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豆の育種のマメな話

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ちょこっと散歩で恵庭再発見、(3)恵庭神社遥拝所跡、イザリブト番屋/船着き場

2023-10-08 09:59:47 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭「川の玄関口」
9月30日、「えにわ学」講座で久しぶりに漁太を訪れた。遥拝所の前を通る道路が改修変更され境内を通るようになったため、遥拝所敷地は減反され石碑の場所も変わっている。本項資料の写真は改修前のもので広々としているが、現状は異なる。このように、歴史遺産は少しずつ変遷してゆくものかもしれない。

なお、このシリーズでは散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。今回は「恵庭神社遥拝所、イザリブト番屋/船着き場址」(恵庭市林田)。

イザリブトは、江戸時代に番屋・船着き場が置かれ、明治の開拓時代にも交通の要所として賑わった、言わば恵庭「川の玄関口」。加賀・越中・能登から入植した人々は周辺の湿地・荒地を開拓し、現在の漁太・林田地区を肥沃な農耕地に換えました。彼らは此処に神社を祀り、恵庭神社遥拝所としていたのだ。

場所は、漁川が千歳川に合流する地点。恵庭から川沿大通りを下流に進み漁川の「南12号橋」の近く。河川は改修が進み直線化しているが、旧河川は大きく蛇行していた。恵庭市教育委員会は新旧の地図を重ね合わせ、松浦武四郎が再興蝦夷日誌に残した絵図の場所を推定しています(説明板が建っている)。

なお、下記の資料は令和5年度第1回「えにわ学」講座(令和5年9月30日)資料から引用しました。

再発見!

(1)松浦武四郎

松浦武四郎は江戸末期の探検家、伊勢の人。17歳のころから諸国を巡歴し、弘化2年(1845)、28歳の時はじめて蝦夷地を踏査。以来、6回の蝦夷、樺太、千島を探検し、貴重な記録や地図を残しています。明治政府から開拓判官に任じられ、蝦夷地を「北海道」と命名。蝦夷地の発展とアイヌの生活改善を願って就いた判官の職でしたが、思うようにならず途中で職を辞しています。

松浦武四郎の足跡を記念して建てられた記念碑や説明板の数は多い。松浦武四郎研究会や専門家の資料によると、武四郎本人が主役の記念碑と説明板は全道で77点(宗谷4、留萌6、上川20、空知11、石狩1、オホーツク8、根室1、釧路9、十勝4、日高7、胆振6)、武四郎の文献などを引用した記念碑や説明板を加えると北海道におよそ120点存在するそうです。

恵庭市内では、平成30年(2018)恵庭市生涯学習施設「かしわのもり」(大町)前庭に、「松浦武四郎の歌碑」~蝦夷人の いさりの里に たなつもの 穂浪よすとは 思ひかけきや~(西蝦夷日誌1858)が建立されました。

(2)松浦武四郎「再航蝦夷日誌」1846から

武四郎は、第二回蝦夷地探索で千歳川を遡り、イザリブトの記録を残しています。

(解読文)・・・イサリブト ツイシカリより十一里。此処漠漠たる広野にして処々此の辺沼あり。又支川も網を曳けり。沼は左右にあって至って湿深きところなり。此処に至り四面とも山と云は少しも見えることなし。蔵の屋根え上がらばシコツ山見ゆるなり。番屋大きく建てたり。弁天社、蔵々あり。千歳支配所なり。夷人小屋五六軒。此辺皆隠元豆、豆、稗、粟、黍、ジャガタラ芋等を多く作りたり。土地肥沃にして甚よく豊熟せり。夷人ども熊、鷲を多く飼えり。又鶴多きよし。夷人毎日臼にて沼菱を搗て是を平日の食糧とす。又鹿皮を多く着科にせり。もっとも肉を干して是も平日の食に当てるよし・・・

・・・此処にて川二つに分る。一つは右の方本川にしてシコツ沼に及ぶよし。番屋前十間ばかりして枝川に上る。此巾十二三間。もっとも深き壱尋半より二尋。急流にして水至って清冷なり。本川はシコツ嶽、サッポロ嶽の間より落ち来る。本川幅十五六間。深凡そ二尋もあるよし聞けり・・・

         

参照 1)土屋武彦「私の恵庭散歩-2恵庭の記念碑」晩鐘舎2017、2)土屋武彦「私の恵庭散歩-3恵庭の神社・仏閣・教会堂 」晩鐘舎2017、3)拙ブログ「豆の育種のマメな話」2015.1.30(加越能開耕社ら移住者が創祀した恵庭神社)、同2015.2.3(恵庭開拓期以前の神社 弁天社・稲荷神社)、同2015.4.8(イザリブト番屋・船着場と恵庭神社遥拝所跡の碑)、同2018.11.4(恵庭に建立された松浦武四郎歌碑)、同2019.1.14(恵庭と松浦武四郎)、4)恵庭市史編さん委員会「新恵庭市史」2022


ちょこっと散歩で恵庭再発見、(2)中恵庭出張所 周辺

2023-10-06 18:04:01 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

恵庭村道路元標は朽ち果てるのか?

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「中恵庭出張所」(恵庭市中央)周辺。

明治、大正、昭和(第二次世界大戦後まで)時代、この地は恵庭行政の中心地でした。今は静かな佇まいですが、84年間にわたり恵庭村役場(町役場)があったところ。つい最近まで交番、郵便局、農協、消防署などもありました。

場所は、前項の恵庭開拓記念公園から漁川を渡り、漁川と川沿大通に挟まれた地域。ここで是非ご覧頂きたいのが「恵庭村道路元標」。恵庭市民の方も多くが存在を知らないと思いますし、恐らく見つけることも出来ないでしょう。道路脇の生垣(櫟)の陰に隠れています。

その他にも「漁共同用水記念碑」「忠魂碑」「六地蔵」など見どころがあり、川沿大通の「恵庭神社」「拓土農魂之碑」「天融寺」へも足を延ばすことが出来ます。

なお、下記の資料は令和5年度第1回「えにわ学」講座(令和5年9月30日)資料から引用しました。

再発見!

(1)戸長役場から村役場へ

恵庭市の母体となる漁村と島松村は、かつて千歳郡千歳村外五か村戸長役場に属していました(ほかに千歳村・長都村・蘭越村・ウサクマナイ村)。明治30年(1897)に千歳郡戸長役場から独立して「漁村外一か村戸長役場」となり、明治39年には恵庭村が誕生し、

「恵庭村役場」となりました。庁舎が中恵庭に置かれたのは、漁地区と島松地区の強い誘致争いの妥協案だったと言われています。

明治43年に原因不明の火災で役場が全焼して戸籍簿など全てが消失するなど恵庭の貴重な資料も消えてしまいました。火災原因は設置場所を巡る怨恨説、泥棒による放火説など囁かれたそうですが、原因不明で操作は打ち切られました。

なお、町役場(市役所)が現在の京町へ移転したのは時が流れて昭和27年(1982)のことです。

(2)道路標識

江戸時代には各街道に日本橋を起点とした「一里塚」がありました。明治政府は明治6年、各府県に「里程元標」を置くことを定めます。北海道里程元標は札幌創成橋の近くにあります(H23復元)。札幌本道(室蘭街道)では、島松沢に「六里標」、江別恵庭線が札幌本道に交わる地点に「七里標」、山崎製パンの辺りに「八里標」がありました(現在その痕跡はありませんが古地図で確認できます)。

大正6年に旧道路法が制定されると、各市町村に道路元表を置くことになります。札幌市道路元標は道庁赤レンガ庁舎正門前、「恵庭村道路元標」は中恵庭の役場前に置かれました。戦後になり現行道路法が制定され市町村道路元標は無用となりましたので処分され、残っている道路元標は多くありません。歴史遺産として保護している市町村もありますが、「恵庭村道路元標」は朽ち果てる寸前です。

札幌本道(室蘭街道)の「里程標」を復元し、「恵庭村道路元標」と併せ保全したら「恵庭まち遺産」となりませんかね・・・。

 

参照 1)土屋武彦「私の恵庭散歩-1恵庭の彫像」晩鐘舎2017、2)土屋武彦「私の恵庭散歩-2恵庭の記念碑」晩鐘舎2017、3)拙ブログ「豆の育種のマメな話」2014.11.16(開拓を支えた治水事業-共同用水記念碑)、同2014.12.9(日清・日露戦争の戦没者を祀る供養塔-忠魂碑)、同2014.12.11(朽ち果てるのか-恵庭村道路元標)、同2014.12.15(路傍に祀られるお地蔵さん-地蔵菩薩)、同2015.1.30(加越能開耕社ら移住者が創祀した-恵庭神社)、同2022.8.18(室蘭街道の七里標・八里標と恵庭村道路元標)、4)恵庭昭和史研究会「百年100話」1997、5)恵庭市史編さん委員会「新恵庭市史」2022


ちょこっと散歩で恵庭再発見、(1)恵庭開拓記念公園

2023-10-03 13:44:45 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

松園小学校廃校址に造成された恵庭開拓記念公園

ちょっと出かけてみようかと家を出た散歩の途中で彫像や記念碑に出会い、恵庭を再発見することがあります。このシリーズでは、散歩の途中に立ち寄ってみたい魅力のスポットを訪ねます。

今回は「恵庭開拓記念公園」(南島松)です。

恵庭開拓記念公園へは、花の拠点「はなふる」から漁川の堤防を下流に歩くもよし、郷土資料館を目指して松園通りを歩くもよし、恵み野中央公園の遊歩道を楽しみながら辿るコースもお勧めです。

恵庭の歴史に興味があれば、隣接する「恵庭市郷土資料館」見学を推奨します。

なお、下記の資料は令和5年度第1回「えにわ学」講座(令和5年9月30日)資料から引用しました。

再発見!

