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豆の育種のマメな話

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伊豆の人-10,下田生まれの儒者 「石井縄斎(中村縄斎)」

2014-03-17 18:15:10 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

 「石井縄斎」(1786-1840)もまた伊豆下田生まれの儒学者である。江戸時代後期の寛政から天保の頃,駿洲田中藩(現藤枝市)本多家の儒臣として藩校日知館の創設にかかわり,漢学師範を務め,多くの俊才を世に出したことで知られる。

◆天明5年(1786),伊豆下田に生まれる

諱(いみな)を耕,字(あざな)を子耕,俊助と称し,後に頼水または佛塢と号した。初姓は土屋氏,後に中村氏を名乗る。父は淡翁と呼び,医を生業としていた。

山本北山(儒学者)に師事する

幼くして父の業を継ぐが,学を好み,江戸に出て山本北山(江戸中期の儒学者1752-1812)を師とし,経学(儒教の経典解釈学)を修める。

◆駿洲田中藩本多家の儒臣となる

学成り諸藩より招聘されるが,田中藩の奥田笠庵と親密であったこともあり,駿洲田中藩第10代藩主本多正意に招かれの本多家の儒臣となる。文化11年(1814),縄斎28歳のことであった。姓を石井と改める。

◆幼少の「恩田仰岳」を教える

分化12年(1815),隣に住む英知にも悪戯にも秀でていた仰岳(7歳)の利発さに感嘆し,「この子に兵学を学ばせたなら,必ず大用をなすであろう」といって,諱と字を与えたと言う。恩田仰岳は7歳から19歳までの13年間縄斎の下で学んだ。文政10年(1827),19歳の仰岳は縄斎の勧めで兵学習得の命を負い,江戸に出る。

文政7-10年(1824-1827),江戸の昌平坂学問所へ留学

藩校日知館の創設にかかわり,漢学師範として経学を講じる

藩校日知館の創設にあたって中心的な役割を果たし,漢学師範として経学を講じる。門下から恩田仰岳(兵学),熊澤惟興(漢史学・国学),佐竹(槍術)など多くの逸材を輩出している。

なお,日知館は,駿府城の西の守りとして田中城を居城に地域3万石を治めた本多家が,天保8年(1837)本多正寛の代に文武教育を目的に開設した藩校で,東海道文武の関門として名を馳せ,水戸の弘道館と並ぶ天下の関門であった。

◆臼井氏を娶るが嫡子なく,奥田笠庵の子述,「巻吉」を養子とし家を継がせる

◆天保11年(1840)病死,藤枝市円妙山大慶寺(藤枝4-2-7,田中藩主の菩提寺として庇護され,境内には歴代田中藩主や漢学者石井縄斎,国学者熊澤惟興等の墓碑があるに眠

田中藩に勤めること27年,享年55歳であった。天保11年といえばペリー黒船艦隊が来航する13年前,幕末の激変を目にすることなく没したことになる。藤枝市円妙山大慶寺に眠る。

なお,1868年(明治元)戊辰戦争によって江戸城が開城されたのに伴い,明治政府が徳川氏を静岡藩主とする処置をしたため,田中藩は安房へ移封された。

◆弥治町の土屋俊助はその裔である

下田の栞(下田巳酉倶楽部1914)によれば「土屋俊助はその裔」とあるが,詳細は分からない。

 

先に,本ブログ(2013.2.6)で紹介した「中根東里」(1694-1765)と同じく「石井縄斎」(1786-1840)も同じく下田生まれの儒学者ある。「縄斎」は東里」より一時代遅れの江戸後期に活躍している。ペリー黒船艦隊が来襲し,下田が開港される前の奥伊豆といえば,風待ち船で賑わい多くの情報がもたらされるものの江戸からは遠い片田舎であった。若い「縄斎」や東里」が,江戸に出て学問を修めたいと考えたことは想像に難くない。

二人を比べてみると,「東里」の生き様は波乱万丈,清貧に生き,見事なまでに無私を貫き,天才詩文家として広く称賛された。一方「縄斎」は本多家に仕える道を選択したが故に平穏であったと言えようか

「縄斎」の師である「北山」は,秀でた才能を持つが直情型の激しい気質で,仕官は卑職であると生涯職に就かなかったほどであるが,「縄斎」は生涯本多家家臣として過ごしている。そのためか,北山門十哲の中に名前が上がることもなかったし,逸話も殆ど残っていない。

だが,「縄斎」門下から多くの逸材が輩出していることを考えると,彼には良き師(教育者)たる資質があったのかも知れない。

参照:下田の栞(下田巳酉倶楽部1914),藤枝市史通史編など

 


伊豆の人-9,「橘 耕斎」 幕末の戸田港からロシアに密出国した男

2013-05-27 15:08:45 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

時は幕末,まだ日本人の海外渡航が禁止されていた頃の話である。

吉田松陰と金子重輔が,伊豆柿崎の浜からペリー黒船艦隊に身を投じ密航しようとしたが失敗し,獄に繋がれた史実は皆さんもご存知だろう。そのような情勢の中,翌年の安政2年(1855)西伊豆の戸田港からロシアに密航した一人の男がいた。その人の名は「橘 耕斎」。記録がほとんど残っていない謎の人物である。

 

◆デイアナ号の乗組員に紛れ込んで

日露和親条約に向けた協議が始まった二日目の朝,下田は大地震と津波に襲われた(安政の大地震1854)。この津波でロシアのプチャーチン提督率いるデイアナ号は大破し,修理のため戸田港へ回航中に沈没してしまう(安政元年122日,嵐の中漁民たちの決死の協力で約500人の全乗組員が救助され上陸)。

 

安政元年1221日,日露和親条約は調印され(長楽寺,エトロフとウルップ間に国境を定めた),乗組員500人は帰国することになった。第一船は下田にやって来たアメリカ商船フート号で士官・水兵159名が出発(安政22月25日)。第二船は日本の船大工がロシア人と協力して建造したわが国初の洋式帆船(戸田号と命名,3か月位で完成している)で,プチャーチン以下48名が出発(322日)。第三船は残りの278名が商船グレタ号を借り上げて戸田港を出帆した(61日)。

 

この時,戸田村から一人の男が忽然と姿を消した。当時,戸田村の取り締まりに当たっていた代官江川太郎左衛門が勘定所にあげた報告書によれば,「順知という蓮華寺の弟子が召捕り手配中に居なくなってしまった」とある。姿を消した男は順知と名乗っていたが,掛川藩の元藩士の橘耕斎(またの名を増田甲斎)であった。ロシア人に紛れ「樽の中に隠れて」密航したとされる。

 

戸田村の蓮華寺に寄寓していた順知(耕斎)は,プチャーチンの幕僚で中国語の通訳をしていたゴシケヴィチ(後に箱館領事となる)と懇意になる。恐らく,ゴシケヴィチは順知に資金を渡し日本語辞書や絵図などを購入させていたのだろうが,取締方もこれに気づき,順知は捕えられ監禁される。脱出した順知はロシア人宿舎に逃げ込み,ロシア側も協力者を匿う必要があったので密航を助けたと考えられる。

