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豆の育種のマメな話

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東洋のジブラルタル「箱館」から,黒船が持ち帰った植物

2012-09-07 13:54:15 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

ペリーが箱館から持ち帰った植物標本

箱館を訪れたペリー提督は,箱館について「入港しやすさ,その安全さからみて世界最良の港の一つである。位置といい外観といい彼の有名なジブラルタルと似ているのに驚いた」と記している。ジブラルタルは大西洋と地中海を繋ぐ狭い海峡を俯瞰し,町の小高い丘からは対岸アフリカの海岸を見下ろすことのできる重要な軍港であるが,箱館も,孤立した丘(函館山)があって,その麓や斜面には家屋が建っており,一方の高地(横津岳に延びる丘陵)とつながる低い地峡(現在の市街地)は,イギリスの軍港とスペイン領とを分かつ中立地のようであった・・・と続く参照:在NY日本国総領事館「ペリー提督日本遠征記のエピソード」から)港は津軽海峡の要諦でもある。

 

この箱館は,嘉永7年(1854)締結された日米和親条約で,下田と共に開国の港に指定された歴史の町である。函館は今もその面影が残し,世界に誇れる美しさを維持している。

 

 

さて本論であるが,開国に向けた激動の歴史の裏側で,黒船艦隊に乗船したプラント・ハンター(植物収集家)が,函館及び北海道周辺からも多数の植物標本を持ち帰っていることを多くの人は知らない。ここでは,小山鐵夫博士1)が解説している111種の中から,採集地が函館及び北海道周辺のものを抽出して表示した(黒船艦隊が函館及び北海道周辺から持ち帰った植物標本)1) 。この他にも,多くの種子や標本が持ち帰られたと言われている。

 

ところで,黒船艦隊の植物採集以前にも,日本の植物がヨーロッパに紹介されている。以下は,歴史に刻まれた代表的な植物学者たちである。

 

ケンペルEngelbelt Kaempfer):オランダ商館付きドイツ人医師,博物学者,1690-92年日本に滞在,将軍にも謁見。1712年に出版した「廻国奇観」の中に,日本の植物324種を記載。日本を初めて体系的に記述した「日本誌」の原著者。

 

ツンベルクCarl P. Thunberg):スウエーデンの植物学者,医学者,リンネに師事し後継者と称されたウプサラ大学教授。1775-76年オランダ商館付き医師として出島に滞在。1784年「日本植物誌」を発刊,812種(うち新属26,新種418)の日本産植物を記載。

 

シーボルトPhilipp F. von Siebold):ドイツ人医師,博物学者,オランダ商館医として1823-291859-62年出島に滞在,伊藤圭介,水谷豊文らと多くの植物を採集。

 

ツッカリーニJoseph G. Zuccarini):ドイツの植物学者,ミュンヘン大学教授。シーボルト標本を研究し,共著で「日本植物誌第一巻」を出版。ミケル(Friedrik A. W. Miquel):ライデン大学教授,「日本植物誌第二巻」を出版。シーボルトが収集した標本は12,000点,日本植物誌の記載は2,300種になるという。

 

開国から明治維新に至る激動期にも多くの植物学者が日本を訪れた。

 

マキシモヴィッチCarl J. Maximowicz):ロシアの植物学者,1860-64年日本に滞在。日本の開国を知るや函館を訪れ,須川長之助を助手に雇い採集を行った。後にロシアのサンペテルブルグ植物園長。340種を発表。黎明期の日本植物学を育てた(日本の植物学者の植物同定にも協力している)。

 

サヴアチエA. L. Savatier):フランス人医師,1873-76年日本に滞在。フランシエ(Adrien R. Franchet)はサヴァチエと共著で「日本植物目録」二巻を出版,2,547種が掲載されている。

 

これ以降,わが国の植物学は牧野富太郎を初め日本の研究者に引き継がれていく。

 

江戸から明治初期にかけて,ヨーロッパの医師や植物学者が東洋(日本)で植物採集を行ったのは,「薬と言えば生薬」の時代であった背景がある。結果として,ヨーロッパの一流研究者の訪日は,先駆者として日本植物学の黎明期に貢献したことにもなる。わが国の野山に多く存在する植物の名(学名)に,前述の研究者の名前が付されていることを目にすることが出来る。

 

