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「茅場争い」入会地をめぐる紛争,伊豆下田の歴史

2012-12-24 10:11:27 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下田史年表(下田市史編纂委員会「図説下田市史」2004)から,入会地をめぐる紛争の記録を拾ってみよう。

 ○延宝5年(1677):「梅ノ木坂」の刈敷場をめぐって箕作村と落合村が争う。

 ○貞享3年(1686):秣場のことで,椎原・宇土金・北湯ケ野の3村が争う。

 ○元禄14年(1701):須郷「深山入会地」をめぐり11か村の争論となる。この入会地はその後も紛争が繰り返され,明治10年代には大大審院へ上告されるほどであった。

 ○天明4年(1784):大沢「やき山入会地」をめぐり,立野・大沢・蓮台寺3か村が争う。「やき山入会地」は宝暦9年(1759),宝暦10年(1760),享和2年(1802)にも争いが起きている。

 

奥伊豆の下田に限った狭い範囲でこれだけの数になるのだから,この種の争いは相当多かったのだろう。

 

ここで「茅場」「刈敷場」「秣場」「入会地」と言うのは,牛馬の飼料(秣,まぐさ)用,敷料や堆肥づくり用,屋根をふく茅の採草場として,或いは燃料用の薪を切るための場所として,古来の慣習や村落間の協定によって認められていた共有地のことで,入会権(いりあいけん)と呼ばれていた。

何れも沢の奥深い山にあったが,江戸時代に入り領主による直轄林が設定され,さらに開墾が進むにつれ,茅場は圧迫され,境界争いや茅場出入りの紛争が起こるようになった。訴訟を持ち込まれた役所では,両者の言い分を聞いたうえで,村役人などに調停を委ねるのが一般的で,大方は示談となり済口証文として処理されるが,解決できない争論も多かったという。

 

二十一世紀の今も,茅場は村の共有地として登記され固定資産税も払われているが,村人が茅場を利用することは殆どない。どの家でも若者たちは都会に出てしまい,農耕や搾乳のために牛馬を飼育することもなくなった。いつの間にか茅葺屋根は消え,瓦か新建材になっている。茅場が活用されたのはいつ頃までだったろうか? 

 

記憶を辿ってみると,第二次世界大戦の戦後間もない頃までだったように思う。

生家の向山に茅場があって,冬には各戸の男衆が火入れするのを眺めた。子供は危ないから近づくなと言われ,作業に参加できたのは中学生になったころだったろうか。前日までに境界に防火線をひき(数メートル幅で枯草を刈り取り),村の長が天候を勘案して山の裾から火を入れる。放たれた火は山を駈け上り,山肌は黒変するのであった。村人は総出で鍬や鎌,樹の枝等を持って延焼しないように努めるのだが,稀に延焼して大騒ぎすることもあった。春が訪れ,茅が繁る前には,茅場は山菜(蕨や独活)を採る楽しみの場所になった。

 

茅が牛の餌になり,敷料として牛糞と一緒に踏み込まれた厩肥は堆肥となり作物を育てた。有機農業が営まれていた時代である。茅葺の屋根は何年かに一度,村人総出で葺き替えが行われ,暑さ寒さを調節する住まいを形成していた。また,夜なべや冬の仕事として,茅を刈ってきては炭俵を織っていた。ここには,争ってまで茅場を守り,自然と共生する生活があったのだ。「茅場」は極めて重要な場所であった。

 

下田から天城に向かって下田街道を進むと,須原地区に「茅原野」「やき山」の地名が残っている。その名の通り茅(カヤ)が繁茂していたのだろう。

 

茅(カヤ)の記述は,幕末の黒船「ペリー艦隊日本遠征記」にも出てくる。その第二巻,ダニエル・S・グリーン「日本の農業に関する報告」の中に,

「・・・斜面で木の生えていないところのほとんどには背が高く,ありふれた頑丈な草(カヤ)が育ち,冬の間に刈られて注意深く束にされる。この草を食べようという動物はいないようだが,屋根葺きの材料として非常に価値がある。これを用いて町の屋根葺きを行う職人はとても多い。瓦葺きの家も多いが(瓦もまた美しい),それよりはるかに多くの家が茅葺きである。実に綺麗に葺いてあり,これ以上の材料を探すのは困難であろう・・・」(参照:ペリー艦隊日本遠征記,オフィス宮崎 1997),とある。

 

今,耕作放棄地となった田畑に茅が勢力を広げている。バイオマス生産の発想があっても良い

 

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伊豆下田の「打ちこわし騒動」

2012-12-23 10:36:48 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

去る1219日付のブログに伊豆下田の歴史年表を添付したが,その中に「打ちこわし騒動」や「入会地をめぐる争い」が幾度となく出てくる。温暖で長閑なこの地で歴史に残るような騒動があったと,旅人は感じることもあるまい。

黒船,幕末外交の舞台,唐人お吉などについては誰もが知るところであるが,その裏には民間人の騒動や紛争事件が数多くあったのだ(その他に,鎌倉室町時代の武士や小豪族たちの争いはあるが,ここでは含まない)。これも歴史の一コマである。

 

図説下田市史(下田市史編纂委員会「図説下田市史」2004)には,打ちこわし騒動として「天保のうちこわし」と「明治の打ちこわし事件」が記載されている。その中から一部を引用しよう。

「天保のうちこわしは,天保7年(1836718日夜,一団の若者が4軒の米小売商を次々と打ちこわした。天保4年から続いた慢性的飢餓のため米穀流通が逼迫し,米価が異常な高騰を繰り返し・・・。韮山代官江川英龍から厳しく警戒を命令されていた町役人は狼狽し,韮山御役所に注進の使者を送ったが,中途にして町頭や周辺村々名主の反対にあって穏便な解決を要請され,事件はうやむやに終わるに見えた。ところが,・・・突如手代根本又一,長沢与四郎が出張し厳重な取り調べが行われ,芋づる式に若者が捕えられた。・・・14名が韮山へ送られ入牢となった。・・・主謀者と目された3名は,1人が重追放,2人が所払いに処せられ,他は過料銭で・・・」とある。