 

一方,海外雄飛を志してグレタ号に身を投じたとする好意的な見方,朝鮮でロシア正教に改宗したのがばれてしまったので日本に居られないと乗船を要望したという話もあるが疑わしい。当時の列強国の動きから判断すればゴシケヴィチが重要な日本の書物を順知に集めさせていたとする方が正しいだろう。

 

◆和露通言比考(和露辞典1857年刊)の編纂に協力する

耕斎が乗ったグレタ号はカムチャッカ半島に向かう途中,オホーツク海で英国軍艦に拿捕される。ちょうどクリミア戦争の真最中であったため,ロシア兵は英軍の捕虜となり,ロシア人に紛れた耕斎も英軍艦でロンドンまで移送され抑留される。

この9か月に及ぶ捕虜生活中に,ゴシケヴィチは耕斎を助手にし,16,000語に及ぶ和露辞典「和露通言比考」を編纂した。辞書の日本文字は耕斎が書いている。「和露通言比考」は,本格的な日露語辞典として高い評価を得た(ペテルブルグ帝室アカデミーからデミードフ賞を受賞1858)。

 

◆ロシア外務省に勤める

1856年ロシアに渡った耕斎は,外務省アジア局に入り通訳として勤務することになった(ロシア語は余り上達しなかったとの伝聞がある)。1858年にはロシア正教の洗礼を受け,ウラジーミル・ヨシフォヴィチ・ヤマトフ(大和夫)と名乗った。

耕斎は,ペテルブルグにあって日本政府の使節を三度迎えている。最初は文久2年(1862,竹内下野守保徳),次が慶応2年(1866,小出大和守秀実),最後は明治6年(1873,岩倉具視)である。また,慶応2年の初めには6名の幕府留学生,その夏には薩摩からイギリス留学中の森有礼らがペテルブルグを訪れている。

 

最初の使節団に対して,耕斎は全く姿をみせていない(密航であった故だろう)。ただ,副使松平石見守の従者市川渡や随員福沢諭吉の記録には,「室内には橘耕斎の名前がある和露辞典(和露通言比考)に毛筆と用紙,刀掛,日本の枕,煙草,浴室にはヌカ袋を備え,食事は日本料理,箸や茶碗も日本と変わることなし・・・」と述べ,日本人が接待に関わっているに違いないと疑ったが,耕斎と会うことは無かった。

その後,耕斎は使節団や留学生たちの前に姿を現し(日本の変化が耳に入ったのだろう),彼らの世話をしている。使節団の随員や留学生たちの記録には色々な話が述べられているが,ここでは触れない。

明治7年(1874)岩倉具視の勧めで帰国する。その直前にはペテルブルグ大学で日本語を教えており,最初の日本語講師として名を遺すことになった。異郷にあること19年。ロシア人と結婚し二人の子供がいたとの話もあるが,確認されていない。

 

◆帰国後の暮らし

帰国後は,明治政府からの便宜を受け芝の増上寺境内の草庵に住み,ロシアの年金で余生を終えたとされる(1885,享年65歳,墓は芝白金の源昌寺)。

 

◆掛川藩士の家に生まれて

墓誌によれば文政3年(1820)生まれ。耕斎が掛川藩士の家に生まれたのは確かなようだが,「立花四郎右衛門の次男で久米蔵」或いは「増田市郎兵衛に連なる増田甲斎」が本名と二説あり出自は定まっていない。

耕斎は武士を棄て掛川藩を出奔するが,その理由も「善人を有罪にして信望を失った」「大喧嘩をして幕官に追われた」「主家の宝物を叩き売って女郎・酒・博打に費やし,邸に居られなくなった」「恋愛関係で婦人を殺害し,郷里に居られなくなった」「武術に長じており,藩内に安んじるのは嫌気がさした」など諸説語られているが,どれ一つ確かな証拠は無い。

流浪の時期には,「博徒に推され頭分となり,幾度も投獄」「帰依して黒衣をまとい池上大門寺の幹事になったが,煩雑さを嫌い雲水になって諸国を行脚」「緒方洪庵の適塾に入り蘭学を学んだ」など語られているが,どこまで真実であったか分からない。

 

耕斎が戸田の蓮華寺に寄寓していたことは,ゴシケヴィチとの邂逅をもたらし,人生を大きく変えた。僧衣に身を包み積極的に(恣意的に)近づいたとの話もあるが,この地が掛川藩の藩領であったため流浪の先が戸田村蓮華寺であったと言うことかも知れない。


耕斎自身が記述したものは殆どないので,多くは伝聞が独り歩きしている。確かに,語られる耕斎の資質は磊落豪放,放蕩無頼である。

 武士と言う身分にこだわらず,日本と言う祖国にこだわらず,宗教も仏教とロシア正教さらに仏門に復帰,仏門でも日蓮宗(池上本門寺,蓮華寺)から浄土宗(芝増上寺),禅宗(源昌寺)と全く拘りがない。耕斎には,既成の法律やルールに留まらない行動が多々みられる。

これを,遠江人の気質,変わりゆく時代の流れだったが故と決めつけて良いのだろうか。何か計画的な意図が隠されているような気がしないでもない。

 

岩倉具視が帰国を勧め,芝の増上寺境内の草庵に住み,脱藩したはずの耕斎が旧藩主太田資実を囲む維新後初の親睦会に出席し,墓石には十六弁の菊の紋章が彫られているという。一体これは何を意味するのか? 伊豆の散策では夢が膨らむ

 

参照:肥田喜左衛門「下田の歴史と史跡」下田開国博物館,肥田喜左衛門「橘耕斎と吉田松陰」下田開国博物館,中村喜和「橘耕斎伝」一橋論叢63(4)514-540,中村孝「幕末の密航その2橘耕斎と新島襄」神田雑学大学定例講座469

 


晩成社の開拓は成功したのか? 農事試作場としての視点 (開拓魂は十勝農業に生きている)

2013-04-17 17:38:43 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

晩成社は農事試験場の先駆けであった

晩成社の十勝開拓については多くの研究者が解析を行い,成否について多様な論調がある。例えば,①開拓の祖とする先駆者論,②新規事業挑戦など開拓魂が語られ,一方では,①時期尚早論(北海道開拓は主として官による開拓であったが,晩成社の入植は時期が早かった),②資金及びマンパワーの不足(資金が十分でなく,かつ農業経験者が少なく,後続入植者も無かった),③晩成社則の問題(開墾した土地が即小作人の所有にならなかったため意欲減退),④社長としての勉三の資質(幹部である鈴木銃太郎・渡辺勝さえ離脱),⑤冷害・霜害・旱魃害・バッタの被害などの要因から,終には倒産同然で解散に至った状況が論じられる。