この時代の植物採集が先進国の資源戦争であった一面は拭いきれないが,幸いなことは,採集された多くの標本や原本が散逸することなく,各国の植物館・博物館に保存されていることだろう。彼らの業績は,少なくとも明治の植物学者たちに引き継がれている。

 

1)小山鐵夫「黒船が持ち帰った植物たち」アポック社1996

 

 


黒船艦隊が下田から持ち帰った植物

2012-09-05 16:30:23 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」

嘉永663日(185378日),米国のペリー提督率いる「黒船」が浦賀沖に姿を現したときの混乱ぶりが,この狂歌に象徴されている。それまでにもイギリスやロシアの帆船を目にしてはいたが,ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船の姿は幕末の世を圧倒するものであったのだろう。この黒船来航を契機に幕府は日米和親条約を結び,開国につながった歴史事実を,私たちはよく知っている。

 

当時,産業革命を迎えたヨーロッパ諸国はインド,東南アジア,中国へと熾烈な植民地獲得競争(市場確保)を進めており,一歩出遅れたアメリカ合衆国も太平洋航路の確立とアジアでの拠点づくりを目指していた。また,産業革命を支える鯨油を得るために当時は世界中の海で捕鯨が行われていたが,太平洋を中心に操業していた合衆国は航海拠点(薪,水,食料補給)の確保に駆られていた。合衆国大統領はペリー提督に親書を託し,日本に開国を迫ったのである。

 

この歴史的外交の裏で,プラント・ハンターが活動した事実を知る人は少ないだろう。黒船艦隊は,「米国北太平洋遠征隊」の名のもとに植物学者と植物採集家を遠征隊のメンバーに加え,琉球,小笠原,薩南諸島,伊豆下田,横浜,箱館及び北海道周辺で大がかりな植物採集を行い米国に持ち帰った。

 

ここでは,小山鐵夫博士1)が解説している111種の中から採集地が下田のものを抽出して表に示した(黒船艦隊が下田から持ち帰った植物標本)。この他にも,多くの種子や標本が持ち帰られたと言われている。

 

1次採集(ペリー艦隊)は,1853年ペリー提督率いる黒船艦隊が初めて浦賀に現れた遠征の年で,浦賀,横浜,下田,箱館で採集した。在マカオ米国領事館員ウイリアム氏(S. Wells Williamas)とモロウ博士(James Morrow)が遠征隊に同行し収集にあたり,標本総数は353種,新種は34種だという。

 

2次採集(ロジャース艦隊)は,1854~55年にかけて小笠原,沖縄,奄美大島,九州,下田,箱館,北方諸島など大がかりに行った(採集に関与した黒船は旗艦ヴインセンス号とハンコック号の2隻で,前者にはライト博士Charles Wright,後者にはスモール氏James Smallが乗船して収集にあたった)。下田では,185551328日に採集している。第2次採集隊の標本総数は第一次をはるかに上回り新種63種を同定した。

 

1次及び第2次遠征で採集された標本は,植物学の権威ハーバード大学グレイ教授(Asa Gray)によって同定・研究され,同大学植物標本館に現在も保存されている(ニューヨーク植物園にも同標本のほぼ完全な一セットが保管されていることを小山鐵夫博士が見出した)。調査報告書を基にグレイ教授は北米と極東アジア地域植物相の類似性を指摘し,植物地理学上注目すべき仮説(隔離分離)を発表している。

 

感嘆に値するのは,19世紀のこの時代の米国で植物学の基礎研究のために海軍が便宜供与を与えていたという事実である。植物遺伝資源の重要性を認識する先見性である。

 

下田を訪れたら,19世紀の時代にプラント・ハンターが路傍や野山で植物採集をしている姿を想像してみるのも面白い。

 

1)小山鐵夫「黒船が持ち帰った植物たち」アポック社1996

 

 


「宝島」の作者ステイーヴンソンと「吉田松陰伝」

2012-08-09 13:58:16 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

「知られざる吉田松陰伝」宝島のステイーヴンソンがなぜ?