 

また,明治の打ちこわし事件は,「明治28月,岡方村の名主(両替屋でもあった)平七が,1両の金札を銀435分にしか通用しない,という廻し文を出した。これが引き金となり,怒った稲梓・稲生沢の農民たちが大挙して下田に押し寄せる騒ぎとなった。85日夜,河内の河原に集合した700人の農民は篝火をたいて一夜を過ごし,翌6日の明け方行動を開始・・・,役人や町頭全員が出て応対に努めなだめようとしたが農民たちは収まらず,岡方村名主宅を叩き壊してしまった。・・・この騒動は翌明治35月に落着し,徒罪(懲役刑)4人,押込め(他出禁止)・過料数十人と言う結果になった」とある。

 

前者の「天保のうちこわし」は,享保・天明に続く江戸三大飢饉のひとつ「天保の大飢饉」に連なるものである。全国で多数の餓死者を出し,江戸での救済者は70万人,大阪では毎日100150人の餓死者が出たとも伝えられている。この大飢饉の影響は,奥伊豆の下田まで襲いかかっていた。ちなみに,甲斐の国百姓一揆,大阪で起こった大塩平八郎の乱も,天保の大飢饉が誘因であった。

 

後者は,幕末から明治新政府への変動期の経済混乱に起因している。稲梓・稲生沢の農民たちが主役であったのは,農耕と山仕事を生業とするこの地域がより貧しかった故かも知れない。

 

いずれにせよ,両騒動に共通する時代背景は,奉行所廃止にともない下田の経済が凋落する時期であったということだ。苦悩する下田の一面である。その後,幕府依存から脱却した下田は,住民の力で再び歩みを始めることになる


風待ち船で賑わった「下田港」,伊豆下田の歴史

2012-12-19 16:44:28 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

風待ち湊・下田

日本列島を寒気がすっぽり覆った12月の或る日,伊豆下田の須崎にいた。下田港の東方向に位置し,須崎御用邸や水仙の群生地爪木崎で知られる小さな半島にある漁港である。

その日は,立っているのも大変なほどの強く冷たい風が吹き,海には白い波が鱗のように光っていた。車のドアを開けるのも危険な突風で,家の窓は撓み声を上げている。当然,磯船は漁を休んでいる。

風待ち湊・下田か・・・

強い風にコートの襟を抑えながら,江戸時代に風待ち船で賑わった歴史に思いを馳せた。

 

400余年前,江戸幕府が開かれ政治・経済・軍事の中心が江戸に移行するにつれ,上方と江戸を結ぶ海上交通が盛んになり,その要所として下田港は注目されることになる。下田港は風待ち船にとって天然の良港だったのだ。

船の出入りが増え,幕府は海の関所を下田に置くことになった。元和元年(1615)今村伝四郎正長が警備を命ぜられたのにはじまり,翌2年(1616)には正長の父彦兵衛正勝が下田奉行に任じられ,この須崎に遠見番所を置いている。今この須崎の岬に立ってみると,確かに下田港へ出入りする船を監視することが出来る(その後元和9年に,遠見番所は大浦に移転)。

 

江戸奉行がおかれ,廻船問屋が幅を利かしたこの時代は,下田が最も賑わった時代と言えるだろう。町制が整備され,浪破堤が普請され,山村の薪炭や浜の天草・干鮑,伊豆石が積み出された。

「伊豆の下田に長居はおよし,縞の財布が軽くなる・・・」

と唄われる下田節からも,街の賑わいが偲ばれる。

そして幕末には,この下田が,ペリー艦隊の入港,開国,外国船の来航,アメリカ駐日領事館の設置,日米・日露の和親条約,通商条約締結など外交の表舞台として,再び歴史上の脚光を浴びることになる。

 

しかし,一時の賑わい,季節の嵐を除けば,奥伊豆は総じて静かな佇まいの中にあったと言えるだろう。そもそも奥伊豆の歴史は,発掘された遺跡からみて縄文時代(この須崎岬の海岸段丘にある爪木崎遺跡,上野原遺跡もその一つである)から始まるが,山が多く急峻なため稲生沢川,青野川,河津川,那賀川沿いに広大な農耕地を拓くことも出来ず,農と山での生業か近海の漁で暮らす時代が長く続いた。

 

昭和36年伊豆急電鉄が開通し,第二の黒船と呼ばれた頃,ホテルや民宿が建ち賑わいを見せたが,その騒ぎが一段落してみれば,やはり長閑な田舎に戻っている。今も伊豆の旅で眺められる景色は,山肌の蜜柑に南の太陽が照り,白いビーチに碧い海,磯に返す波,小さな漁港,温泉の湯けむりで,鄙びた田舎の風情が感じられる。

人々はゆっくり歩き,お人好しで,だからと言ってお節介でなく・・・,都会で疲れた旅人の心を癒してくれるだろう。

 

須崎の岬から眺めると,朝日は伊豆七島の一つ「利島」の脇から登る。そして,西の海に落ちる。遮るものは無い。眺望が開けている。海の難所と呼ばれただけあって,灯台は多い。爪木崎灯台,下田港灯台,犬走島灯台・・・。恵比寿島の遥か海上には,日本最古の神子元島灯台が眺望できる。

 

縄文から現代までの「伊豆下田歴史年表」を添付した(別添:歴史年表)。

 

旅人よ,奥伊豆の長閑な里に,昔を振り返ってみませんか? 

