豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

須原小学校(下田市),「長松舎」から始まる99年の歴史

2012-10-16 18:04:16 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

母校の「須原小学校」が,児童数減少を理由に稲梓小学校に統合されたのは昭和46年(1971),今から40年前のことである。帰郷するたびに,「あそこに小学校があった」と子供時代を思い出すのだが,校庭の桜や建物など昔の面影はなく,今は宿泊施設「あずさ山の家」が臨めるのみである。

遠く離れて暮らしていたので,廃校当時の議論を知る由もない。

「統合の記念誌,記念碑はないのか?」と尋ねたが,当時の同級生は「知らない」と言う。

それではと資料を探したら,下田市立稲梓小学校「教育百年記念誌いなずさ」(出版年月日,発行者が記されていない)が手に入った。

 

貧しい山村の初等教育はどうだったのか? 99年の時代を経て廃校に至る流れは,時代の背景(歴史)を抜きにして語れない。そんな思いで,別添「須原小学校沿革年表」を作成した。不確かな部分もあるので,情報を得て完全を期したい。

 

さて,須原小学校の開基は,明治6年(1873)学制領府を受けて,賀茂郡北湯ケ野村第131番小学「稲生舎」分校「長松舎」(三玄寺と楞沢寺)である。世に寺院が教育の場所となった事例は多い。この山村でも以前から,僧侶らが読み書きを教える「寺小屋」を開いていたのではないかと推察される。

三玄寺は当家の菩提寺でもあるので,もう少し調べてみなければならない。

 

この時代の集落の様子はどうだったのだろう

幕末の安政4年(1857),ハリスが日米修好通商条約締結を目指して江戸出府した折の記録(ヒュースケン日本日記)に,描写がある。稲生沢川の上流の辺り(実際は稲梓川,北の沢から八木山,小鍋峠に至る)は,「土地は痩せ貧困,陰鬱かつ単調な景色であったと」とある。稲生沢川の下流域(本郷や椎原など)が「稲穂稔れる肥沃な土地」と記されたのと対極にある。山間の小さな稲田と炭焼きを生業とするような貧しい集落であったと想像される。

 

残念ながら,明治33年(1900)までの就学数の資料は手元にないが,明治30年代の就学数をみても,その数は必ずしも多くない。明治19年(1886)に教育令・学校令が発せられ4年間の義務教育となったが,この数字から類推すると学校にも通えぬ子供らがいたことは想像に難くない。

 

しかし一方,貧しい山村においてもこの時期から,村の篤志らによる教育が進められていたことも注目する必要があろう。貧困から抜け出すには教育が大事である,村人たちに浸透し,次第に学校は村の中心として位置づけられる。集会や行事が学校を中心に行われ,学校への奉仕作業も進んで行い,村人相互の繋がりが強固なものになって行った。小さな村落の良き時代であった。

 

そして戦後,伊豆急行が開通し,東京オリンピックが開催された頃から,この村落から若者が消え,児童数も減少し廃校に至った。

 

そして今,考えよう。この地は自然と歴史豊かな里であるからこそ,限界集落と言われる前に元気を取り戻したい。ならば,何をするか・・・。須原小学校の卒業生(明治34年以降)1,751名が

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ハリス江戸出府の道程,「ヒ... | トップ | 下田富士 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

伊豆だより<歴史を彩る人々>」カテゴリの最新記事