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恵庭の碑-16、いくみ会館前庭の記念碑「育み野」

2018-05-16 17:17:02 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

黄金北地区の記念碑「育み野」

「私の恵庭散歩」を上梓してから一年間が過ぎた頃、本書に記載されていない記念碑の情報が提供された。今回は、いくみ会館(恵庭市黄金北3丁目12-8)の記念碑「育み野」を紹介する。

 

いくみ会館は恵庭市に12か所存在する地区会館の一つで、黄金北地区にある。JR恵庭駅から北海道文教大学、惠明中学校を目指して行けば分かりやすい。北海道安全技術センターの西側に会館はある。前庭の一角に櫟(いちい)の木に囲まれるようにして、大きく重量感のある石が台座の上に置かれている。表面に「育み野」と刻まれ、題字は第13代恵庭市長浜垣実。平成310月建立。

隣接して、建立趣旨を記した碑文があるので引用する。

「碑文 この地一帯は明治十九年遥か山口県より先人達が集団で移民 昼なお暗い原始林を開拓し幾多の苦難に耐えて雑穀類を主体とした肥沃な畑地として実り豊かな土地に築き上げた所である しかるに近年恵庭市の発展はとどまることを知らず遂にこの地域にも波及し周辺の環境が良いことから特に教育施設の開発がなされた 当地区も急激な宅地の需要供給に応じるべき団地造成を「いくみ野」と命名し土地区画整理事業により有志が相諮り父祖代々から継承された地を顧りみ且つ新たな観点からこの地の将来像を描き「明るく美しく住みよい街づくり」を完了した この事業の完成にあたり一同相計り記念碑を建立する 平成三年十月吉日 組合成立認可 昭和六十年十月十四日 組合員 五十八名 総面積 三二九、九三九・九一平方米 総事業費 一六億三千三百四五万円 恵庭市黄金北土地区画整理組合」

碑文にあるように、団地造成の事業完成を記念し建立されたものである。「恵み野」に対比して「育み野」の名を冠したものだろうが、育み野の名称は地区の通称となっていない。この名前「育み野」はどのくらい地域に浸透しているのだろうか。

平成3年と言えばバブルがまさに崩壊し始めた時代。昭和48年から続いた経済安定期はこのとき終わり、その後は失われた20年と呼ばれるようになる。平成3年の恵庭の動きを年表から拾ってみると、屋内ゲートボール場オープン、福祉会館オープン、大町憩いの家完成、恵み野憩いの家完成、北島地区内水排除事業完成、恵み野小学校開校、市立図書館建設工事開始、恵み野北会館オープン、恵み野東会館オープン、黄金いくみ会館オープンなど、恵庭市はまだバブルの夢を追いかけていた。

事業に関わった、理事長西口実、副理事長竹本頼孝、副理事長村本寛、理事4名、監事2名、評価員3名及び組合員44名の氏名が傍らの石板に刻まれている。


恵庭の彫像-17, 中野五一「二宮金治郎」像が恵庭市郷土資料館にあった

2017-10-24 17:58:45 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

平成29年(20179月の或る日,恵庭市郷土資料館主催の「歴史の道散策」に参加した。川と道の駅花ロード恵庭から松園通りを歩き,郷土資料館,開拓記念公園,恵庭中央地区の歴史を巡り,漁川堤防を帰るコースである。

その時,郷土資料館の大林さんから「郷土資料館の金治郎像を確認したら中野五一の作品でした」と伺い,見せて頂いた(写真)。

実は,恵庭開拓記念公園「二宮尊徳幼年時の像(二口大然復元)」の原型作家が中野五一であるとの記録があり,その実物がどこかにあるはずだと考えていたので興味深く写真に収めた。恵庭市郷土資料館の展示室にある像が原型作品なのか確認できないが,作者の署名は間違いなく「五一」である。郷土資料館に保管された経緯は明らかでないが,当館所蔵の事実を考えれば二口大然復元の原型像かも知れない。

 

因みに,恵庭開拓記念公園「二宮尊徳幼年時の像(復元)」台座には,施主:元松園校遺跡保存事業期成会,銅像企画施行:株式会社エコー商事,原型作家:二口大然,制作:金次銅器株式会社,礎石:恵庭石材工業,昭和54年(19798月竣工とある。

また,「松園校記念碑」に記された復元の由来及び「恵庭史」によれば,昭和11年松園小学校同窓会総会において尊徳像の建立を決し,札幌市円山小学校にあった「草鞋を捧げ持つ幼年時の二宮金次郎像を見学後,同像の制作者である小樽出身の彫塑家中野五一に依頼,同窓生の労資奉仕もあって昭和13年ブロンズ製の金次郎像を建立したのが最初である。昭和17年国策の金属回収に応じ解体して代替え品の硬化石像を建立したが風化甚だしく,昭和54年青銅の原型に復元したとある。

作者の中野五一は明治30年(1897)富山県高岡生まれ。小樽に移住し小樽商業高校卒。小樽では大正5年(1916)に三浦善治が開設した「小樽洋画研究所」で学ぶ。大正5年(1920)頃上京し,小倉右一郎に師事。大正から昭和初期,彫刻を建築や公共の場に取り入れようと活動した美術団体「構造社」会員。北見に疎開していた縁なのか,北見市内には数点の彫像が残されている。戦後は日展会員,北方美術協会会員。昭和53年(1978)逝去。

中野五一の主な作品は以下のとおり。

「二宮金治郎の像」(小樽稲穂小学校,小樽色内小学校,札幌円山小学校):草履を売り歩く金治郎像。色内小学校は平成28年(19163月閉校。

「クロフオードの像」(小樽市総合博物館エントランス):「北海道鉄道の父」と称されるアメリカ人技師ジョセフ・クロフォードの肖像。

「奏楽女人像」(北見市緑ヶ丘霊園)

「虎視」(北海道近代美術館)

「伊谷半次郎像」(北見市屯田公園):公選初代の北見市長,近江出身の像。

「前田駒次翁之像」(北見市屯田公園):坂本龍馬の甥である坂本直寛によって組織化された移民団北光社の農場管理人。高知県生まれ、浦臼の武市農場の指導者として北海道に渡り,その後北光社農場の指導者として112戸の移民とともに野付牛(現北見市、訓子府町)に入植。北見開拓の父と称えられる。

「鳩を持つ少女」(北網圏北見文化センター美術館):幼い頃の長女がモデル。戦後市内に建立された「平和の塔」の頂を飾っていた。この塔はかつて忠魂碑で,形が砲弾に似ていたことから軍国主義賞賛と言われないように取り付けてあったと言われる。

