道によるブラジル横断を経てポンタ・ポラに到着。駅からは暗い夜道をトラックに揺られ,霧雨に震えながら20km離れた耕地に移動した。しかし,現地では入植者の入居する住宅はほとんど何もなく,受け持ち区画(ロッテ)も決まっていない状況であった。また,ブラジルコーヒー農園の奴隷解放に代わるものとして導入された背景もあり,労働条件及び待遇は厳しく,武装した監督が常に見回り,自由を拘束された労働が強いられたという。

僅か3年の間に8次に及ぶ入植者が次々に送り込まれたが,受入れ体制は追いつかず不十分で(受入れ機関が確立しておらず,入耕すべき場所及び宿舎等も用意されていなかった),着の身着のまま倉庫で皮付きトウモロコシの山の中に潜り,麻袋をかぶって寒い夜を過ごすこともあったという。気候風土,言語,習慣の異なる現地に夢を抱いて渡った移住者にとって,受入れ体制の不備は不安を掻き立てるばかりであったろうと想像に難くない。そして,やっと働く場所も決まり,多少の労賃が稼げる段階になったところでその支払を受けないうちに雇用主が倒産したのである。アマンバイ地区契約雇用移住者の最大の悲劇は,雇用主たるCAFE耕地の余りにも早い時期の倒産であった・・・”

 

ジョンソン耕地倒産の原因を,青山千秋は①天災説,②人災説,③管理能力説,④国際情勢のデタント起因説,⑤舞台狭小説,⑥政争犠牲説の6説に集約しているが,やはりコーヒーの霜害が引鉄になったであろうことは推測される。 そして青山千秋は,“もし,アマンバイの地に霜という農業上の阻害要因さえなかりせば,いや少なくとも過去の統計的頻度内で霜があってくれさえすれば,アマンバイという入植地は無から有を生じた輝かしい移住地となったはずであり,日パ両国の移住史とパラグアイ移住というもののイメージは大きく変わったものになったであろう・・・”と述べている。

 

この頃までに,約6割の日系入植家族が退耕し,ブラジルや耕地外へ転出した。そして,残った人々は新たな土地でコーヒー栽培に取り組むことになる。当時コーヒー1haの収入はトウモロコシ20ha分の収入に匹敵し,34年に1度霜害があっても十分採算が取れる作物と試算されていたからである。しかし,この後の降霜の頻度と程度は,過去の記録や経験をはるかに超えたものであった。

 

◆アマンバイ農業の現状

日系移住者がアマンバイの地を踏んでからほぼ半世紀,ジョンソン耕地の悲劇を乗り越えた移住者たちは今どうしているのだろうか。2000年12月この地を訪れた。

1)アマンバイ農協原本功参事,菅野和彦理事に聞く

アマンバイ農協は,ペドロ・ファン・カバジェロ市の郊外にひっそりとあった。事務所の入口に日本語の看板がなければ,見過ごしてしまいそうである。原本功参事,菅野和彦理事らは,遠来の客を暖かく迎えてくれた。

 全員がジョンソン耕地への雇用移住であった。サントス港から鉄道でブラジルを横断し,此処に入植した。会社(ジョンソン耕地)が倒産してからもコーヒー生産の夢を捨てきれず,栽培可能な土地を求めて再入植した。コーヒーはha当たり200俵(1俵40kg)の生産があり,当時で2,000~2,800ドルの収入であった。5~6haの栽培で5年も収穫が続けば御殿が建つほどであった。

Q アマンバイ農業についてお聞かせ下さい。

  融資を受け10haでスタートしたが(農協設立1960年),その後も降霜が頻繁にあり1973年の降霜では直径15cm(5年生)の樹木も枯れてしまい,90%が放棄せざるを得なかった。この降霜被害後コーヒー栽培を断念し,1980年頃まで10haの畑でレタスやトマトなど野菜栽培を行ったが,販路も乏しく苦労した。移住法により10年間は職種変更できなかったが,子供の教育のため町に出て雑貨商を営む人が多かった。現在は大豆,小麦,トウモロコシなどの栽培が主体で,コーヒー栽培はない。なお,アマンバイ日本人会は,会員が100名で80%が商業に従事している。

組合員21名中14名が大豆を作っている。組合員の大豆栽培面積は平均120ha(農協全体1,600ha,アマンバイ県全体6万ha)で,カピタン・バードが大豆栽培の中心である。非組合員であるが佐々木さんは600ha,カピタン・バードの日系ブラジル人鈴木さんは1,800haの大規模栽培である。単収は2.4t/haで,主産地のイタプア県やアルトパラナ県に比べると低い。地力が低いせいだろう。酸性が強く(ジェルバの原生林があった),石灰施用など土地改良が必要な土地が多い。大豆は100%不耕起栽培になった。

 大豆栽培の現状は?

