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恵庭の碑-21, 島松川上小学校の門柱は何処へ行った? 廃校跡を訪ねる

2019-09-15 18:16:40 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

廃校になった島松川上小学校の門柱

恵庭市役所HP「恵庭の記念碑」(郷土資料館)に、廃校になった島松川上小学校の門柱が紹介されている(2019年9月現在)。一対の門柱は軟石ブロックを積み重ねたもので、上部にはコンクリート製の屋根を置き、正面には校章が浮き彫りされている。写真では明瞭でないが、校章は6本のペン先と「川上小」の文字をデザインした六角形のものであったという。所在地は恵庭市島松沢、建立年が昭和31513日と記されている。また、広報きたひろしま(20011月号)には、新・博物誌きたひろしまMAP2)「過ぎし日の学舎の記憶、島松川上小学校の校門」の記事が掲載され、雪に覆われた校門の写真が出ている。

拙著「私の恵庭散歩2、恵庭の記念碑」では、松園小学校、松鶴小学校、盤尻小中学校について記載したが、島松川上小学校については触れていない。そこで、2019年9月の或る日、その門柱は現在どうなっているのだろうか? と気になり、同行者二人廃校跡地を訪ねることにした。

国道36号から旧島松駅逓所のある島松沢に下り、市道島松川上線を島松川に沿って遡る。駅逓からの距離は1.3km、左側に学校跡地らしい所があるが門柱は見当たらない。多分ここが島松川上小学校跡地だろうと写真に収める(撮影2019.9.12)。後ほど地図で確認すると、跡地に立っているのは島松沢会館(恵庭市島松沢116番地)。確かに建物周辺の桜が学舎跡の面影を残している。

それにしても門柱はどこへ消えたのか? 既に撤去されたのか、他の場所に移転または保管されたのだろうか。

追記 2023.7.23

恵庭市郷土資料館発行「資料館だより(2023年夏号 No.62)に、以下のような記事が掲載された。

新収蔵資料 島松川上小学校門柱の校章部分 6月6日受入 軟石製

(写真)「小」というマークがはっきり見えます。これは、大正2(1913)年、島松沢地区に開校した島松川上特別教授場に始まる島松川上小学校門柱の校章が刻まれた部分です。南島松の「はなふる」敷地内、「市民花壇」の縁石として使用されていましたが、花壇の造成時、作業されていた方々から「これは小学校の校章のようだ。であれば郷土資料館のようなところで保存してもらった方がよいのではないか」とお声をかけていただき花壇を管理する事業など多くの方々のご尽力により郷土資料館で収蔵・展示させていただくことになりました。同校児童が使用した机・椅子と共に常設展に展示しています。建築年は不明ですが、昭和31(1956)年の移転時に建てられたものではないかと推測されます。

最初のブログ記事から4年目。廃校後の門柱が花壇の縁石になるなど数奇な運命を辿り、落ち着く場所に落ち着いた感がある。

平川さんはじめ多くの方々のご高配、ご尽力に感謝する。有難う。

     

◆島松川上小学校

恵庭市史(昭和54年7月刊)によると、前身は島松尋常小学校付属特別教習所(大正2年設置)。昭和12年には校舎改築が行われ、島松川上尋常小学校となる。その後、昭和16年には国民学校と呼ばれたが、昭和20年島松川上小学校となり、自衛隊島松演習場の騒音などの関係で校舎移築が決まり、昭和31年にこの場所に移転された。当時の児童数は男子11名、女子14名の計25名(2学級)。音楽教育や読書活動が盛んなへき地教育実践校であった。地区挙げて教育振興に取り組み、児童鼓笛隊も編成されていたという。しかし、この地域からの転出者が増え、児童数も減ったため昭和36820日、ついに廃校となったのである。

教習所設置から廃校まで島松川上小学校49年間の歴史。何人の卒業生がこの学び舎を後にしたことか。廃校から60年を迎えようとしている今、過ぎし日の学び舎の記憶を語る人も少なくなったことだろう。学校跡地に立って眼を閉じれば、島松沢を吹き抜ける風にのって児童鼓笛隊が奏でる曲が聞こえてくるような気がする。

大正2年(19135月:島松尋常小学校特別教習所として設置

昭和12年(1937):校舎改築、島松川上尋常小学校となる。生徒22名。

昭和30年(1955):自衛隊島松演習場の関係で校舎移築

昭和31年(1956531日:移転式典。生徒25名、2学級。

昭和36年(1961820日:廃校となる。

◆市町村境界

広報きたひろしまの記事に「校門の前は北広島市だが内側は恵庭市である」の記述があるので、地図を確認。恵庭市と北広島市の境界線は概ね島松川に沿っているが、一部のヶ所で出入りが見られる。

島松沢会館の場所は、ゼンリン地図や町村地図では確かに恵庭市であるが、国土地理院Web地図やグーグル地図では何故か北広島側となっている。また一つ疑問が生じた。


恵庭の森林鉄道(歴史の道散策会2019 えにわ)

2019-06-20 14:13:18 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市郷土資料館主催の「歴史の道散策会」が、今年も615日(土)に開催された。講師は郷土資料館主査・学芸員大林千春氏。途中に小雨のぱらつきもあったが、参加した同好の方々15名は予定のコースを無事に完歩。

本年度のコースは、市役所から「御前水跡碑」「漁村帷宮碑」「大安寺」「豊栄神社」「松浦武四郎歌碑」「森林軌道跡」「山口県人開拓記念碑」を巡って戻る道程。各場所では当時の地図と資料をもとに解説があり、恵庭最初の市街地となった旧国道沿いでは昭和初期の写真と現在の姿を比べて見るなど、有意義で楽しい散策会でした。「転入してきたばかりで、恵庭のことが何もわからないので参加しました」という方もおり、故郷の歴史を学ぶ良い機会となった。

歴史の話を聞きながら、会話は自然と「恵庭の街を活性化するにはどうしたら良いか?」と発展。これも散策会の副次効果ということか。

 

