これはもう言わずと知れたこと、
原理主義です。
今一番問題になってるのはイスラムの原理主義です。
学者の飯山陽さんによれば、
イスラム教の中に原理主義があるのではなく、
そもイスラム教そのものが原理主義であると。
確かにそういう一面がある。
・・・・・
コーランのことはよく知らないが、
私には私なりに思うところがある。
旧約聖書は神話(的)であり、物語として語られている。
そこにはモーセ五書のように律法と呼ばれるものもあり、
詩編や預言書と言われるものもある。
総じて人間(言葉を持ってしまった人間)の霊性が語られている。
その中に規範的なものもある。
モーセの十戒のように。
新約聖書は謂わばイエスの言行録であり、
人であるイエスが神となる物語でもあり、
イエスの言葉はそのまま神の言葉となる。
それに比べれば、
コーランには神話的なところはなく、
それはつまり前提としての霊性については触れないで、
直接人間の生き方について語られる。
人間は一人では生きられない、集まって生きると決めたから。
ゆえに個人の生き方は同時に集団の生き方となり、
それは社会の規範となる。
そこが胆である。
規範とはつまり人を仕切ることだ。
それを政治という。
だからです、イスラム教が政教分離できないのは。
その教えはそも初めから政治的なのです。
それでもです、他者(異教)を排斥しなければいい。
でも、その成り立ち故に異教と折り合うのが難しい。
そこが今大問題となっている。
敢えて言うが、
イスラム教が問題なのではない、
原理主義が問題なのである。
・・・・・
また一つ思う。
これは以前から言っていることで、
聖書もそうだが、
神の言葉が記されているといっても、
そこに書かれているのは人の言葉だ。
さもないと普通の人には分からない。
神の言葉そのものは預言者(啓示を受けた者)にしか分からないのだ。
彼らがそれを人の言葉として伝えているのです。
神の言葉と謂うのが嘘だと言うつもりはない。
私ごときには分からないが。
でも人の言葉は時と所によって表現や内容は変わる。
さもなければ、先述の通り普通の人には分からない。
それを知らねば。
神の言葉は真理であり現実であるが、
人の言葉は方便であり時に嘘となる。
それが人の言葉の宿命である。
だからこそ常に解釈が必要になる。
如何に(正しく)解釈するかが大事なのだ。
為には神の啓示を受けられるほどの者が必要であり、
それがイスラム法学者ではないのか。
日本語では~師と言っているような。
解釈が不要ならそんな人は要らない。
何度でも言うが、
イスラム教が問題なのではない、
原理主義が問題なのだ。
このこと肝に命じよう。
・・・・・
この日本にも原理主義者がいる。
東大の法学部に巣くっており、
そこから蜘蛛の糸のように方々に延びている、
曰く憲法原理主義者である。
神から与えられた言葉でもないのに、
そもアメリカ様がくれた言葉なのに、
それを後生大事に抱え込み、
ときに一言一句変えてはいけないと言う。
イスラム原理主義も真っ青だ。
その憲法には改定についての記述があり、
そも変えることを前提にしているのです。
憲法を蔑ろにし貶めているのは一体誰なのか。
彼らには何を言っても無駄だろう。
ともかく「原理主義」には注意しよう。
これでやっと三つ揃いました。
やれやれ!
原理主義です。
今一番問題になってるのはイスラムの原理主義です。
学者の飯山陽さんによれば、
イスラム教の中に原理主義があるのではなく、
そもイスラム教そのものが原理主義であると。
確かにそういう一面がある。
・・・・・
コーランのことはよく知らないが、
私には私なりに思うところがある。
旧約聖書は神話(的)であり、物語として語られている。
そこにはモーセ五書のように律法と呼ばれるものもあり、
詩編や預言書と言われるものもある。
総じて人間(言葉を持ってしまった人間)の霊性が語られている。
その中に規範的なものもある。
モーセの十戒のように。
新約聖書は謂わばイエスの言行録であり、
人であるイエスが神となる物語でもあり、
イエスの言葉はそのまま神の言葉となる。
それに比べれば、
コーランには神話的なところはなく、
それはつまり前提としての霊性については触れないで、
直接人間の生き方について語られる。
人間は一人では生きられない、集まって生きると決めたから。
ゆえに個人の生き方は同時に集団の生き方となり、
それは社会の規範となる。
そこが胆である。
規範とはつまり人を仕切ることだ。
それを政治という。
だからです、イスラム教が政教分離できないのは。
その教えはそも初めから政治的なのです。
それでもです、他者(異教)を排斥しなければいい。
でも、その成り立ち故に異教と折り合うのが難しい。
そこが今大問題となっている。
敢えて言うが、
イスラム教が問題なのではない、
原理主義が問題なのである。
・・・・・
また一つ思う。
これは以前から言っていることで、
聖書もそうだが、
神の言葉が記されているといっても、
そこに書かれているのは人の言葉だ。
さもないと普通の人には分からない。
神の言葉そのものは預言者(啓示を受けた者)にしか分からないのだ。
彼らがそれを人の言葉として伝えているのです。
神の言葉と謂うのが嘘だと言うつもりはない。
私ごときには分からないが。
でも人の言葉は時と所によって表現や内容は変わる。
さもなければ、先述の通り普通の人には分からない。
それを知らねば。
神の言葉は真理であり現実であるが、
人の言葉は方便であり時に嘘となる。
それが人の言葉の宿命である。
だからこそ常に解釈が必要になる。
如何に(正しく)解釈するかが大事なのだ。
為には神の啓示を受けられるほどの者が必要であり、
それがイスラム法学者ではないのか。
日本語では~師と言っているような。
解釈が不要ならそんな人は要らない。
何度でも言うが、
イスラム教が問題なのではない、
原理主義が問題なのだ。
このこと肝に命じよう。
・・・・・
この日本にも原理主義者がいる。
東大の法学部に巣くっており、
そこから蜘蛛の糸のように方々に延びている、
曰く憲法原理主義者である。
神から与えられた言葉でもないのに、
そもアメリカ様がくれた言葉なのに、
それを後生大事に抱え込み、
ときに一言一句変えてはいけないと言う。
イスラム原理主義も真っ青だ。
その憲法には改定についての記述があり、
そも変えることを前提にしているのです。
憲法を蔑ろにし貶めているのは一体誰なのか。
彼らには何を言っても無駄だろう。
ともかく「原理主義」には注意しよう。
これでやっと三つ揃いました。
やれやれ!