(1)松園小学校

山口県から集団入植した人々(M19岩国地方、M20萩藩士ら)が、子弟教育のために明治22年に開校。初代校長は萩藩士廻神美成。校名「松園」は萩の偉大な教育者吉田松陰の名前にあやかって名付けたと言う(松下村塾の塾生として高杉晋作・久坂玄随・伊藤博文・山形有朋らが名を連ねる)。

最初は南島松(西2線南22号)に建てられ、明治30年にこの場所には移転。現在地から南に300間(550m)とすれば、松園通りの松園会館~楡の大木(伝承の御神木)の辺りでしょうか。

(2)二宮尊徳先生幼時の像

全国各地の金次郎像は、幸田露伴「二宮尊徳翁」挿絵が原型の「薪を背負い、書を読む」姿。この草鞋を捧げる金次郎像は極めて珍しい。作者は富山出身の二口大然、原型は富山出身で小樽在住の彫塑家野口五一。野口五一の作品が郷土資料館に展示されています。

(3)「拓望の像」制作者 竹中敏洋

大分県生まれ、恵庭で活躍した造形作家。大陸で過ごした少年期の体験が竹中芸術の原風景と言われます。昭和29年来道して中学校の美術教師。昭和49年盤尻に居を構え、漁川で造形樹氷の実験を重ねて竹中ファンタジーの世界を創造。この氷と光の芸術は、層雲峡氷瀑まつり、支笏湖氷濤まつり等に発展しました。

(4)恵庭の古道「松園通り」

公園の南側道路が南21号道路(道道600号島松千歳線)、東側の漁川に沿った道路が松園通り(中島通-松園線)です。松園通りには茂漁川第三幹線用水路が埋設され桜並木(恵み野桜回廊)となっています。この道路は明治29年版地図(長都1/50,000、大日本帝国陸地測量部)に記載されている数少ない「恵庭の古道」です。

(5)三角点があるって? 何処に?

三角測量に用いる基準点がこの公園内にもあります。関係者以外は知らない情報かな。

 

参照 1)土屋武彦「私の恵庭散歩-1恵庭の彫像」2017、2) 土屋武彦「私の恵庭散歩-2恵庭の記念碑」2017、3)拙ブログ「豆の育種のマメな話」2014.10.8(恵庭開拓公園にある竹中敏弘 拓望の像)、同2014.10.9(恵庭開拓公園にある二宮尊徳幼年時の像)、同2014.11.15(先人の偉業を讃える開拓の碑)、同2014.11.19(先人の偉業を讃える表徳碑)、同2015.9.27(廃校の跡地に残る 松園校跡地記念碑)、同2022.12.26(松園通り)、4)恵庭昭和史研究会「百年100話」1997、5)恵庭市史編さん委員会「新恵庭市史」2022


恵庭の古道-8 「ポンオサツ道(里道)」

2023-09-16 10:45:23 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

漁村と長都村の境界道路

大日本帝国陸地測量部(明治29年製版)の地図「長都1/50,000」を開く。この地図には長都村・漁村・嶋松村・月寒村(一部)地域が載っている。右手には「マオイトー(馬追沼)」「オサツトー(長都沼)」があり、川の流域は未だ多くが湿地帯で荒地が広がっている。

北西から南東に斜めに横切る札幌本道(室蘭街道)が目に入るが、嶋松村・漁村・長都村で札幌本道(室蘭街道)に繋がる里道は僅か5本のみ。陸路は未だ発達していないことが分かる。

5本の里道のうち「松園通(中島通り松園線)」「釜加街道」「孵化場道路」「長都街道」については前項で触れたとおりだが、室蘭街道から戸磯地区を斜めに横切り釜加街道に繋がる道路は名前が分からない。大日本帝国陸地測量部大正5-6年測図「漁1/50,000(大正9年印刷)」や大正5年測図「漁1/25,000(大正7年発行)」には、既にこの道路の痕跡さえない。言わば、消えた古道(里道)である。

戸磯地区を斜めに横切り釜加街道に繋がる此の里道が廃れたのは、明治26年に千歳原野殖民地区画が完成し、基線道路や南26号道路が整備されたことによるのだろう。

◆ポンオサツ道(里道)

消えた戸磯の道路について思案していたところ、澁谷さんから一つの情報を頂いた(令和 5年9月)。冊子「戸磯百年のあゆみ」に此の里道の図があると言う。早速、図書館で調べてみると、戸磯史編集発行委員会「戸磯百年のあゆみ(1989年発行)」に次のような記述がある。

  • 明治25-30年頃の戸磯には17戸あった。明治25年頃の戸磯にある道と言えばカマカ街道と此のポンオサツ里道だけだった(地図に記載あり41p)。
  • ポンオサツ里道は、室蘭街道の東3線付近から基線南25号まで戸磯を斜めに横切り、そこから南25号(現在の黄金中島通)を西に向いカマカ街道に至る(地図45p)

澁谷さんも古老から「ポンオサツ里道と呼んでいた」との話を聞いたと言う。通称だったかも知れないが、この道を「ポンオサツ道(里道)」と称して良いだろう。

因みに、「ポン」はアイヌ語で「小さい」の意味、川の名前では支流を表す。ポンオサツ川はオサツ川の支流で現在大部分が空沢になっているが、陸自千歳・恵庭演習場に発し、恵南の寺田牧場・遠藤牧場を抜け、上長都地区で長都川に注いでいる。

現在の地図に重ねると、ポンオサツ道は室蘭街道(ポンオサツ川が交差する地点)からサッポロビール工場、戸磯地区恵庭テクノパークを抜け、基線南25号(黄金中島通)を西に進み、西1線(団地中央通)との交点付近(黄金地区、カリンバ遺跡付近)で旧釜加街道に交わる。この道は戸磯地区の人々がよく使う里道だったのだろう。

地図を確認すると、ポンオサツ里道は漁村と長都村の境界である。現在、恵庭市と千歳市の境界は東3線道路であるが当時の漁・長都の村界は漁側(恵庭)に食い込んでいたのだ。村の境界になると言うことは、利用頻度の高い古道であったのだろう。河川や道路が村の境界になるのは歴史的にも極めて一般的なことである。

◆漁村と長都村の境界

漁村と長都村の境界変遷については、守屋憲治「千歳線長都駅史」から引用する。

「・・・かつて長都村と漁村(現・恵庭市の一部)の境界はカリンバ川沿いに西1線南26号付近(筆者注、地図からは南25号付近と思える)まで三角形で漁村に食い込んでいた。境界が不明確なため不便な事も多く、北海道庁は両村利害関係者の意見を勘案し、明治31年1月に告示をもって室蘭街道から東北については殖民地区画東3線を境界と改めた。境界が確定した前年、人口増などを理由に漁村と島松村は漁村外一ヶ村戸長役場を設置、千歳村外五ヶ村戸長役場から離脱した・・・」とある。

即ち、漁村と長都村の境界はカリンバ川を遡り、釜加街道、ポンオサツ道を経てポンオサツ川の上流で孵化場道路に至っている。因みに、漁村と嶋松村の境界は漁川・茂漁川、嶋松村と月寒村の境界は島松川であった。

参照 1)大日本帝国陸地測量部(明治29年製版)「長都1/50,000」、2)大日本帝国陸地測量部大正5-6年測図(大正9年印刷)「漁1/50,000」、3)大正5年測図(大正7年発行)「漁1/25,000」、4)戸磯史編集発行委員会(1989年発行)「戸磯百年のあゆみ」、5)守屋憲治「千歳線長都駅史」


恵庭の歴史びと-4 「山森丹宮」

2023-08-08 10:43:41 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

「漁の赤ひげ先生」と慕われた医師

恵庭の歴史に名を留める「恵庭の歴史びと」を取り上げる。

今回は医師山森丹宮(たみや)、山口県からの集団入植が始まった恵庭開拓の時代に中山久蔵らに請われて漁村に移住し、恵庭村創始期に徳を以て医療に当った恵庭最初の医師(村医)である。山森医師は恵庭開拓の現場に立ち村人の多くの命を救い、「漁村の赤ひげ先生」と称されるほど絶大な信頼を得ていた。

山森丹宮は医術の他に、私立洞門小学校(恵庭小学校)、大安寺、巡査駐在所、盤尻用水組合の設立などに尽力、恵庭村発展に大きく貢献している。この時代の先人たち(例えば、中山久蔵、山森丹宮)に見られるのは「無私の心、公への奉仕」。彼らから何と学ぶべき点の多いことか。

(写真は「千歳・恵庭・広島三村名鑑録」から引用)

◆山森丹宮略歴1847-1923

(1)山森丹宮は、弘化4年(1847)越前国今立郡神明村(現、福井県鯖江市)で生まれる。父は医業を営む山森斉宮、幼名を利太郎と言った。少年時代から父に漢書を学び、17歳になると京に出て広瀬玄恭(筆者注、三村名鑑録では皇漢医学研究とあるが、京都で蘭学塾「時習堂」を開き、蘭方医院を開業していた蘭方医と思われる)に医術を学ぶ。24歳で福井藩の福井医学校入学、27歳で同学全科を卒業し医術開業免状を授与され、名前を丹宮と改め父祖の医業を継ぐ。

(2)医術の道で北海道開拓に貢献しようと夢を馳せた山森丹宮は、明治19年(1886)40歳のとき来道、北海道庁の嘱託検疫医員として官立勇払病院医員に任命される。翌年には中山久蔵・新保鉄蔵に請われて無医村であった漁村に移住。その後、村医として献身的に活動する。