◆恵庭の森林鉄道

本稿では森林鉄道について触れておく。森林鉄道とは、山から木材を搬出するために設けられた鉄道。昭和の初めから第二次世界大戦後の復興期に掛けて(昭和230年の約30年間)、恵庭でも盤尻から恵庭駅前まで森林鉄道が走っていた。今はその痕跡を市街地で見るのは難しいが、昭和30年測図の地図(恵庭1/25,000、国土地理院昭和34年発行)からそのルートを知ることが出来る。

森林鉄道は、恵庭駅前から恵庭小学校の脇を通り(斜めの道路、写真)、恵庭小学校と市民会館との間を抜け漁川に向かい(斜めの道路、写真)、漁川を渡ってからは大安寺を回り込むようにして豊栄神社の手前を南西方向に走っていた。弘隆寺の前を通る斜めの道路が現在も面影を僅かに残している。この道路は美咲野、牧場を経て今も盤尻に繋がる。漁川を遡れば、何ヶ所か鉄道の痕跡を見つけることが出来るだろう。

いつの日か、かつての橋梁が残る辺りまで鉄道跡を辿ってみたいと思った。

<歴史>

〇昭和2年(1927):王子製紙(株)が漁川水力発電所の建設資材運搬のため、恵庭駅と盤尻(ウシの沢土場)間14.4km軌道敷設の認可を受ける。

〇昭和6年(1931):帝室林野局札幌支局(林野庁札幌営林局恵庭営林署)が軌道を買収、恵庭森林鉄道開設。漁川上流まで軌道を延長。

〇昭和24年(1949):戦後復興期の木材需要に応じて、さらに上流(滝の上)まで延長し、総延長29.7kmの森林鉄道となる。木材搬出のためインクライン装置を建設。なお、漁川本流線の他に支流のラルマナイ川上流、イチャンコッペ川上流へそれぞれ軌道が敷設されたが、いずれも3、4年の短期運用で昭和18年(1943)に撤去されたという。ラルマナイ川の合流点には機関庫や宿泊所が設けられていた。インクラインが設置された場所の滝には「インクラインの滝」の名が付けられている。

〇昭和30年(1955):木材搬出はトラック輸送に切り替わり、森林鉄道軌道を撤去。

 

◆恵庭郷土資料館に展示されているインクライン(模型)

インクライン(incline)の意味は、傾斜、勾配、坂のことで、主に米国ではケーブル鉄道を指す。大辞泉には「傾斜面にレールを敷き、動力で台車を動かして船・貨物を運ぶ装置。京都市東山区蹴上にあったものが有名。勾配鉄道」とある。

恵庭森林鉄道でも峻険な山から木材を搬出するために、漁川上流にインクラインを設置していた。恵庭郷土資料館でその写真と展示模型を見ることが出来る。

恵庭森林鉄道については、地蔵慶護「恵庭森林鉄道とインクライン」(北海道文化財保護協会発行「北海道の文化 No.74」2002、特集、北海道の森林鉄道)に詳しい。

なお、漁川上流にインクラインの名前を付けた小さな滝「インクラインの滝、落差4m」がある。白老町の別々川上流にある「インクラの滝、落差44m」も、脇に設置されていたインクラインに由来すると言う(こちらは、日本滝百選の一つ)。

 

写真は恵庭郷土資料館展示品

参照:(1)恵庭市史 昭和57年7月発行、(2)北海道文化財保護協会「北海道の文化 No.74」


「道央農業振興公社」、地域農業農村活性化の核となっているか?

2019-05-13 18:19:45 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

令和元年(2019)5月の或る日、満開の桜を眺めながら島松を歩く。JR島松駅前から北に180mほど進み、南20号を左折、千歳線の踏切と道道46号(江別・恵庭大通り)を渡り、ルルマップ川を越え、坂を上ると畑地が広がる。ルルマップ川と島松川に挟まれた丘陵台地である。駅からおよそ1km、徒歩で20分弱の距離。

右手には「ホクレン恵庭研究農場」、かつての北海道農業試験場ばれいしょ育種研究室(島松試験地)が佇んでいる。左手の建物はとみれば「恵庭市農業活性化センター」の標識(表札)と「公益財団法人道央農業振興公社」の看板が見える。

ホクレン恵庭研究農場については、2019年5月10日の拙ブログに「島松試験地、ばれいしょ農林1号、キタアカリの故郷」として紹介したのでご覧いただきたい。ところで、公益財団法人道央農業振興公社とはどんな施設なのか?

 

◆公益財団法人道央農業振興公社

公社HPによれば、目的として「この法人は、江別市・千歳市・恵庭市・北広島市の4市地域内において、地域内農業・農村の持続的発展と、農業の多面的機能の発揮に寄与します」とある。事業内容は「担い手別の育成事業」「農用地の利用調整事業」「生産性の向上と安全安心な農産物生産支援事業」「農業労働力確保支援事業」「酪農、畜産関連の受託事業」等が挙げられている。

我が国の農業は高齢化、担い手不足、農家戸数の減少が進み、農地の荒廃も目立つなど厳しい状況にあるので、農家経営の改善と技術支援を行うための活動拠点ということだろう。具体的には、①土壌分析、②地域に適する品種選定や栽培試験、③地域農業のリーダーを養成する研修事業(農業塾)、④農地の集約・農業労働力確保、⑤市民との交流事業を行っている。農業関係者以外の一般市民にはあまり知られていないが、地域農業のために重要な役割を担っている組織のひとつと言えよう。

道央農業振興公社は平成17年(2005)5月に設立され、平成25年に公益財団法人となった。かつて恵庭市には恵庭市農業活性化センター(平成9年設置)があり、各地域にも同様の組織があったが、農業情勢の変化に対応して広域化を図り整備された。理事長は松尾道義道央農協組合長、運営支援組織は江別市、千歳市、恵庭市、北広島市、道央農業協同組合。職員は27名(公社業務職員18うち出向6、受託牧場業務9)だという。

