ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

ドラえもんのいる世界

2019-05-20 11:11:15 | 日記・エッセイ・コラム
唐突なことですがドラえもんです。
人気の漫画で、私も見ています。
設定もそうだが、いかにもの日本的眼差しで面白い。
なかでも「どこでもドア」という発想が好きである。
・・・・・
日本には神様がいる。
そこかしこに。
神という字は「示」す編に「申」すと書く。
つまり示して申すのである。
何を申すのかと言えば、祈り(願い)の言葉である。
こは如何に?
示して申すとは自らの所作のことではないか。
それを祈る対象(相手)とするのか。
そも祈る対象(神様)は見えない。
存在するものすべてに関わっておられる。
この世界に現れるものすべてに神意・神威があるのだ。
それを現実と言い、実に取り止めなく漠としたものだ。
でもそこに感じるのです。
その感じるものに祈るのだが、
さりとて対象があやふやなのは虚しい。
何か手ごたえが欲しい。
そこで名前でもあったらいいと思う。
だが勝手に付けるのもおこがましい。
取り敢えずは自らの所作をそれに当てることにする。
それが神である。
そうこうしている内に、それが定まったのです。
などと勝手に想像している。
・・・・・
神とは漢字である。
音読みとしては「しん」である。
訓読みでは「かみ」という。
訓読みこそ日本の音である。
この「かみ」は別の漢字で上というのがあり、
これも「かみ」と読む。
だから神と上は音では同じであり、
意味的には通じるところがあるのだろう。
この上という字には別の読み方もある。
それは「うえ」である。
でも神様は「うえさま」とは言わない。
でもこの読み方も時には使うのである。
家来が殿様を呼ぶ時などに。
なぜか訓読みには二つある場合がある。
これがよく分からない。
古くから大きな勢力が二つあったゆえか。
上を「かみ」と言う勢力が祈りに関わっていたのかも。
ともかく神は「かみ」と読む。
ちょっと横に逸れました。
・・・・・
普通祈りは主に神社で行っている。
神社は日本中いたるところにある。
小さな祠などを含めればそれこそ無数にある。
神威を感じる所(場)や物(木や石など)には結界を張って祀るのだ。
だから日本中どこにでも祈りはある。
いつ祈るかも特に定めはないようだ。
勿論神社などでの祭礼は定められている。
庶民は思い立ったが吉日であり、いつでもいいのだ。
それにである、普段の生活の場でもよく又特に神棚がなくてもいい。
と言うより、心からの願いは時と場所を選ばない。
例えば家族が手術のとき病院の待合で、
例えば子供が入試のとき自宅の台所で、
例えば兄弟が試合のとき応援の会場で、
等々挙げれば切りがない。
祈りとは日常なのである。
日本人の祈りはそういうものである。
いつでもどこでも祈りはあるのだ。
日本人は心の中に祈りの「どこでもドア」を持っている。
まあ日本人だけではなかろうが。
でもこの「どこでもドア」は日本の神様と相性がいい。
何しろドラえもんが生まれた国なのだ。
・・・・・
ドラえもんの作者の思いは知らず、
勝手ながらにそう思っている。
ちなみに、だから日本はまさにドラえもんの国だと。
それにである、
日本は一般的には多神教と言われるが、
それは神様が多数おられるというより、
神様はいつでもどこにでもおられると、
まあそういうことだろう。
何にしても融通無碍の自由な国である。