ここでは新たな視点として,「農事試験場の先駆けであった」ことに触れようと思う。

晩成社は,1883年(明治16)にオベリベリの地へ入植するや休む間もなく森を拓き,持参した作物の種子を播き,石狩の地で購入した苗を植え付けた。日記に出て来るだけでも,蕎麦,小麦,大麦,裸麦,大豆,小豆,水稲,陸稲,大根,瓜,西瓜,茄子,南瓜,西瓜,人参,馬鈴薯・・・など多数である。即ち,どの作物がこの地で栽培できるか,どの品種が適するか,いつ播けばよいかと試行錯誤のスタートであった。もちろん,温暖な伊豆から持参した品種の多くは,北海道十勝の厳しい気象条件に適合しなかったが,僅かながら実を結ぶものも見出された。公的試験研究機関が実施するような作物選定・品種比較試験を,晩成社は自ら行ったのである。

そして,農作物を育てる傍ら豚や山羊を飼い,ハムの製造,馬鈴薯澱粉の製造を開始する。また,入植3年目には牧場を拓き,稲作の挑戦を試みる。その後も,亜麻の栽培,牛肉販売,バター製造,イグサの栽培,椎茸栽培,缶詰製造を試みるなど新たな取り組み(企業化の試み)は尽きることがなかった。勉三の多くの試行は,当時の時代背景(販売・流通が未整備,資金不足)もあって事業として成功したとは言い難いが,この行為は今なら農業試験場が実施する技術開発の側面を有していたように思う。

 

一方,勉三が事業に失敗した要因は,「辛抱強い百姓魂と言うより高学歴の知識人がもつ理想主義者であったが故の,新たな事業を試みることに興味が先行する性にあった」と言えなくもないが,勉三の試みは時代を経て十勝産業として興隆する。彼の苦労も無駄ではなかった。

 

勉三は,入植5年後に「十勝興農意見書」を提出して十勝開拓の推進を訴え,その後も測候所や農事試験場の設置要請を行っている。開拓には科学技術の裏付けが必要であり,産業の発展は技術革新なくして成り立たないと考えていたのだろう。

 

北海道庁は,1892年(明治25)に晩成社社宅を利用して測候所を置き,1895年(明治28)には十勝農事試作場仮事務所を晩成社社宅内に置き試験研究をスタートさせた。以降現在まで,十勝農業の発展を技術面で支えた「十勝農業試験場」は,ここに始まったのである。言い換えれば,晩成社は十勝農業試験場の前身と言えなくもない。十勝農事試作場が業務を開始する以前の12年間は晩成社が同様の試作試験を行っていたのだから。

 

晩成社と十勝農業試験場120年の沿革を添付した。

 

なお,現在の北海道十勝地方は,農耕地面積255千ヘクタール,農業産出額は2,500億円(畑作と園芸作物1,200億円,畜産2,500億円)を超える日本有数の食糧基地である。畑作では,小麦,豆類,馬鈴薯,てん菜を作付し,大根や長芋など特産野菜も取り入れ,1戸あたり面積43ヘクタールと大規模機械化農業が展開されている。また,山麓沿海など周辺地域は酪農・畜産が盛んで,生乳の生産量も100万トンを超える。この農業の発展を技術面から支えてきたのが,晩成社もそうであったが,試験研究・技術開発の力である。さらには,生産者の挑戦力・開拓魂である。

 

十勝を旅してみればいい。大平原の農村風景に触れる時,わが国の原風景(集落)とは異なる風を感じるだろう。それは,欧米の農村のようにも見えるが歴史を経た停滞感は無く,なお進行形の動きがある。何かに挑戦しようとする雰囲気が漂っている。この「動」は何故だろう? と考える。それは「歴史」の特異性,今に息づくフロンテイア・スピリットなのかもしれない。

 

「晩成社」が十勝オベリベリの地に開拓の鍬を入れたのが1883年(明治16),僅か130年前の事である。生産現場も技術開発も安穏とするにはまだ早い。ともかく駆けるのだ。それが活力となる。

 

   

 


伊豆の人-8,依田勉三の十勝入植に異を唱えた官吏 「渡瀬寅次郎」

2013-03-24 16:30:41 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

札幌農学校第一期生の渡瀬寅次郎、同郷のよしみで忠告

依田勉三の十勝入植に対して「5年早い」と異を唱えた札幌県庁官吏がいた。沼津兵学校付属小学校出身で札幌農学校一期生,札幌県庁官吏の渡瀬寅次郎である。

依田勉三は,十勝へ入植前の明治14年(1881)と明治15年(1882)に,北海道踏査行を実施した。一回目は単独で北海道の太平洋側を踏破して風土・産業の実態を視察し,二回目は鈴木銃太郎が同行して入植地を選定するためであった。

明治15615日,依田勉三と鈴木銃太郎は札幌県庁に,書記官の加納通弘(南伊豆出身)らを訪ねた。そして,トノサマバッタ被害調査で日高・十勝を巡回して帰庁したばかりの勧業課渡瀬寅次郎(沼津兵学校付属小学校出身)に会って,十勝の地勢や開拓地としての適性について尋ねた。

 

渡瀬寅次郎は

「十勝入植を希望しているようだが,十勝開拓計画はまだ先になる。石狩ではどうか」

同郷のよしみで忠告した。しかし,ケプロン報文を読み,前年に十勝の広大な原野を目にしていた勉三は満足できなかったのだろう。オベリベリ(下帯広)を入植の地とした。

また,書記官佐藤秀顕も「十勝を諦めるよう」説得し,その後数度の地所下付願に対してもしばらく認可を与えなかった(開拓計画と申請時期のずれが要因だろう)。

この時,勉三が渡瀬寅次郎や佐藤秀顕の意見に耳を傾けていたら,晩成社の顛末は全く異なったものになっていたと思われる。

 

「渡瀬寅次郎」とはどんな人物だったのか

安政6年(1859625日に江戸に生まれる。明治維新により徳川家が静岡藩に封じられると徳川慶喜について沼津に移り(10歳),代戯館,沼津兵学校(旧徳川家によって設立,俊秀が集った,初代頭取西周)付属小学校(兵学校の予備教育機関として明治2年開校,後の沼津小学校,集成舎,沼津中学校),集成舎変則科に学ぶ。東京英語学校(東京大学予備門の前身)を経て札幌農学校第一期生となる。

 

札幌農学校は,教頭にマサセチューセッセ農科大学の学長であったW.S.クラーク等を招聘するとともに,明治8年生徒の募集を行った。東京での募集は文部省管轄下の東京英語学校と東京開成学校(東京大学の前身)の生徒を対象にクラークらが口答試験を実施し,11名が入学した(この中に,佐藤昌介,渡瀬寅次郎,内田瀞,田内捨六らがいる)。また,札幌学校生に対する入試も行われ,第一期入学生となったのは総数24名であった。

明治9814日に開校式が行われ,ここは日本初の公立高等教育機関となった(駒場農学校が明治11年,東京大学が明治10年)。官費生が主体の札幌農学校諸規則には,「卒業後5年間開拓使に従事すること」などが義務付けられた。寅次郎はクラークによる「イエスを信ずる者の契約」に署名,明治10M.C.ハリスから受洗している。

 

無事に第一学年の過程を終了したのは16名,卒業(明治13年)は13名であった。卒業式の記念演説者となった彼は,

「農は職業中の最も有用,最も健全,最も貴重なものなり」

と,熱弁をふるったと言う。

 