(3)開拓地の医療は万端多忙を極め、医師一人では診察に応じきれない状況であったと言う。近隣は歩いて往診するが、遠方には部落の人が迎えに来た農耕馬に専用の鞍をつけ出かけていた。また、小学校が開設されると校医を嘱託されている。村医を20数年勤めた後、65歳の時(明治44年)茂漁に医院を開業。

(4)骨身を惜しまず医療に取り組んだ山森医師は、村の発展にも大きな貢献をしている。明治20年には山森医師ら14戸の寄付で私立洞門小学校を建設、巡査駐在所の敷地を寄付、明治24年には盤尻用水組合を作り約36町歩の開田を成功させた。また、明治39年には恵庭村第一回村会議員選挙が施行され選出される。当選した10名の議員の中で、山森丹宮一人だけ鼻下に髭をたくわえ、洋服姿で写真に写っている。

(5)大正12年(1923)村民たちに惜しまれて大往生を遂げる。享年77歳。大安寺境内に当寺の開創「月海良光大和尚の碑」と並んで、山森丹宮の墓碑「大安開基 大安寺殿釈医高徳春嶺禅定門」(山森嘉人建立、父丹宮、母田都、茲に眠ると刻まれている)が建っている。

(6)なお、山森医院の後を継いで僻地医療に取り組んだのは、丹宮の娘寿満の夫となる菊地政之医師(北大帝国大学医学部卒)であった。菊地政之は昭和7年菊地内科医院を開業。当時、看護婦として働いていた松浦キエさんは「菊地先生は金銭に拘らない方でしたね。その病気に必要な薬と思うと、どんな高価な薬でも使ってしまうのです。患者さんが貧しくて、払えそうになくとも平気です。医は仁術を地で行った先生でした。奥さんがやりくりに大変なようでしたよ・・・」と語っている(引用、国府田稔「赤ひげ親子物語」百年100話)。国府田は山本周五郎の小説「赤ひげ診療譚」になぞらえ、「恵庭にも二人の“赤ひげ先生”がいたのである」と山森丹宮・菊地政之を称えている。

(写真左:盤尻用水記念碑、右:大安寺境内の墓碑)

 

<資料1> 北岡善作「千歳・恵庭・広島三村名鑑録」1935

三村名鑑録、山森丹宮翁の写真に添えられた紹介文を引用する。

「医師 故山森丹宮翁 恵庭村大字漁村 故翁は福井県の産にして安政元年父に従い皇漢学の研究を始める。文久3年京都府下広瀬玄恭に従い皇漢医学研究をなす。明治3年福井県医学校入学、同6年卒業、旧敦賀県より医術開業免状授与。明治17年内務省より医術開業免状授与される。同19年北海道庁検疫医員嘱託、同年勇払公立病院医員任命、同21年勇払郡役所より千歳郡漁・島松両村村医任命、同33年恵庭・松園・島松小学校校医を嘱託された。恵庭村を千歳村より分村するについては、その中心となって尽力された。その他、村事に対しては忘れる事の出来ない功労者。翁は恵庭村公益功労者として恵庭村より数回の表彰を受けられ、氏の人徳を知るべき也(筆者注、旧仮名遣いを改め)。

<資料2> 国府田稔「赤ひげ親子物語」百年100話(恵庭昭和史研究会)1997

国府田稔は、父親山森丹宮の思い出を語る娘寿満の言葉を紹介している。

「父は薬代の催促もしない人でしてね。村医で、生活する分はきちっと貰っているのだから、困っている人からお金を頂くつもりはないって言うんです。ですから村の人たちは山森医院の前で、手を合わせて通り過ぎる人もいて、子供の心に父の仕事の大切さを感じたものです」

「父が茶の間にいるときは、なぜか近寄れない感じがしましたね。でも患者さんには優しくて、結構冗談なんか言って笑わせてました。患者さんが大きな声で怒鳴られたこともあるんです。そんな時は自分の不注意で病気に罹った人だったようです・・・」


恵庭の歴史びと-3 「中山久蔵」

2023-07-22 14:33:19 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

寒地稲作の祖、篤農家「中山久蔵翁」

恵庭の歴史に名を留める「恵庭の歴史びと」を取り上げる。

今回は「中山久蔵翁」、恵庭及び北広島の誰もが知る歴史上の人物である。河内国春日村生まれ、明治4年(1871)島松沢に入植して開拓に尽力した篤農家。道央地域で初めて水稲「赤毛」の栽培に成功し、種籾を無料配布するなど普及に努め、「寒地稲作の祖」と呼ばれている。島松駅逓4代目取扱人。洞門小学校(恵庭小学校)、大安寺の創設など公的施設整備に熱心で、後に月寒村・広島村総代を務める。現在、島松沢に国指定史跡「旧島松駅逓所(旧中山久蔵宅)」、「寒地稲作発祥の碑」「クラーク博士記念碑」があり、中山久蔵翁の偉大さを知ることが出来る。

国道36号を外れて島松沢に立ち寄ってみよう。島松川左岸(北広島市島松1番地)に旧島松駅逓所(旧中山久蔵宅)や記念碑が建っている。大きな建物が旧島松駅逓所で、明治天皇が北海道巡行の際に御昼食をとられた行在所でもある。

この地を訪れた方は、島松駅逓所は最初からこの場所にあったと錯覚するが、この建物が駅逓所となるのは中山久蔵が第4代駅逓取扱人となった明治17年以降のことである。島松沢に駅逓が設置されたのは明治6年、札幌本道開通の年。その場所は島松川対岸の胆振国千歳郡島松村1番地(現在の恵庭市)で、現在は民家が建っている。橋を渡って「こちら側に最初の駅逓があったのか」と昔を偲ぶがよい。

待てよ、と言うことは、明治10年(1877)札幌農学校の教頭であったW・S・クラーク博士が任期を終え帰国する際に、島松駅逓所で「Boys, be ambitious(青年よ、大志を懐け)」と名言を残したとされるが、その場所は現在記念碑が建つ島松川左岸(北広島)だったのか。むしろ、当時駅逓所があった島松川右岸(恵庭)で別れたとするのが妥当ではあるまいか? と、歴史に想いを巡らしてみたらどうだろう。

 

◆中山久蔵翁の略歴1828-1919

(1)文政11年(1828)河内国石川郡春日村(現、大阪府南河内郡太子町春日)に農業松村三右衛門の次男として生まれる。弘化2年(久蔵18歳)江戸へ出て、江戸と大坂を転々、各所へ寄留する。

(2)嘉永6年(1853)仙台藩士片倉英馬に従仕。翌年、仙台藩白老陣屋で北方警備に着く藩士熊沢伊豫之助に従い蝦夷地白老に渡る(幕府は蝦夷地がロシアに侵略されないよう東北各藩に警備を命じていた)。明治維新を契機に仙台藩士のもとを辞し、余生を蝦夷地開墾にささげようと決心する。

(3)明治2年(1869)白老に来村。明治3年戸籍を勇払郡苫小牧に移し開墾に着手するが、そこは海霧に覆われ農業に向かない土地であった。

(4)明治4年(1871)肥沃な土地を求めて北上し、千歳郡島松村1番地(現、恵庭市島松沢137)に入植。勇払会所の植田甚蔵から小屋一棟を5円で購入、借地を得る。また、月寒村から宅地および耕地を譲り受ける。畑地6千坪を開墾し雑穀・大豆80俵を収穫。この時、久蔵は既に44歳であった。

(5)明治6年(1873)島松駅逓所が島松村1番地に開設されることになり、住居を島松川対岸の札幌郡月寒村島松(現、北広島市)に移す。道南から水稲「赤毛」を取り寄せ試作に挑戦し、水温を高めるなど努力して秋には反当345kgを収穫。以降、水田の拡張を図ると共に林檎苗園、葡萄・桃園、鯉養殖、蓮根栽培など導入を試み、勧業博覧会にも出品。

(6)明治12年(1879)「赤毛種」種籾100俵の無料分与を勧業協会に申請し配分を始める。稲作が全道に拡がる。

(7)明治14年(1881)明治天皇巡幸に際し行在所を新築。明治天皇の昼食所となる。天皇は稲作など視察され、久蔵に御下問あり。

(8)明治17年(1884)島松駅逓所第4代取扱人となる。駅逓所は明治30年廃止。

(9)明治19年(1886)北海道庁民間指導員として、農家を訪ね歩き栽培法を指導。また、小学校、神社、寺院、道路など公共施設の整備にも尽力。明治25年から月寒村総代、明治27年から広島村総代人を務める。

(10)明治36年(1903)殖産興業に尽くした功績で緑綬褒章。大正6年「中山久蔵翁頌徳記念碑」(発起人北海道帝国大学総長南鷹次郎ら)が建立される。大正8年(1919)逝去。享年92歳。

◆寒地稲作の祖と称えられる

(1)北海道における稲作は大野平野(函館平野)で始まった。南部藩から亀田郡大野村へ移住した作右衛門が元禄5年(1692)米10俵を収穫したのが最初とされるが、その後も幾多の失敗成功が繰り返され、道南で栽培が定着するのは150年余り後の嘉永3年(1850)大野村文月の高田松五郎・万次郎親子の成功以降のことである。道南では幕末に300町歩を越える面積となったが、道央以北では稲作が困難であった。

(2)中山久蔵は明治6年、島松沢へ入植すると大野村から種籾「赤毛」を取り寄せ、苗代や本田の水温を温めるなど苦労の末に反収2石3斗を収穫する。翌年以降も引き続き水田を広げ、良く稔る稲穂を選んでは種籾にするなど改良を加えながら稲作を実践。明治12年から希望者に種籾の無償配布を始め、明治19年からは北海道庁民間指導員として農家に「赤毛」の栽培法を指導にあたっている。

