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恵庭の碑-22, 北島松小学校の門柱、廃校跡を訪ねる

2019-09-16 16:41:13 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

20199月の或る日、北島松小学校跡を訪ねた

恵庭市北島216番地、西6線と南11号道路が交差する東側の一画に北栄会館がある。会館は鉄筋コンクリート造り平屋建ての洒落た建物。恵庭消防団第五分団、北島生産組合農機具格納庫が隣接してあり、同敷地内にはパークゴルフ場が整備されている。庭木や花壇も手が入っていることから察するに、地域のコミュニテイセンターとしての役割を果たしているのだろう。

会館の入り口には、一対の古い門柱が建っている。軟石の門柱正面には、「恵庭市立北島松小学校」の銘板がはめ込まれている。つまり、この場所は廃校となった北島松小学校跡地。パークゴルフ場になっている辺りが運動場であったのだろうか。

門柱の裏側には、「昭和二十七年三月寄贈」「寄贈者故小寺鶴吉」の白い大理石製の銘板。銘板の周辺には新しく取りつけた(修復した)と思われるセメント跡が見られること、銘板が外された跡と思われるへこみが1か所あるとから、銘板が紛失している(外れている)のに心を痛めた関係者が後年補修したのではあるまいか。そう考えれば、寄贈者が故人と言うのも頷けるのだが。間違いかも知れない(確証を得ていない)。

   

◆北島松小学校

北島松小学校の前身は、昭和18年に開拓営団倉庫事務所を借用して開設した、島松国民学校北島松分教場である。昭和22年島松小学校分校に改称、同年北島松小学校として独立。昭和27年には新校舎完成(この年に門柱設置)、昭和33年体育館完成、昭和35年には校歌が制定されている。当時は多くの入植者があり児童数も増加、昭和39年には児童数が100名を超えていたという。しかし、昭和40年代に入ると離農による児童数の減少が見られるようになり、昭和50年には在校生49名と複式学級を余儀なくされるようになった。地域住民との協議を重ね、昭和513月をもって閉校、島松小学校に統合された。広報えにわ285号(1976.4.1)は、「33年の歴史を閉じる北島松小」の特集を組んで歴史を偲んだ。

北島松小学校で学んだ多くの卒業生や地域の皆さんには、懐かしい想い出と深い思いがあることだろう。残された門柱はこれからも歴史を語り続けるに違いない。大切に保管して欲しいものだ。

昭和1811月(1943):開拓営団倉庫事務所を借用し、島松国民学校北島松分教場として開校

昭和22年(1947):島松小学校北島松分校に改称、同年北島松小学校として独立

昭和27年(1952):新校舎完成

昭和33年(1958):体育館完成

昭和35年(1960):校歌制定

昭和40年(1965):校舎増築(普通教室2)

昭和42年(1967):NHK学校放送研究委嘱校に制定

昭和51年(1976325日:島松小学校に統合

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