寅次郎は,明治13年札幌農学校を卒業後開拓使御用掛(明治15年開拓使を廃止し3県を置く,明治19年北海道庁となる),明治18年水戸中学校長,明治21年茨城師範学校長,明治28年東京中学院(現関東学院)初代院長を歴任するなど教育に熱意を示した。また,明治25年には実業界に転じ「東京興農園」を設立,外国から取り寄せた種苗や農機具の販売,雑誌「興農」や農業専門書の発刊,札幌・信州・沼津等に農園や柑橘園を設け,千葉・埼玉・山梨に採種場を設けるなど実業家としても名を残す働きをした。

興農園主の時代,「二十世紀梨」の命名者となり(松戸覚之助発見),スイートピーを初めて日本に輸入したなど逸話が残されている。

 

寅次郎は大正15年(1926118日に世を去った。享年68歳。喉頭がんで言葉を失った彼は,病床にあって家族に「国民高等学校をキリスト教の基礎の上に建てる事業を完成せず逝くこと残念なり。同志を得てその遂行を望む」と語り,病床を見舞った宮部金吾には「農学校の創立,よろしく頼みます。葬儀は内村さんと・・・」と述べた。これが最後の言葉であったという。

 

後に,新渡戸稲造,内村鑑三らは寅次郎の意を継ぎ,静岡県田方郡西浦村久連(現沼津市)に「興農学園」を設立(初代理事長新渡戸稲造),デンマークの国民高等学校を模範としたキリスト教に基づく農業教育を実施したが,太平洋戦争下にやむなく廃校になった。「神を愛し,人を愛し,土を愛す」クラークの理念を生きた渡瀬寅次郎の意志は,興農学園として引き継がれたことになる。葬儀では,内村鑑三が友人を代表して追悼の言葉を述べている。

 

さて,勉三が寅次郎の勧めで石狩(現苗穂あたりと言う)に入植していたら,晩成社は別の栄光を得ていただろう。だが,十勝へ入植した勉三らには想像絶する苦難の開拓生活が待ち受けていた。多くが離脱・離散するなど,晩成社は必ずしも成功とは言えない結果に終わっている。

しかし,勉三には十勝が似合う。新規事業に次々と飽くなき挑戦を繰り返し,夢追い人の一徹さで過酷な自然に立ち向かった。発展著しい二十一世紀の十勝農業・経済を鑑みれば,勉三の行動が十勝開拓の先駆け・礎であったことは間違いない。勉三は武骨なまでに,小さな成功よりも大志を優先したのではあるまいか。

 

大正14年には勉三が,大正15年には銃太郎・寅次郎が,時を同じくして世を去った。

 

参照:井上壽著・加藤公夫編「依田勉三と晩成社」,北大百年史-通説,岩沢健蔵「北大歴史散歩」など


伊豆の人-7,開拓使仮学校(札幌農学校前身)女学校で教えた女流詩人 「篠田雲鳳」

2013-03-21 11:10:27 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

開拓使仮学校(札幌農学校前身)女学校で教えた伊豆下田出身の女性儒者・漢詩人がいた。その人の名前は,篠田雲鳳。江戸後期から明治にかけて活躍した女流詩人である。

篠田雲鳳は,1810年(文化7),伊豆下田弥治川町に生まれる。父化斎は医者であった。幼名はふぢ,幼くして才知優れ,三歳で文字を習い七歳で物語を読んだと伝えられる。父に従って江戸に出て,朝川善庵(江戸後期の儒学者,医師朝川黙翁の養子,1815年伊豆に清国船が漂着したとき韮山代官江川英毅に依頼され事態の収拾にあたる)から儒学を,中井薫斎から書を学んだ。当時名の知られた大沼枕山(漢詩人),小野湖山(漢詩人)らと交流し,漢詩や書画に才能を発揮し,女性儒者の名を馳せた。開拓使女学校の教授として招聘されたのは,1872年(明治57月のことであった。

開拓使女学校は札幌農学校の前身である開拓使仮学校内に置かれたものであるが,先ず当時の時代背景に触れて置かねばならない。

 

1869年(明治25月函館を占拠していた榎本武揚ら旧幕府脱走軍の降伏により戊辰戦争が終結し,6月には版籍奉還,7月には官制改革が実施され,明治新政府が名実ともに日本唯一の政権となった。当時の蝦夷地は,殖産興業政策上もロシア南下軍事的意味からも注目されており,政府の一機関として開拓使を設置し,北海道開拓を強力に進めることになった。18705月開拓次官に就任した黒田清隆(1874年から長官)は,積極的に動き「外国技術を導入して北海道開拓を進める」(外国人の雇い入れ,留学生の派遣)方針が決定された。黒田は翌年留学生を伴いアメリカ合衆国へ出張し,同国農務局長官ケプロンらを雇い入れ帰国,その後開拓使は総数80名以上の外国人技術者を雇い入れている。

 同時に開拓政策の一環として技術者養成を目的とした学校の設立が構想され,1872年(明治54月「開拓使仮学校」が東京芝増上寺本坊に開校した。開拓使仮学校規則には,北海道開拓に従事する者を養成すると述べられている。

 

仮学校内に女学校が置かれたのは1872年(明治5919日,設置目的は人材養成のための賢母の育成であった。教師には二人のオランダ人が雇われ,ほかに和漢学や裁縫の教授に当たる邦人教師若干名と事務職員。定員は50名,入学生徒の年齢は9~16歳,開拓使官吏の縁故者が半数だったという。1か月10円の給付を受ける官費生で,支給品の中には衣食住に関するもの他日曜日には散歩料が支給された。成業後は北海道に永住することになっていたが,18734月に定められた「入校証書」には,5年間開拓使に従事すること,北海道に在住するものと結婚すること(後に削除),退学を命ぜられた場合は学費を弁済することが義務付けられた。

教授された科目は,和漢学,英学,歴史,地理,算術,裁縫などで,英語の教科書も使われていた。

 

1874年秋に腸チブスが流行し,女学校は閉鎖された(仮学校では3名の生徒が死亡)。こうしたさなかに女学校を札幌に移し,出発日を1110日にする旨の通達が唐突になされ,これを拒否する生徒が退学させられるなど女学校は恐慌状態に陥った。この混乱は教職員にも及び,邦人教職員4名が辞職(篠田雲鳳も含まれる),残ったのは事務職員のみであった。その後,教職員を補充し札幌への移転が決まったのは18758月であった(この時の生徒数は35名)。ところが女学校が移転して僅か8か月後の1876422日,突如女学校の廃止が決定された(廃止は52日)。生徒は54日官費生徒を免ぜられ,親もとへ戻った。

 

その間の事情は当時の開拓大判官松本十郎の記事に詳しい。要約すれば,「生徒の取り締まりを任とする幹事福住某は女学校に住んでいたが,美にして艶なる神尾某姉妹を愛するに至り世間の風評となり,女学校生徒の訴訟書(姦通の事,校長及び幹事を訴える)もあり,両人及び生徒を糾弾したところ両人は否定したが,校長調所広丈ら審議の結果女学校設置は時期尚早であるとの結論に至り廃校とした」とある。