子供向けの海洋冒険物語「宝島」に夢中になった思い出を持つ人は多いだろう。私もその一人だ。縁側で日向ぼっこしながら絵本に夢中になり,眼を上げて家の中を見ると真っ暗に見えたことを思い出す。

「宝島」は・・・ビリー・ボーンズと名乗る顔に傷痕のある大男が現れ,宿屋の息子ホーキンズ少年に「片足の男に気をつけろ。現れたら俺に知らせろ」と言いつけるところから物語が始まる。その後,ボーンズの周辺には怪しげな人物が出現するようになり,ボーンズは乱闘の末に死んでしまう。

ポーンズが持っていた箱から,彼がかってフリント船長率いる海賊団の一味だったことを記したノートと,財宝を隠した孤島の位置を示す地図が出てくる。ホーキンズ少年は,地元の郷士トレローニと医師リブシーと一緒に宝探しに出かける。

 

航海に素人だった彼らは,波止場で居酒屋を開いていたシルバーという片足の男の力を借りて水夫を集め,シルバーともども出航する。宝島にたどり着く頃ホーキンズ少年は,実はシルバーが海賊団の元一味で集めた水夫仲間と反乱を起こそうと相談していることを,幸運にも耳にする。船を脱出した少年ら一行は島で海賊一味と戦うことになる。昔この島に置き去りにされていた元海賊のベン・ガンの助けを借りて,一行は戦いに勝利し財宝を手にする・・・というような内容だったろうか。

 

この物語の作者はロバート・ルイス・ステイーヴンソン1850年生まれのイギリスの小説家で,「宝島」「ジキル博士とハイド氏」など多数の作品が世界中に翻訳されている。

話は変わるが,小学生の頃,夏休みになると下田市柿崎の浜に海水浴に行くことが多かった。浜の裏手にある三島神社境内には吉田松陰の石像があった。また,目の前に弁天島があり(現在は,海水浴場は閉鎖され陸続きになっている),そこの祠が吉田松陰と金子重輔が安政元年ペリー艦船に密航を企てようと身を隠した場所だと聞いて,「松陰」の名が脳裏に焼き付いた。

家に帰って祖父に尋ねると・・・吉田松陰は長州の思想家・教育者で,松下村塾では久坂玄瑞,高杉晋作,伊藤博文,山縣有朋などを教え明治維新の精神的指導者であったこと,獄中教育こと,辞世の句に「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」とある・・・と聞かされた。獄中にあってまで・・・と,子供心を揺さぶった。国を思う思想家が下田の地を訪れ,歴史を刻んだのだ。松陰の生きざまに感銘を覚えるのであった。

更に時を経て,通学していた高校の近く(蓮台寺温泉)にある吉田松陰寓居処(旧村山行馬郎邸)を訪れたこともあるが,その後の人生では松陰を意識することは少なかった。

だが,半世紀が過ぎようとする頃,ステイーヴンソンが松陰(吉田寅次郎)の伝記を書いているFamiliar studies of men and books1882)と知り,この意外な結びつきに驚いた。本当なら,世界で最初の「吉田松陰伝」と言うことになるのではないか。日本に来たこともないイギリスの文豪ステイーヴンソンは誰から松陰のことを聞いたのだろう? 彼に松陰伝を書かせようとした動機は何だったのか?

その回答は,よしだみどり著「知られざる吉田松陰伝」宝島のステイーヴンソンがなぜ?(祥伝社新書2009)にある。

本書のお蔭で子供の頃の記憶が奇妙なかたちで結び付いた。まずは,本書との出会いに感謝せねばなるまい。

本書は,「なぜ世界最初の吉田松陰伝が英国で--日本より11年も早く業績が評価された理由」「ステイーヴンソン作『ヨシダトラジロウ』全訳--それは感動に満ちた内容であった」「誰が文豪に松陰のことを教えたか--維新の群像たちが求めていたもの」「どうして伝記は封印されていたか--松下村塾の秘密を解くカギはここにある」「松陰伝がサンフランシスコで執筆された理由--文豪にとって松陰は勇気であった」「ステイーヴンソンが日本に残したもの--われわれに誇りを取り戻させてくれた」の6章から成っている。

詳細については本書に委ねよう。

読み進むにつれ時代が蘇り,再び松陰の虜になった。サムライ松陰の心の気高さ,ステイーヴンソンが感銘した日本人の美徳・潜在能力。汎地球主義,物質主義で行き詰った昨今の閉塞の時代を打破するには,松陰の国家感・先見性・勇気,さらには歴史が培った日本本来の美意識を認識することが重要なのではないかと。

また,この書物では,下田の沖合にある神子元島の灯台がステイーヴンソンの父により設計されたものだと紹介されている。この古い灯台は,松陰が密航に失敗した下田沖の海を今も照らしているのだ。また一つ,故郷下田の思い出が深まった。

