ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

文字

2024-05-20 08:39:32 | 日記・エッセイ・コラム
言葉は音(声)である。
波動にて思いを伝える。
であるが、ここに文字が登場する。
これが又言葉を大きく変貌させる。
言葉はそも魔法である、と言った。
それは他の生き物にはビックリの、
摩訶不思議な力を持つ。
文字はその力を更に大きくさせた。
近代以降はそれが顕著である。
それを科学と言っている。
まあそんなことです。
・・・・・
でも基は音という波動である。
それを大事にするのが日本であり、
ゆえに50音表がある。
にしても言葉は思いを伝えるもの。
それはやはり音(声)がすぐれている。
そこには思いが乗るのである。
その音は場につつまれている。
場のあらゆる情報と共にある。
ゆえに目の前の相手に伝わる。
でもその場限りであり一過性。
たとえ深奥に残ったとしても。
文字はそこが違うのです。
文字はそれが消えにくい。
一過性ではなく長く残り、
記録としては非常に有効。
てかこれが決定的な違い。
その言葉には生身の波動がないのです。
あるのはその記憶あるいは残滓である。
だから伝わり方ははなはだ心もとない。
それは読み手の読み方次第なのである。
しかも読み手を選ばずその数も無制限。
ゆえ当の言葉を離れて勝手に独り歩き。
それにそれは時と場所を軽々と超える。
これがその魔法を飛躍させる。
でもここに魔(間)がひそむ。
例えば歴史。
文字がなければ口伝しかない。
神話も含めすべては口伝から。
そも口伝は実は凄いのである。
それは特化した能力が必要で、
その能力に依って継承される。
それも言葉尻より思いが重要。
言葉は時と伴に変化するもの、
ゆえ言葉尻より思いなのです。
口伝えはそこがすぐれており、
一子相伝となるも止むを得ず。
それが文字ならどうだろうか。
これは一度記せば後は手が掛からない。
しかしそこに書き手の波動はない。
読み手の波動が往復するのみ。
だからもっぱら読み手に依存。
原本であれば正確は正確だが。
でも言葉は変わっていくもの。
言葉にはそういう問題もある。
結局すべて読み手任せとなる。
文字情報にはそういうクセが。
そも本人への直接確認は非常に難しい。
それを知っておこう。
もうひとつ、
例えば科学。
科学は神の事の場を問うもの。
そして基本的に今を問うもの。
人の思いには左右されません。
とはいえこれも人の文字で記述される。
なら文字が持つ魔をどうする。
ゆえに科学は定義にこだわる。
これでその魔が取り除かれる。
しかも常に神の事の場(現実)に帰る。
それがなされれば、
そこで科学はなる。
ここで先に記した歴史をもう一度。
歴史とは人類の生きた記憶である。
それは時の思いの流れを追うもの。
時の波動は時の波動として捉える。
その波動の置き換えは基より論外。
ところがその論外絶えることなし。
またもどる。
人は言葉を持って初めて人になる。
ゆえ人類の歴史とは言葉を得て以降のこと。
だから口伝もまた歴史に違いなし。
でも通常は文献記録を指している。
つまり文字である。
だから注意が必要。
さきに記したが歴史は曲げられる。
それはそれが政治とは裏表だから。
その政治とは時の政治のこと。
時は常に過去と繋がっている。
ゆえ時に都合の悪いものは変えられる。
これが常に繰り返されてきた。
ちなみにこれを避けたいなら、
一子相伝の口伝しかない。
だから想うのです、
日本にはそれがあるだろうと、
或るところに有るだろううと、
あるところにです、
………。
・・・・・
日本語は難しい、とよく言われる。
その一つは文字数が多いこと。
その数もだがその種類もです。
日常会話だけならむしろ易しいのでは。
しかしてその種類は主には三っつ、
漢字、ひらがな、カタカナである。
算用数字やアルファベットもそうだが、
文章が基本縦書きだからそこは不向き、
数学での必要性はもう圧倒的であるが。
なんやかんやだが、
中でも難しいのは漢字であろうか。
それは一つひとつの字もそうだが、
なんといってもその数が多いから。
それにその読み方が一つではない。
音読みと訓読みの二種類があって、
しかも訓読みが一つでないことも。
例えば「上」、これは音読みは「じょう」、
訓読みには「うえ」と「かみ」がある。
逆に和語に漢字を宛てるのも常道。
例えば「みる」に宛てるのは、
見る、視る、観る、診る、看るなど等と。
そんなことですが、
ともかく尋常ではありません、
その取り扱い方が。
だからか日本語はその造語能力が圧倒的、
それは主に漢字のお陰ですが。
幕末期における欧米語に宛てた夥しい漢字熟語、
しかもその文字選びの絶妙さ、
そして安直で能天気なカタカナ和製英語の氾濫、
これは戦後それも最近のこと。
そしてそこでの文章の書き方、
漢字かな交じり文にカタカナ語かな交じり文等、
もう変幻自在である。
ちなみにひらがなとカタカナの使い分けも絶妙。
漢字はそも記号化した絵なのだが、
文章も記号化を超えて絵的になっている。
だから文字を一々追わなくても何となく分かる?
ようなところがある。
これはもう言葉のブラックホール。
おそろしい言語です。
それはそうなのだが、
そもその始まりは音(波動)です。
その音を概ね50音として捉える。
ゆえ基本語彙はそれほど多くない。
それらを「てにをは」と語尾の活用で賄う。
これが和語であり祝詞の大本はここにある。
この始まりの言葉は、
音(波動)に始まり、音(波動)にかえる、
神(事場)に始まり、神(事場)にかえる、
それが日本語である。
まことに、まことに。