 

 


古松山「三玄寺」,開創(慶長元年)は竜王祖泉禅師

2012-11-16 18:21:44 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

古松山三玄寺

奥伊豆の山村(下田市須原)に,臨済宗建長寺の末寺「古松山三玄寺」がある。下田街道(国道414)の坂戸口から少し入った山の中に静寂に包まれてあるが,標識がないため,この寺の存在を知る人は村人以外にないだろう。

実は,この「三玄寺」は「須原小学校」の開基となる「長松舎」が置かれた場所である。時は,明治6年(1873),今からおよそ140年前のことであった。明治政府は初等教育の重要性に鑑み,近代的学校制度を定め,明治5年太政官布告第214号によって各地に小学舎の設置を進めた。「長松舎」はその公布を受けて置かれた教場である。

 

小学舎が設置された場所は各地の寺院や神社が多かった。子供らを集めやすい立地条件と教室に使える部屋,「読み書きそろばん」を教えることが出来る人が必要だったのだろう。そればかりでなく,「寺子屋」として実績があったのかも知れない。

 

当時この辺りは,ヒュースケンが「日本日記」の中で「土地は痩せ貧困,陰鬱かつ単調な景色であった」と記しているような貧しい集落であった。僅かばかりの水田と炭焼きを生業とする山村に,はたして寺子屋はあったのだろうか? この山村の人々に初等教育の意識はあったのだろうか?

 

先ず,「三玄寺」の歴史を紐解いてみよう。

「向陽院」住職のお世話になり,「建長寺史末寺編」のコピーを拝見した。これによって,開創,開山から十七世和尚までの概観を知ることが出来た。

 

別添「松山三玄寺」に概観を示したが,開創は慶長元年(1596)河津栖足寺竜翁和尚が「林隠庵」と号したことに始まり,慶長3年(1598)には慶長検地により彦坂小刑部により境内除地5畝の寄進を受け,慶長14年(1609)開山となっている(開山は慶長4年の間違いかも知れない)。「長松舎」の教場が置かれたのは,十四世寛州和尚の時代ということになる。

 

歴代和尚と年次等について「建長寺史末寺編」記載を基に作表したところ,記述に不適合な点が見つかった。当時の十七世機外和尚(千葉正言住職)の原稿を基に編纂されたものと推察されるが,今となっては確かめようが無い。確認できないでいる。

 

「建長寺史末寺編」の誤記と思われる点

1. 「十世南室和尚 安永7年」,「十一世黄州和尚 宝暦8年」となっているが,安永7年は1778年,宝暦8年は1758年であるので,順番が逆である。

2. 「十二世節岩和尚 文政8年」,「十三世淳叟和尚 文化2年」 となっているが,文政8年は1825年,文化2年は1805年であるので,順番が逆である。

3. 「七世宗翁和尚 元禄7年」とあるが,由緒・来歴の項に「元禄310月七世宗翁和尚寺号を三玄寺と改称する」とある。元禄7年以前に七世を称していたのか? 年次に整合性がない。

 

検証は後に譲ることにして,この地の歴史背景に触れておこう。

 

「三玄寺」がある「茅原野」は後北条氏時代に江戸衆大道寺氏の所領(88貫文)として名前が出てくる。江戸時代には天領~館林藩~天領~館林藩~掛川藩と変わるが(403石,天保郷帳村高),江戸と下田を結ぶ下田街道にあって開国の情報も多かったのではないだろうか。また,土屋勝長(外記助),玄蕃が,武田家滅亡後この地に落ち延び隠れ住んだとの伝えがある(坂戸口に土屋氏の墓とされる宝筐印塔がある)。貧農の山村ではあるが,教育意識は高かったかも知れない。

 

ちなみに,三玄寺は祖先の菩提所となっている。 

 

  


ワシントン記念塔の「伊豆石」,ペリー艦隊が持ち帰る

2012-10-29 15:51:46 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

伊豆の山村に住んでいた頃(昭和10年代であるが),農耕に使用する鎌や鉈を磨く砥石は落合の沢から切り出されたものだった。いわゆる,伊豆石の一つである。祖父は,砥石を調達してくると言っては,石切り場へ出かけていた。

伊豆石は今でも建材として人気があり,伊豆青石と呼ばれる凝灰岩(軟質)は浴室などに使われているので,ご覧になることもあるだろう。表面がザラザラして滑らず,色が青緑で水に濡れると青味を増して綺麗な発色を呈する特徴が好まれている。

 

ところで,伊豆石は大きく2種類に大別されるという。一つは安山岩系(硬質)で,真鶴石,小松石,根府川石などと呼ばれ,耐火性に優れ風化しにくい特徴がある。もう一つの凝灰岩系(軟質)は伊豆御影石,伊豆青石などと呼ばれ(白石,青石と分類して呼ばれることもある),軟らかいため加工しやすく比較的軽い特徴がある。したがって,前者は石垣(江戸城や駿府城)などに,後者は建材,塀,蔵,石段,かまど,石仏,墓石などに使われてきた。

 

伊豆半島及びその周辺(相模湾沿岸から伊豆にかけて)は,良質な石の産地として古くから知られていた。中でも「伊豆石」を有名にしたのは,江戸城改修時の築城石として大量に使用されたことだろう。幕府は江戸城普請として諸大名に石材調達を求め,各藩は相模から伊豆一帯に石切り場を設け,船で江戸まで運んだ。幕末に作られた品川御台場にも伊豆石が多く使われているという。

江戸城石垣の大半は伊豆石だというから,皇居を訪れる機会があったら,石垣を眺め「400年の昔,伊豆の山から切り出され,海を越え運ばれてきたのか・・・」と感慨にふけるのも良いだろう。

 

また,伊豆地方には石丁場の跡がいくつか確認されているので,旅の道すがらマニアックに訪ねるのも一興だろう。例えば,真鶴,熱海(初島,網代),伊東(宇佐美,松原),下田(須崎,吉佐美),東伊豆,松崎(雲見)・・・の石丁場跡が知られている。石丁場を訪れたあなたには,次の言葉を添えよう。連想がさらに広がるだろうから。

 

ところで,「ワシントン記念塔に,ペリーが下田から持ち帰った伊豆石がはめ込まれているのを知っていますか?」

 

