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豆の育種のマメな話

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恵庭の古道-5 「孵化場道路(牧場道路)」

2022-12-25 12:46:51 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

役目を終えた、古道

大日本帝国陸地測量部による明治29年製版地図(長都1/50,000)に、室蘭街道の漁村市街地から山越えで南に延びる一本の道路(小路)があるが名前は書かれていない。時代が移り大正9年版の地図(漁1/50,000)になると、この道路は「孵化場道路」と記されている。漁(恵庭)から孵化場(千歳)に通じる道路という意味だろう。

  

  <図:明治29年版地図(長都1/50,000)と大正9年版の地図(漁1/50,000)>

◇孵化場道路

札幌本道(室蘭街道)を漁川第二幹線用水路が横切る辺り(帷宮碑の脇)を起点とし、当時の種畜場放牧場、上長都、学田を経て千歳市蘭越(千歳川)に抜ける道路。現在の地図に重ねると、旧々国道(市道恵庭線、クラーク博士通り)泉町から駒場町、恵庭公園、陸上自衛隊南恵庭駐屯地を抜け千歳市蘭越に至ることになる。現在このルートは通行できない。

千歳川(千歳市蘭越)に初の官営孵化場(現、北海道区水産研究所千歳さけます事業所)が設置されたのは、明治21年(1888)のことであった。この千歳の「さけます孵化場」に抜ける道路を「孵化場道路」と呼んだ。

なお、官営漁村放牧場は明治9年(1876)エドウィン・ダンの選定により、北海道開拓使が「真駒内牧牛場」を札幌郡平岸村(現、札幌市南区真駒内)に、漁村放牧場を現在の駒場町惠南地区に開設したことに始まる(真駒内放牧場の附属牧場。地図には種畜場出張所・種畜場牧場とある)。牧牛場は明治19年(1886)「種畜場」に名称変更、その後も「北海道庁種畜場」「北海道農業試験場畜産部」と名前を変え、昭和21年(1946)には用地が進駐軍に接収されたため新得町に移転した(新得へ移転後は「北海道立種畜場」「北海道立新得種畜場」「北海道立新得畜産試験場」「北海道立畜産試験場」「道総研畜産試験場」となり現在に至る)。

新千歳市史(平成31年)に詳細な記述がある。

・・・「躍進千歳の姿」に、当時の鮭鱒孵化場の思い出を収録した部分がある。「千歳孵化場からの交通としては、千歳市街地迄二里は荷馬車が辛うじて通る程度で夏季にでもなれば路傍の雑草が人の背丈にも伸びて、雨の時などは身体がヅブ濡れという始末、それでもタマに買物に出たり、或は山越して二里半の恵庭村に散髪に出るのは楽みの一つであった(当時千歳村には理髪店がなかった)。役所を退けてから散髪に行って髪を刈って帰れば馬で行っても帰りは夜の十時頃にもなった。かなり悩んだものである。」

この「山越して二里半」の道が孵化場道路である。もちろん孵化場の役人ばかりでなく、札幌から支笏湖へ行くルートとしても利用された。恵庭(漁)から孵化場までの道筋は、現在の恵庭駅前通りと江別恵庭線との交差点から千歳寄り漁川第二用水横を道なりに南下し、途中から恵庭公園内を陸上自衛隊南恵庭駐屯地の正門まで縦断する。正門からは駐屯地の中心道路を南下し、道央自動車道を跨ぎ演習場内を千歳の境界まで抜け、急な沢を渡り孵化場に至る経路である。漁村の行政区域内では牧場道路といわれていた。

この道は孵化場設置の明治21年(1888)以降に地図に現れる。実際この道路をいつ頃まで利用していたかは定かでない。大正時代にはこの道路沿いに、付近の炭焼きを営む者の子弟のために蘭越教授所があったと言われる。長都街道、釜加街道と同じく町村道として認定されなかった里道であったが、昭和14年の北海道庁道路課による「北海道道路図」にも示されている重要な生活道路であった。昭和29年前後にその道筋のほとんどが自衛隊(北千歳駐屯地及び南恵庭駐屯地)管理地に包含され、道路としての役目を失うことになった・・・(新千歳市史p719)。

 


恵庭の古道-4 「恵庭街道」「盤尻街道」

2022-12-23 18:02:03 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

新恵庭市史(令和4年刊)に記載されている恵庭村主要道路は、前項の「釜加街道」「漁街道」の外に「恵庭街道」と「盤尻街道」がある。「恵庭街道」は現在の道道600号島松千歳線、「盤尻街道」は道道117号恵庭岳公園線。道路法改正に伴い起点終点など一部変更があったものの、現在も恵庭の主要道路ある。

現在の主要道路を古道と呼ぶのかとの異議はあるだろうが、これらの道路は明治時代から大正、昭和にかけて人々が「街道」の名前で親しんだ道路。古道と呼んでも差し支えあるまい。

◇恵庭街道

明治24年(1891)から始まった殖民地区画の測設によって引かれた区画道路を基本に整備されたもので、千歳と恵庭を結ぶ道路。入植が進み当該地域に住む人々が多くなると、この街道の利用頻度が高まり現在に至っている。現在の島松千歳線は起点が恵庭市島松(道道46号江別恵庭線交点)、終点は千歳市北信濃(国道36号交点)の17.5kmである。

かつての「恵庭街道」について、新千歳市史から引用する。

・・・大正9年の道路認定台帳では祝梅94番地から釜加92番地までの(略)町村道となっている。千歳村管内図-管内道路網一覧図では、千歳由仁道路からネシコシ橋を渡り南26号を恵庭に向い東5線を南21号まで北進し島松につながる道の東三線までとなっている(注、東三線が千歳と恵庭村の境界)。その後、農村の幹線道路として重要度を増し、その経路を国道36号新富1丁目からの東9線から南26号で恵庭に向かう経路に変更となり、昭和43年に一般道道島松千歳線として認定された(新千歳市史p720)・・・とある。

現在は、「恵庭街道」と呼ぶことも無く一般道道600号島松千歳線として認識され、利用頻度が高い道路である。

◇盤尻街道

恵庭市街から盤尻地区に延びる道路。昭和57年(1982)道道339号光竜鉱山恵庭停車場線から名称変更して主要地方道(道道117号恵庭岳公園線)となった。現在の恵庭岳公園線の起点は恵庭市盤尻(国道453号交点)、終点が恵庭市本町(道道46号江別恵庭線交点)の29.3km。

かつての「盤尻街道」について新恵庭市史(令和4年)から引用する。

・・・盤尻地区の主要道路である道道117号恵庭岳公園線は「盤尻街道」と呼ばれ、茂漁から盤尻に入り漁川に沿って進む道で、当初は刈株だらけの細い路だった。途中に盤尻橋があるが、昔は川底が岩盤で流れが急なため、何度か流されてことがあったという。

盤尻小学校を過ぎると、道路は崖を避けて左側の台地に登る。ここにあった坂は、薩摩豊次郎が近くに住んでいたことから「薩摩の坂」と呼ばれ、馬車が登るには難所であった。「薩摩の坂」付近の分岐点から左へ進むと下り坂になるが、官有林の中を通っていた坂のため、「官林の坂」と呼ばれた。