写真は,柿崎の丘からみた下田港,城山公園の日米修好記念碑

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井上壽著,加藤公夫編「依田勉三と晩成社」に思う

2012-04-12 15:00:53 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

井上壽著,加藤公夫編「依田勉三と晩成社」(北海道出版企画センター,20123月)が発刊された。井上さんは,この本の発刊を待たずに逝去されたと伺った。

著者とは,十勝農業試験場で働いていたころ宿舎が近くにあったこともあり,勉三の話しを折りにつれ伺うことがあった。

 

晩成社は開拓に成功したと言えないのではないか

 

帯広で十勝開拓の祖,拓聖と祭り上げられた「依田勉三」に違和感を覚えているような口振りであった。当時,井上さんはまだ現役の専門技術員(病害虫)で,郷土史家と呼ばれるようになる前のことであった。退職後の井上さんは,多くの資料を集め,独自の史観を折に触れ発表してきた。

 

本書の「はじめに」で,著者は次のように述べている。

「・・・狭い面積の山間部で,貧困にあえぐ農民や士族を大量に移住させ,農畜産物の生産を上げ,晩成社に投資した人たちに,利益を配当しようとした理想的なものであった。・・・ところが結果的には,晩成社に応募した小作人が逃げだしたり,いろいろな事業が順調にいかず,ほとんどの計画は失敗に終わってしまった。人の意見を受け入れることが少なかった依田勉三の資質によるものといわれる。結局,故郷で投資した人々に配当することもできず,借金だけが残ってしまった。このような依田勉三を,十勝では,何故か「十勝開拓の祖」「農聖」「拓聖」などと,後世,尊敬されることになった。・・・事実の粉飾や美化した記述で埋め尽くすというのではなく,事実は事実として依田勉三の本当の姿を探り,残しておきたいというのがねらいである・・・」と。

 

本書では,晩成社の歩みを時系列で追い,検証を進めるとともに,依田勉三と晩成社に対する様々な評価について論じている。正直なところ,いろいろな見方があるものだと思う反面,まだまだ研究課題が残されていると感じた次第。

 

井上さんは,幾つかの箇所を指して,きっとこう言うだろう。

伊豆出身のお前がみて,この内容をどう理解する?

例えば,

 

1.事業失敗を補うための北海道開拓?

「遠山房吉(芽室村,衆議院議員)によると,・・・依田勉三の兄,依田佐二平が,信州人,小松徹の勧めによって数々の事業を経営し失敗したにもかかわらず,その失敗を補うため,小松徹発案による北海道開発に依田勉三がのってしまった・・・とあるが」

 

「十勝開拓目的の側面を知る由もないが,依田家の当主が多くの事業を試みたのは事実。養蚕,イグサ,造船など。失敗もあり,成功したものもある。僻村にあって豪農とされる依田家の当主が,地域の振興を図る努力をするのは至極当然のことだろう」

 

2.晩成社移住社員の資質?

「依田勉三,渡辺勝,鈴木銃太郎など幹部には,高い理想があったが,参加した社員は南伊豆の生活に窮した小農であった。開拓などと言う高い理想はなかった」

 

「当然のことだろう。遠い北海道に渡って苦労しようとするのは,南伊豆の地で食って行けない貧農か,一攫千金の夢を抱いた人々であったのは想像に難くない。海外への開拓移民の例をみても,大陸から引き揚げて生活困窮家族であったり,閉山炭鉱の労働者であったり,多くは一攫千金の夢は持ってはいたが富裕な農民ではなかった。農業移民との制約はあったが農業経験のなかった者まで含まれ,病気になり開墾を断念せざるを得ない人々も出ている。日本政府の支援が長く続いた南米でさえ,定着率は3050%。晩成社の場合も,社員に土地を与え,自立させるべきだったのではないか」

 

3.少年が含まれ戸主となっているが?

12歳の山田喜平が戸主として,参加している」

 

「当時の戸籍では,両親が死亡した場合,幼少であっても長男あるいは長女が戸籍筆頭者(戸主)になるのは普通のことであった。筆者の祖母も9才にして戸主となり,18才で婚姻したとき,はじめて祖父が戸籍筆頭者になっている。幼少にして労働力に数えられた時代である。山田喜平を社員の頭数を増やすために加えたとの解釈は,単純すぎないか」

 

4.勉三は伊豆で決して良く言われていない?