なお、管轄する4市の農家数は930戸余り、産出額はおよそ350億円とされる。

◆地域農業技術センター連絡会議(NATEC)

このような地域農業技術センターと呼ばれる組織は、平成31年2月現在全道に42機関存在する。例えば、札幌市農業支援センター、旭川農業センター、和寒町農業活性化センター(農想塾)、帯広市農業技術センター、厚沢部町農業活性化センター等々である。それぞれが地域農業活性化に向けた活動をしている。

今から25年前、北海道立農業試験場(道農政部)の呼びかけにより、地域農業技術センター相互の情報交換や連絡調整のための「地域農業技術センター連絡会議」が結成された。連絡会議には、各地域農業技術センターのほか、ホクレン農業総合研究所など関係団体及び北海道立総合研究機構の各農業試験場が参画し、56機関・団体の構成となっている(平成31年2月現在)。毎年、研究交流会や研究情報交換会を実施しているという。

農業研究と普及のシステムは、原則としては①農業試験場が技術開発を行い、②農業改良普及センターが普及指導を行い、③農協技術部や地域農業技術センターが地域に即した取り組みを行う役割分担になっている。道央農業公社もそうだが、地域農業センターが成果を上げるためには、パートナーたる連携機関との連携度合いがポイントになるだろう。地域農業センター個々の陣容では「理念として成立しても、目的を達成するのに現実では困難が伴う」ということになりかねない。そこを打ち破るのは、関係機関との連携をより深めることにあるのではないか。道央農業振興公社は頑張っているが、地域農業農村活性化の核となっているか? と、常に問い続けることが必要だと考えるが如何だろう。

◆ウオーキングの道すがら

ホクレン恵庭研究農場と道央農業振興公社前に面する道を直進すると、島松小学校創設跡地とされる場所に至る。跡地記念碑には「明治26年、元士族大坂与太郎が広島街道沿い、下島松北の丘にわずか6坪の掘立小屋を建て寺子屋式の児童教育を開始したのが始まりで、同年校舎東側に12坪の校舎を建設」とある。島松では、この地で開拓当初の幼児教育が開始されたのだ。

さらに、突き当りを左折し西方向に進めばルルマップ自然公園、恵庭墓園に至る。また、直進して沢に下り、島松川沿いを少し遡れば島松沢地区に至る。島松沢は、「旧島松駅逓所」「寒地稲作ここに始まると記された中山久蔵翁の碑」「クラーク博士記念碑」など開拓の歴史をとどめる場所である。

この台地は、恵庭市保健福祉部発行「ウオーキングマップ」にも「空の道」として紹介されているが、心地よいウオーキングコース。ウオーキングの途中に、馬鈴薯の花を楽しみ、開拓の歴史と農業の行く末に思いを巡らしてみるのも良い。


島松試験地、ばれいしょ「農林1号」「キタアカリ」の故郷

2019-05-10 10:56:59 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

千歳空港から札幌へ向かう途中に「島松」というJRの駅がある。その昔アイヌ語のシュマオマプ(石の多いところ)に由来し島松村と呼ばれていたが、明治39年に漁村と合併して恵庭村となり、昭和45年に市制がひかれ現在は恵庭市島松となった。かつてスズラン狩りで知られた場所である。

令和元年5月の或る日、JR島松駅から満開の桜を眺めながら、馬鈴薯「農林1号」「キタアカリ」の故郷(誕生の地)を目指して歩いた。駅の北西部ルルマップ川(小川)を越え、坂を上ると台地が広がる。ルルマップ自然公園や恵庭墓園に連なる肥沃な大地で、松浦武四郎が「西蝦夷日誌」の中で「是より千歳領。険しい道を上ると平地がある。茅の原を過ぎ、ロロマップ川・・・」と記した辺りである。島松駅から徒歩約10分、写真のような庁舎とガラス温室が見えてくる。庁舎の正面には「ホクレン」恵庭研究農場の文字、周辺には試験圃場が広がっている。地元でも知る人は少ないが、この地こそ北海道で栽培された多くの馬鈴薯品種誕生の地である。

 

恵庭の農業試験場(島松試験地の歩み)

昭和12年(1937)、島松村西7線南22号(現在は住宅地になっている、恵庭市島松寿町)に、北海道農事試験場島松馬鈴薯・玉蜀黍試験地が設置された。その後、昭和39年に西島松から現在地(下島松829番地)に町内移転している。

この間、時代の変遷とともに、北海道農事試験場島松馬鈴薯試験地、北海道農業試験場ばれいしょ育種研究室、ホクレン恵庭研究農場など幾多の組織・名称変更があったが、この地は80余年間にわたり馬鈴薯育種場所として存在し続けた。公的機関であった頃、全国的にも島松試験地の名前で知られていた。新品種開発に向けて、交配、選抜、育成に汗を流した先人育種家たちの顔が目に浮かぶ。

現在、公的機関の馬鈴薯育種研究は北農研センター(芽室町)と北見農試(訓子府町)で行われ、島松試験地はホクレン恵庭研究農場となっている。近年、ホクレン、カルビーポテト、キリンビールなど民間団体・企業が参画したことにより、多様な品種開発(きたひめ、ひかる、きたむかい、コナヒメ、アトランチック、スノーデンなど)が進んでいる。

◆恵庭で生まれた馬鈴薯品種(北農試島松試験地/ホクレン恵庭研究農場)

島松試験地で開発された馬鈴薯品種は、北海道で優良品種に認定された28品種、地域在来品種等9品種の総計37品種を数える。

当試験地で最初に育成された品種は「農林1号」(育成者田口啓作ら)で、農林登録第1号となった。「農林1号」は「男爵」「メークイーン」とともに馬鈴薯三大品種と称され、長年にわたり広く栽培された。昭和40年頃には全国で52,767ha(北海道4万ha以上)の作付けがあったという。七飯町に「男爵薯発祥の地」、厚沢部町に「メークイーン発祥の地」、留寿都村に「留寿都村発祥 紅丸薯顕彰の碑」があるが、この島松の大地に「農林1号発祥の地」記念碑が建っていてもおかしくないと思って周囲を見渡した。