明治41年には農作物の搬出のため、幅員九尺の漁農道が3,023間、大正3年に400間、計3,423間(6,162m)が開設された。左側の道路は「中道」と呼ばれ、約8kmで恵庭市街に下っていた。この道は下り一方であるため、いくつかの坂道がある盤尻街道に替わって一時盛んに利用されたという。千歳から紋別川への自動車道ができると、この方面の産物が千歳へ運ばれるようになり、ほとんど使われなくなった(新恵庭市史p213-214)・・・。とある。

 

盤尻の開拓は、官有地と御料との払い下げを受けた入植者によって、明治34年頃から始まった。盤尻は木材の切り出しや薪炭製造など山で働く人が多く集まり、また発電所建設や軌道施設工事などで一時期は大変な賑わいを見せた。道路が整備されてトラック輸送が主体になる昭和30年頃から盤尻を離れる人々も多く、盤尻小中学校も恵庭小学校に統合され廃校となってしまった。

現在、道道117号恵庭岳公園線は「えにわ湖」「恵庭渓谷、白扇の滝、三段の滝、ラルマナイの滝」など自然美豊かな場所で観光に訪れる人々が多く、支笏湖へ抜ける道程としても人気のコースとなっている。


恵庭の古道-3 「長都街道」

2022-12-17 16:48:56 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

消えた「長都街道」

弘化3年(1846)松浦武四郎は二回目の蝦夷地探査の折、江別から舟で千歳川を遡った。再航蝦夷日誌にその時の詳細な記録を残している。再航蝦夷日誌によると、当時の交通は主に河川を利用していたが、イザリブト(漁太)からチトセ(千歳)までアイヌの人々が往き来する陸路(里道)があったとされる。

関連する部分を引用する。イザリブトの説明の中で「扨此処より公料のせつは、チトセ迄陸道有し由なれども今は其道絶たり。実におしきものぞと思うなり。凡そ陸にて五里半と聞けり」と記し、カマカの説明では「此処より小川を五、六も渡りてチトセへ行く道あるよし聞侍りけり」、チトセの説明では「イザリブト従り六里。此間寛政度には陸道有し由。今はわずかに存せる斗なり。夷人共は是を往来す。願はくば此道筋を開き置度事ぞ」とある(新千歳市史2019、大林千春「武四郎が見た恵庭」えにわ学講座2019)。

大日本帝国陸地測量部による明治29年製版地図「長都1/50,000」、「胆振国千歳郡千歳原野区割図」(北海道庁、明治30年初刷)をみると、里道は「カマカと漁」「オサツと千歳」を結ぶ道路以外はない。前者は「釜加街道」、後者が「長都街道」と言うことになろうか。長都沼及び千歳川流域は多くが沼地・湿地帯であるが、漁太と千歳を結ぶ道路は何処を通っていたのだろうか。

 

◇長都街道

新千歳市史(平成31年)から「長都街道」解説文の一部を引用する。

・・・安政4年(1857)、当時の箱館奉行堀織部正は一行三十余名で函館を出発して蝦夷地巡検に向かった。・・・随行者の中に仙台藩士玉虫左太夫がいた。彼が蝦夷地で見聞きしたものを日記に書き記したものが「入北記」である。ユウフツからチトセを通ったときの記録の中で、当時の千歳とオサツの情景を表している部分がある。

・・・「千歳川ヲ渡リ、川筋通リ一丁斗リ行キテ平林トナリ、又行ク十丁斗ニシテ追分ノ杭アリ。左ハイシカリ境シママフ道新道ナリ右ハヲサツ道ト記シ置ク。(略)漸クヲサツニ至リケレバ同処ニ土人家八九戸アリテ至極幽栖ノ処ナリ。此処ニ川アリ。ヲサツ川ト云フ」(玉虫左太夫「入北記」1857)・・・

・・・「右ハヲサツ道」といわれたものが、千歳市街地からオサツを通ってイザリブトに通じる六里の道で「長都街道」として昭和末年頃まで人々の記憶にあった旧道である。(略)おそらくイザリブトからオサツまでの間は、利用目的の喪失や湿地帯という交通路としての利便の悪さから廃れたが、オサツから千歳までの間はアイヌの人たちの生活路として存続していたのだろう。(略)大正9年、千歳村が行った道路名認定作業で長都街道として道路台帳に記載された道は、東六線の直線道路であり斜めの道ではなかった。昭和10年頃の千歳村管内図-管内道路網一覧図では、地方費道、準地方費道や多くの村道が色分けされそれぞれに道路名が記載されている中で、認定前の「長都街道」には名称の表示がない。その経路は、現在の国道36号錦町四丁目付近から、北栄の高台の則面下に沿ってJR千歳線を越え、高台通(東十一線)沿いの道央農協千歳支所付近から末広小学校、富岡中学校方向へ斜めに長都まで続いている。長都街道は昭和五十五年の段階で地図上から消滅しているが、その傷痕をわずかにみることが出来る場所がある。そこは老人福祉施設暢寿園裏の雑木林内をふれあいセンターのゲートボール場に出る僅か10mほどと、その延長上の富岡中学校敷地までの間である・・・

大日本帝国陸地測量部による明治29年製版地図「長都1/50,000」、「胆振国千歳郡千歳原野区割図(北海道庁、明治30年初刷)」に描かれているオサツと千歳を結ぶ道路が「長都街道」と呼ばれていたことは間違いない。

 

◇イザリブト(漁太)とオサツ(長都)を結ぶ陸路

ところで、イザリブトとオサツを結ぶ陸路は何処にあったのか。新千歳市史では「イザリブトからオサツまでの間は、利用目的の喪失や湿地帯という交通路としての利便の悪さから廃れた」と推察しているように地図上にも経路の痕跡はない。

再興蝦夷日誌には寛政の頃にはあったと書かれているので、松浦武四郎から遡ること50年ほど前(1,800年頃、11代将軍家斉の時代、伊能忠敬の蝦夷地測量が行われた頃)にはアイヌの人々が往来する里道が存在したのだろう。

イザリブトから千歳川沿いにオサツを通りチトセまでの距離を地図上で辿ると約14-17km(4里)、イザリブトから漁川沿いに上流へ向い、漁、戸磯を経てオサツに抜けると仮定した場合は約20-24km(5-6里)である。再興蝦夷日誌によるとイザリブトと千歳間の距離は5里半~6里(24-22km)とあるので、イザリブトからオサツに至る陸路は後者の可能性があるが、確証はない。

6里と言えば徒歩で凡そ6時間ほどかかる道程、どこかにその痕跡か記録が残されていないだろうか。

追記:2023.9.5

澁谷さん外数名の方から、恵庭駅から札幌方向約200mの踏切に「長都街道踏切32k805m」の標識があると教えられた。この標示によれば、長都街道はこの地点を抜け恵庭小学校の脇を通り漁市街へと通じていたことになる。この踏切から長都への経路は確定できないが、南26号(戸磯黄金通)か南25号(黄金中島通)沿いだったのだろうか。南26号だとすれば「漁街道」に重なってしまう。 

いずれにせよ、この踏切の場所は「釜加や長都」に通じる街道の道筋と言える。今も南北に通じる基幹用水路が残っている。


恵庭の古道-2 「漁街道」

2022-12-15 14:14:41 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

オサツ(長都)と恵庭(漁)を結ぶ「漁街道」

カマカ(釜加)と恵庭(漁)を結ぶ生活路を「釜加街道」と呼んでいたと前項で述べた。同様に、オサツ(長都)と恵庭(漁)を結ぶ道は「漁街道」と呼んだ。オサツ(長都)はオサツ川とユカンボシ川が長都沼に注ぐ河口近くにできた集落で、アイヌ語のオ・サツ・ナイ(川尻が乾く川)から名付けられた。長都村と漁村は同じ生活圏を形成していたと考えられている。明治29年製版大日本帝国陸地測量部地図「長都1/50,000」に記載はないが、里道らしきものはあったに違いない。