(3)開拓使は当初外国人顧問の意見で畑作畜産を中心に北海道開拓を推進するが、入植した人々は米への執着が強く稲作を試みる者が多かった。例えば、勇払郡、千歳郡に入った高知藩は、明治3年漁太など3か所に大野から取り寄せた種籾を試作している。久蔵が稲作に成功すると、開拓使も移住者の稲作願望を無視できなくなり札幌官園でも試作を始めた。久蔵の成功を契機に稲作は道央・道北地域へ拡大することになったと言えよう。

(4)久蔵が栽培した「赤毛」は「中山種」と呼ばれ広がりを見せ、石狩の農家江藤庄三郎が明治28年「赤毛」の中から籾に芒のない「坊主」を発見、その小作人中田光治の努力により美唄一帯に作られるようになった。さらに上川盆地にまで広がり、農業試験場の純系分離により「坊主2号」「坊主6号」などの優れた耐寒品種が誕生、その後も農業試験場は交雑育種法を駆使し多くの優良品種を育成した。現在の「ゆめぴりか」「ななつぼし」なども「赤毛」の延長線上にある。

(5)昭和39年(1964)、久蔵翁の業績を称える記念碑「寒地稲作この地に始まる(北海道知事町村金吾書)」が建立された。稲穂を抱える農民と久蔵翁のレリーフがはめ込まれている。背面の碑文を紹介しよう。「ここは 明治六年 大阪府出身の中山久蔵が最初に米作を試みたところとして 永く記憶さるべき地である 当時道南地方を除いては 北海道の米作は危険視され 万全の開拓方針をたてることができなかったが 明治四年 単身率先してこの地に入地し開墾に従事した久蔵は あえてまずここに水田一反歩を開き 種子を亀田郡大野村から求めてこれを試み成功し その安全さを証明したばかりではなく その種子を道内各地の希望者に無償配布して成功せしめた ために附近の水田耕作熱は とみに高まり 空知 上川の穀倉を拓く基を開き ついに北海道を全国一の米産地に育てる因を作ったのである 昭和三十九年九月 北海道大学教授農学博士 高倉新一郎 撰文」

(6)久蔵翁は「小柄な体躯だった」と言う。晩年の写真はいかにも好々爺、農業人の顔である。久蔵翁には、農業人としての魂が脈々と宿っていたのだろう。①自助自立の精神、②実直に辛抱強く、③興味旺盛で挑戦する、③常に改良を重ね、忍耐強く続ける、④惜しみなく社会へ還元、公に奉仕など、農業人そのままの姿は篤農家と称される所以だろう。

◆島松駅逓所と中山久蔵

(1)島松駅逓所はいつ何処に開設されたか? 

島松駅逓所は明治6年(1873)、札幌本道開通に伴い島松川右岸(胆振国千歳郡島松村1番地、現在の恵庭市島松沢137番地)に設置された。この場所は中山久蔵が明治4年に入植した場所であるが、設置に際し土地を山田文右衛門に譲り、久蔵は対岸(札幌郡月寒村)に住居を移した。

札幌本道の開通に合わせ札幌創成橋脇に「北海道里程元標」が設置されたが、島松駅逓前に「六里標」が建てられた。大日本帝国測量部大正5年「中之澤」によれば、その場所は島松川右岸(恵庭側)にある。

(2)何故島松川の南(右岸)だったのか? 

松浦武四郎の西蝦夷日誌(安政5年1858)に「島松川川幅五・六間、橋あり、南に小休所あり・・・島松川中央を以てイシカリとチトセの境」とある。島松川右岸には、江戸時代から旅人の利便のために利用されていた小屋(島松から美々まで道路を開いた山田文右衛門所有か)があったことになる。ここに駅逓所を開設するのが自然だったのだろう。

(3)島松駅逓所の取扱人は? 

駅逓所は勇払場所総支配人山田文右衛門(代理人3名)の名前で請願(明治6年3月)、認可された(同年12月開設)。駅逓取扱人は初代植田礼助、2代目山口安五郎、3代目鶴谷新次郎があたった。鶴谷新次郎が取扱人になった明治10年、中山久蔵は請人(保証人)として名を連ねた。そして、明治17年(1884)久蔵が4代目駅逓取扱人となり、駅逓所が廃止になる明治30年までその経営にあたった。

(4)駅逓所の役割は?

駅逓所は主として人馬の継立、宿泊、御用状(公文書)取扱いを行っていた。馬小屋や馬留場が必要で、馬の世話や接客の常駐人も必要だった。明治15年島松駅逓所には34頭が飼われていたと言う(駅逓会報、林嘉男「ふたつの駅逓」恵庭昭和史研究会2007)。

(5)駅逓取扱人山口安五郎、郵便局取扱役となる 

北海道郵便制度は明治5年札幌本庁に郵便局を置いたのが始まりだが、島松駅逓所は郵便取扱いがなく千歳まで行かなければならなかった。駅逓取扱人2代目山口安五郎は千歳郡郵便取扱人石山専蔵と連名で島松駅へ郵便局設置を申請し(明治9年6月)、同年10月開設、これが恵庭最初の郵便局となった。安五郎は駅逓と道路を挟んだ島松村2番地に住み明治20年まで郵便取扱役を続けている。

(6)駅逓所の建物は元高知藩「漁太止宿所」だった? 

島松駅逓建設陳情書に添付された図面は間口十八間半、奥行六間、高知藩引き継ぎ書の「漁太止宿所(止宿所梁間六間、桁間十六間半、壱棟)」に極めて類似している。漁太止宿所が高知藩撤退後どうなったか記録はないが、解体後に川を利用して島松沢に搬送し駅逓所、ないしは中山久蔵宅に使われたとの説がある(林嘉男「ふたつの駅逓」恵庭昭和史研究会2007)。

(7)恵庭側にあった駅逓所の行方は? 

鶴谷新次郎が手を引いた後の駅逓建物等は山口安二郎が買い戻したと思われる。土地・家屋台帳によれば、土地は山口安五郎→山口信助→菅原某→中島国助と移譲され、駅逓だった家屋(木造柾葺平屋一棟建坪四十七坪五合造作付)も明治39年4月山口安五郎から山口信助が家督相続したものを中島国助に移譲されている。

恵庭市史の「山口安五郎が旅館丸萬を経営していた」との記述、中島国助氏の納屋から発見された「山安萬覚留」の宿泊台帳からも、この建物は明治20年代にも旅人宿舎として利用されていたと思われる。中島国助の代になっても当初は旅館として使われていたと言う。駅逓所だった建物は昭和28年火災で消失するまで恵庭に残っていたことになる(「百年100話」恵庭昭和史研究会1997、林嘉男「ふたつの駅逓」恵庭昭和史研究会2007)。

◆行在所と中山久蔵

(1)明治天皇が北海道巡行で島松沢を通ったのは明治14年(1881)9月2日。当日、明治天皇御一行は中山久蔵宅で昼食をとられた。以降、中山邸は行在所として語り継がれてきた。明治17年久蔵が第4代駅逓取扱人となってからは駅逓所と呼ぶようになり、現在は国指定史跡「旧島松駅逓所(旧中山久蔵宅)」として管理されている。

(2)明治天皇御一行は当初島松駅で休憩をとる予定だったが、中山久蔵が行在所を新築し中山邸が御昼食場所となった。しかし、札幌本庁駅逓課からの御巡行文書は全て島松駅逓所取扱人鶴谷新次郎宛てになっており、御一行の賄い、会食所など恵庭駅で対応している。御一行の接遇は、行在所だけでなく島松駅逓一体となって対応したことが伺える(御巡幸雑書類 明治14年)

(3)明治23年、行在所十周年記念として「駐驛處の碑」(元北海道庁長官永山武四郎書)が裏の丘に建立された。

(4)大正5年、久蔵宅増築部(行在所部分)を広島村が買い上げ修理。昭和8年には「明治天皇島松行在所」として行在所部分のみ指定史蹟となったが、戦後GHQ による明治天皇聖蹟の文化財指定一斉解除指令より昭和 23年に解除。昭和 43 年には、建物全体を修理・復元し「北海道指定史跡 島松駅逓所跡」となった。昭和 59 年に「史跡旧島松駅逓所」となり、7 年かけて大規模な保存修理工事が実施された。

◆クラーク博士が教え子たちと別れたのは何処?

(1)札幌農学校資料によると、クラーク博士と学生たちは明治10年4月16日「島松駅」で別れたことが確認できる。調所校長はじめ職員、佐藤昌介、大島正健ら一期生等20数名が騎乗し、開拓使本陣前で記念撮影をしている。

(2)駅逓中山久蔵宅で休息し、別れ際に「ボーイズ・ビー アンビシャス」の言葉を残したと語り継がれ、北広島教育員会HPもこれを踏襲している。しかし、①当時の駅逓は千歳郡島松村にあった旧駅逓で、現存の国指定史跡の建物ではないこと、②当時の駅逓取扱人は鶴谷新次郎に交代したばかりで、中山久蔵ではないこと、③中山邸は明治14年行在所になったとき増築されており、クラーク離日時の建物でないことなど問題もある。

(3)「駅逓中山久蔵宅で別れた」説は札幌農学校一期生大島正健の書(クラーク先生とその弟子たち)、ないしはここから孫引きした著作物を典拠としている。初版本は昭和12年に刊行されたが、大島正健はその頃病床にあり子息正満に口述筆記させたと言われる。正健は翌年76歳で没するが、その後も改版増補が重ねられている。因みに、大島正健「クラーク先生」文部省中等国語(昭和22)では、「駅逓中山久蔵宅」ではなく「駅逓の家」となっている。