島松試験地育成品種の中で、近年作付面積が多く皆さんもご存知の品種は、生食用で評判の「キタアカリ」「とうや」、ポテトチップ用の「トヨシロ」「きたひめ」、フライドポテト用の「ホッカイコガネ」、サラダ用の「さやか」、でん粉原料用の「コナフブキ」等々である。また、平成時代に世に出た「インカのめざめ」「キタムラサキ」「ノーザンルビー」などカラフルポテトは馬鈴薯の市場拡大に貢献している。この地はまさに馬鈴薯の故郷と言えよう。

恵庭市は人口7万人弱、札幌圏への通勤者も多い長閑な田園都市。島松に農業試験場馬鈴薯試験地が存在し、私たち馴染みの品種がこの地で誕生したことをどれだけの市民が知っているだろうか、と疑問が頭をよぎる。

5月、試験圃では馬鈴薯の植え付けが終わり、区画を示す木札だけが立っていた。夏には色とりどりの花を観賞することが出来るだろう(道路からではあるが)。

恵庭の特産品として「カボチャ」が知られるようになり加工品開発も進んでいるが、島松で誕生した「馬鈴薯」の特産品化を考えたらどうだろう? 島松生まれ、島松育ちの馬鈴薯をメインにしたレストランがあり、スイーツがある。田園都市恵庭がさらに魅力を増すことだろう。提案である。

 

 


恵庭と「松浦武四郎」

2019-01-14 18:07:33 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

1869年(明治2)8月、太政官布告により蝦夷地が「北海道」と命名されてから150年。北海道は今や530万の人々が暮らし、総生産額が18兆円を超える経済規模を誇るまでになりました。農業・水産業・観光関連産業など魅力あふれる地域です。

北海道の名付け親は松浦武四郎と言われます。明治政府から蝦夷開拓御用掛(後に開拓判官)を命ぜられた武四郎が蝦夷地の新しい名前として「北加伊道」など6案を提案し、「北海道」に決定した経緯があるのです。「北加伊道」は、武四郎が音威子府のコタンを訪れた際に、アイヌの古老からアイヌ語の「カイ(加伊)」は「この国に生まれし者」の意味だと聞いたことが命名発想の原点だと言われています(「北海道命名之地」記念碑、音威子府村)。

松浦武四郎(1818-1888)は、伊勢の人。幕末から明治時代の探検家。下記のとおり6回に及ぶ蝦夷地探査を行っていますが、第4回以降は幕府から蝦夷地御用御雇入の命を受けての探査行でした。

第1回蝦夷地探査:1845年(弘化2)。函館、森、有珠、室蘭、襟裳、釧路、厚岸、知床、根室など

第2回蝦夷地探査:1846年(弘化3)。江差、宗谷、樺太、紋別、知床、石狩、千歳など

第3回蝦夷地探査:1849年(嘉永2)。函館から国後島、択捉島へ渡る

第4回蝦夷地探査:1856年(安政3)。函館、宗谷、樺太、根室、様に、有珠など

第5回蝦夷地探査:1857年(安政4)。函館、石狩、上川、天塩など

第6回蝦夷地探査:1858年(安政5)。函館、石狩、宗谷、北見、十勝、阿寒、日高など

◆恵庭と武四郎の接点

ところで、恵庭と武四郎の接点は? 「再航蝦夷日誌」(第2回探査)と「西蝦夷日誌」(第6回探査)に、当時のイザリブトとモイザリの様子が記録されています。いずれも現在の恵庭市内、松浦武四郎の足跡を偲ぶことが出来ます。

 

1.松浦武四郎「イザリブト番屋の図」

 

松浦武四郎は幕末の探検家、「北海道」の名づけ親として知られています。彼は、蝦夷地探査の折に恵庭の地を二回訪れています。最初は弘化3年(1846)、対雁(江別)から千歳川を遡り漁太に立寄り、当時の風景を「再航蝦夷日誌」に残しました。本誌によれば「イサリブトは広々とした広野で沼や湿地が多く、大きな番屋、弁天社、蔵、アイヌの小屋56軒がある。隠元豆、豆、稗、粟、黍、ジャガイモ等を作っており、土地は肥沃で豊かに実っている。アイヌの人々は菱の実、干した鹿肉を平日食としている。此処で川は二つに分かれ(意訳)・・・」とあります。

この場所は、漁川が千歳川に合流するところ、「恵庭神社遥拝所跡」(恵庭市林田)の辺りと考えられています。松浦武四郎が描いた「イザリブト番屋の図(再航蝦夷日誌)」はこの地点である旨の説明板(恵庭市教育委員会)が境内一隅に立っています。改修前の千歳川は蛇行しており、番屋・船着場を置くのに絶好の場所でした。当時、ここは水路交通・交易の拠点として重要な役割を果たしていました。

なお、恵庭神社遙拝所跡には現在、鳥居と石灯籠、記念碑(平成8年建立)が残されています。灯籠には、明治40年加越能開耕社専務取締役林清一らが献納とあるので、開拓に入った加越能開耕社の人々が祀っていたのでしょう。江戸末期から明治に掛けて弁天社、稲荷神社が祀られ、大正13年に稲荷神社が恵庭神社へ合祀された後は恵庭神社遥拝所として祀られていました。

武四郎が訪れた当時の湿原や曠野の面影はすでになく、周辺には拓かれた沃地が広がっています。恵庭開拓歴史遺産の一つとして記憶に留めたい場所ですね。

2.松浦武四郎「歌碑」

 