「松浦武四郎蝦夷地探検隊」(釧路市幣舞公園):阿寒国立公園観光協会が1958年(昭33)有志の寄付をもとに建立。

「遠藤熊吉翁之像」(網走市郷土博物館):遠藤熊吉は大正11年,北海道庁立網走中学校(現,網走南ヶ丘高校)創設にあたり校舎建築費の全額を寄付した。

その他,「壺を持つ少女」「寒山像」など。

なお,薪を背負った二宮金治郎のルーツは,尊徳の弟子富田高慶が著した「報徳記」の記述「採薪の往返にも大学の書を懐にして途中読みながら之を誦し少しも怠らず」を元に書かれた幸田露伴「二宮尊徳翁」の挿絵だと言われる。そして,明治43年(1910)彫金家「岡崎雪聲」によって最初の二宮金次郎像が作られ,これが金次郎像の原型になったと考えられている。そして驚くことに,日本各地の金次郎像はどれもこれも原型(薪を背負い,読書しながら歩いている)そっくりである。昭和の時代どこの小学校前庭にもあった姿である。

草履を売り歩く金治郎像は,幼少の頃に草鞋を編んで金を稼ぎ,暮らしの足しにしたとの逸話に基づくものだろう。また、この姿は「金次郎が12歳の頃、病気の父に代わって酒匂川の土手普請に出たが、一人前の仕事が出来ないので申し訳なく思い、夜なべに草履を作り困っている人に配った」との故事に因んだものとも言われている。小樽稲穂小学校,小樽色内小学校,札幌円山小学校,恵庭松園小学校に草履を売り歩く姿の金治郎像が確認され,いずれも中野五一作と伝えられていることから,この姿は中野五一のオリジナルと考えて良いかも知れない。

参照:拙著「私の恵庭散歩(1)恵庭の彫像」2017,拙ブログ2014.10.9


恵庭の彫像-16 恵庭島松小学校「よい子・つよい子」像の修復

2017-10-14 17:10:26 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

千歳民報のY記者から「表記彫像の修復がなりました」と,掲載記事をご送付頂いた。修復を進めた関係者のご尽力に敬意を表するとともに,「よい子・つよい子」像が修復されたことを喜ばしく思う。「よい子・つよい子」像は島松小学校のシンボルとして,これからもずっと子供たちの成長を見守り続けることだろう。

写真は,千歳民報(20171012日)の誌面を複写した。

拙著「私の恵庭散歩(1)恵庭の彫像」について,Y記者の取材を受けたことがあり,本彫刻について,①著名な彫刻家「坂 坦道」の初期作品が恵庭に存在すること,②彫像は,長い年月を経て崩壊寸前にあり,補修・保全対策が必要な状況にあることを述べ,島松小学校・同窓会等関係者は修理に向け模索されていると思うが,修復が進むことを期待したい,と話したのを記憶されていたのだろう。Y記者の心遣いに感謝したい。

なお,本彫像については,本ブログの20161210日記事<恵庭の彫像-15,「坂 坦道」初期作品が恵庭にあった,島松小学校「よい子・つよい子像」>に掲載されているので,興味のある方はご覧ください。


私の恵庭散歩シリーズ第三巻「恵庭の神社・仏閣・教会堂」、恵庭の本-3

2017-05-01 11:38:34 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

私の恵庭散歩シリーズ第三巻「恵庭の神社・仏閣・教会堂」は,恵庭に住む旅人が,市内にどんな神社や寺院,キリスト教会があるのだろう,と探訪し参詣した折々の記録である。訪れた神社・寺院を全て写真に収め,所在地図を付している。また,宗派が多く難解な仏教とキリスト教について平易な解説を試みている。A5版,90ページと携帯にも便利なサイズ。著者は「神社・仏閣・教会堂を訪ねる恵庭散歩は,人間にとって宗教とは何か考える旅であった」と述べている。

本書から「はしがき」「目次」「あとがき」を引用しよう。

はじめに

ある日,自分が住んでいる街をよく知らないことに気づいた。この地に居を構えてから四半世紀が経過したにもかかわらず,である。仕事の関係で十勝・上川・道南に住み,果ては南米アルゼンチン,パラグアイに暮らすなど,長い間この家を留守にしていたことが原因かも知れない。札幌や長沼に通勤していた頃も,早朝に家を出て夕方遅い帰宅が日常だった。この街を鑑みる余裕すらなかったのだ。

ある日,この街を知ろうと思った。仕事から解放されたのを機会に恵庭散歩を始めると,これが結構面白い。「花のまち」を標榜するだけあって,ガーデニングに対する市民の取り組みは熱心だし,図書館,郷土資料館,総合体育館など高度成長期に整備した施設も立派なものだ。公園も各所にある。農業や商業など諸産業も頑張っている。だが待てよ,何かが物足りない・・・ふと,思った。

ある日,この街の歴史を知ろうと散歩に出た。開拓の歴史を刻む記念碑,神社仏閣を訪ねた。芸術の証しはないかと彫像を探し求めた。歴史については恵庭市史や恵庭昭和史研究会の既刊資料が,記念碑については郷土資料館ホームページが参考になったが,十分とは言い難い。彫像については一覧表さえないことを知った。文化が脆弱なのだ。時代は超高齢社会,いわば成熟社会だ。多くの方々が健康のために歩いている。散歩の途中に,彫像の芸術性に触れ,記念碑や神社仏閣に歴史を偲ぶことが出来れば,散歩は一層楽しくなるに違いないと思った。

ある日,私の体験を「恵庭散歩」シリーズとして取りまとめようと考えた。本書を手にした恵庭の子供らや若者が,故郷を知り誇りに思うことが出来れば,これに勝る喜びはない。この街を訪れた人々が,恵庭の魅力探訪の道標として本書を手に取って頂ければ幸いである。

本書は「恵庭散歩」の第三巻,題して「恵庭の神社・仏閣・教会堂」である。市内の神社仏閣は,多くが開拓に励む先人たちにより創建され,心のよりどころとして村の中心にあった。今,私たちが神社仏閣に詣でるとき,神々しい静けさの中に歴史を感じるのはその故であろう。本書発刊は,恵庭に暮らす一市民が遊び心で始めたものだが,故郷を愛する気持ちだけは失うまいとの思いを込めている。

目 次

1. 神社の章

(1)大国魂大神と豊宇気姫神を祀る「豊栄神社」

(2)加越能開耕社ら移住者が創祀した「恵庭神社」

(3)島松住民と共にある「島松神社」

(4)柏木・北柏木・柏陽地区が祀る「柏木神社」

(5)恵庭開拓期以前の神社「弁天社」「稲荷神社」

2. 寺院の章

(1)恵庭の古刹「千歳山天融寺」(真宗大谷派)

(2)恵庭の古刹,禅宗の寺「天瑞山大安寺」(曹洞宗)

(3)弘誓を山号とする「弘誓山本誓寺」(浄土真宗本願寺派)

(4)漁村のお西さん「敬念寺」(浄土真宗本願寺派)

(5)六線のお寺「恵庭山島松寺」(真言大谷派)

(6)金毘羅大権現を祀る寺「金毘羅山弘隆寺」(高野山真言宗派)

(7)日蓮宗の寺「龍王山妙正寺」(日蓮宗)