1980年,松崎町から教育委員会職員と教員の一行が,視察調査にやってきた。若い先生が・・・地元では,依田勉三さんは,決して良くは言われておりません。帯広でこのように尊敬されていることは意外・・・と語っていた」

 

「依田勉三の名前を知る人は,伊豆では少ないのではないか。私も高校時代まで伊豆に暮らしていたが,教育に熱心な依田佐二平翁が豆陽学校を創立し,大沢に依田家があるという程度の知識に過ぎなかった。今でこそ,松崎町が三聖人として,土屋三余,依田佐二平,依田勉三を称え,旅行者もこの地を訪れるが,住民の意識は低い。下田から来た引率教諭が・・・勉三の評判は伊豆では良くない・・・と言ったというが,本当にそう述べたのだろうか。私の感覚で敢えて言えば,帯広ほど勉三の知名度はない,と語ったに過ぎないのではないか」

 

5.南伊豆町教育委員会から返事がない

「勉三に同行した農家は南伊豆町出身者であるが,12年して帰国している。事情を知りたいので,郷土史を研究している先生を紹介してほしいと依頼したが,返事がない(1980)。この町では,勉三の評価は良くないのではないか」

 

「当時,北海道開拓に疲れ果て戻った姿をみれば,晩成社の事業を良く思わなかったこともあり得よう。しかし,問い合わせをした1980年と言えば当時から数えて100年。知る人も,語る人もいないというのが本当のところではないか」

 

往々にして,歴史認識は偏りやすい。井上壽の「晩成社」研究は,十勝農業の発展過程における依田勉三の役割を,客観的に検証し,正しく評価しようとした点が特徴である。一石が投じられた

 

Img_3902web(写真は松崎町「花の三聖苑」にて)

 


伊豆の人-3,「伊豆の長八」と呼ばれた男

2011-10-31 18:01:27 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

こて絵の名工「入江長八」

伊豆の松崎町に「伊豆の長八美術館」がある。漆喰芸術,鏝絵(こて絵)の名工と謳われた入江長八の記念館である(昭和59年開設)。平成2210月この地を訪れ,初めてその芸術性に触れた。

 

従前から,伊豆の町には「なまこ壁」と呼ばれる外壁の民家や土蔵が多く,その白色に盛り上がった部分が漆喰であることを知ってはいたが,漆喰の鏝絵を芸術まで高めた伊豆出身の男がいたことを知らなかった。

 

なまこ壁とは,壁面に平板の四角い瓦を並べ,その継ぎ目を漆喰でかまぼこ型に盛り上げて塗ってあるもので,装飾的な目的だけでなく,防火や雨水を防ぐ役割があった。この地方は海からの風が強く,火災が起きると大火事になり易く,防火に優れるこの建材が普及していた(江戸幕府も防火のために漆喰壁を奨励していた)。現在でも,下田や松崎など伊豆の周辺にはなまこ壁の建物が残っているので,ご覧になった方々もいらっしゃるだろう。また,古くは城郭や寺社,商家,民家土蔵などの室内壁にも板壁や土壁(竹格子に土と切断した藁を混ぜて塗り込む)の表面に漆喰を塗ったものがあった。漆喰壁は,保温,防湿にも優れる。

 

村山道宣編「土の絵師伊豆長八の世界」,松崎町HPなどによれば,長八は,文化12年(1815)伊豆国松崎村明地(現,松崎町)に,父兵助,母てごの長男として生まれた。家は貧しい農家であったが,菩提寺である浄感寺の住職夫妻に可愛がられ,浄感寺塾で学ぶ。12才の時村の左官棟梁・関仁助に弟子入りして左官の技術を磨く。当時から手先の器用さは知られていたようである。19才の時江戸に出て,著名な狩野派の絵師・喜多武清の弟子となり3年間修業した。

 

そして,漆喰に漆を混ぜて鮮やかな色を出す,長八独自の技法を生み出し,鏝絵の新境地を開いた。26才で江戸茅場町薬師堂の御拝柱の左右に「昇り竜」「下り竜」を描き,評価を得て,一躍名工と謳われるようになった。その後,浅草観音堂,目黒祐天寺,成田不動尊などに名作を残したが,多くは関東大震災で消失したという。長八の技術は多くの弟子によって九州まで広まった。

 

