竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 二六三 今週のみそひと歌を振り返る その八三

2018年04月21日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二六三 今週のみそひと歌を振り返る その八三

 今回は巻十 詠山の部立に載る集歌2177の歌で遊びます。

詠山
標訓 山を詠めり
集歌2177 春者毛要 夏者緑丹 紅之 綵色尓所見 秋山可聞
訓読 春は萌(も)よ夏は緑に紅(くれなゐ)し綵色(まだら)に見ゆる秋し山かも
私訳 春は木々が萌え立ち、夏は木々は緑に包まれる。その木々が紅にまらだ模様に見える秋の山なのでしょう。

 歌は春の芽生えの淡緑、夏の光るような深緑を、最後に秋の紅葉を詠います。万葉集では秋の木々のうつろいを「黄葉」と表記するのが一般ですが、この歌では「紅」を最初に、次に「綵色」の漢字表現を使います。およそ、目に見える山々の様子は紅が映え、そこに黄色や緑色などが混ざり合うものだったと思われます。ただし、集歌2177の歌で歌い手はどの季節が気に入っているかは詠いません。それぞれの季節で楽しむ風流の模様を詠うだけです。そのためか、山の景色を詠うとして標題では「詠山」なのでしょう。黄葉でも秋山でもありません。
 他方、春の花景色と秋の紅葉を比べた歌があります。それが次の額田王が詠う歌です。

天皇、詔内大臣藤原朝臣、競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時、額田王、以謌判之謌
標訓 天皇の、内大臣(うちのおほおみ)藤原朝臣に詔(みことのり)して、春山の萬花(ばんくわ)の艶(にほひ)と秋山の千(せん)葉(ゑふ)の彩(いろどり)とを競はしたまひし時に、額田王の、歌を以ちて判(こと)れる歌
集歌16 冬木成 春去来者 不喧有之 鳥毛来鳴奴 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曽思努布 青乎者 置而曽歎久 曽許之恨之 秋山吾者
訓読 冬こもり 春さり来(く)れば 鳴かざりし 鳥も来(き)鳴(な)きぬ 咲(さ)かざりし 花も咲けれど 山を茂(も)み 入りにも取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木(こ)し葉を見には 黄葉(もみち)をば 取りにそ偲(しの)ふ 青きをば 置きにそ嘆く そこし恨めし 秋山吾は
私訳 冬の木芽から春を過ぎ来ると、今まで鳴かなかった鳥も来て鳴き、咲かなかった花も咲きますが、山は茂り合っていて入ってその花を手に取れず、草は深くて花を手折って見ることも出来ない。秋の山では、その木の葉を眺めては、色付くその黄葉を手に取ってはとても美しいと思う。このまだ黄葉していない青葉は早く色付いて欲しいと思う。それがじれったく待ち遠しい。それで秋山を私は採ります。

 建前として、額田王の詠う集歌16の歌は近江大津宮時代のもので、集歌2177の歌は藤原京から前期平城京の時代の歌です。従いまして、集歌2177の歌の作歌者は額田王の詠う集歌16の歌を知っていたと推定されます。その分、春と夏の好ましい山の景色を歌に詠い込んだと思われます。「だって、それ、つまんないじゃないの」と云う詠い方と、それぞれの良さを折り込む詠い方とに作歌者の個性が出てくるのでしょう。紹介した二首は競いを詠いますが、その詠い方に明確な個性があります。

 おまけの鑑賞として、集歌16の歌の標題に「内大臣藤原朝臣」とありますが、これは歌が詠われていた当時の肩書きではありません。近江朝時代 「朝臣」と云う肩書きもありませんし、「内大臣(ないだいじん)」と云う役職もありません。まじめに論議しますと、歌が詠われた宴会での本来の肩書きは「内臣(うつつおみ)中臣(なかおみ)臣(おみ)」が正しいものになります。さらに「大臣」と云うものについて、大和では官僚制からの大臣(だいじん)と氏族制度からの大臣(おほおみ)の呼称があり、近江朝時代、官僚制の大臣なのか、氏族制度の大臣なのか、どちらが使われていたのか、それとも混在していたのかは明確ではありません。なお、中臣鎌足は死の前日、「大臣(おほおみ)」の姓(かばね)を与えられていますので、死亡時は確かに「内大臣中臣鎌足」です。藤原姓については日本書紀では天智天皇八年に死の直前に与えたと云う記事と続日本紀では文武二年に中臣不比等に与えたと云う記事があります。弊ブログでは中臣家は壬申の乱のあと天武年間は「中臣」の姓を名乗っていますから続日本紀の方の記事を採用する立場です。
 ただ、奈良時代 大宝律令などの公布以降、過去の正史を記述する時、意図的に氏族制度の大臣と官僚制の大臣を混在させますし、肩書きや官位も過去の正しいものとそれを養老律令から読み替えたものと混在させます。さらに官位では養老律令でも皇族・王族官位体系と臣民官位体系は別立てなのですが、これも意図的に混在させます。
基本的に歴史の専門家であっても、大宝律令・養老律令や延喜式令格を参照しながら、日本書紀や続日本紀を眺めませんから、身分や階級の解釈は、時にぐちゃぐちゃです。その影響が万葉集や懐風藻の鑑賞にも及んでいます。
 これを踏まえますと、集歌16の歌の標題 「詔内大臣藤原朝臣」は「内大臣たる藤原朝臣に詔して」と解釈しますから、ある種、公式の宮中での宴でのものとなります。一方、「詔内臣中臣臣」が正しく「内臣たる中臣の臣に詔して」と訓じますと「天皇家の秘書たる中臣に命じて」との解釈となります。この場合、天智天皇のサロンに風流人を集めて春秋競い歌の詠ったと云うことになります。ちなみに漢詩集である懐風藻にはその時代の春秋競いの漢詩は載りません。

 今回もまた、真剣に与太話や馬鹿話をしてしまいました。
 なお、正史はうそは記述しませんが、誤解するような記述を排除するものでもありません。もし、そのような正史を誤解・誤読するのは読み手の勉強不足と云うことになります。正史を書き換えた藤原氏は読者には親切ではありません。


参考記事:-
文武二年(六九八)八月丙午(十九)の記事;
丙午。詔曰。藤原朝臣所賜之姓。宜令其子不比等承之。但意美麻呂等者。縁供神事。宜復旧姓焉。
天智天皇八年(六六九)十月庚申(十五)の記事;
庚申。天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家。授大織冠与大臣位。仍賜姓為藤原氏。

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