豆の育種のマメな話

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啓山石堂が生きた時代,伊豆の里山-8

2014-08-08 16:43:46 | 伊豆だより<里山を歩く>

大正、昭和、平成と激動の時代に生きた、一人の名もなき農民の足跡である。

(1)生まれる

石堂(啓二)は、明治44年(1911)10月11日、父・文次郎と母・つねの二男として、稲梓村須原××3番地(集落字名は坂戸)に生まれた。稲梓村は奥伊豆の山村で、気候温暖であるが、沢から山肌に拡がる段々畑で生計を営む貧しい集落である。生家は百姓で、少しばかりの田畑を耕し、山仕事をし、家畜を飼うなどしていたが、裕福と言えるほどではなかった。この時代、何処も似たような暮らしぶりで誰もが懸命に働き、集落は強い絆で結ばれていた。

石堂が生まれた明治44年は、日米通商航海条約を改正し関税自主権を回復した年にあたる。世相は日露戦争に勝利して列強の仲間入りを果たした高揚感に包まれ、朝鮮併合など覇権主義の台頭が見られた時代である。世界は第一次世界大戦へと向かうが、日本では護憲運動が起こり、大正文化が花開こうとしていた。 

石堂は、兄・朝義の死去に伴い、23歳で家督を継いだ。弟たちは家業の協力者だったし、また、同じ集落には従弟の「伝四郎」「幸俊」らが暮らし、切磋琢磨しながらも協調して村の発展に努めていた。桑園を拓き、山葵田を造成し、蜜柑が良さそうだと聞けば蜜柑を植え、椎茸の値が良いと聞けば榾木を並べた。収益を得るため乳牛も飼った。体躯頑強、寡黙で冷静、温厚であるが頑な、忍耐強い性格は農業に従事する中で培われ、村人からも信頼を得ていたに違いない。天城の山葵田から仕事を終え夜学に通ったと言う伝説も、努力家の証しである。

子供の頃、囲炉裏に架かった鉄瓶の湯気で手の甲に火傷を負うが、恐らく泣かなかったのではあるまいか。この傷は農作業や山仕事の連続で完治せず、晩年には冬の力仕事で血を滲ませていた。

「石堂」が農業後継者として力をつけ始めた頃、時代は日本の国際連盟脱退(昭和8年)、ヒットラー総統に就任(昭和9年)、美濃部達吉の天皇機関説が問題化(昭和10年)、二・二六事件(昭和11年)、日中戦争勃発(昭和12年)など、わが国は戦争への坂道を転がり始めていた。

(2)結婚とガダルカナル出兵

「石堂」は、昭和14年(1936)12月28日、須原×4番地(茅原野)の土屋寅次郎・あさの五女「つね」と結婚した(母親と同名であるが偶然である)。「つね」は小学校時代、弟の「進」と同級生であった。「進」が軍隊から帰省した時、実家に暮らす「つね」を見て「何故ここにいるのだ?」と聞いたと言う酒席話が残る。

働き者で負けん気が強く家計を握る「母・つね(寂空常然)」の下で、文学少女だった「妻・つね(恒心貞寿)」の苦労は並大抵でなかったと思われるが、時代は確実に戦争へと動いていた。すなわち、「石堂」の結婚は第二次世界大戦勃発の年で、誰もが食糧増産のために(生きるために)がむしゃらに働き、男たちは戦場に駆り出される時代であった。

戦線が拡大し、「石堂」にも徴集令状が届く。終戦まで誰も知ることは出来なかったが、豊橋で訓練後に送り込まれた戦いはガダルカナル戦線であったと言う。この戦い(昭和17年8月~18年2月)は歴史に残る戦慄を極めた。補給を断たれた日本軍は食べるものもなく、いわゆる「餓島」と化した。この戦いでは36,000の戦力のうち22,000人余りが戦死している。啓二帰還との報を受けて、母・つねが孫を伴い金岡陸軍病院まで面会に行ったのは昭和18年8月のことであった。

「石堂」は戦争体験について終生語ることはなかったが、ただ「草の根、虫、何でも食べた。行軍では下痢しながら歩き続ける兵もいた」「荷物を何もかも捨てて身一つで歩いた者が生き残った」とポツリともらした。

太平洋戦争終戦を経て時代は大きく転換する。民主主義の時代となり価値観は大きく変化した。戦後の経済成長は加速著しく、山間の集落における農業や林業は取り残された。若者たちは仕事を求めて、競って都会へ出て行く時代となった。この様な環境の中、「石堂」と「つね」は6人の子供を育てた。長男・×彦(昭和16年生れ)、長女・××に(昭和20年生れ)、次女・×子(昭和22年生れ)、二男・×人(昭和26年生れ)、三女・××子(昭和28年生れ)、四女・×(昭和31年生れ)である。