嘉永7年(1854)ペリー艦隊は,函館,下田,沖縄からワシントン記念塔(Washington Monument,オベリスク様式169m)のためにと贈られた石材を持ち帰った。このうち実際にはめ込まれたのは下田の石(伊豆石)のみで,この石は約90cm四方,記念塔の西面,下から65mの位置にあり「嘉永甲寅のとし五月伊豆の国下田より出す」と刻まれ,今でも見られるという。

 

一方,函館から持ち帰った花崗岩石材は残念ながら行方が分からない。琉球から贈られた石はスミソニアン博物館に展示されて記念塔にはめ込まれなかったため,百年後の1989年に琉球トラバーチンの石が献呈され,記念塔にはめ込まれたとの情報がある(在NY日本国総領事館HP)。

 

石の建造物は世界中にある。インカの城壁,ピラミッド,モアイなど歴史遺産になっているものも多い。日本では城の石垣が技術の頂点だろうか。一方,庶民の世界でも,石材は耐火性を必要とする建造物など(蔵,竈,風呂場)に使われてきた。

しかし昨今,石造りの建造物は鉄筋コンクリートに替わり,どんどん少なくなっている。伊豆石建造物も例外でなく,今や保存運動の対象になっている。下田駅に降り立ち街中を散策すれば,古風豊かな「なまこ壁」「伊豆石」の建物が比較的直ぐに目に飛び込んでくるが,例えば「旧南豆製氷所」などがそうだ。

 

札幌でも「札幌軟石」という石材が知られている。凝灰岩で,明治初期から昭和の初めにかけて札幌や小樽を中心に使用され,例えば,小樽運河倉庫群,北大農学部のサイロ,小林酒造の酒蔵などが残っている。

札幌のある会合で,臨席のN先輩が

「札幌軟石を知っているか? 退職後の愉しみに,市内軟石建造物の保存地図を作ることにした」という。

「もちろん知っていますよ。市内に石山と言う地名がありますね。実は,下田にも軟石があるのです・・・」と応えたことは言うまでもない。 


伊豆下田,坂戸「子之神社」でパワーは得られるか?

2012-10-26 17:07:36 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

坂戸子之神社の棟札

坂戸子之神社には大永2年(1522)の棟札があり,集落の発展の姿をうかがわせる」と言う文章を,図説下田市史増補版(下田市教育委員会)にみつけた。伊豆下田の稲梓地区の神社には,室町・戦国時代の棟札が多数残されており,坂戸子之神社もその一つという1)

現在は過疎化が進み子供の数も減少しているが,当時の稲梓郷稲梓里(稲生沢川に稲梓川が合流する流域地帯:椎原,箕作,宇土金,横川など)は南伊豆の中でも発展した地域であった。

 

ところで,「坂戸子之神社」の場所をご存知だろうか? 氏子17戸以外に知る人もないだろうが,この神社は稲梓里のはずれ,坂戸の山深く森に隠れて鎮座している。

 

小学校を終わる頃まで,この神社の近くに住んでいたため,誕生後や七五三では母に抱かれ祖父母に手を引かれてお参りしていた。秋の祭典や正月には村人が家内安全,豊穣を祈念し,弓を射て,お神酒を拝した神社である。もちろん子供らの遊び場の一つであって,橇遊びで「危ない事をするな」と叱られ,ムササビの飛翔を初めて見つけた森でもあった。

 

神社の建て替えもこの頃行われた。氏子の集会で「棟梁を誰に依頼するか,寺大工を探すか」の話があり,「地元の大工○○にお願いしよう」と決まった経緯を,父の傍で聞いていた記憶が蘇える。

 

神社は時代と共に様変わりしている。「豊穣と家内安全」を祈念した時代から,「武運長久」を願った時代へ,さらに氏子数の減少から社管理が困難な時代,パワースポットと一部神社のみが注目される時代へと,民の信仰心は変貌して行った。

 

写真は昭和10年代と平成6年頃のものである。昭和62年に一氏子が寄進たという鳥居が建っている。ガ島から生還できたこと,従軍した兄弟全員が無事であった感謝の気持ちで,朽ちた木造の鳥居を建て替えたと聞いた(この神社にパワーがあったのかも知れない)。

 

話は変わるが,雑誌「北農」(財団法人北農会,641号,1997)に「農業の時代」と題する巻頭言が掲載されている。巻頭言は,この神社の背景をイントロにしてわが国の農業に想いを馳せた内容である(タイトル:農業の時代)。さて,巻頭言から15年,この神社を祀る集落は新たな展開をみせただろうか。否,そうとも思えない・・・。時がゆっくり流れ,自然が残ったという風情である。

 

ならば,山里の自然を愛する人々に,古い神社再発見の旅を提供しようではないか。静岡県神社庁によると,下田市内に50の神社,稲梓地区に限っても13社(うち須原には5社:神明神社,水神社,子神社,山神社)が祀られている。神社にはそれぞれ,村人が信仰した長い歴史が刻まれている。旅人よ,歴史に思いを馳せるもよし,杜の緑に深呼吸するもよし。参拝したあなたはパワーを得ることが出来るだろう。

 

参照 1)下田市教育委員会「図説下田市史増補版」20042)財団法人北農会「北農641号」1997

 

 

  


須原小学校(下田市),「長松舎」から始まる99年の歴史

2012-10-16 18:04:16 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

母校の「須原小学校」が,児童数減少を理由に稲梓小学校に統合されたのは昭和46年(1971),今から40年前のことである。帰郷するたびに,「あそこに小学校があった」と子供時代を思い出すのだが,校庭の桜や建物など昔の面影はなく,今は宿泊施設「あずさ山の家」が臨めるのみである。

遠く離れて暮らしていたので,廃校当時の議論を知る由もない。

「統合の記念誌,記念碑はないのか?」と尋ねたが,当時の同級生は「知らない」と言う。

それではと資料を探したら,下田市立稲梓小学校「教育百年記念誌いなずさ」(出版年月日,発行者が記されていない)が手に入った。

 