松浦武四郎が二回目に恵庭の地を踏んだのは安政5年(1858)、武四郎にとって最後の蝦夷地探査の折でした。開削されたばかりの札幌越え新道を陸路で銭函から発寒、札幌を経て千歳、勇払に至る踏査の途中、茂漁川の傍らで詠んだ句が「西蝦夷日誌」に載っています。

「是より千歳領。険しい道を上ると平地がある。茅の原を過ぎ、ロロマップ川、そしてヘケレベ川があり、水底は砂地のため濁っていない。これらの川はシュママップ(島松)川に注ぐ。さらにルウサン川、アツシヤウシ川、モイザリ川があり、これらはイザリの枝川。傍に石狩土人の家があり、去年夕張に連れて行った者だったので、立ちよると妻が居て、私の名を聞いて大いに悦び、粟を二合と焼鱒を三匹ほど呉れた。私もお礼して出発。この辺は畑が多い。かつて石狩領であった(以上意訳)。蝦夷人の いさりの里に たなつもの 穂浪よすとは 思ひかけきや」。穀物が豊かに実っている状況に驚き、感銘を受けた様子が詠まれています。

恵庭市生涯学習施設「かしわのもり」(恵庭市大町)前庭に、この句を刻んだ「歌碑」が建っています。碑は市道恵庭線(旧札幌本道)に面し、茂漁川の近くです。建立は「21世紀恵庭新ふるさと創りの会」、北海道命名150年を記念して建てられました。平成30112日に記念碑除幕式、恵庭市への贈呈式が行われました。

武四郎の足跡を記念して建てられた記念碑や説明板は北海道に数多く、本人が主役のもの77点、文献などを引用したものを加えると100点を超えるそうです(松浦武四郎研究会等)。新しく恵庭に誕生した武四郎歌碑を訪れ、当時に思いを馳せて見ませんか。


恵庭の碑-20 茂漁川河川緑地の「モニュメント翠光(すいこう)」

2018-11-06 17:05:58 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市西方の大地(自衛隊北海道大演習場、えこりん村)に源を発し、恵庭市街を東に向かって流れ、漁川(石狩川水系千歳川支流)に注ぐ一級河川の「茂漁川」。この茂漁川が旧国道36号(元札幌本道)と交差する河川緑地(柏木町4丁目、新茂漁橋のたもと)に「モニュメント翠光(すいこう)」がある。

モニュメントは、石を重ねた石柱の上に「川の流れと小鳥の造形」。石柱にはめ込まれた説明板には「樹木の翠(みどり)と茂漁川のせせらぎが美しいこの水辺で翡翠(カワセミ)が舞う姿を表現したものです」とある。見上げると4羽のカワセミが置かれ、餌を狙う姿、小魚を嘴にくわえた姿が目に付く。右端の2羽はオスがメスに獲物をプレゼントする求愛給餌の姿なのだろうか。

台座には、「この茂漁川水辺空間の新しいシンボル“モニュメント翠光”は宝くじの普及宣伝事業として整備されたものです 平成93月 恵庭市 寄贈財団法人リバーフロント整備センター(注、現公益財団法人リバーフロント研究所) 協賛財団法人日本宝くじ協会」と書かれたプレートがはめ込まれている。

 

茂漁川は漁川と共に恵庭市民のいのちと暮らしを育んできた「母なる川」、市民に愛される河川である。古来より鮭が遡上する清らかな河川として知られていたが、戦後の河川工事で自然が破壊されたことから、1990年に「ふるさとの川モデル事業」で川底に自然の土や石を戻し、水際に柳を植えるなど緑化護岸を行い、茂漁川は緑豊かな河川に生まれ変わっている。両岸には遊歩道が整備され、今では市民の散策コースの一つとなり、バイカモの群生地、カワセミの観察できる環境として高い評価を得ている。

このモニュメントは、整備事業の完成後に水、水辺、生態系を守り、自然と調和した防災まちづくりを目指すリバーフロント整備センターが市に寄贈したもの。モチーフは恵庭市の「市の鳥」であるカワセミである。

カワセミ(翡翠、川蟬、学名Alcedo atthis)は、ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ属に属する鳥。水辺に生息。鮮やかな水色の体と長いくちばしが特徴。全長は17 cmほどで、長いくちばし(嘴峰長3.3-4.3 cm)のため体はスズメほどの大きさ。頭、頬、背中は青く、頭は鱗のような模様がある。喉と耳の辺りが白く、胸と腹と眼の前後は橙色。足は赤い。カワセミの青色は色素によるものではなく、羽毛にある微細構造により光の加減で青く見える(構造色、シャボン玉がさまざまな色に見えるのと同じ原理)のだと言う。この美しい外見から「渓流の宝石」などと呼ばれる。ヒスイと同じ漢字を書く。

恵庭市の「市の鳥」と書いたが、カワセミを市の鳥に指定している市町村は全国で40を数える(北海道では恵庭市のみ)。

11月上旬、茂漁川川辺のドウダンツツジは真っ赤に紅葉し、バイカモが揺れる川面には数羽の鴨が遊んでいた。

  


恵庭の碑-19 恵庭に建立された「松浦武四郎歌碑」

2018-11-04 17:05:28 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市生涯学習施設「かしわのもり」前庭(恵庭市大町1-5)に、「松浦武四郎の歌碑」が建立された(建立2018年)。大きさは高さ128cm、幅72cm、厚さ24cmの石碑である。碑面には「蝦夷人の いさりの里に たなつもの 穂浪よすとは 思ひかけきや」の句と「安政5年(1858年)に伊勢国(現三重県)出身の松浦武四郎が蝦夷地調査途中恵庭を経過する際に詠んだ歌が西蝦夷日誌に残されております」と説明文が刻まれている。また、裏面には「北海道命名150年記念 平成30年(2018年)11月 21世紀恵庭新ふるさと創りの会 発起人代表永山伸治 田中和紀 施工(有)鈴木石材工業」とある。