 

女学校教授の職を辞した篠田雲鳳は,東京芝愛宕山麓に住み塾を開き,女児の教育に専心した。高給を以って招聘するものもあったが職に就かず,1883年(明治1652074歳で死去。

 

下田の栞には逸話が紹介されている

・・・愛宕山麓に住んでいた頃,ある晩強盗に入られた。雲鳳は机に向かって揮毫していてこれに気付かなかった。強盗はしばらく後ろに立っていたが,突然凶器を突き付け,金を出せと脅した。雲鳳は静かに振り返り「あいにく今夜は貯えがありません。明日の夕方に来たら少しは上げられましょう。あの箪笥を開けてみなさい。お金になるものがあるかも知れません。ただし,書画の類はあなたの役に立たないでしょうから,そのままにして置いてください」。強盗は箪笥の前に行き箪笥を開けようとしたが開けることが出来なかった。雲鳳はそれをみて,自ら立って箪笥を開けてみせたが,揮毫したもののほか何も入っていなかった。強盗は,雲鳳の女子ながら胆力あるのに感心し,またその窮貧を憐み,そそくさと立ち去った。隣室に寝ていた女中が震えながら夜具の隙間から見ていたことを後日語った・・・とある(原文を書き直した)。

 

ここにも無私に生きた「伊豆人」の姿が垣間見られる。2010年(平成22)下田市民文化会館で生誕200年記念書画美術展が開催されたので,ご覧になった方もおられるだろう。

 

参照:下田己酉倶楽部「下田の栞」,北大百年史-通説,その他


伊豆の人-6,札幌農学校農芸伝習科に学んだ晩成社の「山本金蔵」「松平毅太郎」

2013-03-20 12:04:29 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

札幌農学校「農芸伝習科」に学んだ伊豆出身の若者がいる。依田勉三と共に十勝開拓に入った南伊豆市之瀬村出身の山本金蔵少年である。また,勉三の養子となり農芸伝習科を卒業した松平毅太郎も,伊豆に近い駿東郡富岡生まれであった。

1876年(明治9)創立の「札幌農学校」はW.S.クラークら外国人教師を迎え,当初は開拓使及び農商務省の管轄であったが,1886年(明治19)に北海道庁が設けられその管轄下に入った。ちょうどその頃,「農学校が開拓の現実に適さない」との批判(金子堅太郎復命書)が発せられるようになり,これを受けて工学科・農芸伝習科の設置など農学校の再編が行われた。

 

農芸伝習科は,農学校の農学科本科・予科とは別に設置されたもので,「西欧の農法を教え北海道で実際に農業に従事する者を養成する」ことを目的とした。修業年限は2年,41日~1130日までを第一期(主に実習),121日~331日までを第二期(講義)とした。入学資格は,17歳以上32歳以下で,「本道農業ニシテ耕地一町歩以上ヲ所有スルモノ,若シクハ其子弟,又ハ本道ニ於イテ開墾起業ノ目的アルモノ」との一項が含まれていた。定員は一学年25人(初年度は春と秋に2回の募集を行い,50名),月5円の学資を受け,卒業後の身分進退は5年間北海道長官の許可を得ることが義務付けられていたと言う。伝習科は1899年(明治32)に農芸科に改編され役割を終えるが,この間233名を世に送り出している。

 

講義内容は,農学大意(土壌論・農具論・肥料論・農用動植物生理・普通植物耕種法・特用植物耕種法・牧畜論・果樹栽培法・開墾法・排水法・農圃測地法・農家簿記法・農場管理法・農家経済・農律・山林学・気象学),化学原理大意,害虫駆除法大意,蹄鉄学大意,家畜治療法大意などであった。

 

山本金蔵は,南伊豆市之瀬村の山本初二郎・とめの長男に生まれ,14歳の時(1883年,明治16)晩成社の一員として家族と共に十勝オベリベリへ入植。開拓の手伝いを終え夕方になると,金蔵は,広吉,アイランケ等と渡辺カネ(渡辺勝の妻,共立女学校出身)から書を学んだ。開拓が進まず,移住者13戸のうち既に6戸が離脱した状況であったが,「開拓は一代で成らず,次代の種子を播く」「逆境でこそ重視する子弟教育」の信念があったのだろう。その後,農芸伝習科に合格した金蔵は,1887年(明治20920日佐ニ平に連れられ陸路札幌へ向かい,農学校所属農園内に設けられた寄宿舎に入った。この年は924日に強霜が降り大豆小豆の収穫が皆無になった年でもある。

 

農芸伝習科第一期生(秋入学)となった金蔵は勉学に励み,1889年(明治2244日の卒業式で卒業証書を得て,卒業した(第一期の卒業生は春秋合せて47名)。

 

一方松平毅太郎は,駿東郡富岡生まれ(明治8年静岡に移住した旧幕臣7名の一人松平正修の子供と言う。7名はこの地で開拓に励むが,不況の煽りを受け破綻。明治32年,農場の負債を後に大日本製糖を起こす鈴木藤三郎が請け負う),1890年(明治23)に勉三の養子となり,農芸伝習科へ入学した。この間,どのような事情があったか分からないが,農芸伝習科第五期生として1893年(明治26)に卒業している(第五期の卒業生は16名)。

毅太郎は,勉三がサヨと再婚した年(1895年,明治28)に勉三との養子縁組を解消し,1897年(明治30)に故郷へ帰り,24歳で逝去したと言われるが確認できていない。

 

参照:萩原実監修・田所武編著「拓聖依田勉三傳」,北大百年史-通説,札幌同窓会員名簿


伊豆の人-5,「中根東里」と伊豆人気質

2013-02-07 16:22:58 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

中根東里と伊豆人気質

「中根東里」幼少時のエピソードが知られている。

「・・・東里は幼いころから親に孝行だった。父の重勝はよく飲み歩き,家に帰るのも遅かった。東里はいつも提灯を持って父の帰りを待って外に立ち続けるのであった。ある日,父は泥酔し,迎えに来た東里を東里ともわからず罵り,樹の下に倒れ込んで眠ってしまった。藪蚊が襲ってくる。東里は父を背負って帰ろうとしたが子供の力ではどうにもならず,家に帰り,母に心配を掛けまいと“父は今晩知人宅に泊まることになったが,蚊帳が足りないので借りてこいと言われました。私もそこに泊まります”と蚊帳を持ち出し,父が眠っているところに戻り蚊帳を吊って,一睡もせず泥酔した父を護り,翌朝一緒に帰った。村人は,その孝行ぶりを褒め称えた・・・」とある(参照:井上哲次郎「日本陽明学派之哲学」冨山房明治33(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),下田己酉倶楽部「下田の栞」大正3(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),磯田道史「無私の日本人」文芸春秋2012)。

 

また,1)鎌倉の長屋で弟と暮らした頃,隣人の病を見かね,典籍や衣服を売り払い,これを救い,男の病が回復すると「このまま長屋にいては,あの男も気まずかろう」と,鎌倉を離れた優しさ。2)江戸弁慶橋近くの町木戸の番太郎となり,竹皮草履を作り,売りながら,書を取り寄せては読みふける暮らしの中で,たまたま隣人の幼児虐待の有様を目にするが救済も叶わず,「何のために学問してきたのか」と悩んだ優しさ。3)下野国佐野で,弟の赤子を育てながら村人に書を教え,清貧なうちにも人々に慕われて生活を送ったことなど,東里の人生には心の優しさを示す事象が数知れない。

一方,生活を犠牲にしてまでも貪欲に経書を読み真理を求めた一途さ,禅宗,浄土宗,朱子学,陽明学へと一度矛盾を悟ると次ぎへ進む潔さが東里にはみられる。

 

このような中根東里の性格はどこで形成されたのか?