貧しい山村の初等教育はどうだったのか? 99年の時代を経て廃校に至る流れは,時代の背景(歴史)を抜きにして語れない。そんな思いで,別添「須原小学校沿革年表」を作成した。不確かな部分もあるので,情報を得て完全を期したい。

 

さて,須原小学校の開基は,明治6年(1873)学制領府を受けて,賀茂郡北湯ケ野村第131番小学「稲生舎」分校「長松舎」(三玄寺と楞沢寺)である。世に寺院が教育の場所となった事例は多い。この山村でも以前から,僧侶らが読み書きを教える「寺小屋」を開いていたのではないかと推察される。

三玄寺は当家の菩提寺でもあるので,もう少し調べてみなければならない。

 

この時代の集落の様子はどうだったのだろう

幕末の安政4年(1857),ハリスが日米修好通商条約締結を目指して江戸出府した折の記録(ヒュースケン日本日記)に,描写がある。稲生沢川の上流の辺り(実際は稲梓川,北の沢から八木山,小鍋峠に至る)は,「土地は痩せ貧困,陰鬱かつ単調な景色であったと」とある。稲生沢川の下流域(本郷や椎原など)が「稲穂稔れる肥沃な土地」と記されたのと対極にある。山間の小さな稲田と炭焼きを生業とするような貧しい集落であったと想像される。

 

残念ながら,明治33年(1900)までの就学数の資料は手元にないが,明治30年代の就学数をみても,その数は必ずしも多くない。明治19年(1886)に教育令・学校令が発せられ4年間の義務教育となったが,この数字から類推すると学校にも通えぬ子供らがいたことは想像に難くない。

 

しかし一方,貧しい山村においてもこの時期から,村の篤志らによる教育が進められていたことも注目する必要があろう。貧困から抜け出すには教育が大事である,村人たちに浸透し,次第に学校は村の中心として位置づけられる。集会や行事が学校を中心に行われ,学校への奉仕作業も進んで行い,村人相互の繋がりが強固なものになって行った。小さな村落の良き時代であった。

 

そして戦後,伊豆急行が開通し,東京オリンピックが開催された頃から,この村落から若者が消え,児童数も減少し廃校に至った。

 

そして今,考えよう。この地は自然と歴史豊かな里であるからこそ,限界集落と言われる前に元気を取り戻したい。ならば,何をするか・・・。須原小学校の卒業生(明治34年以降)1,751名が

 

 

 


ハリス江戸出府の道程,「ヒュースケン日本日記」から

2012-10-09 09:35:37 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下田の玉泉寺(柿崎)にアメリカ総領事館をおいたハリスは,日米修好通商条約を締結するため三度江戸に出ているが,陸路を辿ったのは初回(安政4107日~安政5122日)の往路のみである。帰路は病気のため幕府の軍艦観光丸で下田に戻っている。二回目(安政535日~58日)は幕府の軍艦観光丸を往復とも利用,三回目(安政5617日~624日)はポーハタン号(米国海軍の外輪フリーゲート艦,後に艦上で日米修好通商条約調印)を利用している。

艦なら12時間程度の航海であるが,陸路では1週間の道程。途中には,何しろ天城越えと箱根越えの難所が控えている。どんな道中だったのだろう? ヒュースケンの日記1)から,道程を辿ってみた。

 

そのコースは,玉泉寺(柿崎)~下田奉行所中村邸(下田市東中)~稲生沢川に沿って下田街道を上り~日枝神社で休憩~小鍋峠越え~慈眼院(河津町梨本)泊~天城峠越え~茶屋で休憩~弘道寺(湯ヶ島)泊~三島泊~箱根峠越え~茶屋で休憩~小田原泊~藤沢泊~万年屋(川崎)泊~皇城(江戸)である。詳細は添付「ハリス江戸出府の道程」に示した。

 

例えば,1日目の道程

1.玉泉寺を出たハリスらは,中村の下田奉行所(中村邸と呼ばれていた。御役所,白洲,官舎,稽古所などがあり9,792坪の広さがあったと言う)で隊列を整え(約350名),江戸に向け出立(この奉行所は現在の下田市東中14番地,下田警察署前に奉行所跡の碑がある)。

 

2.一行は,稲生沢川に沿って下田街道を北上する。街道の両側には小さな棚田が広がっていたことだろう,ヒュースケンは豊かな稲穂の稔に感嘆している。箕作の集落を過ぎるころ,ハリス一行が休憩した「日枝神社」がある。実は,この地域内のごく近い所(箕作,椎原,宇土金)に同名の「日枝神社」が祀られている。

 

3.更に,谷を分け入るように一行は進み,北の沢から小鍋峠を越える。河津町梨本の慈眼寺に到着するのが午後2時半。10km弱の道程である。日枝神社を過ぎてから梨本に至る地方は,稲生沢川の沿線に見られた豊沃な谷ではなく,土地は痩せ貧困,陰鬱かつ単調な景色であったと記されている。

 

ハリス江戸出府から100年後の頃,中学生であった私はこの辺を歩いていた。「日枝神社」と「北の沢」の間の国道を通学のため毎日往復し,下田で連合体育大会などの催しがあると「箕作」から「下田」まで全員が隊を組んで歩かされた。米山薬師,落合,松尾,お吉が淵,河内,蓮台寺口,高馬の反射炉跡,本郷・・・集落の佇まいが思い出される。稲穂が稔る穏やかな風景は当時も健全であった。

 

小鍋峠は,小学生時代の「河津七滝」までの遠足を思い起こさせた。当時の子供等にとって山歩きは苦にならなかったのだろう。その後,新道をバスが運行したため小鍋峠の古道は山に埋もれていたが,整備の動きもあると聞く。古道散策の愛好者も増えている。

 

既に半世紀以上が過ぎた平成24年,駕籠で行くハリスの隊列を想いながら私はこの道を辿った。歴史や文学に想いを馳せながら,あなたも下田街道を歩いてみませんか?