(3)働く

「石堂」は勤勉な性格なのだろう、よく働いた。「働かねば食えぬ時代」「働くことが美徳の時代」を生きたのである。

農作物では、稲、麦、玉蜀黍、黍、甘薯、大豆、小豆、空豆、野菜類(白菜、人参、大根、葱、玉葱、生姜、トマト、スイカ、ササゲ、紫蘇、山葵)、工芸作物や飼料作物(棉、砂糖黍、蓮華草)等々まさに百作、五反百姓と揶揄されるような小面積で多様な作目である。食糧増産を求められた時代には、水利ある処であれば一坪二坪の面積でも稲を植えた。戦後に三玄寺から購入した水田は自ら石垣を積んで整備した。手先が器用で、大工仕事や石垣積みなど何でもこなすが、商売気は無かった。

また、果樹(柿、蜜柑、栗など)を植え、時には養蚕を行い、炭を焼き、竹材を切り出し、山には杉と檜を植え下草刈りや枝打ちに精を出した。家畜(乳牛、鶏)を飼い、僅か数頭の規模だったが酪農が経営の基盤として生活を支えた。そのため、啓二と「つね」の衣服には何時も牛の匂いが纏わりついていた。搾乳した乳は集乳缶に入れ、毎朝集落の入口まで運んだ。苦しいながらも真面目に働けば、子供を教育し夢を語り、秋の祭りを楽しめる社会がしばらくは健在であった。

須原椎が下に数年かけて住宅を建築し、完成を見たのは昭和29年、「石堂」43歳の時である。年老いた大工の棟梁が泊まり込みで作業に当たった。建材に拘り、表具の細工に凝った仕上がりとなったが、予算が尽きて台所や風呂場の整備が後回しになる有様であった(工期延長とインフレは想定外だったのだろう)。「石堂」は父・文次郎の葬儀をこの家が完成するのを待って執り行った。

(6)晩年

晩年の石堂は「仏の啓二さん」と称されるほど穏やかに見えたが、心配事が無かった筈はない。植林した檜や杉山の管理に通うのを日課にしていたが、すでに国産木材の利用は激減し輸入材に依存する社会に変わっていた。戦後の経済成長は働き手を都会に集め、村人も稼ぎに出た。集落はどの家も高齢化が進み、過疎化は誰の目にも明らかとなっていた。丹精込めた水田が耕作放棄され、或いは自家用の野菜や農作物までもが猪や鹿に荒らされる状況になった。

百姓であった老人たちが輸入農産物で暮らすことになろうとは、誰が予測しえたであろうか? グローバル化、自由競争志向が格差を生み、山奥の集落は存続が限界の域にある。最近になって里山復興、自然回帰、田舎でのテレワークが唱えられているが、再生困難な有様だ。しかし・・・、人類の歴史を振り返って見れば「都はいつまでも都であらず」「栄華を誇ったマヤ文明が消える」こともある。歴史に逆らわず、自然回帰もまた可とすべきか?

「石堂」は晩年農作業を自給自足の範囲に収め、頼まれては石屋の手伝いをした。自家の墓石も彫った。昭和62年(1987)には坂戸子之神社に石造りの鳥居を奉納した。戦争から無事に帰れたことに感謝し、集落の安寧を祈念したのだろう。平成七年には、父・文次郎の五十回忌、母・つねの三十三回忌法要を執り行った。

七十代には老人クラブ等の旅行会にも参加、「九州の旅」「北陸路めぐり」「奥飛騨の旅」「陸奥の旅」「関西旅行」などの記念写真が残っている。尋常小学校時代の同級生との旅、幸太郎、進、健吾、素六ら兄弟誘い合っての旅もあった。八十代になってからは出雲大社を参拝している(平成4年)。ただ残念ながら、妻(つね)を同伴した旅行はこの中にはない(出不精な「つね」は同行を断ったのか?)。夫婦同伴の旅行として唯一記録に残るのは、昭和51年(1976)の石堂65歳、つね59歳の北海道旅行のみである。

晩年の「つね」は旅行には出なかったが、和讃の会には参加していた。残された観音菩薩巡りの冊子には寺の御朱印が押されている。また、仕事の合間に和歌を詠み、暮らしの鬱憤を書き留めた一冊のノートが残されている。平成22年1月13日逝去。享年94歳。

「石堂」は、健康保険組合から感謝されるほど病気とは縁遠かったが(少々のことでは病院に行こうとしなかった)、90歳の声を聞く頃には心身の衰弱が進み、頭部の打撲が要因だったのか認知障害を患った。「牛を探しに行く」と出かけ、帰れなくなることもあった。平成14年(2002)8月18日逝去。享年92歳。三玄寺墓所に妻・つねと共に眠る。

参照:本稿は、平成26年(2014)「啓山石堂」十三回忌にあたって取りまとめた概要である。

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