長八が郷里松崎に戻り制作した作品も残っている。現在,松崎には伊豆の長八美術館に約50点,浄感寺の長八記念館に約20点が公開されている。東京に残っているのは,橋戸稲荷,泉岳寺,寄木神社,成田山新勝寺など約45点といわれる。

 

鏝絵であるにもかかわらず繊細。伊豆の長八美術館に入ると鑑賞のため虫眼鏡を渡されたが,確かに彼の技術は虫眼鏡を必要とするほど細かい。この記念館を建設する際には,全国左官業組合の協力の下,全国から多くの名工達が集まり腕をふるったと,伝えられている。最近の住宅建築では,新資材が出回り,左官業が腕を振るう場面が減っている。ましてや鏝絵を飾るような建物も,名工と呼ばれるような職人が活躍できる機会も少ないのではあるまいか。

 

漆喰芸術としては,ヨーロッパのフレスコ画が知られている。フレスコ画は,壁に漆喰を塗り,その漆喰がまだ生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描く手法である。やり直しが効かないため,高度な計画と技術力を必要とした。ルネサンス期にも盛んに描かれ教会に多く残っている。ミケランジェロの「最後の審判」などがよく知られている。一方,鏝絵は文字通り鏝を使って,色づけした漆喰を塗っていくが,漆喰の乾燥によってもたらされる色合い,保存性など共通項も多い。

 

参照  1) 村山道宣編「土の絵師伊豆長八の世界」 2) 松崎町HP

写真は松崎町「伊豆の長八美術館」


伊豆の人-2,「三余塾」,奥伊豆生まれの碩学土屋宗三郎(三余)

2011-10-29 10:46:02 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

土屋三余

依田佐二平や依田勉三らが幼少の頃大きな影響を受けたのが,碩学の漢学者土屋三余(幼名宗三郎)であったと,前回述べた。

ところで,この人物はどんな人だったのか?

 

萩原実著「北海道十勝開拓史話」,松崎町役場HP,松本春雄HPなどからその一端を知ることができる。

 

土屋宗三郎は,文化12年(1815)伊豆国那賀郡中村(現,松崎町)に生まれ,6歳で父の伊兵衛安信を失い,8歳の時には母冬子にも死別したため,母の実家である道部村(現,岩科)の斎藤弥左衛門宅に引き取られ,そこから松崎の淨感寺に通い,住職本田正観から経書を学んだ。

 

天保217歳の時,江戸に出て高名な儒学者東条一堂の門に入り漢学を修め,また大沢赤城から国学,算術,剣法に励み,赤城塾では勝海舟とも机を並べたと伝えられている。江戸における土屋宗三郎の名声は次第に高まったが,天保1025歳のとき伊豆に帰郷し,依田善兵衛の娘みよ(勉三の父の姉)を娶って塾を開く(最初竹裡塾と称したが,三余塾と改める)。門弟は総計七百余名,その名声を聞きつけ,東は仙台・江戸から西は熊本にまで及んだという。

 

三余とは,魏の薫遇が詠んだ「読書当以三余,冬者才之余,夜者日之余,雨者時之余」に因む。いわゆる「晴耕雨読」で,農業のできない冬の間や,夜間または雨降りを利用して,学問することだという意味で,「士農の差別をなくすには,業間の三余をもって農家の子弟を教育することが必要」との信念に基づく。

 

萩原実著「北海道十勝開拓史話」に,三余自作の五言絶句の漢詩「姑息吟」「莫懶歌」(塾の校歌)が紹介されている。塾生はこれを吟唱しながら作業や家事にいそしんだというが,三余塾の情景が垣間見えて面白い。郷土史家足立鍬太郎の訳が付いているので引用する。

 

姑息吟

六歳(むつ)で学問本気にならにゃ年をとっても役立たぬ,

十二学問本気にやらにゃ六歳(むつ)の子供に負けましょう, 

十四学問本気になれず僅か十五でやめる馬鹿, 

とかく学問本気にやらにゃ末は後悔臍をかむ

 

莫懶歌

寝床片付ケ顔ヲバ洗イ懶(なま)ケズ懶ケズ部屋ノ掃除ヲソレ急ゲ作法ノ始メハココカラジャ, 

掃除スンダラ道具ヲシマイ懶ケズ懶ケズ声ヲソロエテ本ヲ読メ民ノ勤メハ国ノ本(もと)・・・

 