◇漁街道

植民区画で基線・号線道路が整備されるに伴い、長都の人々は恵庭(漁)に向かう生活路として「南26号」道路を頻繁に使うようになったと考えられている。長都集落から南26号道路を経て現在の戸磯黄金通を進み、恵庭駅の北側を過ぎて鉄道を越え、恵庭小学校の横を通り漁市街に至る道路である。その後、漁街道の起点・終点は若干の変更があったようだが、南26号道路が主幹であった。そして今なお南26号線は国道36号線の裏街道として交通量が多い(漁街道とは呼ばないようだが)。

新恵庭市史の記述は新千歳市史(平成31年)を引用しているので、本項では新千歳市史から引用する。

「長都・釜加地区の人々が恵庭(漁)に通うもう一つの道が漁街道であった。この道は、南26号を恵庭に向い、東3線を越え恵庭駅の北側を通り鉄道を越え恵庭小学校の横を過ぎて漁市街地に通じていた。戦前は長都小学校に高等科が設置されておらず、長都・釜加地区の子で高等科進学を希望する者は恵庭小学校か松恵小学校の高等科を選択するしかなかった。長都の子の多くはこの道を恵庭小学校に通ったのである。

大正9年の町村道認定台帳では、現国道36号と東6線交点付近長都158番地を起点に長都62番地(注、東3線)までの1,111m(注、誤記か? 実際は4km強ある)となっているが、昭和34年には南26号道路と名称変更され、起点は長都の東10線、終点は長都の東3線となった」とある。

 

「漁街道」の名称は、長都・釜加など千歳に住む人々の命名だったのではないか。漁に住む人々から見れば長都街道と言う方が自然な発想だと思うが如何だろう(別に、長都と千歳を結ぶ長都街道と呼ばれる道路があった。この道が漁市街まで繋がっていた道筋は分からない)。

 

追記:2023.9.2 渋谷さんから新千歳市史引用の誤記(1,111m)を指摘された。地図上で測定したところ、およそ4,400mだった。ご指摘有難うございました。


恵庭の古道-1 「釜加街道」

2022-12-14 17:13:30 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

カマカ(釜加)と恵庭(漁)を結ぶ「釜加街道」

大日本帝国陸地測量部による明治29年製版地図「長都1/50,000」をみると、嶋松村、漁村、長都村、千歳村の当時の状況がよく分かる。長都沼及び千歳川流域は多くが沼地・湿地帯で道路がなく、陸地は落葉樹で覆われ農耕の形跡が見当たらない。

本地図に描かれている道路は少ない。明治6年(1873)に開通した札幌本道(室蘭街道)が北西から南東に延びていて、自札幌至函館道と記載されている(注釈に「大路」とある)。その「大路」に数本の「小路」が繋がっているが、名前は記載されていない。

その中の一つに、カマカ(釜加、現在の千歳市釜加地区)と漁市街(現在の恵庭市)を結ぶ道路がある。本道は明治、大正、昭和初期にかけて「釜加街道」と呼ばれた住民の生活路である。明治23年(1890)から始まった北海道植民区画制度により、千歳原野にも号線区画道路が引かれ耕地化が進むと本街道は次第に利用されなくなり、この古道の形跡は一部でしか見ることが出来ない(風防林が一部残っている)。

◇釜加街道

「釜加街道」は南20号・東5線のカマカ集落を起点とし、基線南24号地点まで斜めに横断し、漁墓地(現、恵庭ふるさと公園)の間を抜け、室蘭街道沿いの漁市街に通じる道路。漁村・釜加・長都地区住民の生活路であった。

明治23年(1890)から北海道植民区画制度により千歳原野でも測量が行われ基線・号線が引かれた(明治26年完成)が、その時の「胆振国千歳郡千歳原野区割図」(北海道庁、明治30年初刷)にも号線を斜めに横切る釜加街道が描かれている。この図面を現在の道路と重ね合わせると釜加街道の道筋を知ることが出来る。

大正から昭和にかけて道路整備と入植開墾が進むにつれ、釜加街道は一部の利用を残しながら次第に号線道路へ置き換わって行く。大正5年(1916)、昭和30年(1955)測図の地図をみると、その過程を知ることが出来て面白い。

なお、「新千歳市史(平成31年)」「新恵庭市史(令和4年)」に釜加街道の記載がある。新恵庭市史は新千歳市史からの引用なので、新千歳市史の概要を引用する。

「・・・起源は明らかでないが、アイヌの人たちが通行した里道であったと考えられる。近代に入ってからは、釜加地区の人々が恵庭(漁)に日常的に通うための道となった。明治27年印刷の北海道庁作成「胆振国千歳郡千歳原野区割図」には、南20号東五線の釜加集落を起点とし、号線で区画された原野を基線南24号地点まで斜めに横断し、当時の漁墓地の間を抜けて室蘭街道沿いの漁の街に通じる道路が記されている。

千歳と恵庭は成立過程や開拓移民の出身地など共通項が多い。ことに長都・釜加地区は行政区が接していることもあり親しみの度合いは深かった。明治31年に長都村と漁村の境界を東三線と定めるまで、両村の境はカリンバ川としていたことから釜加地区の一部が漁村に編入されていたなど両地域住民の生活は混然一体となっていた。・・・・また、用水組合が一緒だったり、小学校の高等科が長都になかったため恵庭小学校へ通ったり、冠婚葬祭を含め一つの生活共同体と言う意識だった(注:長都から千歳まで7km、恵庭まで4km)。この道は大正から昭和にかけての耕地整備や宅地化の進展により、昭和40年代までに地図上から消えた・・・」(新千歳市史通史編上巻p716-717)。

*カマカ(釜加)

千歳市釜加地区は千歳川長都大橋の下流左岸に広がる地域、現在の千歳市埋蔵文化財センター北側に位置し農耕地が広がっている。当時は南20号・東5線付近を中心に小さな集落があった。

河川が交通の主流だった時代には、この地に船着き場、番屋、弁天社があった。松浦武四郎が蝦夷地探査で二回目に訪れた弘化3年(1846)、江別から舟で千歳川を遡った折の記録(再航蝦夷日誌)には、シママップ(嶋松)、イザリブト(漁太)に次いでカマカ(釜加)の記述があるので引用する。

「カマカ、イザリブト番屋より三里と聞けり。此処湖水の侍にして茫々たる見通しなり。西南シコツ嶽、東北にユウバリ嶽見ゆる。湖水の岸皆川柳、蘆萩繁茂し番屋1軒あり。此処へ上陸し中飯するなり。弁天社あり。蔵あり。夷人小屋あり。土地肥沃にして野菜もの能く出来たり。・・・扨此辺鹿多きやらん。湖水え鹿の足を多く枹としてひたしありたり。皆食料に用ゆ。又夷人小屋の前に菱を莚に干したり。是また此処の食料か。熊、鷲を家毎かい、夷人皆鹿皮を着す。其形他場所の夷人と大いに異れり。此処より小川を五、六も渡りてチトセへ行く道あるよし聞侍りけり。」(大林千春「武四郎が見た恵庭」えにわ学講座)。