(8)紫雲台孝子堂宝物館で知られる「紫雲山宝林寺」

(9)開拓時代に役割を果たした「日勝寺」(法華宗真門流)跡

(10)どうなる? 平成の「お寺さん」

3. 教会堂の章

(1)恵庭で最初に活動を始めた「日本キリスト教団島松伝道所」

(2)ローマ教皇を頂点に「カトリック恵庭教会」

(3)恵庭にあるプロテスタント系教会:恵庭福音キリスト教会,日本福音ルーテル恵み野教会,インマヌエル恵庭キリスト教会,めぐみ聖書バプテスト教会

(4)その他のキリスト教会:末日聖徒イエス・キリスト教会千歳恵庭支部,エホバの証人の王国会館

あとがき

恵庭市内に「どんな神社や寺院があるのだろう?」という単純な興味から始まった私の恵庭散歩は,これまでに足掛け三年を要した。思い立った時,カメラ持参で参詣する気まぐれ行動だったが故である。訪れた神社・寺院・教会では,写真撮影についてご快諾を賜った。また,宮司やご住職など関係者の方々には,境内でお会いした折に,或いは電話での質問にも快く応じて頂いた。ご好意に対し御礼申し上げる。

神社・仏閣・教会堂を訪ねる「私の恵庭散歩」は,人間にとって宗教とは何か考える旅であった。宗教の在り方を考える機会ともなった。

なお,本書は市内すべての宗教施設を網羅したものでないことをお断りしておく。

 


私の恵庭散歩シリーズ第二巻「恵庭の記念碑」、恵庭の本-2

2017-04-29 16:45:00 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

私の恵庭散歩シリーズ第二巻「恵庭の記念碑」は,恵庭市内の記念碑を網羅した最初の出版物である。恵庭市内の記念碑については,恵庭市史と郷土資料館のHPに一部掲載されているが,体系的に整理したものはない。本書は,全ての作品に写真,所在地図を付け,解説文も分かり易くなっている。A5版,80ページと携帯にも便利なサイズ。タイトルが示すように,恵庭の一市民が石碑を探し求めて歩いた足跡を,本書から辿ることが出来る。

本書から「はしがき」「目次」「あとがき」を引用しよう。

<はしがき>

ある日,自分が住んでいる街をよく知らないことに気づいた。この地に居を構えてから四半世紀が経過したにもかかわらず,である。仕事の関係で十勝・上川・道南に住み,果ては南米アルゼンチン,パラグアイに暮らすなど,長い間この家を留守にしていたことが原因かも知れない。札幌や長沼に通勤していた頃も,早朝に家を出て夕方遅く帰宅するのが日常だったので,この街を鑑みる余裕がなかったのだ。

ある日,この街を知ろうと思った。仕事から解放されたのを機会に恵庭散歩を始めると,これが結構面白い。「花のまち」を標榜するだけあって,ガーデニングに対する市民の取り組みは熱心だし,図書館,郷土資料館,総合体育館など高度成長期に整備した施設も立派なものだ。市民憩いの公園も整備されている。農業や商業など諸産業も頑張っている。だが待てよ,何かが物足りない・・・ふと,思った。

ある日,この街の歴史を知ろうと散歩に出た。開拓の歴史を刻む記念碑,神社仏閣を訪ねた。芸術の証しはないかと彫像を探し求めた。歴史については恵庭市史や恵庭昭和史研究会の既刊資料が,記念碑については郷土資料館ホームページが参考になったが,十分とは言い難い。彫像については一覧表さえないことを知った。文化が脆弱なのだ。時代は超高齢社会,いわば成熟社会だ。多くの方々が健康のために歩いている。散歩の途中に,彫像の芸術性に触れ,記念碑や神社仏閣に歴史を偲ぶことが出来れば,散歩は一層楽しくなるに違いないと思った。

ある日,私の体験を「恵庭散歩」シリーズとして取りまとめようと考えた。本書を手にした恵庭の子供らや若者が,故郷を知り誇りに思うことが出来れば,これに勝る喜びはない。この街を訪れた人々が,恵庭の魅力探訪の道標として本書を手に取って頂ければ幸いである。

本書は「恵庭散歩」の第二巻,題して「恵庭の記念碑」である。市内に散在する数多くの碑は,街角に静かに佇む。街行く人々が気に掛ける様子もない存在。だが,旅人がひとたび碑前に立てば,記念碑は歴史の語り部となる。本書発刊は,恵庭に居を構えた一市民の遊び心から始めたものだが,故郷を愛する気持ちだけは失うまいとの思いを込めている。

<目 次>

1.先人の偉業をたたえる「開拓の碑」:山口県人恵庭開拓記念碑,富山県人開拓之碑,恵南開拓之碑,恵庭開拓記念碑「拓望」,康和魂

2.開拓を支えた治水事業「共同用水記念碑」:漁共同用水記念碑,紀念柏木用水之碑,盤尻用水記念碑,紀念碑島松共同用水,拓土農魂之碑

3.先人の偉業を讃える「表徳碑」:林清太郎表徳碑,天野先生之碑,記念實勇

4.開拓を支えた家畜を供養する「馬頭観音」「獣魂碑」:馬頭観世音菩薩(島松沢),馬頭観世音菩薩(恵庭墓苑),馬頭観世音菩薩(下島松),馬頭観世音(恵南),獣魂碑(盤尻),馬頭観世音菩薩(弘隆寺),牛頭大王(恵南),獣魂碑(西島松),家畜慰霊供養塔(西島松),乳牛感謝の碑(恵庭公園),鳥獣供養の碑(市営牧場)

5.日清・日露戦争の戦没者を祀る「忠魂碑」:忠魂碑(島松神社),皇軍戦没者招魂供養之碑(大安寺),忠魂碑(中恵庭公園)

6.恵庭村「道路元標」と「漁村戸長役場跡の碑」

7.消えた「里程標」:古地図にみる六里標(島松沢),七里標(柏陽),八里標(恵南)

8.行幸記念の碑:漁村帷宮碑,御前水跡,聖蹟記念碑(前方記念碑),聖蹟記念碑(後方記念碑)

9.恵庭ライオンズクラブの記念碑:憩の庭(恵庭公園)

10.新しく歴史を刻む記念碑:恵庭工業団地「拓望」,恵庭テクノパーク「飛翔」

11.開校記念の碑:開校百年の碑(恵庭小),拓学の碑(恵庭北高),校舎建立跡地の碑(島松小),開校百年記念モニュメント「希望」(島松小)

12.廃校の跡地に立つ記念碑:松園校跡地記念碑,松鶴小学校跡地,盤尻小中学校跡地

13.恵庭神社「遥拝所跡」の碑とイザリブト番屋・船着場

14.恵庭「稲作事始め」,中山久蔵より前に稲作を試みた高知藩:寒地稲作この地に始まる中山久蔵記念碑と恵庭

15.恵庭「北の零年」,開拓の先駆け「高知藩」:建立されなかった高知藩開拓の碑

<あとがき>

「恵庭市内にどんな記念碑があるのだろう?」と石碑を訪ねる私の恵庭散歩は,これまでに足掛け3年を要した。恵庭市内の大方を網羅したつもりだが,まだまだ気づかない石碑があるかも知れない。残りは次の機会に補完することにして,ひとまずここに取りまとめることにした。