性格は本来親から譲り受ける遺伝的素質であるが,一つの仮説として,幼少の時を奥伊豆の下田で生きたことが性格形成に影響した,と想定しよう。

気候温暖な土地柄のため性格は温和で優しくなり,江戸から離れた寒村の長閑な暮らしで一途な心(不器用でもある)が育まれたのではないか,と考えるからである。

 

世に,「伊豆人気質」と言う言葉がある。

人国記によれば,「当国の風俗は,強中の強にして,気を稟くるところ都て清きなり。然れども一花の気にして,少しの違いめにても,また親怨を変ずるなりとぞ。案ずるに・・・三方海岸にして,中は山谷なり。寒暑も穏やかなところなり。民族辺境なる故に,よろず一筋なり」という。

 

また,日刊ゲンダイ編集部編「県民性と相性」(グリーンアロー出版社)によると,静岡県は「気候温暖が生んだ気性なのか,金銭欲,上昇志向まるでなし,事あらば酒宴を開く大楽天家,歩くのがのろい,のんびり型,競争を好まない,平和友好的(競争心がない),優柔不断,それなりに」の特性があるという。県内でも,伊豆の乞食(お人好しで人情に厚い,乞食をしても食って行ける)と遠州泥棒(進取の気性に富んでいる,食えなくなると泥棒まがいのこともする。家康の庇護を受けて過当競争をやったことのない静岡市に対し,遠州浜松は大阪や近江商人の進出を受けて安閑としていられなかった)の言葉があると解説する。

 

類型化に意味のないことは承知の上で(東里と比べるのも畏れ多いが),両者を比べてみよう。中根東里の優しさ,一途さが,伊豆人気質に重なって見えるではないか。観光客が訪れ,人々の交流が多くなった現在,前述のような気質は伊豆下田から薄れているが,地元の老人に声を掛けてみれば穏やかな響きと人の良さが伝わってくるだろう。歩く姿や身振りも決してセカセカしていない。

中根東里が腰を下ろし書物片手に竹皮草履を売っていても,違和感がないではないか。

 

伊豆生まれの筆者にとって,妙に納得するところがあるのだが・・・


伊豆の人-4,下田生まれの儒者,清貧に生きた天才詩文家「中根東里」

2013-02-06 17:06:35 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

元禄7年(1694伊豆下田で生まれ,晩年は下野国佐野(現栃木県佐野市)で暮らし,72歳の生涯をとじた一人の儒者がいた。その人の名は「中根東里」。私がこの名前を知ったのはつい最近の事である。

中根東里の生涯を,辿ってみよう。

 

◆中根東里

・元禄7年(1694)伊豆下田で生まれる。幼名は孫平,名は若思,字は敬父(夫),東里と号す。後の名を貞右衛門。ちなみに,父は重勝,三河の人で伊豆に流れ着いて当地に住み,浅野氏を娶る。

・元禄19年(1706)東里13歳の時,父を喪い(本覚寺に埋葬),禅寺に入り剃髪して証円と名乗る。読経を重ねるうちに,経典の本来の言葉である唐音(中国語)を学びたいと思う。

・正徳元年(1711),唐音を学ぶため宇治黄檗山萬福寺に入り,中国僧から漢学の手ほどきを受ける。書を好み経文を読み尽くさんと欲するが,禅の修行は書見ではないと諌められ,荻生徂徠門下慧岩の名を頼って江戸に出る。

・駒込の浄土宗蓮光寺に寓す。経典,大蔵経を読破したと伝えられ,その噂は江戸に広まった。東里の噂は荻生徂徠の耳にも入り,徂徠は東里を門弟となす(徂徠が鎖国の時代に希少であった東里の言語能力を利用した面もある)。徂徠のもとで古文辞を磨くが,「孟子,浩然の気の章」を読み還俗を決意する。還俗に対して徂徠の怒りを買う。東里は「徂徠の虚名を頼りに名を上げようとした己を恥じ」て,書きためた詩文を全て燃やしてしまう。

・浪人暮らしをしていた細井広沢のもとに身を寄せる。細井広沢は儒学者・書家・篆刻家として知られ西洋天文学にも博識であった。「技を暮らしの足しにせず,技をもって道となす」とする細井広沢の生き方に感銘する。

・正徳6年(1716),23歳の東里は室鳩巣に従って金沢へ下る。鳩巣から貞右衛門の名をおくられる。金沢では,ひたすら四書を読み,研鑚を積む。加賀藩から仕官の要請があったが,「学問して禄を貰う訳にはいかぬ」と,これを断り江戸にもどる。当時の儒学者は高額で仕官するのが常であったから,東里の考えは常識を超えるものであった。

・享保3年(1718)江戸八丁堀の裏長屋で終日書を読んで暮らすが,蓄えも底をつく。享保4年(1719)鎌倉在の弟淑徳と一緒に住むことにし,鶴岡八幡宮の鳥居下で漢籍を読みながら下駄を売り,粥をえて暮らす。ある時,長屋隣人の病を見かね,典籍や衣服を売り払い,これを救った。男の病が回復すると,「このまま長屋にいては,あの男も気まずかろう」と,兄弟は鎌倉を離れる。二年ほどの鎌倉暮らしであった。

・江戸弁慶橋近くの町木戸の番太郎となり,竹皮草履を作り,売りながら,書を取り寄せては読みふける。たまたま隣人の幼児虐待の有様を目にするが,救済することも出来ず,「何のために学問してきたのか」と悩む。そのような折「王陽明全書」に出会い,これまでの霧が消え去るのを感じ,ひたすら王陽明の著述を読みふける。そして,「書物を読んできた自分の使命は,人々にそれを説き,自ら行うことではないか」との考えに至る(知行合一)。この頃から,請われれば町民に書を講じた。

・下野国佐野の泥月庵に移り住み(後に知松庵)町の子供らにに王陽明の伝習録を講義する。以降,東里は30年近くをこの里で暮らした。生涯娶ることもなく,弟の赤子を育てながら村人に書を教え,清貧ながらも人々に慕われて生活を送った。

・宝暦12年(1762)姉の嫁ぎ先であり母が暮らした浦賀に往き,明和2年(176572歳で生涯をとじた。遺品や遺稿と言うべきものも殆ど残っていなかったという。顕正寺(浦賀)に自筆の墓碑がある。

 