 

以下,詳細は原著に譲ることにするが,①田園風景(豊かな稲穂の稔り,天城のわさび等),②自然の美しさ称賛(富士山等),③日本文化への憧憬,西欧との比較考証(内戦でも田畑が荒廃しなかった,身分格差はあるが質素な着衣や住まい,社会秩序・・・),④幕府との交渉(条約締結に向けた幕府役人の強かさと戸惑い・・・)など,ヒュースケンの日記には興味深い内容が記されている。

 

日米交渉の立役者であったハリスについては,伝記や「ハリスの全日記」など多くの研究があるが,ヘンリー・ヒュースケン(Henry Heusken)の記録は少ない。オランダ生まれ,ハリスの通訳として応募し,優秀な秘書官として活躍したが,万延元年125日(1861115日)芝赤羽古川ばたで斬殺された。その日は,29歳の誕生日目前であったという。

 

当時,日本人に対して最も好意的であったと思われるヒュースケンが,攘夷の犠牲になったとは何と皮肉なことか。「ヒュースケン日本日記」は異国を訪れた若者の感性を感じることが出来て面白い。

 

参照:青木枝朗訳「ヒュースケン日本日記」岩波文庫,ほか

 

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  ハリス江戸出府の道程(安政4107日~安政5121日)1)  
  年月日 道 程 記    事  
  安政4
(1857)
107
(1123)
玉泉寺(柿崎)
~慈眼院(梨本)
菊名仙之丞(下田奉行支配調役並)出立準備万端整う旨告げる,午前8時江戸に向け玉泉寺(柿崎)出発  
  中村の奉行邸(第三期奉行所,現在の下田市東中14,下田警察署前に下田奉行所跡の碑がある)で若菜三男三郎(下田副奉行支配組頭)の挨拶を受け出立(隊列は約350人),隊列の先頭は菊名仙之丞,殿に若菜三男三郎  
  稲生沢川に沿って進む,豊かな稲穂の稔りに感嘆する  
  日枝神社(現在国道に面しているのは箕作の日枝神社であるが,ごく近くの椎原,宇土金等にも日枝神社がある,何れか)で休憩(半時間,お茶と煙草)  
  約三千フイートの山(小鍋峠,北の沢から八木山を経て小鍋に抜ける)を越える,これまでの豊沃な谷間と異なり痩地にみえる,陰鬱かつ単調な風景,65フイートほどの見事な滝に慰められる  
  午後2時半梨本に着く(6マイルの行程),慈眼院(河津町梨本)に泊まる,菊名は「この地方貧困で人煙隔絶しているため良い旅館がない」と恐縮する  
  108
(1124)
慈眼院(梨本)
~弘道寺(湯ヶ島)
午前8時慈眼院を出発,天城越え,高さ約五千フイート,ほとんど垂直の崖に狭く鋭角的な路がついている,杉の木立が深くなった両側に「西洋わさび」「野生かぶら」が一面に生えている  
  山頂の茶屋で30分の休憩  
  山を下り1時間後茶屋にて昼食  
  田畑が開け,渓谷の向こうにみえる富士山の姿に感嘆する  
  湯ヶ島の天城山弘道寺(伊豆市湯ヶ島)に泊まる,6里の道程  
  109
(1125)
弘道寺(湯ヶ島)
~三島宿
朝,湯ヶ島出発,平坦な路になり馬を駈ける  
  修善寺(福地山修禅寺)で休む  
  三島宿に泊まる,三島神社を見に行く,ハリス神殿建築の寄付に応ずる(地震で倒壊)と神官が礼を述べに来る。キリスト教神父やアジア諸国僧侶の態度と比較して感想を述べている  
  1010
(1126)
三島宿
~小田原宿
朝,三島を出発,箱根の山を上る。この国は,内乱で国土が荒廃することなく,肥沃な田畑が軍馬に蹂躙されることなく,農家が放火されることもなかった,持ち前の礼儀正しさが残っていると印象を語る  
  四里ほど登って山頂に達し,半里下って箱根村に着く  
  村のはずれの関所を通る  
  9時ごろ小田原に着く  
  小田原泊  
  1011
(1127)
小田原宿
~藤沢宿
8時半,小田原を出発,道は手入れされて平坦,両側は水田が広がる  
  8里の旅をして藤沢に着く  
  藤沢泊  
  1012
(1128)
藤沢宿
~万年屋(川崎)
朝,藤沢山浄光寺を訪れ,その後出発  
  神奈川の茶店で休憩  
  夕方,川崎に着く,本陣での宿泊を望まず万年屋に泊まる  
  1013
(1129)
川崎滞在 安息日のため川崎に滞在  
  午後,川崎大師平間寺を訪ねる  
  1014
(1130)
万年屋(川崎)
~皇城(江戸)
早朝出発,関所を出ると小舟に乗って六郷川を渡る  
  梅園(北蒲田村梅林久三郎)で休憩,梅の塩漬などで接待される  
  品川の近くで刑場を通り過ぎる  
  品川で威儀を整え,駕籠で進む,品川から宿舎まで7マイルの道2)の両側は人垣で埋まっていた,群衆の秩序,寛大な友情,礼節をもった歓迎に感服する  
  宿舎は皇城の第三郭の中にあり,午後4時到着  
  1015日~
翌年
120
江戸 この間,大使歓迎会,将軍家定に謁見(1021日登城),宰相堀田備中守らとの会談,条約締結交渉を続ける  
  安政5
(1858)
121
(36)
江戸~下田 ハリス病気のため,午後2時観光丸(オランダで建造,わが国最初の洋式軍艦)で下田へ出発,翌朝2時下田に着く  
  1) 参照:青木枝朗訳「ヒュースケン日本日記」岩波文庫ほか,作表:土屋武彦2012.10
2)
品川から高輪通り,芝車町,同所田町,本芝町通り,金杉橋を渡り,芝浜松町,芝口通り,芝口橋を渡り,尾張町通り,京橋を渡り,南伝馬町通り,日本橋,室町,本町三丁目を左折,同町二丁目,お堀端通り,鎌倉河岸,三河町,小川町通り,牛ヶ淵の蕃書調所のコースと言う(同書注釈)
 