三余は勤皇の志に篤く,広く天下の志士と交わり大義を唱え,天誅組十津川事件の志士松本奎堂と親交が深かったという。伊豆の僻地にあって,当時の若者たちに与えた三余の教化は大きく,後の晩成社結成・十勝開拓にあたり,依田一門はじめ郷里の有志が多数参画したのも,三余精神の発露であったのだろう。三余は慶応元年,痔疾のため塾を閉じて江戸に下り,勤王の同志や勝海舟と交わって倒幕運動に奔走,慶応2年幕臣の凶刃に倒れた。

 

なお,門下生には,依田善六(晩成社初代社長),依田佐二平(晩成社二代目社長,大沢小学校・私立中学豆陽学校設立など教育振興,県会議員,衆議院議員,養蚕業および海運業振興),依田勉三(十勝開拓),大野恒也(豆陽中学校長兼賀茂郡長),石田房吉(遠洋漁業の先駆者で元国鉄総裁石田礼助の父)など郷土の逸材が多い。

 

伊豆人気質という言葉がある(人国記による)。いわゆる「一本気」。三余や依田兄弟の行動を見るにつけ,言いえて妙である。かくいう私も奥伊豆の生まれ,なぜか納得している。

 

 

写真は松崎町「三聖会堂」


伊豆の人-1,「依田勉三」 奥伊豆の里から何故「北海道十勝開拓」だったのか?

2011-10-26 18:05:24 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

奥伊豆は,今でこそ電車が走り東京からも3時間弱で行くことができる気候温暖な土地であるが,江戸末期の当時は峻険な天城峠に阻まれた交通不便な地であった。江戸幕府がアメリカとの和親条約を結ぶにあたり,江戸から遠い下田を選定したことでも窺い知れる。

ところで,このような片田舎から,北海道開拓に夢を描いた依田勉三のような人間が何故生まれたのだろうか?

 

そんな疑問を抱えたまま,2010年久々にこの地を訪れた。依田勉三が生まれた依田家は那賀郡大沢村(現,松崎町大沢)にある。私の生家から直線距離にすれば16km程と近いが,谷間を走る国道は山を迂回して進み峠を越えなければならない。娑羅峠の九十九折りを下りると,那賀川のほとりに道の駅「花の三聖苑」があり,三聖会堂,大沢学舎などから昔を偲ぶことができる。

 

資料には,依田家は当地の名主であり豪農と記されているが,江戸から離れた奥伊豆辺境の地が豊かであったとは考えにくい。伊豆の里は農地が狭く,いわゆる寒村の地であった。江戸に出て碩学の誉れ高かった土屋宗三郎(三余)が,伊豆に戻り私塾(竹裡塾,後に三余塾)を開いたのは,「この辺りは遠州掛川藩の領地で江名陣屋の役人が横暴を極め,善良な農民達が苦しめられていたのを見ながら育った。士農の身分差別をなくすためには農家の青少年を教育し,知徳を磨くことによって武士と対抗させることが大切だとの信念をもった」ことによるという(松崎町HP)。また,依田家11代の佐二平が,三余塾に学んだ後,「大沢塾」「謹申学舎」「私立豆陽学校」の開設など教育に心血を注ぎ,養蚕業や海運業の発展に尽力して,地域の経済振興に心を砕いていたことでも伺い知れる。

 

この地で生まれた若者たちの純粋な心に,貧しさに耐え抜いた強靱な意志が芽生え,其処に,江戸を往来する「風待ち船」から多くの新鮮な情報が入ってきたことが,彼らの心に大きな影響を及ぼしたことだろう。時代は幕末から明治へ移る変動の時で,嘉永7年にはアメリカ艦隊が下田に入港している。

 

1. 三余塾に学ぶ

三余とは,魏の薫遇が詠んだ「読書当以三余,冬者才之余,夜者日之余,雨者時之余」に因む。いわゆる晴耕雨読で,農業のできない冬の間や,夜間または雨降りを利用して,学問することだという意味に因んでいる。浄感寺住職本田正観から経書を学び,江戸に出て東条一堂のもとで漢学を修め,碩学の誉れ高かった土屋宗三郎(三余)は,この地に戻り塾を開く。門弟は,その名声を聞きつけ,東は仙台・江戸から西は熊本にまで及んだという。

 

三余が修学の信条としたのは,「人の天分には上下の差異がない。したがって士が貴く農が賤しい理のないこと」「人には天分を完うするために職業を持たねばならない。自分のためには,家のためにも国のためにも働くことである」「士農の境界を撤去するには,業間の三余をもって農家の子弟を教育し,その器を大成せしめて士に対抗させることである」の三つであった。