磯田道史氏は「無私の日本人」(文芸春秋2012)で,「中根東里という儒者について書きたい。村儒者として生き,村儒者として死んだ人だから,今では知る人も少ないが,わたしは,この人のことを書かずにはいられない・・・」と書き始めている。同書の表紙には「荻生徂徠に学び,日本随一の儒者になるが,仕官せず,極貧生活を送る。万巻の書を読んだ末に掴んだ真理を平易に語り,庶民の心を震わせた」とコピーされている。

 

荻生徂徠や室鳩巣にその才を認められ,天才詩文家・儒者として名前が知られるようになった中根東里であるが,「世間的に偉くならずとも,金を儲けずともよい」と,ひたすら書を読み真理を求め,町民に平易に語り,隣人にやさしい心を持ち続けた生きざは,尊厳に値する。純で優しく,一途で,極限なまでに無私であったから,世間の濁りを純化させることが出来たのだろうか。歴史に埋もれた日本人の一人である。

 

今の世にこそ,中根東里の生き方に学ぶことがありそうだ

 

伊豆に住む従兄弟からの便りで中根東里に出会った。東里の生きざまには強い衝撃を覚える。

 

参照:井上哲次郎「日本陽明学派之哲学」冨山房明治33年(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),下田己酉倶楽部「下田の栞」大正3年(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),磯田道史「無私の日本人」文芸春秋2012

 


「コシヒカリ」「ゆめぴりか」の起源を辿れば南伊豆

2013-01-04 13:45:20 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

青市村の無名な種籾「身上早生」から「愛国」、そして「コシヒカリ」へ

明治時代後半から昭和の初めにかけて広く栽培された水稲の大品種「愛国」発祥の地記念碑が,平成22年(2010)宮城県丸森町に建立された(建立地:宮城県丸森町,舘矢間まちづくりセンター内)。「愛国」の偉大さは,その交配後代から「陸羽132号」「農林1号」「コシヒカリ」「ササニシキ」「あきたこまち」「ひとめぼれ」「ヒノヒカリ」「はえぬき」「きらら397」「ななつぼし」など,誰もが知っている歴代の大品種が誕生したことでも理解できる。現在わが国で栽培される作付面積上位10品種の全てに,「愛国」の血が流れているほどだ1)

 

実は,この「愛国」は下田で栽培されていた「身上早生」が宮城に渡ったものである。ご存知だろうか。

添付Table1 水稲の作付面積上位品種

添付Table2 「身上起」を祖先とする品種系譜

 

先ず,「愛国発祥の地」碑文を紹介しよう。

・・・豊穣の稲「愛国」発祥の地・・・水稲の大品種「愛国」は伊具郡舘矢間村で誕生した。明治二十二年十二月舘矢間村舘山の蚕種家本多三學が,静岡県南伊豆郡朝日村(現下田市)の同業者外岡由利蔵から取寄せた品種名不詳の種籾がことの発端である。その種籾は,舘矢間村小田の篤農家,窪田長八郎,日下内蔵治,佐藤俊十郎,佐藤伊吉が試作した結果抜群の多収性が認められ,明治二十五年に坪刈調査に立会った伊具郡書記森善太郎と同郡米作改良教師八尋一郎により「愛国」と命名された。 「愛国」は伊具郡内から県下全域へと急速に普及し,更に,東日本を中心とした全国各地で最大作付面積が三十三万ヘクタールに及び,昭和初期に至るまでの長期間作付された。また,品種改良の親としても優れ,子孫には「陸羽一三二号」「農林一号」をはじめ,「コシヒカリ」「ササニシキ」「ひとめぼれ」など有名な大品種が多数生まれている。 「愛国」は耐倒伏性と耐病性に優れた多収品種として普及したが,近年になって「コシヒカリ」などの強い耐冷性やご飯の食味を左右する粘りも「愛国」に由来することが明らかにされた。 後に,「愛国」となった種籾は,静岡県賀茂郡青市村(現南伊豆町)の高橋安兵衛が育成した「身上早生」と判明した。静岡県では普及面積が僅かで目立たなかった品種を,館矢間村では「愛国」に生まれ変わらせて全国に広め,日本の稲作に多大な恩恵をもたらした功績は特筆に値する。 種籾を館矢間村にもたらした本多三學はもとより,秘められた資質を見抜いた篤農家,「愛国」と命名して支援した稲具郡の稲作指導者,「愛国」の作付けに励んだ館矢間村の稲作農家,以上の関係者の先見性とひたむきな取組みがなかったら,今日の「コシヒカリ」も「ひとめぼれ」もこの世に誕生できなかったはずである。 この舘矢間村の先人達が成し遂げた偉業を末永く後世に語り継ぎ,丸森町の更なる飛躍を願い,ここに類まれな豊穣の稲「愛国」発祥地の記念碑を建立する。 平成二十二年十一月二十日 豊穣の稲「愛国」顕彰事業 実行委員会委員長 渡辺政巳・・・

 

伊豆下田から宮城へ種籾が渡った理由

静岡県賀茂郡下田港西在<筆者注:碑文の南伊豆郡朝日村は,賀茂郡朝日村(明治22年吉佐美村・大賀茂村・田牛村が合併して朝日村,昭和30年下田市となる)>金蘭園主外岡由利蔵から宮城県伊具郡舘矢間村舘山(現丸森町舘矢間舘山)の本多三學へ無名の種籾が送られたとある。外岡由利蔵と本多三學は蚕種製造業を営む同業者で,風交倶楽部の俳句仲間としても親交があった縁による。由利蔵は,蚕種業のほか大賀茂小学校の教員を務め(明治2025),本草学に精通,金融業も営んでいた大賀茂村の名物的な人物だったという3)

 

「愛国」となった無名の種籾とは何だったのか?

佐々木武彦博士は,「愛国」の起源をめぐる静岡県の「身上早生」由来説と広島県の「赤出雲」由来説を比較検証し,「身上早生」由来説が整合性ありとした2)

「身上早生」由来説とは,明治15年(1882)頃,静岡県賀茂郡青市村<筆者注:明治22年に竹麻村,昭和30年に南伊豆町となる>の高橋安兵衛が,晩稲の「身上起」から選出した「身上早生」(別名「蒲谷早生」)であるとする説で,宮城県立農事試験場の寺澤保房が「農業及び園芸」(1927)と「日作紀」(1932)に発表したものである。寺澤は,①健在だった試作者から当時の「愛国」の特性を聞き,②外岡由利蔵に種子を送付した事実を確かめ,③高橋安兵衛が「身上起」から選出した「身上早生」であることを突き止め,④竹麻村で栽培中の「身上早生」を取り寄せ,当時の「愛国」(俗称「在来愛国」「晩愛国」)と比較栽培した結果,両品種に差がほとんどないことを確認するなど,種子の出処から宮城に送られた経緯,時期,試作者,命名に至る経緯を裏付けしたものである2)

 

ところで,起源の地である青市村とはどんなところか?

