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「千歳市稲作発祥の地」記念碑建立,なぜ今なのか?

2014-08-31 18:11:45 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

千歳市稲作発祥の地

平成268月,千歳市泉郷地区に「千歳市稲作発祥の地」記念碑が建立された(泉郷水利組合)。記念碑は,ケヌフチ川(剣淵川)と国道337号が交差する地点,橋から約50m上流の河川敷にあり,高さ1.5mほど,千歳市長山口幸太郎の筆で「千歳市稲作発祥の地」の文字が刻まれている。

 

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この地を訪れたのは,除幕式が行われてから間もない8月末であった。「稲作発祥の地」だと言うのに,碑の周辺には水田が見当たらない(ケヌフチ川からの取水口だけが,この地域がかつて水田であったことを偲ばせているが)。何故この地に記念碑なのか? と周辺を見回す。実はこの附近が,123年前に野元源造が初めて米を収穫した場所だと言う。

北海道には「水田発祥の地」記念碑が各地に存在する。「記念碑に見る北海道農業の軌跡」(北農会農業技術コンサルテイングセンター監修,北海道協同組合通信社刊2008)によれば,稲作関係の記念碑が64台掲載されている。北海道に「水田発祥の地」記念碑が多い理由は,開拓者が先ず苦心したのが水田開発であり,その成功が集落繁栄に結びついたとの思いが強いからだろう。コメに対する農民の執着は大きかったのだ。これら碑の多くは,昭和年代に建立されている。

「千歳市稲作発祥の地」記念碑建立は,何故いまなのか?

北海道新聞(2014829日)は,建立の中心となった登坂組合長(泉郷水利組合)の石碑に込めた思いを,「地域の米作りが途絶える前に,泉郷の原点を形にしたかった」と伝えている。同地区では,昭和40年頃70戸(180ha)近くが稲作を営んでいたが,平成26年には僅か1戸(4ha)に減少。この唯一の稲作農家も畑作に転換し,コメの作付けは今年が最後になる見込みだと言う。

北海道稲作は,水田開発に苦労した時代,冷害を克服し増収を追い求めた時代,稲作休耕政策で転換を余儀なくされた時代,食味改善で売れるコメ生産が実現した時代と百年余で大きく変化した。千歳市泉郷地区でも,昭和の後半から平成にかけて水田から畑作への転換がはかられた。この流れの中を多くの農民は強かに生き抜いてきた。歴史に翻弄され続けた農民の反骨魂が,先人の苦労を忘れてはならぬ,故郷の原点を忘れてはならぬと碑建立を発起させたのではあるまいか。或いはまた,集落意識が薄れゆくのを危惧したのかも知れない。

皮肉なことに・・・今年の稲作は豊作が見込まれ,稲穂は黄金色に輝いている。

背面の碑文には開墾の歴史と建立に込めた願いが記されている

「史実によると千歳で稲作に初めて成功したのは野元源造氏で,明治二十四年に遡る。野元氏は同十七年,山口県開拓団の一員として千歳村根志越に入植し,稲作の適地を求めて広島村に移住したが,その後再び千歳村の戻り,ケヌフチに住居を定めた。現在の泉郷・白井宅付近である。ここでトスウシナイ川の水を引き,島松村・中山久蔵氏より譲り受けた種籾(赤毛早生)を栽培し,稲作に成功したと思われる。

 以降,開拓が進むにつれて稲作を中心とした集落が形成され,ケヌフチ川の支流であるトフウシナイ川,小石沢,ホロナイ沢,ケヌフチ沢等だけでは用水が不足となり,ケヌフチ川本流に堰を設けてその解消を図る必要に迫られた。

 明治三十五年,中央用水組合が設立されて「中の水門」を設置,同二十九年に「下の水門」,大正十年には東部用水組合の「上の水門」と設けられ,用水組合ごとに用水掃除,配水当番に当った。用水組合はケヌフチ川の氾濫,水門の流失等の災害復旧の際は互いに助け合い,営農の中枢としての役割を担ってきた。昭和四十五年,稲作休耕制度が始まり,稲の耕作面積は減少の一途をたどるが,同六十三年に完成した泉郷圃場整備事業の参加地権者は四十七名,二百二十ヘクタールであった。これを機に各用水組合を統合して東部第一,中央第二,国境第三の各頭首工に再編成し,名称を泉郷水利組合と改めて発足した。時代の変遷によって平成二十六年現在の利用者は一名,四ヘクタールとなったが,長い歴史に思いを馳せ,先人の苦労と弛みない努力を偲んで,ここに記念碑を建立する。平成二十六年八月吉日建立 泉郷水利組合」(碑文の内容)。

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