*北海道の殖民区画

北海道の開拓は明治2年(1869)の開拓使設置にはじまり、明治7年(1874)には屯田兵制度が導入されたが、明治19年(1886)の北海道庁設置により北海道開拓は新たな段階を迎えることになった。

北海道庁は入植地として適当な土地を調査し区画測設を行う殖民地選定事業(明治19年開始)を実施した。植民区画は先ず、基準となる南北方向の「基線」とこれに直交する「基号線」と呼ばれる道路を定め、そこから300間(546m)ごとに格子状の道路を造った。基線に並行して引かれた道路を「東〇線」などと呼び、基号線に並行して300間ごとに引かれた道路を「南〇号線」などと呼んだ。こうしてできた道路に囲まれた300間四方の画地30町歩(ha)をさらに150間×100間の小画6個に分け、この小区画5町歩(ha)を開拓農家営農の単位としたのである。

この制度は19世紀アメリカやカナダにおいて原野開拓の基礎となったタウンシップ制を真似たものと言われ、開拓使顧問のホーレス・ケプロンの指導による。札幌農学校一期生で土佐出身の内田瀞󠄀らが植民地選定・区画割に当った。

区画測設が行われ、道路、保存林、市街地、公共用地などの配置が決定されると1/2,5000の殖民地区画図が刊行され、これに基づいて移住者への土地の処分が行われた。北海道の郊外農村の道路が碁盤目に統一され、外国風景に似ているのは此の制度の結果と言えよう。

前述の「胆振国千歳郡千歳原野区割図」をみると、基線道路幅は10間、その他線号道路幅は8間と記されている。


恵庭の碑-25, 茂漁川(恵庭市)「モニュメント翠光」の作者は、誰?

2022-03-05 10:44:14 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

「モニュメント翠光」作者を知りませんか?

恵庭の茂漁川河川緑地に「モニュメント翠光」がある。モニュメントは、石を重ねた石柱の上に「川の流れと小鳥の造形」。市の鳥「カワセミ」をモチーフにした作品である。このモニュメントの作者は誰なのか、ずっと気になっていた。そこで、銘板に記された寄贈元(財団法人リバーフロント整備センター)なら作者を把握しているのではないかとお尋ねした。その結果、制作設置会社まで辿りついたが作者名を知るまでには至っていない。どなたか情報をお持ちでしたらご教示ください。

◆問い合わせ概要(2022年2月2日)

公益財団法人リバーフロント研究所 様 

・・・北海道恵庭市の一級河川「茂漁川」の河川緑地に、同封した写真のような記念碑「モニュメント翠光」が建っています。説明板には、貴研究所(リバーフロント整備センター)からの寄贈と記されています。

御案内のように、茂漁川は1990年(平成2)に「ふるさとの川モデル事業」の認定を受け、素顔の水辺づくりをテーマに整備が進められ1997年(平成9)に完成した事業(平成19年度土木学会デザイン賞2006優秀賞)ですが、標記のモニュメントは事業の完成に合わせ貴研究所から恵庭市に寄贈されたものと存じます。

現在、小生は恵庭市内の記念碑や彫像を調査し資料として取りまとめていますが、本モニュメントの制作者が分からず調査中です。市役所に問い合わせましたが記録がないとのことでした。古い話で恐縮ですが、貴センターが制作を依頼されているのではないかと考え、お尋ねする次第です。「モニュメント翠光」の制作者が分かりましたらご教示頂けると幸甚です・・・

 ◆公財リバーフロント研究所からの回答(2022年2月9日)

リバーフロント研究所からは懇切丁寧な回答を頂いた。お忙しい中でのご対応に感謝申し上げる。

・・・恵庭市市内の記念碑等の調査、資料活動をされておられること、すばらしいこととして敬服しております。その活動に、(公財)リバーフロント研究所としても、お力になるべく、茂漁川の「モニュメント翠光」の問い合わせにつきまして過去さかのぼって調べてきましたが、残念ながら資料が残されておらず、当時担当された方も詳細な記憶はないとのことでした。モニュメントの制作設置会社の記録はありましたので、そちらにも問い合わせをいたしましたが、現在存続はしていないのか連絡が取れない状況でした。

丁寧な手紙までいただいたところで誠に申し訳ないですが、現状をご報告させていただきます。継続的に把握には努めたいと思いますので、なにか新しいことがわかればご連絡させていただきます・・・

◆制作設置会社に関する情報(2022年2月10日)

北海道内会社の制作なのかと思い、重ねて制作設置会社についてお尋ねしたところ次のような情報を頂いた。

・・・制作設置会社は「前田屋外美術(株)」ですが、倒産しています。「前田環境美術(株)」に社名変更したようですが、昨日電話をしたところ現在使われていないようなので・・・

発注先の制作設置会社は東京都渋谷区に本社を置き、設計・製作・施工までの事業を全国展開していた会社。倒産、社名変更などの事情があった模様で連絡が取れていない。現時点では社内の技術者が設計施工したものか、外部彫刻家へ依頼した作品なのかも判断できない。制作者探索の旅をもう少し続けて見よう。

◆恵庭の記念碑-20、茂漁川河川緑地の「モニュメント翠光」

(拙ブログ2018.11.6抜粋)

・・・恵庭市西方の大地(自衛隊北海道大演習場、えこりん村)に源を発し、恵庭市街を東に向かって流れ、漁川(石狩川水系千歳川支流)に注ぐ一級河川の「茂漁川」。この茂漁川が旧道(元札幌新道)と交差する河川緑地(柏木町4丁目、新茂漁橋のたもと)に「モニュメント翠光(すいこう)」がある。

モニュメントは、石を重ねた石柱の上に「川の流れと小鳥の造形」。石柱にはめ込まれた説明板には「樹木の翠(みどり)と茂漁川のせせらぎが美しいこの水辺で翡翠(カワセミ)が舞う姿を表現したものです」とある。見上げると4羽のカワセミが置かれ、餌を狙う姿、小魚を嘴にくわえた姿が目に付く。右端の2羽はオスがメスに獲物をプレゼントする求愛給餌の姿なのだろうか。

台座には、「この茂漁川水辺空間の新しいシンボル“モニュメント翠光”は宝くじの普及宣伝事業として整備されたものです 平成9年3月 恵庭市 寄贈財団法人リバーフロント整備センター(注、現公益財団法人リバーフロント研究所) 協賛財団法人日本宝くじ協会」と書かれたプレートがはめ込まれている。

茂漁川は漁川と共に恵庭市民のいのちと暮らしを育んできた「母なる川」、市民に愛される河川である。古来より鮭が遡上する清らかな河川として知られていたが、戦後の河川工事で自然が破壊されたことから、1990年に「ふるさとの川モデル事業」で川底に自然の土や石を戻し、水際に柳を植えるなど緑化護岸を行い、茂漁川は緑豊かな河川に生まれ変わっている。両岸には遊歩道が整備され、今では市民の散策コースの一つとなり、バイカモの群生地、カワセミの観察できる環境として高い評価を得ている。

このモニュメントは、整備事業の完成後に水、水辺、生態系を守り、自然と調和した防災まちづくりを目指すリバーフロント整備センターが市に寄贈したもの。モチーフは恵庭市の「市の鳥」であるカワセミである・・・