(4)クラーク博士記念碑は、昭和9年に大島正健・佐藤昌介・宮部金吾ら有志によってクラーク博士と分かれた場所を探るべく島松沢を訪れ、行在所(旧中山久蔵宅)裏の丘に記念碑予定地標識を建てた。時を経て、記念碑は昭和25年に道路脇の現在地に建立。宮部博士は設置場所について「当時とは地状が変わっているのと、諸種の事情で・・・」と述べているが、昭和9年の設置場所選定は妥当なものか、諸般の事情とは何だったのか。

(5)恵庭市昭和研究会「百年100話(村上利雄)」「ふたつの駅逓(林嘉男)」では、いくつかの資料と理由を挙げて、クラーク博士別離の場所は島松川右岸にあった旧駅逓だとする方が整合性ありとしている。

(6)駅逓から坂を上り室蘭街道の先まで見渡せる場所が別離の場所だとする話もあるが、確証はない。

(7)恵庭年代記(恵庭市1997)、新恵庭市史通史編(編纂委員会2022)は、クラーク博士別離の場所を島松駅逓(島松川右岸、恵庭市)としている。

(8)“Boys, be ambitious like this old man.”の言葉が最初に語られるのは、明治27年(1894)札幌農学会学芸会機関誌「蕙林」の安東幾三郎「ウ井リヤム・クラーク」だと言う。安東は大島正健の札幌農学校における講演(明治25)を聴いたのだろうと推察されるが、それにしても、クラーク博士に同行した他の一期生から別離の場面を描写した記録が出ていないのはどうしたことだろう。

資料1 札幌農学校資料「明治十年一月以降取裁録」

「明十六日、教頭クラーク氏出発候ニ付、シママップ驛マデ生徒一同見送リトシテ羅越シ申度キ旨願出候ニ付・差遣シ申度ク此段相伺ヒ候也。十年四月十五日」

資料2 札幌農学校資料「明治十年一月ヨリ日誌」

四月十六日晴。一、当直井川洌。一、教頭クラーク氏帰国ニ付森源三付添生徒一同嶌松迄見送事。一、通学生徒者豊平橋迄見送ノ事」

資料3 写真「クラーク博士帰国に際し見送りの教職員学生一同(開拓使旧本陣前)」北海道大学北方資料室151

資料4 大島正健著、大島正満補訂「クラーク先生とその弟子たち」1937帝国教育会、その後増補版は教文館など

札幌の南六里島松駅に達するや、先生は馬をとめて駅逓中山久蔵氏の家に入って休憩し、先生を囲んで別れがたなの物語にふけってゐる教へ子の顔をのぞき込んで一人一人力強い握手をかはし、『どうか一枚の端書でよいから時折消息を聞かせてほしい。では愈々御別れじゃ。元気で常に祈ることを忘れないやうに』と力強い口調で別辞を述べ、ヒラリと馬背に跨ると同時に、“Boys, be ambitious !”と叱呼して長鞭を打ちふるひ、ふりかへりふりかへり、雪泥を蹴立てゝ疎林の彼方にその姿をかき消された。

島松駅逓中山氏の家は後に明治天皇御巡幸の際の行在所になり、その「明治天皇行在所跡」という石碑が建っている。内部のありさまもクラーク先生が愛弟子達と別れの茶を汲みかわされた折と少しも変わっていないという。昭和九年頃なつかしき島松の地にクラーク先生をしのぶ記念碑を建立しようとの儀が有志の間に起こり、別離の地点を承知している佐藤昌介君を煩わし、宮部君その他北大基督教青年会有志相伴って島松に向い、クラーク先生が馬上から自愛こもるまなざしで学生達に呼びかけた土地を探った。そして建設の地を選定して記念碑建設予定地と佐藤君が墨痕あざやかに記した標杭が建てられた。その後故あってその建設は見合わせになったと聞く。

資料5 大島正健「クラーク先生」文部省 中等国語二(2)1947                  

*札幌の南六里、千歳に近い島松駅に着するや、先生はうまをとめて駅逓の家に休憩したが、先生を囲んで別れがたなの物語にふけっている敎え子の顔をのぞきこんで、(中略)力強い口調で別辞を述べ、ひらりとうまにまたがると同時に、Boys, be ambitious! と叱呼して長鞭をうちふるい、振り返り振り返り、雪泥をけ立てて疎林のかなたにその姿をかき消された(文部省 中等国語二(2)昭和22年9月8日発行)。

資料6 宮部金吾博士記念出版刊行会編「宮部金吾」岩波書店1953

*ボーイズ・ビー アンビシャス」と激励の一語を残し、クラーク先生が終生の思い出とした札幌農学校生徒と袂を分かった地島松に、師を偲ぶ記念碑建立の儀が、昭和九年頃有志の間に起こった。九年六月十五日全北大総長佐藤昌介男爵を始め、新島名誉教授に私も加わり、北大キリスト教青年会汝羊会有志は島松に向い、クラーク先生が馬上から慈愛籠るまなざしで決別した土地を探った。当時とは地状が変わっているのと、諸種の事情で、明治天皇行在所裏の丘を建設の地と選定し、予定地の標杭を建てた。蝉声に包まれて佐藤男爵が筆をとり、墨痕鮮やかな標杭が建てられた。その後大戦で、一時この案は案のまま放置されるの止むなきに到ったが、戦後私は「北海道教育界のシンボル、クラーク先生の功績を永く讃ふべし」と提唱した。そこで、伊藤前学長、福田道副知事が中心となり、BBAの運動の一環としてこれが実行にとりかかった。昭和二十五年秋以来、島松決別の地と認めらるる道路沿いの地に北大生及び村民の奉仕で、建設基礎工事は進められ、二十五年十二月に記念碑は完成した。

資料7 岩沢健蔵「北大歴史散歩」北海道大学図書刊行会1986

*行くこと、約二時間。島松宿の駅逓中山久蔵宅に到着する。現在は広島町に属し、すぐそばを千歳川支流の島松川が流れている。何回か上りくだりを繰り返すかえす札幌本道の、ここは低地に位置している。駅逓の建物は、いまもある。駅逓で、一同は各々持参の弁当を開いた

*クラークを語り、その別れの情景や例の国関連した著述を試みる人の全てが、大島のこの書、ないしはここから孫引きした著作物を典拠とすることとなり、ボーイズ・ビー アンビシャスは確乎不滅の金言となってしまうのである。

資料8 札幌市教育委員会編「農学校物語」札幌文庫61、北海道新聞社1992

*札幌の南六里島松駅に達するや、先生は馬をとめて駅逓中山久蔵氏の家に入って休憩し、先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子達一人一人その顔をのぞき込んで、『どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないように。ではいよいよ御別れじゃ、元気に暮らせよ』といわれて生徒と一人一人握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、“Boys be ambitious”と叫ぶなり長鞭を馬腹にあて、雪泥を蹴って疎林のかなたへ姿をかき消された(引用:大島正健「クラーク先生とその弟子たち」)。

資料9 蛯名賢造「札幌農学校」新評論1991

*急勾配の坂をくだると、左側に駅逓中山久蔵の家があり、その前を小川が流れ、島松と恵庭の境をなしていた。小川を渡ると、また勾配の急な坂道をのぼらねばならず、それから先は胆振国であった。 一行は中山の家の前の広場で休憩しながら、クラークを囲んで・・・

資料10 北広島市教育委員会「旧島松駅逓所(国指定史跡)」2023

*歴史の舞台としての駅逓所 明治10年、札幌農学校の教頭であったW・S・クラークは、約9か月の任期を終え米国に帰国する際に中山久蔵宅に立ち寄り、「Boys, be ambitious(青年よ、大志を懐け)」という名言を残しました。明治14年には明治天皇が北海道を巡幸した際の行在所ともなりました(北広島教育委員会HP 2023.3.21)」。

資料11 北広島教育委員会「クラーク博士と旧島松駅逓所」2023

*クラークは、教え子らに「Boys, be ambitious(青年よ、大志を懐け)」という言葉を残し、米国への帰途についたといわれています。この有名な言葉は誰もが知るところですが、その舞台となったのがここ北広島市だったのです。その後、教え子らによってクラークと一行が別れた地に記念碑が建てられることとなりました。昭和26年、当時を知る佐藤昌介らの証言から中山久蔵宅(現在の旧島松駅逓所)付近に「クラーク記念碑」が建てられました(北広島教育委員会HP 2023.3.21)。

資料12 恵庭昭和史研究会「百年100話、恵庭の風になった人々」1997

*クラーク博士の別れた舞台は、札幌農学校資料で島松駅頭とされている。駅頭とは島松駅逓を指すのか、それとも島松駅のことなのか。当時、駅と駅逓は混同されることが多かったから判然としないが、いずれにしても中山久蔵直筆の絵図面は、クラーク博士が恵庭側で別れたことを意味している。それなのに、なぜ北広島側に記念碑が建ったのか。それは恵庭側の島松駅も、島松駅逓も古くから取り壊され、跡形もなくなっているのに対し、中山久蔵の駅逓は、修復されて今もクラーク碑横に残ることに起因すると思われる(第七話「青年よ大志を抱け、クラーク博士は恵庭で叫んだ?」文責村上利雄)。

資料13 林嘉男「ふたつの駅逓、クラーク博士は恵庭で叫んだ」恵庭昭和史研究会2007

*クラーク博士と学生達は春先の泥んこ道を馬に乗って来たわけで、その馬を停める場所は駅逓所の馬留めしかない。さらに昼食をとり、お茶を飲んだとすれば、それは民家というより駅逓所の役割。当時、札幌農学校は北海道本庁に属し、その中に駅逓を所管する勧業課もあり、『四月十六日何名、島松駅逓所に立ち寄る』という先触れが入るわけです。その点からも、そういう施設と用意があった島松駅逓に立ち寄ったと考えるのが妥当だと思われる。明治17年に中山久蔵翁が札幌県の申請書に添付した手書きの図面には、駅逓所の向いに島松駅があり、この島松駅で馬を留めたことは殆ど間違いないと思われる。さらに、明治14年のご巡幸の際には60頭の馬がつながれたという記録がある。