公園や街角の記念碑は歴史の証言者である。朽ちかけている碑の前に立てば,遠い昔そこで暮らした人々の姿を偲ぶことが出来る。新しく建立された碑には,人々の思いが込められていることに気づいた。これらの石碑を登録して,「恵庭まち遺産」として語り継ぐことが出来れば素晴らしい。

 


私の恵庭散歩シリーズ第一巻「恵庭の彫像」、恵庭の本-1

2017-04-28 18:01:17 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

私の恵庭散歩シリーズ第一巻「恵庭の彫像」は,恵庭市内の野外彫刻を取り上げた最初の出版物である。これまで,恵庭市内の彫像については一覧表さえ見当たらない。本書は,全ての作品に写真,所在地図を付け,解説文も分かり易い。A5版,68ページと携帯にも便利なサイズとなっている。

本書の「はしがき」「目次」「あとがき」を引用しよう。

<はじめに>

ある日,自分が住んでいる街をよく知らないことに気づいた。この地に居を構えてから四半世紀が経過したにも関わらず,である。仕事の関係で十勝・上川・道南に住み,果ては南米アルゼンチン,パラグアイに暮らすなど,長い間この家を留守にしていたことが原因かも知れない。札幌や長沼に通勤していた頃も,早朝に家を出て夕方遅く帰宅する日常だったので,この街を鑑みる余裕がなかったのだ。

ある日,この街を知ろうと思った。仕事から解放されたのを機会に恵庭散歩を始めると,これが結構面白い。「花のまち」を標榜するだけあって,ガーデニングに対する市民の取り組みは熱心だし,図書館,郷土資料館,総合体育館など高度成長期に整備した施設も立派なものだ。市民憩いの公園も整備されている。農業や商業など諸産業も頑張っている。だが待てよ,何かが物足りない・・・ふと,思った。

ある日,この街の歴史を知ろうと散歩に出た。開拓の歴史を刻む記念碑,神社仏閣を訪ねた。芸術の証しはないかと彫像を探し求めた。歴史については恵庭市史や恵庭昭和史研究会の既刊資料が,記念碑については郷土資料館ホームページが参考になったが,十分とは言い難い。彫像については一覧表さえないことを知った。文化が脆弱なのだ。時代は超高齢社会,いわば成熟社会だ。多くの方々が健康のために歩いている。散歩の途中に,彫像の芸術性に触れ,記念碑や神社仏閣に歴史を偲ぶことが出来れば,散歩は一層楽しくなるに違いないと思った。 

ある日,私の体験を「恵庭散歩」シリーズとして取りまとめようと考えた。本書を手にした恵庭の子供らや若者が,故郷を知り誇りに思うことが出来れば,これに勝る喜びはない。この街を訪れた人々が,恵庭の魅力探訪の道標として本書を手に取って頂ければ幸いである。

本書は「恵庭散歩」の第一巻,題して「恵庭の彫像」である。市内の野外彫刻を中心に取りまとめた。街角の彫刻は行き交う人の心を和ませる。手を触れた子供らの情緒を育む。例えば,恵み野駅前から「やすらぎストリート」「花さんぽ通り」へと彫像が置かれたら,なんと素晴らしいことだろう。本書の発刊は,恵庭在住一市民の遊び心から始めたものだが,故郷を愛する気持ちだけは失うまいとの思いを込めている。

 

目 次>

1.恵庭大橋に立つ季節の乙女像:鈴木吾郎「こぶし」「もみじ」と本間武男「夏の日」「雪の朝」

2.恵庭市立図書館にある鈴木吾郎の「ふえ」「YUKA17」「YUKA」「女・風髪」

3.恵庭市立図書館にある山名常人「進取の像」と中村矢一「望」「はるかぜ」

4.恵庭開拓記念公園にある竹中敏弘「拓望の像」と二口大然「二宮尊徳幼時の像」

5.ユカンボシ川河畔公園彫刻広場の作品:佐藤忠良「えぞ鹿」,渡辺行夫「ドン・コロ」,植松圭二「樹とともに-赤いかたち」,山本正道「時をみつめて」,丸山隆「Cube」,山谷圭司「にぎやかな遡行」

6.恵庭市総合体育館の壁画彫刻,竹中敏弘「躍動と天然の美」と鈴木吾郎「こぶし」「もみじ」

7.恵庭駅前の少女像,山本正道「すずらんに寄せて」

8.恵庭市民会館前庭の「平和の像」

9.茂漁川のレリーフ「鮭の一生」

10.めぐみの森公園にある本田明二の「道標-けものを背負う男」

11.大安寺山門に立つ「金剛力士像」

12.恵庭市民会館にある杉村孝の「双体童(わらべ)像YÛKÔ

13.坂 坦道の初期作品,島松小学校「よい子・つよい子像」

14.路傍に祀られるお地蔵さん:鈴木家の地蔵(島松沢),山神(島松沢),六地蔵(上山口),八十八か所地蔵(弘隆寺),六地蔵(大安寺),六地蔵(龍仙寺),交通安全地蔵(島松沢),交通安全守護地蔵尊(和光),交通安全の碑(上山口)

 

<あとがき>

「恵庭市内にどんな野外彫刻があるのだろう?」と彫像を探訪する私の恵庭散歩は,これまでに足掛け三年を要した。まだまだ気づかない作品はあるだろうが,ひとまずここに取りまとめることにした。

恵庭市は「花のまち」を標榜するだけに,四季の草花が彩を添えてはいるが,率直に言って街の風情は奥行きが無い。歴史が浅く,新興住宅地が多い恵庭の宿命と言えなくもないが,もう少し芸術作品に触れる環境を醸成し,潤いのある「まちづくり」を念頭に置くべきだろう。花ロードに彫像があり,街灯や店の看板にセンスが感じられ,ウインドウに作品が飾られる。花と緑に芸術が調和した街,誰もが誇りに思える恵庭でありたい。

 


恵庭の彫像-16 「坂 坦道」初期作品が恵庭にあった,島松小学校「よい子・つよい子像」

2016-12-08 15:24:45 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市内にある野外彫刻を調べていたとき,島松小学校前庭に「よい子・つよい子像」があることを知った(当校ホームページ)。「どのような彫像なのか?」と気になっていたが,なかなか訪問する機会がなく延び延びになっていた。平成28年12月3日,ひさびさの好天に誘われ(授業の迷惑にならぬようにと休日を選んで)訪ねると,折よく教頭先生が在校され,彫像の写真撮影許可を頂いた。