 品種は,ブラジルの品種が多い。「BR-16」やFT社の系統,「BRS132」「BRS133」「BRS156」など。病害では,うどんこ病の被害が大きく殺菌剤の散布が必須である。加えてカメムシ防除が必要なので,年に3~4回は薬剤防除を実施する。シストセンチュウはまだ発生していないが,ブラジルでは不耕起栽培になってから被害が抑えられているようなのであまり心配していない。

2)住吉嘉行組合長の農場を見る

国境を挟んで,ブラジル,パラグアイ両国の道路が走る。国境を示す指標が所々にあるのみで,車は双方の道路を自由に行き来しながら進む。両国が認めたフリーボーダーの地域である。平坦に見えるが,パラグアイとブラジル国境は分水嶺にあると言う。高台に畑地が広がり,大豆,トウモロコシ,ヒマワリの作付けが見られる。コーヒー栽培当時10数戸に分割されていた用地は,今や統合され畑作地帯となっている。

見渡せば,アマンバイ農協の周辺,ペドロ・ファン・カバジェロ郊外の国境沿いに多くのサイロが見える。この地域の収穫量をはるかに超えるその姿は,自由貿易の盛んであったことを偲ばせる。住吉組合長は漁師の風貌にも似た偉丈夫であった。色とりどりの花々が庭先を飾っている。

 経営の状況を聞かせて下さい。

 息子夫婦と3人で400haの大豆を栽培している。息子は市街から通ってくる。雇用者はいない。品種は,「BR-4」を250ha,「MT6101」「BR-16」などである。標高が600mあり,アルトパラナ県に比べ大豆の成熟期は1週間から10日遅れる。播種は1日20ha,収穫も15t容量のタンカー(ジョンデイア15,000)を導入してから,サイロへの搬送時にコンバインを休ませる必要がなくなって,収穫効率が向上し1日30haの収穫が可能である。

茎かいよう病は気になるほど発生していない。むしろ,最近はうどんこ病の発生が多い。食葉害虫やカメムシ類に対しては農薬散布を欠かせないが,バクロビールス(生物農薬)やフィロソフィロ(脱皮を抑える)を散布することもある。しかし,これらはリッター60ドルと価格が高い。

日本からパラグアイへの移住は,1936年にアスンシオン市の東南約130kmの原野に設定されたラ・コルメナ移住地への入植から始まった。昭和の初期,ブラジルへの日本人移民が最盛期にあったが,ブラジル国内で台頭した外国移民受け入れ規制運動を軸とする排日機運を受けて,パラグアイへの移住構想が進められた結果である。第2次世界大戦の勃発で同国への移住は一時中断されたが,戦後は1954年にパラグアイ国設定のチャベス移住地へ邦人が入植することによって再開され,1956年には日本海外移住振興株式会社(後の海外移住事業団)の発足にともないパラグアイ南東部のアルトパラナ,フラム,イグアス移住地(合計19万ha)への入植が本格化した。1959年には日・パ移住協定が終結されている。一方,北東部のアマンバイへの移住は,前述したように雇用農としての移住に始まったことが特徴である。

移住の目的が農業であったため,移住者たちは昼夜を惜しまず森林や原野開拓に立ち向かった。開拓に要した苦難は筆舌に表しがたいものがあったと想像されるが,今や大豆でドルを稼ぎ,食卓に野菜類を供給し,従来輸入していた小麦の国内生産を可能にするなど,パラグアイ農業の発展に果たした日系人の役割は大きい。パラグアイ国民の,日本人移住者に対する信頼と評価は極めて高いものがあるが,ジョンソン耕地で苦労した先人の姿を忘れることはできない。

参照-土屋武彦・豊田政一2002「アマンバイ農業視察,ジョンソン耕地に抱いた夢は大豆で実ったか?」専門家技術情報第5号 1-8.パラグアイ大豆生産技術研究計画

参考1)青山千秋1978「アマンバイ移住者呼び寄せの父,ジョンソンとジョンソン耕地」移住研究15,46-75.   2)パラグアイ日本人移住後50周年記念祭典委員会1987「パラグアイ日本人移住後50年史,栄光への礎 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 育種家はロマンチスト | トップ | パラグアイ便り2005―牧歌的な... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ラテンアメリカ旅は道連れ<南米旅日記>」カテゴリの最新記事