島松駅略図(明治14年頃御巡幸の際の位置図、巡幸予定地より提出たもの)には、中山久蔵宅が御昼食行在所、恵庭側にあった駅逓所の向い広場に会食所が設けられている。ここが言わば島松駅で、明治10年クラークは博士一行26人が来た島松駅はこの場所にあたる。明治10年当時中山久蔵宅は民家で、26人もの方々を休息させる場所であったかどうか説得力に欠ける。

資料14 恵庭年代記(恵庭市1997)

*教え子たちに「Boys,be ambitious!(青年よ大志を抱け)」この言葉を残して去っていったことはあまりに有名です。そしてその言葉を交わした場所が、本市の島松沢にあった島松駅逓の駅頭でした

資料15 新恵庭市史通史編2022

*別れた場所については、札幌農学校に関する資料に島松駅逓所であることがわかる記述があり、クラーク博士送別に臨場した佐藤昌介は、後年に島松駅逓で別れたと回顧している。

 (久蔵翁写真は「三村名鑑録」1934から引用)


恵庭の歴史びと-2 「山田文右衛門」

2023-06-10 10:29:13 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

場所請負人「山田文右衛門」

恵庭の歴史に名を留める「恵庭の歴史びと」を取り上げる。

今回は「山田文右衛門」。天明年間に能登国から蝦夷地に進出した商人(留萌・勇払場所支配人、後に勇払・沙流・厚岸場所請負人)。代々「文右衛門」を襲名。特に10代文右衛門清富は昆布養殖の創始者として名高い。

恵庭との関りで言えば、山田文右衛門は文政4年(1821)に勇払場所の請負人になってから、幕末・明治までユウフツ場所惣支配人・請負人、石狩本陣取扱いを務め、イザリ・シママップは山田家と深い関係にあった。8代文右衛門有智がイザリブト~チトセ間の千歳越え道路を開削し荷馬車の運行を初めて行ったこと、10代文右衛門清富が札幌越え新道計画のイザリブト~シママップ間工事を請負い、島松駅逓の初代取扱人(名義人)であったことなど道路整備に貢献したことでも名を留める。

なお、恵庭墓苑に墓碑「山田屋金兵衛墓」(施主山田仁右衛門、文久元年5月23日)があるが、金兵衛は山田家の分家筋にあたる榊富右衛門(4代目仁右衛門)がユウフツ惣支配人だった頃の支配人と言われるが確証はない。ただ、文化10年(1813)勇払神社鰐口にユウフツ会所内支配人見習金兵衛の名があること、「山田文右衛門履歴」に勇払漁場支配人山田屋金兵衛の記載があることを考え合わせると、イザリ・シママップに所縁があった人物と言えるだろう。

(1)山田文右衛門の出自

山田家はもともと能登国羽咋郡神代村(石川県羽咋郡志賀町神代)で船主船頭を営んでいたと言われる。4代文右衛門(1655-1718)の時松前に永住(松前での親元は松前藩譜代家臣酒井伊左衛門)。その後6代喜右衛門(1712-80)の代まで松前で商業を営み、次第に有力商人へ成長したとされる。

(2)7代 山田文右衛門(1736-1797)

神代(かくみ)村の漁師又一の次男として生まれ、阿部屋村(志賀町)の村山甚右衛門が親元となる。天明年間(1781-1789)に松前藩福山(松前町福山)へ渡る。

天明7年(1787) 栖原角兵衛が請負人となっていたマシケ(増毛)場所の支配人を任せられる。

(3) 8代 山田文右衛門 有智(後に喜右衛門1763-1830

7代目の嫡子。栖原屋のもとで留萌・勇払場所の支配人を務めた。

文化2年(1805) 漁太に漁場を設け、運上屋を建て布施喜平を支配人とし、翌年番人2人を置く。

文化5年(1808) アイヌを雇って留萌からオシラリカ(雨竜越開削、留萌からニセバルマ、エタイベツを経て樺戸郡と雨竜郡の境界オシラリカへ至る)に出る約25里(98.2km)の道を整備。

文化8年(1811) イザリブト(漁太)~カマカ(釜加)~オサツ(長都)~チトセ(千歳)間の道路開削を開始、2年後に完成。千歳~ビビ間の道路を改修し、イザリブト~ビビ間に荷馬車を走らせサケ・マス加工品を運ぶ。なお、文化9年(1812)に東エゾ地の幕府直轄が廃され請負人制度が復活、ユウフツ場所請負人は文政3年まで阿部屋伝次郎であった。

文政4年(1821) 松前藩が復領。蝦夷地の場所請負制が再開されると栖原屋の保証を得て独立し、ユウフツ(勇払)場所の請負人となる。次いで文政5年(1822)にはサル(沙流)場所、文政11年(1828)にはアッケシ(厚岸)・子モロ(根室)場所を請け負う。家督を九代目に譲った後は喜右衛門を名乗り、江戸深川で隠居。文政13年(1830)、病のため箱館にて死亡。

(4)9代 山田文右衛門 喜長(1799-1842)

8代文右衛門有智と川内字蠣崎布施家の娘沢との子供。もっぱら江戸で活動し蝦夷地の土を踏むことはなかった。一方、「山田文右衛門履歴」では、8代文右衛門の弟市郎右衛門を9代目としている

5)10代 山田文右衛門 清富(1820-1883)

8代目の弟、市郎右衛門の次男。9代目の長男が夭折したため、9代目の養子となり家督を継ぐ。

弘化元年(1844) 勇払に会所、千歳に出会所が置かれ、文右衛門が代役となり会所事務を兼務する。

嘉永2年(1849) 植田甚蔵が文右衛門に雇われ、イザリブト番屋の番人となる。

安政3年(1856) 千歳に米300俵を備蓄し非常用に供した功績により、当時蝦夷地を直轄領としていた幕府から苗字帯刀を許される。

安政4年(1857) 箱館奉行の依頼による銭函~千歳間の道路開削を他の商人らとともに引き受け、島松~千歳美々間を担当。因みに、銭函~星置間は小樽請負人恵比寿屋半兵衛、星置~島松間は石狩場所請負人阿部屋伝次郎。

安政5年(1858)樺太漁場の開発に名乗りを上げて差配人並に任じられ、私費を投じて東海岸栄浜に数か所の漁場を開く。しかし開発の中心役だった松川弁之助らの撤退に伴い、元治元年(1864)の漁を終えると、後任の伊達林右衛門・栖原半七に漁場を譲る。

万延元年(1860) 昆布が育たない沙流の海での昆布養殖を検討開始。文久3年(1863)には、箱館から呼び寄せた石工12人それぞれに雇ったアイヌ3人ずつを組ませ、沙流太川河口近くの山から2万7000個の石を切り出し沙流沖に沈め、本格的な養殖試験を開始。このときの石は多くが海底の砂に埋もれてしまったが、埋没を免れた石には良質の昆布が育っていた。そこで次は石が埋もれないように投入箇所を絞り、慶応2年(1866)までの3年間に毎年5万個の石を沈めたと言う。

養殖技術の実用化に成功すると、昆布事業を三男の文治に任せ、請負場所は分家筋の榊富右衛門(支配人、4代目仁右衛門)に託して、自らは隠棲。

明治2年(1869) 場所請負人制度が廃され、山田文右衛門は石狩本陣の取扱いを命ぜられる。なお、勇払・千歳・漁太本陣は榊富右衛門(四代目仁右衛門、文右衛門清富の娘婿)。

明治6年(1873) 漁場持山田文右衛門の代理人3名島松駅逓所の設置を札幌本庁に陳情。初代駅逓取扱人は山田文右衛門、実務は植田礼助(甚蔵の息子)。

明治8年(1875) 文右衛門は負債を抱え、漁場持と駅逓取扱人を辞す。島松駅逓二代目は山口安五郎。

明治14年(1881) 明治天皇の函館巡幸の折、昆布養殖の功績を称えて賞状が与えられる。明治16年(1883)勇払村にて死去。常行山能量寺(石狩市)に眠る。

(6)11代 山田文右衛門 文治(1849-1898)

父の跡を継いで、昆布養殖事業をさらに拡大。

山田家は文右衛門の他に仁右衛門、市郎右衛門、壽兵衛など多くの親族が蝦夷地で活躍し、松前、箱館、苫小牧勇払史跡公園、石狩などに山田家関係者の墓があると言う。

参照1) ロバート G・フラーシェム, ヨシコ N・フラーシェム「蝦夷地場所請負人 山田文右衛門家の活躍とその歴史的背景」北海道出版企画センター1994、2) 山田文右衛門(清富)「山田文右衛門履歴、日本北辺関係旧記目録」小樽市山田家蔵(北海道大学北方資料データベース)、3) 恵庭市史編集委員会「新恵庭市史」2022、4)林嘉男「ふたつの駅逓」2006

その他、伊藤孝博「北海道 海 の人国記」無明舎出版2008、「山田氏系譜」北海道立図書館蔵、大井条雄一「場所請負制度の一考察、山田文右衛門の事績を中心に」、亀畑義彦「我が祖山田文右衛門」北海道教育大学旭川分校1980など