「よい子・つよい子像」は,島松小前庭の南門近く,校舎で学ぶ子供たちを見守るように置かれている。男女の児童が腕を組み,女の子が右手を上げ,二人は空を見上げるように立っている。見つめる瞳の先は,きっと希望あふれる平和な世界だろう。彫像の表情は屈託なく,健康な肢体はまさに「良い子・強い子」である。当校の校歌に歌われるように,「豊かな自然を享受し,希望に向かい,手をつなぎつつ,ともに語らん・・・」を具象化しているようだ。

当校の沿革史によると,「よい子・つよい子像」は昭和38年(1963)開校七十周年記念事業で建立され,昭和61年(1986)に修理,平成元年(1989)現在地に移設されたと記されている。島松小学校にこの像が設置されてから既に53年が経過した。半世紀以上も,児童の成長を見守ってきたことになる。教師たちも,この像のように「良い子・強い子」であれと語り継いできたのだろう。言わば「よい子・つよい子像」は,島松小学校児童の象徴でもあるのだ。

「作者は誰なのか?」と像の背面に回ってみると,「坂1963」と台座に刻まれている。坂と言えば,坂坦道(たんどう)のことか? 一瞬興奮を覚えた。坂坦道は日展会員で,北海道で活躍した彫刻家の一人である。羊ケ丘の「丘の上のクラーク像」,大通公園の「石川啄木像」,帯広駅前の「北の大地」,岩見沢市民会館前庭の「牧歌」等の作品は,多くの方が知っているだろう。

 

◆坂 坦道の略歴(参考:広報のと第56号)

坂坦道の略歴を整理しておこう。

大正9年(1920):石川県内浦町恋路で生まれる(父寛二,母よしゑ)。本名青嵐(せいらん)。祖父は日本画家の坂靄舟(あいしゅう),父寛二は油絵画家という画家一家であった。本人も画家を目指すが,色弱のため彫刻の道に進む。

昭和5年(1930):小学校3年の時に父が死亡し,母親と札幌に移住。

昭和13年(1938):北海中学校卒業。

昭和14年(1939):東京美術学校入学。

昭和18年(1943):新文展(後に日展)に初入選。学徒出陣で陸軍入隊。

昭和19年(1944):東京美術学校卒業。

昭和20年(1945):バンコクで終戦を迎える。

昭和23年(1948):札幌市立北辰中学校美術教諭。

昭和24年(1949):結婚。

昭和25年(1950):三越札幌支店勤務。

昭和37年(1962):札幌市立中島中学校美術教諭。北大建築科,道教大非常勤講師。

昭和39年(1964):第7回日展特選。北海道女子短大助教授。「恋路物語」設置。

昭和40年(1965):北海道女子短大教授。

昭和41年(1966):日展会員。

昭和44年(1969):帯広駅前「大地」制作。

昭和51年(1976):羊ケ丘展望台「クラーク像」制作。

昭和56年(1981):札幌大通公園「石川啄木像」制作。

昭和57年(1982):札幌市民芸術賞受賞。日彫展西望賞「酔っ払い」制作。

平成2年(1990):文部大臣教育功労章受章。

平成7年(1995):北海道女子短大名誉教授。上川農試「豊穣」,札幌「有島武郎記念碑」。

平成10年(1998):没,享年77歳。

なお,坦道のご遺族は平成20年(2008)保存していた作品を坦道の故郷である能登町に寄贈した。翌年,能登町は内浦庁舎4階に坂坦道常設展示場を開設している。

◆坂 坦道の作品

坂坦道の作品一覧を探していたら,「陶工房 空」(札幌市北24条西8丁目)のホームページに辿り着いた。それによると,札幌市内に32点,札幌以外の道内に20点,道外4点の作品が掲示されている。

(1)札幌市内にある作品

「鈴蘭」(北洋銀行外壁),「柱の彫刻群」(札幌時計台文化会館),「石川啄木像」(大通公園),「中央創生小学校跡」(札幌市役所),「クラーク博士像」(羊ケ丘展望台),「恋の街札幌歌碑」(羊ケ丘展望台),「有島武郎記念碑」(札幌北区),「風の中の道化」(芸術の森),「終極」(坂家墓苑),「和顔愛語」(竜谷学園高校),「協力」(中島中学校),「ナワトビ」(桑園小学校),「歓び」(栄中学校),「星座」(北斗高校),「いのち」(若草公園),「寒い朝」(公務員宿舎),「道東の女」(公務員宿舎),「幕間」(公務員宿舎),「風雪」(札幌飛行場正門跡),「陽光」(道庁別館),「希望」(札幌市役所),「未知を拓く」(教育文化会館),「平和」(財界さっぽろ),「ベンチの二人」(財界さっぽろ),「石川啄木座像」(財界さっぽろ),杉野目先生像」(クラーク会館),「志賀亮先生像」(北大医学部),「蛍雪の願い」(中島中学校),「岡半蔵像」(北斗高校),「岡テヂ像」(北斗高校),「母と子の像」(白楊小学校),「なわとび」(白楊小学校)

(2)道内の作品(札幌を除く)

「牧歌」(岩見沢市民会館),「埋もれ火の塔」(当別神社),「消防顕彰碑」(当別神社),「湖渡る風」(ぐるっと洞爺彫刻公園),「八州秀章音楽碑」(羊蹄ふるさと館),「黎明之像」(赤平公園),「平和祈念像」(芦別北大通り),「豊穣」(上川農試),「発電所工事慰霊碑」(層雲峡発電所),「飛翔」(上湧別役場),「屯田開拓顕彰像」(端野神社),「加藤弥四郎翁像」(端野神社),「北風賛歌」(北見屯田公園),「悶」(網走市立美術館),「北の大地」(帯広駅前),「上岩松発電所慰霊碑」(上岩松発電所),「躍動」(中札内中央公園),「北風」(野幌公民館),「泥んこ遊び」(江別情報図書館),「雪華」(北見市公民館)

(3)道外の作品

「泥んこ遊び」(蓼科高原芸術の森),「酔っぱらい」(八王子市片倉駅),「恋路物語」(石川県恋路浜),「恋路観音」(石川県恋路浜)

◆「よい子・つよい子」像の検証

前記リストに,「よい子・つよい子像」は記載されていない。それでは,「よい子・つよい子」像の制作者は誰なのか。島松小学校開校七十周年記念事業で建立されたとあるので,まず同校の開校七十周年記念誌に記述がないか調べることにした。

記念誌は恵庭郷土資料館に保存されており,開校七十周年記念誌および以降の開校記念誌(八十周年,百周年など)も含め調べて頂いたが,彫像作者名が記載されていないことを知った。また,市立図書館でも時間をかけて検索していただいたが,それ以外の関連資料を見出すことは出来ていない(12月6日現在)。更に,島松小学校でも,元校長や元教頭,同窓会,地域の方にまで幅を広げて関係者から聞いて頂いたが,「よい子・つよい子像」の作者を確認することが出来なかった。