日露交渉の真っ最中,下田を襲った「安政の大津波」

2012-09-28 17:33:24 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下田市柿崎の浜から下田港に繋がる海岸線は,いま「松陰の小径」「海遊公園」など遊歩道が整備されている。下田湾の静かな波音を聞きながら散策していると,つい先日(平成24829日)公表された内閣府の「南海トラフの巨大地震による津波高・浸水高及び被害想定について」が脳裏をよぎった。

「波高16mか・・・,津波が来たら右手の武山(寝姿山)に駈け上がるしかないな」

 

 

 

◆下田を襲った江戸時代の津波

下田はたびたび津波に襲われている。江戸時代には三度の大津波に見舞われた。元禄16年(1703)と宝永4年(1707)には大津波で大半の家屋が流失(332軒と857軒)し,船の破損も多かった(81艘と97艘)。被害の大きさに比べ死者の数が少なかったのは(流死人は21人と11人),町自体が湾の奥にあり時間的余裕があったこと,浪除堤が作られていたこと,山が近いこと,被災体験が伝承されていたことなどが要因だろうと言われる。

中でも,安政元年114日(18541223日)下田を襲った安政東海地震と大津波は,「日露外交交渉の最中に,その中心舞台で発生した大津波」として知られている。マグニチュード8.4,津波高は4.56.0mに及び,下田の街を一飲みにし,その被害は甚大であった。875軒のうち871軒(流失家屋841軒)が被害を受け,被害は実に99.5%。死者は総人口3,851人中99人(幕府からの出張役人など流入者を含めると122人と推定される)であったという。

 

「これほど大きな津波被害の中で,わが国の命運を決める交渉は如何に進められたのか?」

 

 写真は稲田寺の「津なみ塚」

 

 

日露交渉の舞台で

ペリー艦隊が日本を離れてから4か月後の嘉永71015日,ロシアのプチャーチン提督は最新鋭の戦艦デイアナ号で下田に来航,目的は国境画定を含む日露和親条約の締結であった。幕府は,全権大目付筒井肥前守と勘定奉行川路左衛門尉を応接係として多くの役人を急遽下田に派遣,1週間後には対応を開始した。

事前交渉を経て,第一回日露交渉は113日福泉寺で行われた。二回目の日露交渉を約束して別れた翌日,114日午前8時半~10時頃,大地震と津波が突然下田を襲う。地震は2回,大津波は幾度となく押し寄せ,特に2回目の津波で町内の家屋は殆ど流失してしまったという。

被害の状況は,交渉団に加わっていた政府役人(村垣淡路守公務日誌,川路左衛門尉下田日記等)やロシア側(デイアナ号航海誌,モジャエスキーの絵図等)の記録,松浦武四郎「下田日記」などで,かなり詳細に知ることが出来る。

 

ロシア側も,デイアナ号が大きく損傷し船員に死亡者が出る惨状であったが,災害の夕方には副官ポシェートと医師を派遣し傷病者の手当の協力を申し出ている。

また,幕府の救済支援も素早い立ち上がりをみせた。住民救済だけでなく,外交交渉への支障を避けようとする意志が働いていたのだろう。韮山代官所への一報と共に,江川太郎左衛門はその日のうちに「お救い小屋」を設置し粥の炊き出しを行い,翌日には町頭が集まり被災者の調査や対応策を処理し,1110日には幕府から米1,500石,金2,000両が下田へ届けられた。これらには,交渉のため出張している役人の応急手当ても含まれているが,町内の人々にも17日には配分されている。

 

交渉を続ける

プチャーチンは,津波後3日目から被害の少なかった長楽寺で副官ポシェートに事務折衝を始めさせている。1週間後の13日と14日には柿崎村の玉泉寺に場所を替えて,第二回と第三回の日露交渉が行われ,1114日からは長楽寺で全権との交渉を続け,安政元(1855)年1221日(西暦27日),日露和親条約(9か条と同付録4か条)が締結された。

この条約の第二条では,両国の国境が「今より後,日本国と露西亜国との境,択捉島とウルップ島との間にあるべし・・・樺太に至りては,日本国と露西亜国との間において,界を分かたず,是まで仕来りの通りたるべし」と記され,初めて北方の国境が定められた。後に,日本政府は閣議了解をもってこの日(27日)を「北方領土の日」と定めた(昭和56年)。北方領土の日に下田では「北方領土の日記念史跡めぐりマラソン大会」を開催している。コースは長楽寺から玉泉寺までの往復5.1km,今年(平成24)で32回を数える(ちなみに「北方領土ノサップ岬マラソン」は31回)。

 

デイアナ号のその後

デイアナ号は,修理港に決まった伊豆西海岸の戸田港に向かう途中激しい波風で沈没,地元漁民の決死の協力で救出された乗組員約500名は戸田に収容された。プチャーチンは帰国用代船の建造を幕府に願い出て,戸田港で建造することが決まる。

天城山の木材を使い,近隣の船大工を集め日露共同で建造を行い,日本最初の洋式船が僅か三か月で完成する。プチャーチンは建造船を「ヘダ号」と名付ける。結果として,洋式造船の技術は当地の船大工の手に残ることになった。

ヘダ号はプチャーチンら48名を乗せ,安政2322日戸田港を出帆した。

 

大津波被害の中で外交交渉にあたった先人の姿を今に重ね合わせる。あなたは,昨今の決められない政治に対比して,この歴史事実をどう考えますか。

 

参照:下田市HP,内閣府HP,村上文樹「開国史跡玉泉寺」

 