恵庭の歴史びと-1 「飛騨屋久兵衛」

2023-05-16 11:56:12 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

「飛騨屋久兵衛」 立ち位置で変わる歴史評価

恵庭の歴史に名を留める「恵庭の歴史びと」を取り上げる。今回は「飛騨屋久兵衛」。

飛騨屋久兵衛は、江戸時代の蝦夷地で4代にわたり木材伐採事業および場所請負人として活躍したことで知られる。「恵庭年代記(恵庭市1997)」によれば、「・・・飛騨屋がイザリ川の上流空沼岳東山麓など石狩の山林でエゾ松の伐採を始めたのは宝暦年間(1751-63)のこと。イザリ川からは、春の雪解け水を利用して石狩川の河口まで流走し、船で江戸・大坂まで運送。この飛騨屋武川久兵衛は三代目で・・・」とある。

このように、「飛騨屋久兵衛」とは飛騨国湯之嶋村の武川倍行(武川家四代目)が蝦夷で木材商を始める際に名乗った名前で、武川倍行(初代久兵衛)、倍正(二代目久兵衛)、倍安(三代目久兵衛)、益郷(四代目久兵衛)と4代に渡り継承された。

恵庭史に登場するのは三代目倍安であるが、初代倍行も蝦夷地の山々を調査しているので恵庭の地で漁川上流の樹林を眺めたかも知れない。

(1)飛騨屋久兵衛の出自

永禄4年(1561)、飛騨屋の始祖「倍紹(ますあき)」は甲斐国武川庄に生まれる。武田氏の家臣として仕えるが、勝頼が信長・家康の連合軍に敗れて武田家が滅亡すると、倍紹は天正11年(1583)飛騨国湯之嶋村(岐阜県下呂市)へ逃れて村長の養子となり武川姓を名乗る。二代目倍国(ひろくに)、三代目倍良(ひろよし)もこの地に住み農業を生業とするが、飛騨国は飛騨川沿いの山間地であったため人びとの暮らしは林業に依存していた。

(2)初代飛騨屋久兵衛 倍行(ますゆき)

武川家四代目「倍行」は倍良の嫡男として生まれ23歳まで湯之嶋村で過ごすが、飛騨は過度な伐採による木材資源の枯渇や年貢の高騰で経済状況が悪化したため、元禄9年(1696)倍行は弟藤助を伴って江戸での他国稼ぎを決意。江戸では紀州商人木材問屋栖原角兵衛と出会う。

倍行は、元禄13年(1700)奥州南部大畑(現青森県下北郡大畑町)に活動拠点を設け、木材商飛騨屋を開業し初代久兵衛を名乗る。しかしこの頃、下北半島のヒバ伐採事業は最盛期を過ぎており南部藩が規制を強化、新規参入者の事業展開は厳しいものがあった。

倍行、藤助は元禄15年(1702)新天地を求め、松前福山(現北海道松前郡松前町)に店をかまえ、松前藩の許可を得て尻別山の木材や海産物を廻送する事業を始めるとともに、蝦夷地の山々を調査。

享保3年(1718)臼山(有珠山)の山林請負を願い出て(請負人山田庄平、金本飛騨屋久兵衛)、本格的に木材伐出を始める。当時の北海道は松前を中心とした道南の一部が開拓されているのみで未開の原野。臼山流域から始めた伐採の請負を、その後沙流~厚岸、石狩~天塩へと広げると共に、海産物、米、酒の交易などへ事業を拡大。郷里下呂に本店を置き、大畑、松前、京都、大阪に支店を置いて精力的に活動。享保13年(1728)郷里に近い下原村(現益田郡金山町)で55歳の生涯を終える。

(3)二代目飛騨屋久兵衛 倍正(ますまさ)

初代久兵衛の甥にあたる倍正が二代目を継ぐ。寛保2(1741)年に45歳で逝去。わずか十年余りだったが、初代が請負った山林の伐採を進める一方、新たな場所の木材伐出搬出事業を展開するなど、家業の拡大に尽力。

(4)三代目飛騨屋久兵衛 倍安(ますやす)

三代目久兵衛を継いだのは息子の倍安(その時7歳、後見役に今井所左衛門)。飛騨屋の事業は順調で、石狩山(漁川上流など)の伐採事業を請け負ったのもこの時代であった。

最盛期には日本を代表する豪商のひとつに数えられるまでになった飛騨屋だが、使用人の不正(大畑店支配人南部屋嘉右衛門が松前藩の役人と結託して飛騨屋の請負場所を奪おうとした)、松前藩による圧力などにより伐採事業からの撤退を余儀なくされ、事業に陰りが見え始める。

かわりに場所請負による交易に活路を見出そうと、安永3年(1774)奥蝦夷地4場所を請負い、国後交易を始める。しかし、国後の乙名ツキノエとのトラブル、ロシア人南下による情勢変化に翻弄され莫大な損害が発生。また、元支配人による妨害があり幕府に控訴するなど、晩年は困難な事件に直面。

(5)四代目飛騨屋久兵衛 倍郷(ますさと)

天明2年(1782)倍郷16歳で第四代久兵衛を名乗り、父の代に傾きかけた家運を立て直すべく奮闘。しかし持船の遭難、松前藩による場所直接経営の開始、国後の乱(クナシリ・メナシの戦い)など、飛騨屋にとってはさらに苦難が続く。寛政3年(1791)福山や大畑の支店を閉じて、飛騨へ引き上げる。郷里へ戻った倍郷は名主を勤める傍ら、材木運送を手がけるなどして文政7年(1824)借財の整理を終える。

飛騨屋四代にわたる活動を物語る文書・文物は武川家に伝えられてきたが、岐阜県歴史資料館へ寄託され『武川久兵衛家文書目録』として整理されている。

(6)飛騨屋最盛期の「石狩山請負」

石狩山とは石狩川の流域、背後に連なる山々を総称していた。中でも豊平川、漁川上流一帯の山々は、宝暦年間に飛騨屋の木材生産重要拠点であった。宝暦年間石狩山伐木地図(岐阜県歴史資料館蔵、北海道大学付属図書館に模写絵図蔵)には、石狩川本流・支流、背後の山々とともに飛騨屋が木材伐採を行った場所が書かれている。

絵地図を見ると、石狩川河口部に「山方運上屋」「木場」「弁財天」があるので、この場所が切り出した木材を集積し取引する拠点であったのだろう。

石狩河口からは「山方道」が川筋に沿って描かれている。この道はサッポロ川(豊平川)に沿って遡る道、イシャリ川(漁川)に沿って遡る道があり、勇払に通じるシコツ道も描かれている。秈夫や人夫は山方道を通って入山したのだろう。 

サッポロ川の支流オショシ川(精進河)流域の道路脇には、「十文字小屋」「コメ倉」「中小屋」「秈小屋」「コメセホイ小屋」など作業関連施設が置かれており、木材伐採のための作業拠点だったと思われる。さらに奥深く進んだ「サッポロ川」と「イシャリ川」の上流部が接近する地点に「カジ小屋」「釜小屋」「元小屋」があり、当時の木材伐採の最前線であったことが伺える。

また、イシャリ川とサッポロ川に「川流し道」の記載があり、両河川を利用して木材が流送されていたことを示している。伐採し一本ずつ流していた材木を「留場所」「イカダ繫場所」で筏に仕立てて河口まで運んでいた様子が伺える。

地蔵慶護氏(元北海道森林管理局)によれば、イシャリ川上流に記載されている「此処一里余谷渕也」は現在のインクラインの滝、恵庭渓谷の地帯で、飛騨屋の作業関連施設「カジ小屋」「釜小屋」「元小屋」等が置かれていたのは、サマチャンペ沢(源流部が様茶平)で、様茶平から漁岳にかけた地帯は漁川流域一番の大森林地帯であったと言う。

(7)蝦夷地撤退を余儀なくされた「クナシリ・メナシの戦い」

寛政元年(1789)クナシリ島のアイヌ41人が一斉に蜂起し、松前藩の足軽、飛騨屋の現地支配人・通辞・番人ら22人を殺害し、さらに襲撃は対岸のメナシ地方(標津 ・羅臼付近)に向い当地のアイヌも加わり和人49人を殺害した事件。

背景には、アイヌに対する過酷な労働強制、雇代の安さと未払い、アイヌ女性への性的暴力、宝物の搾取、松前藩足軽の脅しなどがあり、これに耐えかねたアイヌの蜂起であった。事態を知って松前藩は鎮圧隊を送り、殺害に直接関与した37人を処刑。

蠣崎波饗が描いた「夷酋列像」を博物館で鑑賞したことがあるが、モデルはこの戦いで松前藩に協力したアイヌのリーダーで、松前藩が藩の責任を逃れるために描かれたと言われる。

その後、幕府から辺地取締に怠慢ありと叱責された松前藩は、騒動の責任を飛騨屋に転嫁しすべての請負場所を取り上げる。飛騨屋はこれを契機に場所経営を断念せざるを得なくなった(損害は69,923両)。

「クナシリ・メナシの戦い」については多くの研究・論評があるので(三ツ木芳夫、村山耀一、河野恒吉、菊地勇夫、桑原真人ら)、詳細はそちらに委ねよう。

納沙布岬の墓碑「横死71人之墓」、アイヌの人々が中心になり根室半島ノッカマップで行う「イチャルパ」(供養祭)に接するとき、飛騨屋の歴史と共にアイヌの悲しい歴史が想い出される。

(8)飛騨屋久兵衛の評価

*蝦夷地の木材伐採事業、海産物の交易事業を通じ北海道開発に貢献したとして評価される。特に林業では、伐採後に一定の規格材に造材し徐々に谷近くに集め雪解け水を利用して流送するなど効率的・先駆的林業を展開。北海道林産業の先駆けとされる出身地の岐阜県下呂市(下呂温泉ふるさと歴史記念館資料)では、北海道開拓の先駆者と称える。