そこで,彫像に記された「坂1963」のサインから検証する。

(1)材質,技法

上記の坂坦道作品56点のうち多くはブロンズ像であるが,ブロンズ像の制作は昭和40年(1965)以降,北海道女子短大教授となり日展会員になってからに限られ,それ以前はセメント像を制作している。即ち,昭和31年(1956)作品「上岩松発電所慰霊碑」,昭和35年(1960)作品「星座」(北斗高校),昭和37年(1962)作品「協力」(中島中学校)及び「恋路物語」(石川県恋路浜),昭和38年(1963)作品「牧歌」(岩見沢市民会館)は,全て白セメントの彫像である。

島松小学校の「よい子・つよい子像」もセメント製であり,制作年次が昭和38年(1963)とあることから,坂坦道の作品履歴と比較しても,本彫像を坦道作として何ら矛盾はない。本彫像は,坦道が札幌市立中島中学校美術教諭であった時代の作品と言えるだろう。

(2)彫像のサイン

この彫像には「坂 1963」と彫られている。当時の作品群のサインと比べて見ようと岩見沢市民会館を訪れた。両像のサインを比較してみよう。

<牧歌のサイン未確認>

◆陶芸家,加藤和何子さんに聞く

後日になるが,「広報のと第56号(2009.10)」を調べていると,坂坦道の長女である加藤和何子さんが,能登町内浦庁舎に開設される坂坦道作品常設展示場を訪問したとの記事を見つけた。加藤和何子さんの名前は,先の「陶工房 空」で見かけたことを思い出し確認すると,工房主の陶芸家,加藤和何子さんが,坂坦道氏の長女本人であることが分かった。早速,お尋ねした。

「陶工房 空のホームページに記載されている坦道作品が,作品の全てでしょうか」

「一覧表は親族が整理したもの。道内にはこの他にも沢山あると思う」

「島松小学校に,よい子・つよい子像があるかが,記載されていない」

「小学生の頃の話だが,島松,よい子・つよい子という言葉を聞いたような気もする」

「漢字の坂をサインにしたことはあるのでしょうか」

「晩年は,坦(タン)を使っているが,初期の頃はいろいろだった」

そして,島松小学校の「よい子・つよい子」像の写真を送り,ご確認をお願いしたところ,早々に次のようなご回答を頂いた。

「写真拝見しました。坂 坦道の作品に間違いございません。昭和30~39年,札幌市立中島中学校美術教師でした。きっと,その間にどなたかにお世話いただいて制作させていただいたのでしょう。腕が危険な状態になっていますね,彫刻修復の業者さんがあるようです。直していただけるとうれしいです・・・(私信,平成28年12月6日)」

  

◆「よい子・つよい子」像の修復を望む

島松小学校の「よい子・つよい子」像を訪れた折のことである。近づいてみると,白セメント製の彫像は黒く汚れ,空に掲げる子供の手は肘の部分に亀裂が入り,脱落寸前の状況にある。また,台座も崩壊が進んでいる。児童の安全性を懸念して周辺には立ち入り禁止の柵が置かれている。財政難が故に修理のための費用が捻出できないということなのだろうか。

著名な作家の作品が,恵庭の地で朽ち果てるのは忍びない。このままでは,恵庭市民は文化遺産を守ることに冷淡だ,恵庭の文化レベルは低いと言われかねない。

この像が立っているのは教育現場の小学校前庭である。子供たちに,「自然界において,芸術作品とはいえ,物体は朽ち果てるものです」と教えるのか,「もの(芸術)を大切にしましょう,文化保存のために心を配りましょう」と語りかけるか,この彫像は訴えているように思える。島松小の子供たちが毎日この像を見ていることを心に留めたい。

◆補筆

平成28年12月8日,「よい子・つよい子像」の制作者を記載した資料が見つかった。先に関連資料の検索をお願いした恵庭市立図書館から連絡を受け「島松小学校開校110周年記念式典しおり」(恵庭郷土資料館蔵)に記述があるというので,早速確認した。平成14年9月28日,島松小学校体育館で挙行された記念式典のしおりは,表紙に「よい子・つよい子像」のイラストを載せ,由来として以下の説明がある。

・・・由来 七十周年の開校記念に,いつまでも学校に残るものをと考えて製作されたのが「よい子・つよい子」の像です。また,島小の子どもの目標になるようにと願いを込めて「よい子・つよい子」という名前がつけられました。この像の制作者は,彫刻家の坂担道(原文のまま)さんです・・・(後略)。

「よい子・つよい子像」が間違いなく坂坦道制作であることを確認できた。因みに,七十周年記念協賛会会計の中に,記念像部門として12万円が支出されている。

要約

本稿は,①著名な彫刻家「坂 坦道」の初期作品が恵庭に存在すること,②彫像は,長い年月を経て崩壊寸前にあり,補修・保全対策が必要な状況にあることを述べた。島松小学校・同窓会等関係者は修理に向け模索されていると思うが,修復が進むことを期待したい。

なお,本彫像作者の確定調査に対し,島松小学校,恵庭郷土資料館,恵庭市立図書館の関係者及び陶工房空の加藤さんには多大なご協力を頂いた。深甚なる謝意を表する。

2016.12.08


恵庭の碑-15 百二十年の時を経て建立「島松小学校校舎建立跡地」の碑

2016-11-01 16:57:08 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭市の広報誌「広報えにわ」(通巻7712号)は,「路傍の石碑~島松小学校のルーツをたどる~」と題した特集を組んだ。前書きに「明治二十六年,広島街道筋で,6坪の掘っ建て小屋から始まった島松小学校。その後三度の移転を繰り返し,現在地に至る。移転の跡地に,昨年11月,同校同窓会が2つの石碑を建立した。今月の特集では,島松小学校跡地に建立された石碑をめぐって同窓会や子供たちの思いを追う」とある。

さっそく,二つの碑を訪ねよう。

 

◆「島松小学校第1・第2校舎建立跡地」の碑

道道46号江別恵庭線(広島街道)が南十八号道路と交差する地点の信号から西側に入る。現在の道道は改修され直線化しているが,かつての広島街道は西側の高台を迂回していた。現道道江別恵庭線を背にして500mほど走ると高台に出る。高台には畑地が広がっている。途中から右折して旧街道を離れ(地図で確認すると南19号にあたる),進むこと約100mで斜めに左折する道に入る。この道路は,高台を島松川に並行して走り,恵庭墓地の脇を抜け島松沢に通じている。かつては獣道で天然道路と呼んでいたらしい。

斜めの道路の右側に,庭の手入れが行き届いた住宅がある。その庭の片隅,畑地との境界に,道路に面して高さ1mほどの新しい石碑が建っている。石碑の表には「島松小学校第1・第2校舎建立跡地」,横面には「創立120周年記念碑」とあり,裏面には以下の碑文が刻まれている。