恵庭の「クラーク博士通り」

2022-02-17 14:04:18 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭に「クラーク博士通り」と呼ばれる道がある

恵庭市を通過する国道36号線は現在、恵庭市街を迂回する「恵庭バイパス」となっているが、1996年(平成8)までは市街の中心部を横切っていた。最初の国道は1873年(明治6)に開通した「札幌本道(室蘭街道)」で、この道路を中心に市街地が形成されて行った。二回目の変更は1952年(昭和27)に制定された新道路法に基づく一級国道で、高規格水準の舗装化・直線化が進められ「弾丸道路」と呼ばれた。バイパスが出来るまではこの道路が国道36号線だった。

多くの市民は昔の国道36号線を、現在の国道(恵庭バイパス)に対比して「旧国道」「旧々国道(旧道)」と呼んでいる。恵庭バイパスが完成した後、旧国道は北海道道46号江別恵庭線に組み込まれたが、道道46号と言うよりは旧国道と言った方が分かりやすい。しかし、「旧々国道」と呼ぶのは何とも変な言い方だ。

分かりやすい呼び方はないものかと探していたら、郷土史研究家某氏が「クラーク博士通り」命名運動の顛末を教えてくれた。旧々国道はかつての札幌本道(室蘭街道)であるが、札幌農学校教頭クラーク博士が島松沢で学生たちに「ボーイズ・ビー・アンビシャス!」の言葉を残して帰途に着いた所縁の道路だから博士の名前を残したいとの発想である。町内会や商店街の方々に意見を聴くなどしたが、この名前は定着しなかったようだ。

そんな話を思い出しながら旧々国道を歩いていたら、漁川にかかる恵庭橋の欄干に「クラーク博士通り」「青年よ 大志をいだけ」のプレートがはめ込まれているのを見つけた。当時の名残なのだろう。「クラーク博士通り」はまだ市民権を得ていないと思っていたが、2022年現在、Google Mapsにこの名称が記載されているので愛称として定着するかもしれない。なお、この通りの漁町商店街では「遊ingロード1番街」と名付けて、花いっぱい商店街活動を続けている。これも、かつて栄えた歴史ある通りを活性化しようとする試みである。

道路の名称

道路の名称は、①通称名や愛称名、②道路法の路線名、③都市計画道路名等に大別される。先の「クラーク博士通り」は通称名(愛称名)。通称名は市民の中に定着してこそ通じる名称である。

*道路法の路線名

道路法(昭和27年6月10日法律第180号、最終改正:令和2年5月27日法律第31号)の第三条「道路の種類」には、①高速自動車国道、②一般国道、③都道府県道、④市町村道があると定められている。これは、私たちに馴染みの分類であるが、一方、建築基準法上の道路として開発道路、私道、農道、里道・・・等の分け方もあると言う。

*恵庭を通過する道路

恵庭を通過する道路を整理して置こう。

①高速自動車国道では、「道央自動車道(大沼公園IC~室蘭~千歳~札幌~瀧川~旭川~剣淵IC)」と「道東自動車道(千歳恵庭JCT~本別JCT~阿寒IC・足寄IC)」の2線がある。

②一般国道では、「国道36号線(札幌市~恵庭市~苫小使牧~室蘭市;恵庭バイパス)」「国道453号線(札幌市豊平3-5交差点~恵庭市盤尻~千歳市幌美内~大滝村~伊達市)」の2線がある。

③都道府県道では、主要地方道「北海道道45号恵庭栗山線(恵庭市住吉道道46号交点~栗山町桜が丘国道234号交点)「北海道道46号江別恵庭線(江別市角山国道275交点~北広島市~恵庭市小磯国道36号交点)」「北海道道117号恵庭岳公園線(盤尻国道453号交点から道道46号交点)」の3線があり、一般道道としては「北海道道369号島松停車場線(島松駅~道道46号交点)」「北海道道600号島松千歳線(恵庭市島松~千歳市北信濃)「北海道道1021号恵庭停車場線(恵庭市相生町~恵庭市泉町)」の3線がある。

④市町村道

市町村道名は、通称と公的道路名が混在する。公的には「都市計画道路名」が基本になるようだ。北海道「都市計画道路現況調査書」R3.3.31によれば、恵庭市内37路線が示されている。以下に列挙しておこう(国道、道道の一部が含まれる)。

国道36号、恵庭大通、恵庭公園大通、川沿大通、東1線大通、江別恵庭大通、島松大通、恵南柏木通、戸磯団地通、恵庭駅通、柏木戸磯通、基線通、戸磯黄金通、柏木中通、柏木通、島松駅通、19号通、柏木団地通、中恵庭通、西島松通、茂漁通、寿通、寿中通、団地中央通、団地環状通、恵み野1号通、恵み野2号通、黄金中島通、惠千通、黄金学園通、黄金中通、黄金東通、黄金西通、黄金相生通、相生通、相生中通、恵み野駅通

地区名が入っているので大方はどの辺りか見当がつくが、詳細は関係者でないと分からない。

⑤市街地以外の道路名

一方、市街地以外の道路は「基線」「西1線」「南22号」などの呼称が生きている。この名称は、北海道開拓時代に明治政府が300間(約550m)ごとに道路を造ったことによるもので、南北方向の道路は基線を定め東側に300間ごとに東1線、東2線・・・西側には西1線、西2線・・・とし、東西方向の道路は零号道路を定め南北に同じく300間(約550m)ごとに道路を配置、南1号、南2号・・・、北1号、北2号・・・と称した。現在も国土地理院の地図には道路名(線・号)が示されている。恵庭市近郊で言えば、島松市街地以北の下島松、上山口、春日、漁太、穂栄、林田地区などの道路は、基線(道道45号)から東に東1~3線、西1~8線、零号(長沼市街南端)から南に数え、南9~28号となっている。因みに、舞鶴橋辺りが南12号、国道36号「道の駅」前道路が南24号にあたる。この「号線」名称は広く認識されている。

◆愛称名を付けたい道路

恵庭の市道(都市計画道路名)の中には、先の「旧々国道(旧道)」の他にも愛称を付けたい道路がいくつかある。

例えば、「恵み野1号通」(「南島松1号通(線)」の記載もある)。恵み野住民でも、どの通りの名称か分かる人は少ないだろう。この通りは、恵み野商店会の皆さんが環境整備に努められ、「花のまちづくりコンクール」「住まいのまちなみコンクール」等の受賞歴があり、花壇には折々の花が咲く。市民が集い、観光客を呼ぶためにも通りの愛称があったら素晴らしい。

例えば、「松園通り」(松園線の記載もある)。道の駅から開拓記念公園(松園小学校跡地)に通じる道路。道路拡張や市街地形成で何本かの桜古木は伐採されたが、今も桜並木は見事である。花の拠点(はなふる)も整備されたことだから、開拓記念公園に通じるこの道路にも「歴史の路、松園通り」の愛称を付け、洒落た標識を建てるのは如何だろう。


恵庭の碑-24、タイムカプセルを埋めた記念碑「自愛」

2021-10-08 10:41:41 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

北海道文教大学から黄金中島通りを中島方向に進む。信号を渡ると右手に恵庭市立恵明中学校(恵庭市黄金北4丁目)がある。川沿大通りと交差する手前の角地に教員住宅二棟があり、住宅裏の木立の中に小さな石碑があるのを見つけた。グラウンドから見れば校舎の左側に位置する校庭の一角であるが、道路からは見えにくい。