 

三余は,常に塾生と起居寝食をともにし,塾生の名も“さん”づけで呼び,塾生の人格を疑い損なうような言動もせず,品性の陶冶に心を砕いた。質素謹直清廉を専らとし,入門に際しても束修金1分を受けるだけで,その後は1文も謝礼を受けなかったという。依田佐二平とともに勉三もこの塾に学び大きな感化を受けている。

 

 2. 兄,依田佐二平の薫陶

善右衛門の長男として生まれた佐二平は,5才にして三余塾に入り,17才で江戸に出て学ぶ。20才で家督を継ぎ(依田家11代),翌年から大沢村名主。その後,県議会議員,賀茂・那賀郡長,衆議院議員など歴任。晩成社設立。また蚕業,農業,海運業の発展に多大な貢献を果たす。

 

少年期に両親を失った勉三にとって,温厚で至誠な7才違いの長兄佐二平の影響は大きかったと思われる。また,この地は二宮尊徳の報徳精神が浸透しており,勉三も「報徳訓」を毎朝唱えていたという。

 

3. 謹申学舎に学ぶ

佐二平をはじめ有力者が協力して開設した郷学校「謹申学舎」。塾長に会津藩の保科頼母(戊申戦争で会津藩の白河方面総督,函館戦争では榎本武揚軍に参加)を迎え漢学を,また静岡藩士山川忠與が英語を教え,数学の講義もあった。勉三も入門している。

 

4. 慶應義塾でケプロン報文と出会う

勉三は江戸に出て慶応義塾に入る。江戸に遊学するとき,江川太郎左衛門(韮山代官)の支援があったという。福沢諭吉の「本邦の人口が年々増加して耕地と相伴わず,今にして不毛の地を開拓せねば食糧欠乏せん」の言葉に深い影響を受け,またこの時期の「ケプロン報文」との出会いが大きな転機になったと考えられる。

 

ケプロン報文は「そもそも本島(北海道)の広大たるやアメリカ合衆国西部の未開地に等しく,その財産は無限の宝庫である。・・・かかる肥饒の沃野を放置するは,日本政府の怠慢と言っても過言ではない。・・・もし放置するなら外国がこの地を侵略するであろう。それは必ず後生に悔いとなろう。・・・」とある。これに接し,北海道開拓の決意をしたとされる。

 

6. ワッデル塾での出会い

スコットランド出身の宣教師,医師のヒュー・ワデルの英語塾で学ぶ。後に,北海道開拓の同士となる渡辺勝,鈴木銃太郎と出会ったのもこの塾生としてであった。

 

勉三は明治9年慶應義塾を退学して伊豆に戻り,兄佐二平を手伝い富岡への養蚕研究や豆陽学校創設に関わる。佐二平明治12年に豆陽学校設立。渡辺勝を首席教員(校長)に迎え,勉三も教諭を務めた。明治14年に北海道開拓を表明し,単身北海道探査。明治15年には依田佐二平,依田園,依田善吾,依田勉三を発起人に晩成社を設立,鈴木銃太郎および鈴木親長(銃太郎の父)とともに渡道。札幌県庁に開墾の許可を願い,十勝に向かう。

 

十勝を開拓地と決めたのは,内田瀞,田内捨六(札幌農学校一期生)による内陸実地踏査記録(明治14年)に書かれた「十勝は最も牧畜に適するところ・・・」に触発されたためと言われる。一方,開拓使庁で出会った渡瀬寅二郎(沼津兵学校附属小学校から札幌農学校卒業,後の興農園創始者)には,「十勝は時期尚早,札幌近郊の開拓を」と勧められたという。しかし振り返れば,十勝入植に尚早の面はあったかも知れないが,晩成社がなかったら十勝の今はあり得まい。

 

下田北高等学校の校訓,校是として「至誠」「雄飛」であったことを思い出す。貧しさ脱却に,徳,忍耐,進取の技をもってする。その基本は教育なり,とする一本気な伊豆人の心意気は,今もこの地に健在だろうか?

 

参照  1) 萩原実「拓聖依田勉三伝」「北海道十勝開拓史話」 2) 松崎町役場HP 3) 松本春雄HP

 

 
写真は帯広市中島公園に立つ依田勉三翁の像