「島松小学校の沿革 1893年(明治26年)第1,第2校舎 元士族 大坂与太郎氏が広島街道沿(道々江別恵庭線)現下島松北の丘にわずか6坪の掘っ建て小屋を建てて寺子屋式の児童教育を始めた。 同年校舎東側に12坪の校舎を建てて移る。 大坂氏は日清戦争に出征し戦死されたので,そのあと,山本真氏が教育を引き継いだと伝えられている。 島松小学校創立120周年記念石碑建立(島松小学校 第1,第2校舎建立跡地) 恵庭市立島松小学校同窓会 会長 猪股巌(56期) 副会長 石本弘之(61期) 副会長 原田幸一(64期) 副会長 新保孝(64期) 会計 常光保(72期) 監事 野口宗英(73期) 監事 小野田正和(81期) 元同窓会副会長 伊藤光夫(52期) 校長 平田弘子 教頭 高橋雅城 他同窓会一同 2015年11月」

島松小学校120周年記念事業の一環として,同窓会が2015年11月に建立したことが分かる。記念碑建立に尽力された元同窓会副会長伊藤光夫氏によると(参照:広報えにわ 7712号),実際に校舎があったのは更に100mほど島松沢方向に進んだ場所だというので,その場所に車を止めて周辺を眺める。東側には,畑地が広がり,その先には島松市街地がある。そして西側は林があり,その裏の低地には島松川が流れている。

実は,この場所には記憶がある。すぐ傍の林の中(島松川の沢に向かう坂の途中)には開拓の足跡を示す「康和魂」の碑と「馬頭観世音菩薩」があり,探し求めて訪れたことがあったのだ。これら新旧の碑が,余りにも近くに存立していることに驚いた。

高台は畑地が広がり,現在は恵庭市農業活性化支援センターとホクレン試験農場(かつて北海道農業試験場馬鈴薯研究室)があり,農業技術の研究と普及に努めている。明治の開拓期には「島松学田地」があり,掘っ建て小屋,茅葺の粗末な校舎とは言え,島松の子供たちの教育が始まった場所でもある。この静かな場所に佇むと,路傍の石碑が恵庭開拓の物語を語りかけてくるように思える。

 

 

「島松小学校第3校舎建立跡地」の碑

道道46号江別恵庭線(広島街道)から南18号道路に入る。高台を下ったところがルルマップ川の流れる沢地で,南側に「本田記念病院」,北側には「下北会館」がある。その「下北会館」の南18号道路を挟んだ向かい,病院敷地内に石碑が建っている。高さ1m余り,白御影の碑は未だ新しい。碑の表面に「島松小学校第3校舎建立跡地」,横面に「創立120周年記念碑」,裏面には以下の文字が刻まれている。

「島松小学校の沿革 1894年(明治27年)第3校舎 桑島儀太夫氏 他 有志多数の奉仕により,西八線南18号(現 本田記念病院)にまさふき20坪の校舎を建て移転し「私立島松尋常小学校」を開設した。 3年間この地で教育は続けられた。 1897年(明治30年)第4校舎 9月13日同校を廃校として,原田三十郎氏 他7名の発起人並びに地元住民の総力を以て現在の地(中島松418番地)に校地938坪,寄付金103円60銭,建坪35.5坪の校舎を建設し, 明治31年2月1日をもって公立島松尋常小学校として認可される。 2006年(平成18年)近代的な校舎が同地に新築され現在に至る。 島松小学校創立120周年記念石碑建立(島松小学校 第3校舎建立跡地) 恵庭市立島松小学校同窓会 会長 猪股巌(56期) 副会長 石本弘之(61期) 副会長 原田幸一(64期) 副会長 新保孝(64期) 会計 常光保(72期) 監事 野口宗英(73期) 監事 小野田正和(81期) 元同窓会副会長 伊藤光夫(52期) 校長 平田弘子 教頭 高橋雅城 他同窓会一同 2015年11月」

こちらも,島松小学校120周年記念事業の一環として,同窓会が2015年11月に建立したものである。

ここで,島松小学校の創設について整理しておこう(島松小学校HPによる)

明治26年:広島街道ぞい,下北の丘に6坪の掘っ立て小屋を建て,元士族の大阪与太郎氏が児童の教育を始める。同年,校舎東側に12坪の校舎を建て移る。

明治27年:桑島儀太夫氏他有志多数の奉仕により,20坪の校舎を西8線南18号に建て,私立島松尋常小学校とした。

明治31年2月1日:明治30年9月13日同校を廃校とし,原田三十郎氏他有志多数の寄付をもって,現在の地に35坪5合の校舎を建設しこの日をもって公立尋常小学校として認可された。

とある。本編で触れた二つの碑は,明治26年と明治27年に建立された私立島松小学校の校舎跡地を示す記念碑ということになる。なお,第3校舎建設に係る桑島儀太夫の名前は,廻清次郎・西佐左衛門らとともに,近くの島松寺の創建にもかかわっている(土地を提供し説教所を設けた)。また,現在地に校舎を建設する際の発起人原田三十郎氏は,島松神社創建時の氏子総代でもある。

旧校舎跡地の場所特定に尽力した元同窓会副会長伊藤光夫氏は,これらの場所は登記簿や戸籍などの書類に基づき特定したものではなく(正確な記録は見つかっていない),古老の話や座談会の記録などによって推測したものだと語っているが(参照:広報えにわ 7712号),おおむね正確な場所だろう。

現在の場所から直線距離で3~4km離れた場所において島松小学校が産声を上げたことを,今の子供等は知っているのだろうか。開拓の苦難の中で児童教育の重要性を認識し実践した先人の姿を,教育現場は忘れてはいまいか。


恵庭の碑-14 恵庭テクノパーク「飛翔」の碑

2016-10-21 09:45:44 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

国道36号線恵庭バイパスと道道45号恵庭栗山線に囲まれた,カリンバ緑地を含む一帯が「恵庭テクノパーク」である。或る日,この工業団地の入り口に白御影石の記念碑が建っているのを見つけた。工業団地周辺に植えられた緑地帯の紅葉を眺めていたときである。

 

場所は,道道45号線(基線通りと呼ばれる)を惠南から栗山方向に向かってJR千歳線の跨線橋を渡り,右側に恵庭テクノパークが広がり始めた地点である。この工業団地と道路の間には緑地帯と歩道が整備されており,工業団地入口に「ENIWA TECHNO PARK 恵庭臨空工業団地 恵庭テクノパーク」と書かれた案内塔(案内図がはめ込まれている)が目に入る。その脇に記念碑はあった

碑の正面には,恵庭市長 浜垣 實の筆になる「飛翔」の文字が刻まれている。また,裏面には以下の「碑文」が刻まれている。

「碑文 この地戸磯は 明治十九年頃 ひるなお暗い原始林を厳しい風雪とたたかいながら苦難を克服し 開拓の鍬を打ちおろして百年となる 私共は 当時を想起し 先人のかたがたに深い感謝の誠を捧げる 現在の恵庭市は 北海道の衛星都市として発展をつづけている この地戸磯は 恵庭市総合開発計画に基づき 恵庭テクノパークとして造成されることになった 地権者は郷土恵庭市の限りない発展を望み この開発計画に協力した そしてその証として この碑を建立する 平成元年五月吉日 戸磯東南地区工業団地開発期成会 会長 村上 實」