お断りして石碑を写真に収めた。黒御影石の碑には「自愛」の書、背面には建立の経緯が刻まれている。文字を辿ると「恵明中学校開校五周年に当たり、二十二年後の未来への夢を託してこの地にタイムカプセルを埋め、記念としてこの碑を建立した。 このカプセルは、西暦二千年五月五日午後二時を期して地上に取り出すことにする。 その日には、登校在校の生徒諸君をはじめ父母、教職員、恵明中ゆかりの人々あい集って恵明創成の往時を偲び、さらに未来への前進と発展を誓いあいたいものである。 昭和五十三年十月九日 建立者 恵明中学校開校五周年特別委員会 恵明中学校父母と教師の会 恵明中学校生徒会 書 初代校長今野良男 初代事務職員新谷新一」とある。

創立五周年の記念事業として校訓の文字を刻した石碑を建立し、新世紀の二千年子供の日に開封するタイムカプセルを埋めた歴史が読み取れる。それでは、西暦2000年(平成12年)5月5日にタイムカプセルは掘り起こされたのか? 

千歳民報(2000年5月8日)12面に以下のような記事がある。「22年目のお目覚め 恵庭恵明中 タイムカプセルのオープンセレモニー 作文・写真を手に思い出話」。当時の生徒や教職員250人が集まり、当時の校長今野良男、各学年代表、現校長水見政一の各氏が「鍬入れ」して掘り起こし、写真や作文を手に取り当時の想い出を語り合ったと言う。今野校長は挨拶で「5周年でタイムカプセル碑を建立したと言うのはあまり無い。当時の学校が燃えていた証拠。現在の生徒諸君にも創設当時のことを知ってもらいたい」と語っている。

恵明中学校は、昭和49年に恵庭中学校から分離独立し開校し、校章制定、校歌制定、校訓制定、開校記念植樹、落成記念式典など、慌ただしくも充実した創世期を経て、開校5周年記念の折にタイムカプセル碑の建設へと向かったのだろう。

◇沿革(同校HPによる)

昭和49年 恵庭中学校より分離独立し恵庭市立恵明中学校として開校

             9学級、全校生徒366名、校章制定、校歌制定

昭和50年 校訓制定「自己を愛しめ」、開校記念植樹 桜300本

昭和51年 校舎落成記念式典、札響による記念演奏会

昭和53年 開校5周年記念式典、15学級、全校生徒558名

平成12年 タイムカプセル掘り起こし

令和 3年 総勢731名

◇校訓は「自愛(自己を愛しめ)」

タイムカプセル碑の書は同校の校訓。校訓「自己を愛しめ」(自愛)とは何と難しい理念を選んだのだろう。自愛とは文字どおり自己を愛すること、他の何にもまして自己を愛し自己の幸福を願うのが自愛だとすれば、自尊に繋がりかねない。ややもすれば利己主義の源泉ともなり得る。新しく赴任した校長は解釈に悩むだろう。教師たちは生徒に「自愛」の意味を何と説いているのか聞いてみたくなった。

当校の教育目標(平成9年改訂)が、「○自ら考え、自ら学ぶ生徒、○進んで活動し、高め合う生徒、○生命を大切にし、思いやりのある生徒」と制定されていることを考えれば、「自愛」の中に「他愛(おもいやり)」を含んでいることは明らかだが、自愛と思いやりがそう簡単に結びつく概念なのだろうか?

講談社日本語大辞典を開いてみる。自愛とは ①自分を大切にすることTake care of oneself、②自分の言行を慎むこと、自重Prudence、③自分の利益を図ること、利己Selfishness の3項目が記載されている。即ち、「自愛」には自分を大切にすること、品行をつつしむ(自重)、自分の利益をはかる(利己)概念が含まれると説明しているが、思いやり概念は出てこない。

校訓を制定した意図が理解できずに調べると、日本大百科全書の解説(宇都宮芳明)「自愛とは文字どおり自己を愛することであるが、とくに他の何物にも増して自己を愛し、自己の幸福を願うのが自愛である。自愛は一般に利己主義の源泉として道徳的に悪とされるが、しかし自愛が人間の本性に基づく以上、その根絶は不可能で、それをむしろよい方向に転化すべきだという見方もある。ルソーは、自愛は人間の自然的な根本感情であり、それはもともと他人への愛を排除するものではなく、かえってそれを誘発するものだと説き、否定されなければならないのは自愛ではなくて自尊であり、高慢や虚栄や憎悪は無限の自己満足を求める自尊から生ずるとする・・・」に出会った。少し解ったような気がするが難解だ。

ある人が「自愛とは、どんな自分でもOKと丸ごと受け入れること」と述べていたが、校訓の解釈としてはこれも有りかな?


恵庭の碑-23, 鶴岡学園創立者「鶴岡新太郎」「鶴岡トシ」の胸像

2021-09-17 13:48:49 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

JR恵庭駅東口から北東方向へ真直ぐ伸びる駅前通りは、800m先で北海道文教大学正門に突き当たる。あたかも大学へのアプローチのような駅前通り。道路幅が広く、歩道には花壇が整備され、両側に明るい雰囲気の店や住宅が並んでいる。ここ黄金地区は平成7~22年にかけて環境整備・新市街地形成事業が進められ、今もなお新興住宅地の佇まいが残っている。大学誘致も整備の一環だったのだろう。

北海道文教大学はカリンバ遺跡(国の指定遺跡、縄文時代後期後半から晩期初頭)に隣接した場所にあり、北側には恵庭市総合体育館を挟んで国道36号線が通っている。今では閑静な住宅地の一画だが、市街地開発以前は広大な原野や畑地が広がっていただろうと思わせる雰囲気が残っている。

大学の正門を入ると、直ぐ右側ローンに鶴岡記念講堂と並んで二人の胸像が立っている。大理石の台座に置かれた胸像は高さが2mを越えようか、威風堂々としている。胸像には「鶴岡新太郎先生の像」と「鶴岡トシ先生の像」と銘が刻んである。「鶴岡新太郎先生の像」背面銘板には「寄贈 昭和四十三年六月十五日 北海道栄養短期大学 同窓会」、「鶴岡トシ先生の像」背面には「寄贈 昭和五十八年七月十一日 北海道栄養短期大学 同窓会」と記されている。創立者御夫妻の胸像であることが分かる。

トシ先生の像には田畑 功の刻印がある。田畑 功(たばた いさお)は富山県高岡市出身の著名な彫刻家。富山県立高岡工芸高等学校・デザイン科卒。日展及び日本彫刻会会員で審査員を務める。2003年に西望賞受賞。作品の多くは人物・動物・仏像などで、全国各地に1千体余り存在すると言う(田畑功彫刻研究所)。

胸像の謂れについては、傍らの説明板から引用しよう。説明板には「鶴岡学園創立者 鶴岡新太郎・トシ御夫妻の像 昭和17年(1942)年北海道女子栄養学校の設立以来、創立者御夫妻の先見の明とご苦労によって、播かれた種子が鶴岡学園の今日の成長の起点となっております。昭和43(1968)年・昭和58(1983)年 御夫妻の功績を讃えて同窓会から寄贈された胸像が、札幌キャンパス(札幌市南区藤野)に建立されました。平成29(2017)年、御夫妻の像は本学園の創立75周年を機に、当地恵庭に移設されました。 平成29年9月 理事長 鈴木武夫 記」と由来が書かれている。胸像は北海道文教大学(鶴岡学園)の創立75周年記念を機に札幌キャンパスからこの地に移設されたものである。

胸像の表情を観察する。トシは固く結ばれた口元から堅固な意思の持ち主だったのだろうと推察され、新太郎は穏やかな紳士然としているが、果たして創立者鶴岡新太郎・トシ夫妻とはどんな人物だったのか? 鶴岡学園創立の意図は何だったのか? 創立者の願いは今も引き継がれているのだろうか?