写真は下田湾(上)と戸田造船郷土資料館前のデイアナ号錨(下)

 


ハリスと牛乳のはなし,開国の舞台「玉泉寺」

2012-09-24 18:22:35 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

玉泉寺「牛乳の碑」 

伊豆下田の柿崎に,静かな佇まいの国指定史跡「玉泉寺」がある。この寺は,幕末の嘉永7年(1854)から安政6年(1859)までの6年間にわたり開国の中心舞台となり,最初の駐日アメリカ総領事館(安政385日~安政652日,初代総領事タウンセンド・ハリス)が置かれたことで知られている。

時は幕末,嘉永6年(1853)ペリー艦隊が浦賀に来航,翌年の嘉永7年には神奈川で日米和親条約が締結され下田が即時開港されたことから,下田港にはペリー艦隊を初めロシア軍艦,アメリカ商船の入港が相次いだ。下田港が当時出船入船三千艘と賑わっていたとはいえ,黒船の出現でひときわ慌ただしくなっただろうことは想像に難くない。江戸幕府役人の混乱ぶり,長閑に暮らしていた人々の戸惑いは如何ばかりだったか。

 

そのような折,寒村の鄙びた寺(玉泉寺)が歴史の舞台として登場する。柿崎の浜にあった玉泉寺は,「日米和親条約議定書付録」によりアメリカ人の墓所に指定され(ペリー艦隊乗員墓碑5基,ロシア・デイアナ号乗員墓碑3基,アスコルド号乗員墓碑1基が現存),日露和親条約の交渉場所(第23回交渉),デイアナ号高官やドイツ商人ルドルフ等の滞在場所になり,初代アメリカ総領事館になったのだ。

 

さて,そのような時代のエピソードの一つ,「ハリスと牛乳のはなし」を紹介しよう。

 

 

ハリスは玉泉寺に入るとすぐ,奉行所に牛乳の提供を要求(安政3年)した。当時のアメリカでは牛肉と牛乳が食生活の中に定着していたのだろう。

これを受けて,下田奉行支配調役並勤方森山多吉郎,調役下役斉藤玄之丞(通詞立石得十郎)は,次のように問答している。

 

森山「このほど当所勤番の者へ,牛乳の提供を求められたことについて,奉行に問い合わせたところ,国民は一切牛乳を食用にしない,牛は専ら土民どもが耕耘や,山野多き土地柄ゆえ運送のために飼っているのであって・・・,子牛が生まれても乳汁は全て子牛に与えるので,牛乳を提供することはできない。申し出には応えられない」

 

ハリス「それでは,母牛を求め,私たちの所で搾乳するようにしたいが宜しいか」

森山「今,申したとおり,牛は耕耘,運送のため大事にしているものだから,他人に譲渡することはしない」

森山「山羊の飼育はどうか・・・」

 

安政51858)日米修好通商条約交渉のため江戸に出ていたハリスは,病状が悪化したため下田に戻り静養に努めるが,数日間危篤状態におちいる。幕府は医師を付き添わせ懸命の治療にあたる。そして,病状が回復するにつれ,ハリスはしきりに牛乳を飲みたがるようになる。

幕府側にも対応の変化があらわれる。初代総領事が赴任地で死亡することを恐れたのであろう。柿崎村名主與平治の日記には「異人が牛乳を所望していると仰せつかり,白浜村から求めた牛乳を玉泉寺に届けた」,町御触書には「牛乳が入用なので,牛を持っている者が相談して,日々2合ほど御用所へ持参されたい」,中村名主日記には「異人病気で牛乳を薬用にするため・・・」などの記録が残されており,牛乳調達に苦心する当時の状況を窺い知ることが出来る。

 

その結果,約2週間にわたり,白浜村,蓮台寺村,大沢村,落合村,青市村,馬篭村(現在の下田市と南伊豆町にまたがる広範囲)から牛乳が届けられている。その総量は九合八勺,代金は一両三分八十八文であったという。その額は,当時の大工の月給に相当するほどで,極めて高価なものであった。これが,わが国における牛乳売買の始まりであったとされている(玉泉寺前庭に,少し異質な風情で建っている「牛乳の碑」の記述)。

 

それまで牛乳を飲用する習慣は,わが国になかったのだろうか?

否。実は,わが国における牛乳の歴史は古く,飛鳥・奈良時代に遡る。645年大化の改新のころ,百済から来た帰化人が孝徳天皇に献上したのが始まりで,平安時代には皇族や貴族の間に飲用習慣が広まっていたと言われる。また,日本で最古(984年)の医学書とされる「医心方」には,乳製品の効用(牛乳は全身の衰弱を補い,通じを良くし,皮膚をなめらかに美しくする)が記されている。

その後,仏教で殺生を禁じたこともあり牛乳の飲用はすたれていたが,1727年には8代将軍吉宗がインドから白牛3頭を輸入し千葉県安房郡で飼育を始め(近代酪農の始まり),開国後の明治になって外国人が住むようになると牛乳の需要が増加して行く。1863年(文久3年)前田留吉が横浜に牧場を拓き牛乳の販売を始めたとの記録もある。

 

50年ぶりに訪れた柿崎の浜は,海遊公園から「松陰の小径」「ハリスの小径」と海岸線が整備され,海水浴で遊んだ子供の頃とはすかり様変わりしていた。玉泉寺も三島神社も砂浜から眺めることが出来たはずなのに,今では周辺の民宿に隠れている。吉田松陰と金子重輔が海外渡航を企て潜んでいた弁天島も陸続きになっている。

だが,玉泉寺の山門前に立つと閑静な風が吹き抜け,歴史が蘇ってくる。皆さんも下田を訪れる機会があったら,この地に足を運ばれるがよい。旅の思い出が深まるだろう。

 

参照:村上文樹「開国史跡玉泉寺」,社団法人日本酪農乳牛協会「牛乳百科事典」