下田市街から石廊崎方向に国道136号線を1520分ほど走った所に「青市」と呼ぶ集落がある。この地帯は,弓ヶ浜に注ぐ「青野川」の支流で流域は狭い農耕地になっている。青野川流域では弥生時代の「日詰遺跡」が発掘され,農耕,水稲の栽培が開始された場所と推定されている。江戸時代以降,昭和20年頃までは棚田が開けていたことだろう。現在は,観光客相手の商売やマーガレット生産など花卉栽培が盛んである。

江戸から昭和の初めにかけて,奥伊豆農業の中心は稲作であった。嘉永6年~安政元年(1864-75)下田を訪れたペリー艦隊の「日本遠征記」には,「稲は明るい黄色,赤,茶,黒もしくは深い紫色など,様々な種類が栽培されている。9月末に半マイルも歩いただけで,10から15もしくはそれ以上の異なる色合いの籾を見本として採種することができた」と記されている4)。また,ハリスの通訳兼書記として滞在したヒュースケンの「日本日記」(1855-61)にも,「下田の谷を潤している川(稲生沢川)に沿って進む。豊かな稲穂の稔に感嘆する」とある5)。このように,奥伊豆の谷間の流域では多くの品種が栽培されていた様子を窺い知ることが出来る。

そして明治22年(1889)に,この地の「身上早生」が宮城県にわたり「愛国」となり,「コシヒカリ」となった。「身上早生」が宮城に渡って花開いたのは,東北や北陸の優れた先人達の努力によるところが大きいが,同時に,隔離された地勢の奥伊豆で長く続いた稲作が遺伝変異の幅を広げ,優れた遺伝子を蓄積していた事実も見逃せない。「愛国」は耐冷性品種の主要な遺伝子給源であったと言うが2),温暖な伊豆の品種に穂ばらみ期耐冷性の資質が何故あったのか(風待ち船の下田港と称されたように,海風が耐冷性の淘汰をしたのだろうか)等々,興味は尽きない。

 

長閑な陽だまりの里,「愛国」で醸した酒をなめながら奥伊豆の青野川流域に立つと,想像の糸は紡がれ,育種に夢をかけた先人たちの足跡,今も続く努力の姿が見えて来る。育種は継続・・・。

 

参照1)農業・食品産業技術総合研究機構「イネ品種データベース」, 2)佐々木武彦「水稲“愛国”の起源をめぐる真相」育種学研究11:15-21, 2009, 3)伊豆新聞「ササニシキ・コシヒカリは下田が起源」, 4ダニエル・S・グリーン「日本の農業に関する報告」(ペリー艦隊日本遠征記,オフィス宮崎), 5)青木枝朗訳「ヒュースケン日本日記」岩波文庫

 

 


ペリー艦隊が下田で手に入れた二つの「大豆」

2012-12-25 09:15:10 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

アメリカ農学会(American Society of Agronomy)が1973年に出版した専門書シリーズ16巻「大豆」の中に,次のような一文がある。

… Brone (1854) wrote that two varieties of Soja bean, one “white”- and the other “red”-seeded, were procured by the Japan Expedition (Perry Expedition, 1853-1854), and both were used by the Japanese for making soy. …」(A.H. Probst and R.W. Judo “Origin, U.S. history and development, and world distribution”, Soybeans, American Society Agronomy, 1973 

 

大豆のアメリカ合衆国への導入を説明した項目の中の一部で,ペリー艦隊日本遠征隊が2種の大豆を手に入れたとの論文の紹介である(原著は未確認)。

この記述には子実の種皮が「白」と「赤」の2品種を手に入れたとあるが,「赤」については大豆でなく小豆(アズキ)だった疑いもある。

 

 

大豆の種皮色は,黄白,黄,黄緑,緑,淡褐,褐,暗褐,黒に分類され(調査基準),品種群は黄大豆,あお豆,黒豆,茶豆に大別されるが,赤豆というのは存在しない。黒大豆を片親に交配した場合,極めて稀に赤味を帯びた種皮色(赤茶色)が発現するが,茶豆の類に入るものである。種皮色「赤」の大豆が栽培されていたとは考えにくい。

この時代の食生活を考えれば,赤飯・餡などに使う小豆(アズキ)が農家の庭先で栽培されていたことを疑う余地はなく,混同された可能性が高い。

 

この論文を裏付ける断片は,ペリー艦隊日本遠征記の中にある。同書第二巻の「日本の農業に関する報告」を引用しよう。

「・・・日本の豆は数種あり,白い豆や黒い豆,匍匐枝(地面に沿って伸びる種類)を出すものや攀縁性(上に向かって伸びる種類)のもの,ツルナシインゲン,サヤ豆,ササゲ,一般にジャパン・ピーと呼ばれ,茎からのびた枝にできる莢に毛の生えた独特の豆,そしてレンズマメより大きくないごく小さな豆である。この中の一種から,様々な料理に用いられる有名な発酵調味料であるソヤ(醤油)が作られる・・・」(引用:ダニエル・S・グリーン「日本の農業に関する報告」,ペリー艦隊日本遠征記,オフィス宮崎 1997

この記述からは,江戸末期の主に下田周辺で栽培されていた豆の情報を知ることが出来る。ここでジャパン・ピーJapan pea)と表現されている豆が,大豆のことだろう。醤油の材料になると説明されている。

 

ペリー艦隊日本遠征隊が下田を訪れたのは嘉永6年(1853)~安政元年(1854)。アメリカ合衆国で「大豆」が知られ始めた時期で,研究者が栽培の可能性について情報を提供し始めていた。この頃,ジャパン・ピー(Japan pea),ジャパン・ビーン(Japan bean),ジャパニーズ・フォダー・プランツ(Japanese fodder plant)なる言葉が農業文献に登場し(Ernst1853, Danforth1854, Victor1854, Pratt1854, Haywood1854, T.V.P.1855, Joynes1857),生産の可能性,作物としての有用性が論じられている。ペリー艦隊日本遠征記に出てくるジャパン・ピーは,大豆(Soybean, Soya)であると考えて間違いなさそうだ。ちなみに,醤油(ソヤ)から大豆(醤油豆,Soya Soybean)の英語名が生まれている。

 

それから百数十年,合衆国の大豆生産量は世界一となった(9,000万トン,世界の35%)。合衆国大豆生産の黎明期に,下田で手に入れた大豆があったことは面白い。

 

去る12月の或る日下田市立図書館を訪れ,係の方から図書閲覧の便宜と情報提供を賜った。御礼申し上げる。

 

追補2013.9.8

農林水産省の「大豆調査基準」や「種苗審査基準特性表」に種皮色「赤」の分類はない。また,伊豆地方で「赤大豆」と呼ばれた大豆が栽培された記録は見当たらない。しかし,種皮色が濃い茶色で「やや赤み」を帯びている在来種(「茶豆」に分類される)を,島根県や高知県で「赤大豆」,山形県では「紅大豆」と称して販売している事例がある。とすれば,伊豆下田にも「赤」と呼ばれる大豆が存在したのだろうか? 残された課題である。

 

 

(写真左上:「北海道におけるマメ類の品種」豆類基金協会刊、写真右上:アメリカ農学会専門書シリーズ16巻「大豆」)