*一方、「クナシリ・メナシの戦い」に象徴されるように、アイヌへの過酷な労働強制、雇代の安さと未払い、アイヌ女性への性的暴力、脅迫など横暴な振舞いがあったことから、飛騨屋・松前藩によるアイヌ圧制の歴史として語り継がれる。飛騨屋久兵衛は三代目四代目になると、本人は本店にいて現地の事業を支配人や現地支配人に任せきりだったので、横暴行為をどれだけ認識していたか定かでないが責任は逃れられない。

歴史の評価は多様である。

【参照】1)平工剛郎「飛騨屋久兵衛」北海道出版企画センター2016、2) 下呂温泉ふるさと歴史記念館資料、3)根室市歴史と自然の資料館資料、4)地蔵慶護(元北海道森林管理局)「北の造材師飛騨屋久兵衛」千歳民報

 


恵庭の古道-7 「札幌本道(室蘭街道)」

2022-12-27 11:02:42 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

土木学会選奨土木遺産に選定された「弾丸道路」

恵庭の形成発展に欠かせない「札幌本道(室蘭街道)」も、恵庭の古道と言って良いだろう。明治6年(1873)に完成すると街道沿いに住宅や商店が集まり、次第に市街地が形成されて行った。

松浦武四郎が陸路探査で通ったのは安政5年(1858)、札幌本道が出来る前であったがほぼ同様のルートであった(勇払場所請負人山田屋文右衛門らが私費で札幌越え新道掘削)。

札幌本道が開通してからは、明治10年(1977)にクラーク博士が室蘭街道を経て帰国の途に就き、明治14年(1981)には明治天皇が北海道開拓状況と民情視察のため行幸されこの街道を通られた。

後に、札幌本道は国道36号線となるが、昭和27年(1952)に恵庭市街地で経路変更がなされたため当初の札幌本道を旧国道、改修された新道(弾丸道路)を国道と呼んでいた。現在、旧国道は市道恵庭線(クラーク博士通り、一部は 遊ingロード1番街)、当時の国道は道道46号江別恵庭線となっている。

さらに、平成8年(1996)に国道36号は南24号を迂回するバイパスとなった。そうなると、従来の国道を旧々国道、旧国道と呼ぶべきか悩ましく、新たな呼称を定着させた方がすっきりする。

この通りには、かつての札幌本道(室蘭街道)を偲ばせる「漁村帷宮碑」「御前水跡碑」があり、「松浦武四郎の歌碑」が建立された。豊栄神社、大安寺、敬念寺など神社仏閣も並び歴史を感じさせる。明珍鉄工所など開拓時代から続いた建物は消えつつあるが、「札幌本道(室蘭街道)」は歴史の道として保存する価値があろう。

◆札幌本道(室蘭街道)

明治6年(1873):ケプロンの献策により日本初の西洋式馬車道札幌~函館間が完成、「札幌本道」と定めた(太政官布告第364号、森~室蘭間は航路で繋がっていた)。札幌室蘭間は「室蘭街道」とも呼ばれた。クラーク博士が任期を終え帰国したのもこの街道。島松沢で見送りに来た学生たちに「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と離別の言葉を残した。

明治18年(1885):「国道42号(東京より札幌県に達する路線)」に指定(内務省告示第6号、国道表)。

明治40年(1907):国道42号は倶知安・小樽経由にルートが変更され、国道43号(青森~室蘭~岩見沢~旭川、旭川の第七師団に達する路線)となる。その結果、苫小牧~札幌間は国道から外れ県道となった。

大正9年(1920):旧道路法が制定され旧43号は国道28号となるが、苫小牧~札幌間は県道のままであった。

昭和27年(1952):新道路法が制定され、札幌~室蘭間が「一級国道36号」に指定された。札幌・千歳間の舗装工事が始まり翌年には34.5kmの工事が完了、「弾丸道路」と呼ばれた(道幅7.5m、最高設計速度75km/h設定の高規格道路、旧室蘭街道は直線化された)。アスファルト舗装の採用は当時としては珍しく、日本の舗装歴史上特筆すべき事項だったと言われる。

昭和40年(1965):道路法改正により一級・二級の区別を廃止、「国道36号」となる。

平成8年(1996):「国道36号」は恵庭市街地の交通量増加に対処するため、恵庭バイパスとして南24号線に沿って市街を迂回する路線変更が行われた。

令和3年(2021):「弾丸道路(札幌・千歳間道路)」は土木学会選奨土木遺産に認定。

◇弾丸道路

北海道開発局「開局70年、北海道開発の歩み」によれば、国道36号「弾丸道路」完成秘話について以下のような記述がある。

・・・千歳空港と真駒内に置かれていた占領軍キャンプを結ぶ道で、舗装整備もされていなかったために、車両が通れば砂埃が巻き上げられ、冬季は凍結して春先に溶解して泥濘路になると有様であった。改修工事が行われた際に、当時コンクリート舗装が主流だった時代としては珍しく、アスファルト舗装が採用され、日本の舗装の歴史上で特筆するべき点となった。アスファルト舗装を採用した背景にはメンテナンスの容易さとコスト低減、北海道の舗装道路において悩みの種となっていた「凍上」(厳しい寒さによって地中の水分が凍って地面を盛り上げる現象。雪解け時に舗装を破損させる要因となっていた)対策が背景にあった。舗装下の凍土対策として、火山灰を抑制剤として使用し、工期短縮のため大規模な機械を取り入れて、細かな工区割りで作業が行われるという当時としては画期的だった方式で工事が実行され、寒冷地での道路建設のモデルケースになった。

延長34.5kmという大工事を、昭和27年10月の着工からわずか1年余りで完成させた。施工にあたったのは道内外の精鋭15社。総労働者数は約34万人に達し、ブルドーザやローラ、トラックなど約250台が投入された。

弾丸道路という名称の由来は、「米軍の弾丸運搬に使われた」「弾丸のような突貫工事だった」「弾丸のように早く走行できる」などの諸説がある・・・。


恵庭の古道-6 「松園通り(中島通-松園線)」

2022-12-26 11:36:44 | 恵庭散歩<記念碑・野外彫像・神社仏閣・歴史>

残したい歴史の道

明治29年版地図(長都1/50,000、大日本帝国陸地測量部)をみると、室蘭街道から茂漁川の北側、漁川左岸沿いを通る道路が描かれている。地図上に名前はないが、松園尋常小学校に通じる道路「松園通り(中島通-松園線)」である。

◇松園通り(中島通-松園線)

恵庭への最初の開拓移住者たちは漁川、茂漁川、島松川などの川岸に住まいを置き開墾を始めた。往来は河川を利用することが多かったが、次第に川沿いの陸路が生活路として定着して行く。明治6年(1873)、ケプロンの献策により札幌~函館間の「札幌本道」(森~室蘭間は航路)が開設されると街道沿いに集落が形成され、里道は街道と繋がるようになるが、松園通り(中島通-松園線)もその一つであった。

明治20年(1887)私立洞門尋常小学校が大安寺境内に開設、明治22年(1889)私立松園尋常小学校が漁川川沿い(現、恵庭開拓記念公園)に開設されると、「松園通り(中島通-松園線)」は子供らの通学路になった。また、明治30年(1897)漁外一箇村戸長役場が中央地区(松園尋常小学校の対岸)に設置され、恵庭村役場は昭和26年(1951)まで55年間この地にあったので、「松園通り(中島通-松園線)」は利用頻度の高い道路だったと思われる。

現在の地図と重ねてみよう。

道道46号線(江別恵庭線、旧室蘭街道)から恵央町地区を横切り、中島町4丁目と5丁目の境界に沿うように(若草小の北側)中島町地区を斜めに進み、国道36号線(バイパス)中島5丁目信号を渡り、花の拠点「はなふる」(庭園、道の駅がある)の北西側を漁川に沿って走る道路に重なる。道道46号線から国道36号線間の経路ははっきりしないが、花の拠点「はなふる」から恵庭開拓記念公園(松園小学校跡)北側に通じる道路(松園線)には「松園通り」の趣が残っている。現在、松園線は茂漁通に繋がる道路と位置付けられている。

「松園線」は茂漁川第三幹線用水路が道路脇地下を走り、桜並木「恵み野桜回廊」が美しい通りである。また、歩道の真ん中に楡の大木が残されているが、これは「恵庭の御神木」と噂されるもの。伐採しようとしたところ怪我人が出るなど祟りがあったとされる伝承の樹で(拙ブログ2022.4.30「松園通りのハルニレ」)、推定樹齢は160年。このハルニレは御神木と崇められる一方、開拓の歴史を語る記念樹とも言えるだろう。

恵庭開拓記念公園の記念碑や旧町役場跡など歴史地区に通じる「松園通り」は、残したい「歴史の道」。花の拠点「はなふる」から恵庭開拓記念公園に通じる案内板や標識設置、桜並木の花壇整備など、歴史を記憶に留め観光に資する試みがあっても良い。

  

◇私立松園尋常小学校

明治22年(1889):漁川の沿岸に入植した長州藩士族廻神美成によって私立松園尋常小学校開校。「松園」の名は吉田松陰に因んだものと言われる。

明治32年(1899):公立松園尋常小学校となる。

昭和46年(1971):統合により松恵小学校となり閉校。閉校跡地は恵庭開拓記念公園となる。

◇漁外一箇村戸長役場

明治13年(1880):千歳に千歳郡各村戸長役場設置。

明治30年(1897):漁村・嶋松村が千歳郡戸長役場から独立し「漁外一箇村戸長役場」設置。戸数143戸。

明治39年(1906):漁村、嶋松村を合わせ恵庭村になる。中央地区に恵庭村役場を開庁。

明治43年(1910):恵庭村役場全焼。再建。

大正15年(1926):恵庭村役場総改築。

昭和26年(1951):町政施行し恵庭町となる。

昭和27年(1952):町役場庁舎、中央から漁地区に移転新築。

昭和45年(1970):市制施行し恵庭市となる。