恵庭市生涯学習施設「かしわのもり」は恵庭市大町1-5-7、旧国道36号(札幌新道、室蘭街道)沿いにあり、石碑は施設の前庭に道路に面している。茂漁川の近く、新茂漁橋の手前(南)と言った方が分かり易いかも知れない。

 

碑の建立は、武四郎が最後に蝦夷地を訪れた際(6回目)、開削されたばかりの札幌越え新道を陸路で銭函から発寒、札幌を経て千歳、勇払に至る踏査を行い、「茂漁」でこの歌を詠んだことに由来する。

「・・・是より千歳領なり。九折鼻をもつくばかりの峻を上がり、上に平地あり。茅野過ぎてロロマップ(小川)、名義、第一上の枝川と云儀。過てヘケレベ(橋有)、名義、明き川なり、水底燒砂にて濁らざるなり。是迄の川皆シュママップ(島松)に落。併てルウサン(小川)、アツシヤウシ(小川)モイザリ(茂漁、川幅三間、はし有)、是イザリの枝なり。小さきイザリとの儀。傍に石狩土人の家あり(シリカンチウ、サンケハロ)。是は去年夕張に連行し者故、立ちよりしに妻計居て、余が名を聞大に悦び、粟を二合計と焼鱒を三匹ほど呉ぬ。余も是に却禮して出立。此邊畑多し。元は石狩領なり。

蝦夷人の いさりの里に たなつもの 穂浪よすとは 思ひかけきや ・・・(西蝦夷日誌)」

武四郎がこの地を訪れ、アワやヒエが豊かに実っている様子に驚き感銘を受けた様子が詠まれている。アイヌは狩猟民族と言われているが、「皆畑作をなす。惣じてよく出来たり・・・」と西蝦夷日誌に記載されていることからみても、この時代のアイヌの人々は狩猟・漁に加え既に農耕を営んでいた。

数多くある武四郎碑の中で最も新しい建立(2018年現在)。碑前に立って思いを馳せるもよし。近くの茂漁川河川緑地を散策すれば、カワセミの舞う姿やバイカモの川面に揺れる白い花を見ることが出来るだろう。心が癒されること間違いない。

なお、平成30年(2018112日に記念碑の除幕式、恵庭市への贈呈式が挙行された。

松浦武四郎1818-1888

江戸末期の探検家。伊勢の人。17歳のころから諸国を巡歴し、弘化2年(1845)、28歳の時はじめて蝦夷地を踏査。以来、6回の蝦夷、樺太、千島を探検し、貴重な記録や地図を残している。明治政府から開拓判官に任じられ、蝦夷地を「北海道」と命名したことでも知られる。蝦夷地の発展とアイヌの生活改善を願って就いた判官の職であったが、思うようにならず途中で職を辞している。

松浦武四郎の足跡を記念して建てられた記念碑や説明板の数は多い。松浦武四郎研究会や専門家の資料によると、武四郎本人が主役の記念碑と説明板は全道で77点(宗谷4、留萌6、上川20、空知11、石狩1、オホーツク8、根室1、釧路9、十勝4、日高7、胆振6)、武四郎の文献などを引用した記念碑や説明板を加えると北海道におよそ120点存在すると言う。足跡を訪ねてみるのも楽しみである。

◆イザリブト番屋の図

恵庭市内にはこの他に武四郎ゆかりの地「イザリブト番屋と船着き場、史跡表示板」がある。場所は恵庭市林田の恵庭神社遥拝所跡。松浦武四郎著「再航蝦夷日誌」から引用した「イサリブト番屋の図」説明板が建てられている。

この説明板は、武四郎2回目の蝦夷地踏査の際、千歳川を遡り漁太の様子を記録に残しているが、その場所を特定した記念板である。当時、この付近で千歳川と漁川が合流し、傍らに番屋があり、アイヌの人々の家が立ち並んでいた。

「・・・イサリブト ツイシカリより十一里。此処漠漠たる広野にして処々此の辺沼あり。又支川も網を曳けり。沼は左右にあって至って湿深きところなり。此処に至り四面とも山と云は少しも見えることなし。蔵の屋根え上がらばシコツ山見ゆるなり。番屋大きく建てたり。弁天社、蔵々あり。千歳支配所なり。夷人小屋五六軒。此辺皆隠元豆、豆、稗、粟、黍、ジャガタラ芋等を多く作りたり。土地肥沃にして甚よく豊熟せり。夷人ども熊、鷲を多く飼えり。又鶴多きよし。夷人毎日臼にて沼菱を搗て是を平日の食糧とす。又鹿皮を多く着科にせり。もっとも肉を干して是も平日の食に当てるよし。・・・此処にて川二つに分る。一つは右の方本川にしてシコツ沼に及ぶよし。番屋前十間ばかりして枝川に上る。此巾十二三間。もっとも深き壱尋半より二尋。急流にして水至って清冷なり。本川はシコツ嶽、サッポロ嶽の間より落ち来る。本川幅十五六間。深凡そ二尋もあるよし聞けり・・・(松浦武四郎「再航蝦夷日誌」1846)」とある。 


えにわ学講座「武四郎と往く」、はまなす砂丘(長沼町)に立つ

2018-08-26 14:48:44 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

平成308月某日、えにわ学講座「武四郎と往く」(北海道150年 松浦武四郎の足跡を巡る、主催:恵庭市教育委員会)が開催された。講師は恵庭市郷土資料館学芸員大林千春氏。講師の解説を聞きながら松浦武四郎紀行足跡之碑(長沼町)、はまなす砂丘(長沼町)、イザリブト番屋(恵庭市)、茂漁川河川緑地(恵庭市)をバスで巡る行程であった。

台風20号が熱帯低気圧に変わり北海道を通過した余韻の雨が降る中、多くの参加者が長靴姿で、武四郎の蝦夷地踏査に思いを馳せた。本稿では、はまなす砂丘(長沼町)について触れる。

 