 

◇北海道文教大学(学校法人鶴岡学園)

北海道文教大学の前身は、太平洋戦争が始まったばかりの昭和17年に設立された北海道女子栄養学校(初代校長鶴岡トシ)である。その後、北海道栄養短期大学など幾多の変遷を経て、現在は2学部(人間科学部、国際学部)、7学科(健康栄養学科、理学療養学科、作業療養学科、看護学科、こども発達学科、国際教養学科、国際コミュニケーション学科)及び大学院修士課程(言語文化コミュニケーション専攻、健康栄養学専攻、リハビリテーション科学専攻、こども発達学専攻)など特徴ある学科を有する私立大学である(学校法人鶴岡学園運営)。生徒募集要領によれば大学定員は550名とあるので、学生数2,200名余り、その他に附属高等学校、付属幼稚園を抱えている。

渡部俊弘学長は、「豊かな人間性を涵養するため幅広い知識を授けるとともに、理論と実践にわたり深く学術の教育と研究をおこない、国際社会の一員として世界の平和と人類の進歩に貢献し得る人材の育成を目的とする」「また、開かれた大学として地域社会との連携を深め、学生と教職員が一体となって地域の発展に寄与する取り組みにも力を入れる」(同校HP)と教育理念を述べている。 

昭和17年(1942)北海道女子栄養学校

昭和38年(1963)北海道栄養短期大学

平成11年(1999)北海道文教大学(恵庭移転)

平成27年(2015)大学院設置

平成29年(2017)鶴岡学園創立75周年記念式典

◇創立者の顔

恵庭市市制施行50周年記念フォーラムのシンポジウムで一冊の本を頂いた。佐々木ゆり著「北海道・栄養学校の母 鶴岡トシ物語」ビジネス社2019である。本の帯に「北の食卓を拓く! 戦時中に私財をなげうって北海道女子栄養学校(現北海道文教大学)を創設した明治女のパワフル人生記」とある。戦時下の栄養学校誕生、「食生活で家族の健康を」の思い、買い出しに奔走した創始時代、海外旅行で後継者リクルートと学園運営など、創立者夫妻の熱い思いが伝わる一冊である。

本書は鶴岡学園理事長鈴木武夫氏、同事務局長浅見晴江氏が監修され、巻末に「年表 鶴岡夫妻・鶴岡学園史」が付されているので、詳しくは同書をご覧頂きたい。

鶴岡新太郎:明治19年(1886)東京深川生まれ。明治大学法科でフランス文化に触れ、中退し料理の道へ。チリ領事館、スペイン公使館などで調理に従事。大正8年北海道庁管業課嘱託となり農事指導に当たる。大正9年高橋トシと結婚。北海道帝国大学聴講生として宮部、高岡、半澤博士らに教えを乞う(昭和13年、応用菌学・食品化学修了)。生活改善講習会講師、高等女学校割烹教師の傍ら「和洋新家庭料理」「料理教科書」「現代料理教本」出版。昭和34年、鶴岡学園設立、初代理事長就任。「料理法百たい」出版。昭和38年(1963)没、享年78歳。

鶴岡トシ:明治25年(1892)新潟県西蒲原郡巻町生まれ。旧姓高橋。三条高等小学校、新潟高等女学校卒業。小学校代用教員、訓導(教師)。拓殖銀行で働いていた叔父に触発され札幌へ、結婚。千葉県三育女学院にてキリスト教を学ぶ。成徳女学校家事科教員嘱託、華道池坊教授職、小笠原流家元教授資格授与。北海道女子栄養学校設立申請、認可(校長)。北海道栄養学校(校長)。札幌市議会選挙に出る。北海道栄養短期大学に昇格(学長就任)。鶴岡学園(第二代理事長就任)。北海道栄養保険学会理事、全国日本学士会名誉会員・同理事。北海道私立学校教育功績者賞受賞、勲四等瑞宝章、北海道開発功労賞受賞。昭和53年(1978)没、享年87歳。

鈴木武夫:昭和6年(1931)福島県生まれ。大東文化大学。日本私立短期大学協会常務理事、事務局長。大東文化学園理事長を経て、昭和44年(1969)以降学校法人鶴岡学園理事・評議員としてトシ理事長を補佐し経営改善に取り組む。同理事長、北海道文教大学学長として礎を築く。

◇北海道文教大学との出会い

筆者が北海道文教大学の名前を初めて意識したのは、平成11年、初代学長となった高橋萬右衛門先生の「恵庭の北海道文教大学へ通うことになった」と言う言葉だったような気がする。萬右衛門先生は既に札幌を離れ故郷水沢市に移られていたと思うが、筆者が恵庭に住んでいることを思い出されたのかも知れない。

因みに、高橋萬右衛門博士は植物育種学の権威で、北大農学部長、日本育種学会長などを歴任。日本育種学会賞、北海道文化賞、日本学士院賞、勲二等旭日重光章、北海道開発功労賞、文化功労者に叙せられている。北大退官後も日本学士院会員、北海道武蔵女子短期大学長、日本私立短期大学協会副会長、同北海道支部長、全国短期大学秘書教育協会副会長、北海道グリーンバイオ研究所所長などの任にあった。北海道文教大学学長は最後の職となった。

筆者は萬右衛門先生が教授就任された年の第一期卒業で(同講座学生3名)、不真面目な学生、不肖の弟子だったにも拘らず大変お世話になった。小柄な先生は気さくな人柄で、学生仲間では敬愛の気持ちを込めて「万ちゃん」と愛称で呼ぶことが多かった。学生たちを集め漫談に花を咲かせるのが常だったが、最後には心に残る言葉を残したて立ち去るのだった。同窓会の酒席だったろうか或る時「海外の大学や企業の女性秘書は専門職として重要な仕事をしているが、日本では“お茶くみ”としか認識されていない。日本でも語学に堪能、専門性・人間性に秀でた秘書を育てる教育が必要だ・・・」と語ったことが妙に耳に残っている。

萬右衛門先生が北海道文教大学初代学長に就任された頃、筆者は上川農試を退職し海外技術協力専門家として南米で暮らすことになったので北海道文教大学の名前を思い出すことも無かったが、時を経て、平成27年(2015)~令和元年(2019)文教大学公開講座を聴講する機会を得た。日記を見ると45講座を受講している(付表1)。北海道文教大学と筆者のささやかな出会いである。

文教大学を訪れ胸像を拝顔するたびに、創立者御夫妻の教育にかけた情熱に思いを馳せ、北海道に残されたご夫妻の功績に敬意を表している。

(付表1)

