日本語の50音表に似たもので、
イロハニホヘト~、があります。
かな文字47を一度だけ使用し、
ひとつの歌をうたいあげている。
まことに趣のあるいい歌である。
ゆえ所謂50音表とともに、
字母表として使われてきた。
ここでこれを持ち出すのは、
前に記した「あえいおう」の続きとしてです。
心が驚き「あ」、
心が惑い「え」、
心を収め「い」、のこの「い」を思うのです。
この歌はその「い」から始まる。
ところで、
普通目次の標題前には一二三などを使う。
それをイロハとすることもある。
最近は見ることがなくなったが。
それほどに重宝されていた。
てかそれがどうした?
…
・・・・・
私は思うのです。
言葉の初めは心の驚きか、驚きの震えか。
それが流れで合図となり、
終には意味を持つことに。
それは口から出る音(声)として。
そのときそれは単なる音ではない。
それが「い」である。
それは言(い)うの「い」である。
ここに「い」があり、
ここに言葉が始まる。
そこでこの「い」を思う。
これは「あえいおう」の真ん中にあって、
その謂は、
息の「い」であり、命の「い」であり、生きるの「い」である。
そこで聖書を思う。
旧約聖書エゼキエル書三七章。
・・
谷間に枯れた骨が満ちていた。
神はエゼキエルに言われた。
これらの骨に預言して言え。
エゼキエルはそれに従った。
…
しかして骨は繋がりそこに肉皮がついた。
しかしまだ生きてはいなかった。
息がなかったのである。
そこでさらに預言をすれば、
そこに息がはいった。
そしたらそれらは生き返り、
はなはだ大いなる群衆になった。
・・
ここでは命は息だと言っている。
ところで日本では、
亡くなることを「息を引き取る」という。
現下の死亡判定とは違うが。
息とは「い」の気であり、命とは「い」の血である。
かくて「いきる」は息することでつまり生きること。
行きるとも逝きるとも書けるが、
行きて逝きるが生きるに如かず。
良く出来ている、
出来過ぎている。
ところで漢字語の音読みに「いみ」というのがある。
意味と記すもの。
これも一応「い」ではあります。
でも一音一意からはズレている。
訓読みではないから。
しても妙に合致しているような。
まあ思い過ごしか、
それとも偶然か?
てかともかく「い」とはそんな音である。
それを思うのです。
・・・・・
それにしてもイロハ歌これは素晴らしい。
根底に仏教思想があるようだが、
そこに日本的情緒無常感が漂う。
弘法大師の作と言われていたが、
今は作者不詳とされている。
弘法大師は傑出した人物だから、
その作であっても不思議はない。
ところで、
今の学校ではどうなってるのだろう。
教材として残ってるのだろうか。
消されているのではと思う。
思えば言葉は音である。
その波動が伝わりそれが身体(特に耳)に届く。
後に文字が出来るがこれは実は届きにくいもの。
文字は波動を伝えない。
身体にはまったく響かない。
専らその一部(脳)で回るだけ。
そこは実に情緒情感には欠ける世界。
だからです、
イロハ歌の素晴らしさはここにある。
一音一意の心を歌にして届ける。
それは音韻・響きとして届ける。
しかも「い」から始まるのです。
何を思ったか「い」から始まる。
言葉の初めだと私が思う音。
もう感心するしかない。
それが字母表にもなる。
・・
イロハニホヘト
チリヌルヲワカ
ヨタレソツネナ
ラムウヰノオク
ヤマケフコエテ
アサキユメミシ
ヱヒモセス
・
ん!
・・・・・
人類は魔法使いである。
無類の魔法使いである。
してもこのことに無頓着です。
しかして戦後世界、
神は追いやられた。
魔法も非科学的と言われて追いやられた。
でも少しだが復権の兆しあり。
映画やアニメなどではその様である。
しても魔法使いとは又面妖な。
そう思うなら、他の生き物に聞けばいい。
彼らから見れば人類はまさに魔法使いである。
誰よりも速く走り、空を飛び、水に潜む。
山を砕き谷を埋め、見えない物さえ操る。
これが魔法でなくて何なのか。
この魔法には種がある。
それは言葉である。
これが種のすべて。
でもいま人類は危うい。
自分が魔法を持っているのに、
それを持っているのを知らず、
その魔法に憑りつかれている。
その有様は、
もはや夢遊病者の如し。
嗚呼!