◆はまなす砂丘(長沼町)について

日本海の石狩湾から太平洋の苫小牧に広がる石狩低地帯(別名、札幌・苫小牧低地帯)は、今からおよそ1万年前には海の底であった。その後、海底火山などにより陸地が形成され、現在に至っている。このような内陸部に砂丘が存在するのは、海が次第に埋まり(海の後退)陸になって行く過程で砂丘が残された(残留砂丘、古砂丘)と考えられ、長沼町の「はまなす砂丘」もその一つであり、ハマナスなど海浜植物が多い。

長沼町では、市街地の南東にあたる長沼町東十線南十番地の古砂丘地帯約1haを貴重な自然遺産として保存している(郷土名所遺跡、平成3年指定)。保存されている土地はほぼ直角三角形で、雑木林と春先には冠水する低地(古砂丘の西側が湿地)がある。

はまなす砂丘(長沼町)の植物相については、五十嵐 博、長野 満、渡辺久昭、矢沢敬三郎氏らの詳細な調査報告があり(北方山草)、数百種の種類が確認されている。海浜植物、海岸草原植物、湿地植物など多様な植生が特徴的であるが、周囲が水田や畑地化されたことからオオハンゴンソウなど外来植物が群生化し、早急に対処が必要との指摘もある(松井 洋)。今回の訪問は植生観察が目的ではないので詳しくは観察していないが、ハマナス群落近くのオオアワダチソウ、セイタカアワダチソウの旺盛な群生は気にかかる。

◆武四郎上陸の地

さて、この場所は、陸地測量部(国土地理院)明治29年製版の「長都」(五万分の一)に重ねるとマオイトー(馬追沼)の東縁にあたる。武四郎の夕張日誌に「マオイトー(周囲三里余)に入り、左方ツカベツ(川口)を過ぎ水平(ヤムワッカヒラ)に至り清水あり。上陸す。」とあるが、江別から千歳川を遡ってきた武四郎が上陸した地点はこの場所ではないかと考えられている。武四郎は付近の木に、帰りの食糧を吊り下げて置き、陸路夕張方面を探索、数日後に此処へ戻って一泊し、和歌を詠んだのではないかと言う。

◆はまなす砂丘の「ハリギリ(針桐)、センノキ(栓の木)」

雨のため砂地を観察する余裕はなかったが、ハマナスは既に赤い実をつけていた。ハマナス群落の中に小さな案内標識が建っている。目についたのは標識脇の大木(写真)。カエデのような形の光沢ある葉が雨に濡れ、多数の白い花が目を引く。

「何という木ですか?」

一行の中に樹名を知る人はいなかった。

帰宅して、北海道の森林植物図鑑(北海道林務部監修1976)を開く。ハリギリ(センノキ)とある。ウツギ科の落葉、広葉、高木で、高さ25m、胸高直径1mにもなり、枝や幹に鋭いとげをつけ、成木になると樹皮は著しく縦裂する。葉は長さ、幅とも10-30cmあり、10-25cmの長柄をもち掌状に5-9裂し、裂片には荒い鋸歯がある。花序は当年生枝の先につき、花柄が数個ないし10数個あり、各々に径5mmの多数の花をつける。果実は径4-5mmの球形で、熟すと黒くなる。学名はKalopanax pictus Nakaiと記されている。

葉の形が天狗の団扇のような形をしているのでテングウチワと呼ばれることもあるらしい。日本各地(特に北海道)、中国、朝鮮、樺太、南千島に分布。材は適度な硬さで光沢があり、加工が容易なため家具などの加工に使用されている。また、若芽はタラの芽のように旬菜として食されると言う。

ハリギリは肥えた土地に自生するので、開拓時代にはこの木が開墾適地の目印だったとの言い伝えもある。アイヌ語ではアイウシニ(とげの多い木)と呼ばれ、丸木舟を作るのによく使われたらしい。

ハマナス砂丘にはカシワの木が多い。武四郎はカシワの木に帰路の食糧を吊るしておいたのか。それよりもハリギリの方が目立つ存在でなかったのか。ハリギリの大樹にその思いを込めて案内標識を建てたのではないかと、根拠もない要らぬ想像が膨らんだ。

見渡せばカシワ林の様相は原始の森というより第二次自然林。このハリギリも武四郎時代のものではないだろうと思いつつ・・・。

 


恵庭の碑-18 市役所前庭の「恵庭・テイマル姉妹都市締結10周年記念碑」

2018-07-26 09:23:59 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市役所前庭、国旗掲揚塔の脇に可愛らしい記念碑が建立された。ニュージランド国テイマル市との姉妹都市提携10周年を記念したものである。

プレートの上段に両国の国旗、下段にバラの花がデザインされ、

ENIWA-TIMARU

恵庭・テイマル姉妹都市締結10周年記念

COMMEMORATING THE 10TH ANNIVERSARY OF THE ESTABLISHMENT OF SISTER-CITY RELATIONSHIPS BETWEEN ENIWA AND TIMARU 2008-2018

2018年7月

と記された銘板がはめ込まれている(平成297月建立、恵庭市京町1)。

平成29(2018)、姉妹都市締結10周年記念事業を実施。両市の首長ら関係者が相互訪問して、テイマル市では219日、恵庭市では7月2日に記念式典を挙行、両市の市役所前庭に同形の記念碑を建立したものである。

〇姉妹都市(友好都市)

市町村が海外の国と姉妹都市を結ぶようになったのは第二次世界大戦後のことである。わが国で最初に姉妹都市を締結したのは長崎市で昭和30年(1995)のこと、相手はアメリカ合衆国ミネソタ州セントポール市であった。原爆被災から復興し平和都市への道を歩んでいる長崎市をセントポール市に国連事務局が斡旋したのが締結のきっかけだと言う。

北海道では、昭和34年(1959)札幌市がアメリカ合衆国オレゴン州ポートランド市と姉妹都市になったのが最初。両市とも開拓者によって開かれた都市であること、ほぼ同緯度で風土が似通っていること、そして札幌は開拓当時多くのアメリカ人の指導を受けて発展したこと、などが姉妹都市提携の理由だと言う。