受講録2019

  1. 矢部玲子「新聞に載る報方法~新聞投稿の文体を知ることを通して~」(2019.9.17)
  2. 湯浅孝男「スピリチュアルなリハビリテーションとは?」(2019.9.19)
  3. 池田 仁「老化を考える1~老化のメカニズムについて~」(2019.9.20)
  4. 鹿内あずさ「元気な時から考える医療事前指示書」(2019.9.20)
  5. 辻 幸美「認知症予防~病気の知識と対処行動が分かれば怖くない~」(2019.9.25)
  6. 池田 仁「老化を考える2~老年症候群と加齢性疾患~」(2019.9.27)
  7. 岡本佐智子「日本人と中国人とのコミュニケーション~中国人からみた日本人の不思議~」(2019.9.30)
  8. 木村一志「脳はどのようにして出来上がるのか?」(2019.10.8)
  9. 佐藤信夫「知覚と認知の心理学(錯視と錯覚の不思議な世界)」(2019.10.11)
  10. 佐藤 進「元号令和を生んだ万葉集の時代の華麗なる国際性」(2019.10.19)
  11. 佐々木律子「八世紀の女性天皇~元正天皇」(2019.10.25)
  12. 半澤江衣「知ろう!緩和ケアについて」(2019.10.31)

受講録2018

  1. 清水麻衣子「認知症の方と関わるための工夫」(2018.8.29)
  2. 池田 仁「がんを学ぶ1、人はなぜがんになるか」(2018.8.29)
  3. 奥村宣久「転倒予防、認知症予防の嘘ホント」(2018.8.29)
  4. 平塚健太・小菅勇亮・木村一志「最近の脳卒中リハビリテーション、認知症にまつわる気になる話~その時家族は?予防法は?」(2018.8.30)
  5. 池田 仁「がんを学ぶ2、日本人のがんの現状と対がん戦略」(2018.8.30)
  6. 鄭 佳麗・賈 金娥「中国人と日本人のコミュニケーション~面子のすれ違いから~」(2018.8.30)
  7. 池田官司「性同一障害最新の動向」(2018.8.31)
  8. 佐々木幸子「地域社会のつながりが持つ介護予防効果」(2018.8.31)
  9. 大山 徹「ハーブの話」(2018.9.3)

受講録2017

  1. 片倉裕子「マナウス市に暮らす日系人の人々」(2017.8.29)
  2. 野田美保子「105歳日野原重明氏に学ぶヘルスプロモーション」(2017.8.30)
  3. 金子翔拓「手のしびれの原因とリハビリテーション」(2017.8.31)
  4. 宮本重範「自分で出来る頸の障害予防と治療」(2017.9.1)
  5. 井上仁美「人生の節目と心の健康」(2017.9.4)
  6. 今泉博文「食生活を見直してみよう~生活習慣病予防のために~」(2017.9.5)
  7. 大森 圭「姿勢が良くなる講座」(2017.9.7)
  8. 吉田直美「意外と知らない低血圧の話」(2017.9.7)
  9. 小塚美由紀「アロニア果実の健康効果」(2017.9.8)
  10. 池田 仁「日本人が受賞したノーベル生理学・医学賞の話」(2017.9.13)

受講録2016

  1. 小西正人「知って知らない日本語」(2016.8.24)
  2. Sarah Richmond・三ツ木真実「Think Globally! グローバルに考える、今日の世界はどんな世界?」(2016.8.25)
  3. 佐野愛子「多様性を尊重する社会,カナダに学ぶこと」(2016.8.29)
  4. 鹿内あずさ「認知症の知識と家族ケア」(2016.9.1)
  5. 森谷一経「キャリア・デザイン、図表で自分史を理解してみませんか?」(2016.9.2)
  6. 金子翔拓「腰痛に対するリハビリテーション」(2016.9.5)
  7. 池田官司「認知症になったらどうしよう・・・」(2016.9.8)
  8. 矢部玲子「エゾナキウサギの生態と保護」(2016.9.9)
  9. 奥村宣久「認知症予防と作業療法」(2016.9.9)

受講録2015

  1. 黒澤秀樹「骨粗鬆症・ロコモテイブシンドローム・廃用症候群」(2015.8.25)
  2. 草野真暢「喫煙を考える」(2015.8.28)
  3. 池田 仁「老化と寿命を科学する」(2015.9.3)
  4. 大山 徹「ノロウイルス~食中毒と感染について」(2015.9.4)
  5. 続 佳代「薬と上手につきあう」(2015.9.8)

参照 1)佐々木ゆり「北海道・栄養学校の母 鶴岡トシ物語」ビジネス社2019. 2)土屋武彦「北海道文教大学公開講座2019、私の受講歴」拙ブログ2019.10.30. 3)高橋萬右衛門「緑の地平線」文化功労者祝賀記念事業会1996


恵庭の碑-22, 北島松小学校の門柱、廃校跡を訪ねる

2019-09-16 16:41:13 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

20199月の或る日、北島松小学校跡を訪ねた

恵庭市北島216番地、西6線と南11号道路が交差する東側の一画に北栄会館がある。会館は鉄筋コンクリート造り平屋建ての洒落た建物。恵庭消防団第五分団、北島生産組合農機具格納庫が隣接してあり、同敷地内にはパークゴルフ場が整備されている。庭木や花壇も手が入っていることから察するに、地域のコミュニテイセンターとしての役割を果たしているのだろう。

会館の入り口には、一対の古い門柱が建っている。軟石の門柱正面には、「恵庭市立北島松小学校」の銘板がはめ込まれている。つまり、この場所は廃校となった北島松小学校跡地。パークゴルフ場になっている辺りが運動場であったのだろうか。

門柱の裏側には、「昭和二十七年三月寄贈」「寄贈者故小寺鶴吉」の白い大理石製の銘板。銘板の周辺には新しく取りつけた(修復した)と思われるセメント跡が見られること、銘板が外された跡と思われるへこみが1か所あるとから、銘板が紛失している(外れている)のに心を痛めた関係者が後年補修したのではあるまいか。そう考えれば、寄贈者が故人と言うのも頷けるのだが。間違いかも知れない(確証を得ていない)。

   

◆北島松小学校

北島松小学校の前身は、昭和18年に開拓営団倉庫事務所を借用して開設した、島松国民学校北島松分教場である。昭和22年島松小学校分校に改称、同年北島松小学校として独立。昭和27年には新校舎完成(この年に門柱設置)、昭和33年体育館完成、昭和35年には校歌が制定されている。当時は多くの入植者があり児童数も増加、昭和39年には児童数が100名を超えていたという。しかし、昭和40年代に入ると離農による児童数の減少が見られるようになり、昭和50年には在校生49名と複式学級を余儀なくされるようになった。地域住民との協議を重ね、昭和513月をもって閉校、島松小学校に統合された。広報えにわ285号(1976.4.1)は、「33年の歴史を閉じる北島松小」の特集を組んで歴史を偲んだ。

北島松小学校で学んだ多くの卒業生や地域の皆さんには、懐かしい想い出と深い思いがあることだろう。残された門柱はこれからも歴史を語り続けるに違いない。大切に保管して欲しいものだ。

昭和1811月(1943):開拓営団倉庫事務所を借用し、島松国民学校北島松分教場として開校

昭和22年(1947):島松小学校北島松分校に改称、同年北島松小学校として独立

昭和27年(1952):新校舎完成

昭和33年(1958):体育館完成

昭和35年(1960):校歌制定

昭和40年(1965):校舎増築(普通教室2)

昭和42年(1967):NHK学校放送研究委嘱校に制定

昭和51年(1976325日:島松小学校に統合