イロハニホヘト~、があります。
かな文字47を一度だけ使用し、
ひとつの歌をうたいあげている。
まことに趣のあるいい歌である。
ゆえ所謂50音表とともに、
字母表として使われてきた。
ここでこれを持ち出すのは、
前に記した「あえいおう」の続きとしてです。
心が驚き「あ」、
心が惑い「え」、
心を収め「い」、のこの「い」を思うのです。
この歌はその「い」から始まる。
ところで、
普通目次の標題前には一二三などを使う。
それをイロハとすることもある。
最近は見ることがなくなったが。
それほどに重宝されていた。
てかそれがどうした?
…
・・・・・
私は思うのです。
言葉の初めは心の驚きか、驚きの震えか。
それが流れで合図となり、
終には意味を持つことに。
それは口から出る音(声)として。
そのときそれは単なる音ではない。
それが「い」である。
それは言(い)うの「い」である。
ここに「い」があり、
ここに言葉が始まる。
そこでこの「い」を思う。
これは「あえいおう」の真ん中にあって、
その謂は、
息の「い」であり、命の「い」であり、生きるの「い」である。
そこで聖書を思う。
旧約聖書エゼキエル書三七章。
・・
谷間に枯れた骨が満ちていた。
神はエゼキエルに言われた。
これらの骨に預言して言え。
エゼキエルはそれに従った。
…
しかして骨は繋がりそこに肉皮がついた。
しかしまだ生きてはいなかった。
息がなかったのである。
そこでさらに預言をすれば、
そこに息がはいった。
そしたらそれらは生き返り、
はなはだ大いなる群衆になった。
・・
ここでは命は息だと言っている。
ところで日本では、
亡くなることを「息を引き取る」という。
現下の死亡判定とは違うが。
息とは「い」の気であり、命とは「い」の血である。
かくて「いきる」は息することでつまり生きること。
行きるとも逝きるとも書けるが、
行きて逝きるが生きるに如かず。
良く出来ている、
出来過ぎている。
ところで漢字語の音読みに「いみ」というのがある。
意味と記すもの。
これも一応「い」ではあります。
でも一音一意からはズレている。
訓読みではないから。
しても妙に合致しているような。
まあ思い過ごしか、
それとも偶然か?
てかともかく「い」とはそんな音である。
それを思うのです。
・・・・・
それにしてもイロハ歌これは素晴らしい。
根底に仏教思想があるようだが、
そこに日本的情緒無常感が漂う。
弘法大師の作と言われていたが、
今は作者不詳とされている。
弘法大師は傑出した人物だから、
その作であっても不思議はない。
ところで、
今の学校ではどうなってるのだろう。
教材として残ってるのだろうか。
消されているのではと思う。
思えば言葉は音である。
その波動が伝わりそれが身体(特に耳)に届く。
後に文字が出来るがこれは実は届きにくいもの。
文字は波動を伝えない。
身体にはまったく響かない。
専らその一部(脳)で回るだけ。
そこは実に情緒情感には欠ける世界。
だからです、
イロハ歌の素晴らしさはここにある。
一音一意の心を歌にして届ける。
それは音韻・響きとして届ける。
しかも「い」から始まるのです。
何を思ったか「い」から始まる。
言葉の初めだと私が思う音。
もう感心するしかない。
それが字母表にもなる。
・・
イロハニホヘト
チリヌルヲワカ
ヨタレソツネナ
ラムウヰノオク
ヤマケフコエテ
アサキユメミシ
ヱヒモセス
・
ん!
・・・・・
人類は魔法使いである。
無類の魔法使いである。
してもこのことに無頓着です。
しかして戦後世界、
神は追いやられた。
魔法も非科学的と言われて追いやられた。
でも少しだが復権の兆しあり。
映画やアニメなどではその様である。
しても魔法使いとは又面妖な。
そう思うなら、他の生き物に聞けばいい。
彼らから見れば人類はまさに魔法使いである。
誰よりも速く走り、空を飛び、水に潜む。
山を砕き谷を埋め、見えない物さえ操る。
これが魔法でなくて何なのか。
この魔法には種がある。
それは言葉である。
これが種のすべて。
でもいま人類は危うい。
自分が魔法を持っているのに、
それを持っているのを知らず、
その魔法に憑りつかれている。
その有様は、
もはや夢遊病者の如し。
嗚呼!