道内市町村姉妹友好連携先一覧(北海道、平成2712月末日)によれば、道内の73市町村が海外116の都市と姉妹都市になっている。連携先として多いのは、カナダ25都市、アメリカ合衆国23都市、ロシア17都市、中国12都市、韓国、ニュージランド6都市、オーストラリア5都市などである。北海道と同緯度、気象条件が似通った北方圏の国が上位を占めていると言えよう。また、ニュージランドの都市と姉妹関係を結んでいるのは、道内では恵庭、湧別、清里、美幌、苫小牧、小樽市である。

姉妹都市提携のメリットは、(1)異文化交流の活性化、外国人教師派遣や交換留学、(2)文化交流によるグローバル教育などに象徴されるが、(3)経済交流のメリットも勿論考えられる。成果を上げるためには、長期的視野の下、地道な、継続した、市民参加型の人的交流を築くことにあるだろう。恵庭でも「恵庭ニュージランド協会(市民団体)」が平成15年に設立され活躍している。

私事になるが、ニュージランドを訪れたのは24年前のことだった。クライストチャーチ、オークランド、ロトルアなどに僅か数日の滞在であったが、ゴシック建築とガーデニング文化、マオリの文化、お会いした人々の笑顔を思い出している。


恵庭の碑-17 市役所前の「恵庭市民憲章碑」

2018-07-25 10:03:26 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市役所庁舎前に「恵庭市民憲章碑」がある。庁舎入り口に近いので、市役所を訪れた人はどなたも気づかれるだろう。題字は北海道知事堂垣内尚弘の書で、恵庭市民憲章碑と彫られている。

また、市民憲章全文を記した碑が添えられている。内容は以下のとおり。

〇恵庭市民憲章(昭和451119日制定)

わたくしたちは、恵庭岳のそびえる、恵庭の市民です。

わたくしたちは、漁と島松の川に広がるこの地に父祖の労苦をしのび、かおりたかい鈴らんにたがいの幸せをねがい、みんなの力でこのまちを発展させるため、ここに市民憲章をさだめます。

 ・自分の仕事を愛し、じょうぶなからだで働きましょう

・たがいに尊重しあい、なごやかな家庭をつくりましょう

・自然を愛し、緑の美しいまちをつくりましょう

・きまりをまもり、住みよいまちをつくりましょう

・知性をたかめ、かおりゆたかな文化のまちをつくりましょう 

〇市民憲章

三輪直之「市民憲章情報サイト」によると、全国にある813市のうち市民憲章を制定しているのは693市、制定率が85.1%だと言う(ちなみに北海道は100%、平成27年現在)。

市民憲章が制定されるようになったのは第二次世界大戦後のことで、昭和25年に広島市が「市民道徳」を制定、昭和31年に京都市が「市民憲章」を制定したのが最初とされる。北海道では札幌市が昭和38年に制定(昭和61年改正)したのが最初で、「わたしたちは、時計台の鐘がなる札幌の市民です・・・」の文言は、道民の耳に馴染んでいる。

市民憲章の制定過程を考えると、憲章は市民の心構えを述べ、市政の進むべき道を示したものと言えるだろう。具体的には「住みやすいまち」「みどり豊かなまち」などという表現で理想とする都市像を述べ、「思いやり」「文化の香り」などという表現で心構えや方向を示している場合が多い。そして、市民憲章の理念をもとに、市の基本構想や総合計画などが策定される。同時に、市民憲章を拠り所として、市民への啓蒙活動・学習活動などが進められる。

更には、「子供憲章」「高齢者憲章」を制定した市町村も出てきている。

〇恵庭市民憲章について

恵庭市民憲章は昭和45年に制定された。内容は当時の社会情勢を反映したもので、至極当然なことを謳っている。最近、恵庭市が主催する式典などで唱和する機会も多いが、何故か記憶に残らない。どうして? と読み直してみると、「文章表現、文脈」「主語のあいまいさ」など日本語が気になりだした。

例えば、

(1)「恵庭岳のそびえる、恵庭の市民・・・」とあるが、”恵庭岳のそびえる“の後の句読点の是非、さらには「そびえる」の表現。恵庭岳山頂の帰属については恵庭と千歳の間で論争があったこと、国土地理院の地図でも境界を示していないのは承知の上だが、恵庭の真ん中に恵庭岳があるわけではないので「恵庭岳がそびえる恵庭」の表現は気になる。感覚としては、「恵庭岳をのぞむ(眺める)」と言う方が近い。恵庭岳の名前に拘ったのだろうが、昔は千歳嶽と呼んだこともあったそうだ。恵庭岳は果たして恵庭の象徴だろうか。境界論争を考慮して敢えて取り入れたのだろうか。

(2)「漁と島松の川に広がるこの地・・・」も気になる。言いたいことは分かるが、“川に広がるこの地“と言う表現は日本語として理解できない。

(3)「かおりたかい鈴らんにたがいの幸せをねがい・・・」。何故に鈴らんに互いの幸せを願わねばならぬのか。鈴らんが「市花」だとしても、此処に持ち出すことの意味が薄弱。

(4)前文の主語は「わたしたち」と明確だが、憲章の項目部分は「意思」「呼びかけ」が混在し曖昧である。例えば、「たがいに尊重しあうことにより、なごやかな家庭をつくる」のか、「たがいに尊重しあいましょう、なごやかな家庭をつくりましょう」なのか。

(5)「きまりをまもり、住みよいまちをつくりましょう」、「きまりをまもる」はそもそも憲章に入れるようなことなのか・・・。決まりを守れば住みよいまちが出来るのか、とへそ曲がりは考える。

恵庭市民憲章も制定後50年。もう一度、憲章を読み直してみようと思う方々が現れることを期待したい。

参考までに、平成19年に制定された北斗市の市民憲章。

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