碑文から分かるように,平成元年(19895月の建立である。先祖が拓いた土地を郷土発展のために提供し,開発に協賛する人々の思いが込められている。基石の裏側には,記念碑建立協賛者の氏名(黒氏正幸,村上實ら30名)が記されている。碑が朽ちて判読不可能になる前に、氏名を記録して置こう。黒氏正行,村上實,前山辰雄,飯田莫則,弘中哲夫,大井重市,上森良一,黒氏勇,五東道信,木村一敏,竹本秀雄,津川重吉,中島正雄,藤本孝雄,駒嶺忠,鷲田ハルエ,姉崎健吾,臼澤秀雄,黒氏文子,佐々木藤雄,杉本清松,杉本廣男,中村行雄,大井茂,川島康次,松田清一,古田セツ,駒谷信幸,清田ハナ,木村チヨの30名である。また,碑の建立及び碑文彫刻は恵庭市加藤石材の石工とある。

恵庭工業団地(北柏木町)「拓望」と同様,この碑は歴史の中でどのように受け継がれて行くのだろうか。

恵庭市では総合開発計画で,「恵庭テクノパーク」「戸磯・惠南工業団地」「恵庭工業団地」「島松工業団地」「戸磯軽工業団地」の五つの工業団地を設け,工業専用地域に指定している。それぞれの工業団地は,交通の利便性,地質・地盤・用水・排水・電力・通信等施設整備,居住性などの利点を挙げて工場誘致を進めている。また,団地周辺は環境整備が行われ,地域住民の雇用促進も図られている。

恵庭テクノパークは「先進的な設備と快適なアクセスが,未来の技術を切り開く」と謳っている。現在76企業が活動しているというが,各企業のさらなる飛翔を期待したい。


恵庭の彫像-15 恵庭市民会館にある「双体童(わらべ)像,YÛKÔ」

2016-08-14 16:44:52 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

平成28年7月の或る日,恵庭市民会館エントランスホールにある小さな石彫刻が目についた。近づいてみると,台座のプレートに「YÛKÔ,友好都市提携記念,2016.3.26,寄贈静岡県藤枝市」と記されている。恵庭市と藤枝市の友好都市提携協定締結を記念して,藤枝市から贈られたものである。作者は,石彫家の杉村孝。

 

◆友好都市「藤枝」

筆者が静岡県東部(伊豆国)の片田舎にある高校生だった頃,進学校でありながらサッカーも強い高校が駿河国藤枝にあると認識したことが,藤枝市を知る最初だったと思う(サッカーでは中山雅史,長谷部誠等が知られる)。それから50余年後,第二の故郷となった恵庭市が藤枝市と友好都市提携を結んだとのニュースがあり,同郷人として「藤枝」を再び意識することになったのである。友好都市の交流は災害時相互応援協定など具体的な形で動き出しているので,ウイン・ウインの関係が発展することを期待したい。

ところで,藤枝市は静岡市の西方に位置する人口14万7,000人余りの市である。江戸時代は東海道22番目の宿場町であり,直轄地である駿府の西の守りとして田中城が置かれ,幕末の本多家の時代には水戸藩の弘道館と共に武道の二関と呼ばれた「日知館」があったことでも知られる。かつて,伊豆下田出身の儒学者石井縄斎の経歴を調べていたとき,彼が日知館の創設に関わり漢学師範を務めたことを知った。いろいろな場面で繋がりは出てくるものだ。

◆杉村孝作品「双体童(わらべ)像」

恵庭市民会館にある「双体童(わらべ)像」の姿は,二人の子供(童)がしゃがんで肩を寄せ合い,互いの人差し指を胸の前で合わせている。地蔵尊のように細部に拘らない素朴な造形で,安らぎを醸し出す雰囲気がある。顔と身体のバランスから童(わらべ)であることに間違いないが,表情に子供らしい無邪気さはなく,むしろ悟りを開いた仏の顔だ。固く結んだ口元,二人が合わせた指先に,意志の強さが感じられる。作品には,平和を願う気持ち,友情・友好を高めて行こうとの思いが込められているように思える。作者のコメントには,「ふたつの市が仲良く寄り添い,友好の絆を深め,手を取り合いながら発展していく願いを込めて制作した作品です」とある。

俗に「双体地蔵」(一組の人像を並列させた地蔵尊)と呼ばれる地蔵尊(道祖神)があり,長野,山梨,静岡,群馬,神奈川県などに多く残されている。多くは江戸時代以降設置されたものであるが,路傍に置かれ,村落とそこに住む人々の安寧を見守っている。この双体童像の佇まいは,広い目で見れば双体地蔵の延長線上にあるのではなかろうか。

作者の杉村孝は,昭和12年(1937)藤枝市の石材店の三男に生まれ,小学校時代に右目を失明,その後石彫の世界に入ったという。市民会館の彫像には「・・・石彫刻・北川薫に師事。太平洋美術学校に学ぶ。中日展,富嶽文化賞展,現代美術展記念展などの美術展で受賞経験をもち,数々のわらべ地蔵の制作でも知られている。日本美術家連盟会員」と作者紹介文が付されている。

杉村孝の作品は多いが,藤枝市の滝の谷不動峡にある高さ10m,幅7mの不動明座像(磨崖仏,1981年から8年の歳月をかけて刻んだ作品),京都三千院の庭などに置かれた童(わらべ)地蔵の作品群,藤枝市岡部町の「おかべ巨石の森公園」に置かれた249トンのモニュメントなどが良く知られている。

中でも,童地蔵作品群の愛好者は多い。「可愛い」と表現する人もいれば,「悲しみを癒された」と語る女性もいる。恵庭市民会館の彫像は,その形から見て童地蔵の範疇に入るだろう。わらべ像の表情は穏やかである。「悲しみも苦しみも引き受けます」と寛容さを滲ませている。

その他,作者杉村孝に関する出版物があるので紹介しておこう。石彫家フォトエッセイ「わらべ地蔵,悲しみを地蔵さんにあずけて・・・」(藤原東演・杉村孝,鈴木出版1996),「石屋の小僧が彫刻家になった途々の話」(杉村孝,静岡新聞社1995),「独眼竜一石,杉村孝といふ男」(岡村直子,静岡新聞社2015)などである。

彼に関する資料や作品を眺めていると,制作モチーフの根底に脈打つのは弱者に対する思いやり,平和を願う心,反戦・反権力であるように思える。彼にとって作品制作自体が平和活動であるのかもしれない。「数奇な人生」という言葉も目についたが,行動が真摯であるが故の評価であり,彼はむしろ芸術家として純粋さを評価されたと喜んでいるかもしれない。

恵庭市民会館を訪れる楽しみが,またひとつ増えた。