唐突なことですがドラえもんです。
人気の漫画で、私も見ています。
設定もそうだが、いかにもの日本的眼差しで面白い。
なかでも「どこでもドア」という発想が好きである。
・・・・・
日本には神様がいる。
そこかしこに。
神という字は「示」す編に「申」すと書く。
つまり示して申すのである。
何を申すのかと言えば、祈り(願い)の言葉である。
こは如何に?
示して申すとは自らの所作のことではないか。
それを祈る対象(相手)とするのか。
そも祈る対象(神様)は見えない。
存在するものすべてに関わっておられる。
この世界に現れるものすべてに神意・神威があるのだ。
それを現実と言い、実に取り止めなく漠としたものだ。
でもそこに感じるのです。
その感じるものに祈るのだが、
さりとて対象があやふやなのは虚しい。
何か手ごたえが欲しい。
そこで名前でもあったらいいと思う。
だが勝手に付けるのもおこがましい。
取り敢えずは自らの所作をそれに当てることにする。
それが神である。
そうこうしている内に、それが定まったのです。
などと勝手に想像している。
・・・・・
神とは漢字である。
音読みとしては「しん」である。
訓読みでは「かみ」という。
訓読みこそ日本の音である。
この「かみ」は別の漢字で上というのがあり、
これも「かみ」と読む。
だから神と上は音では同じであり、
意味的には通じるところがあるのだろう。
この上という字には別の読み方もある。
それは「うえ」である。
でも神様は「うえさま」とは言わない。
でもこの読み方も時には使うのである。
家来が殿様を呼ぶ時などに。
なぜか訓読みには二つある場合がある。
これがよく分からない。
古くから大きな勢力が二つあったゆえか。
上を「かみ」と言う勢力が祈りに関わっていたのかも。
ともかく神は「かみ」と読む。
ちょっと横に逸れました。
・・・・・
普通祈りは主に神社で行っている。
神社は日本中いたるところにある。
小さな祠などを含めればそれこそ無数にある。
神威を感じる所(場)や物(木や石など)には結界を張って祀るのだ。
だから日本中どこにでも祈りはある。
いつ祈るかも特に定めはないようだ。
勿論神社などでの祭礼は定められている。
庶民は思い立ったが吉日であり、いつでもいいのだ。
それにである、普段の生活の場でもよく又特に神棚がなくてもいい。
と言うより、心からの願いは時と場所を選ばない。
例えば家族が手術のとき病院の待合で、
例えば子供が入試のとき自宅の台所で、
例えば兄弟が試合のとき応援の会場で、
等々挙げれば切りがない。
祈りとは日常なのである。
日本人の祈りはそういうものである。
いつでもどこでも祈りはあるのだ。
日本人は心の中に祈りの「どこでもドア」を持っている。
まあ日本人だけではなかろうが。
でもこの「どこでもドア」は日本の神様と相性がいい。
何しろドラえもんが生まれた国なのだ。
・・・・・
ドラえもんの作者の思いは知らず、
勝手ながらにそう思っている。
ちなみに、だから日本はまさにドラえもんの国だと。
それにである、
日本は一般的には多神教と言われるが、
それは神様が多数おられるというより、
神様はいつでもどこにでもおられると、
まあそういうことだろう。
何にしても融通無碍の自由な国である。
人気の漫画で、私も見ています。
設定もそうだが、いかにもの日本的眼差しで面白い。
なかでも「どこでもドア」という発想が好きである。
・・・・・
日本には神様がいる。
そこかしこに。
神という字は「示」す編に「申」すと書く。
つまり示して申すのである。
何を申すのかと言えば、祈り(願い)の言葉である。
こは如何に?
示して申すとは自らの所作のことではないか。
それを祈る対象(相手)とするのか。
そも祈る対象(神様)は見えない。
存在するものすべてに関わっておられる。
この世界に現れるものすべてに神意・神威があるのだ。
それを現実と言い、実に取り止めなく漠としたものだ。
でもそこに感じるのです。
その感じるものに祈るのだが、
さりとて対象があやふやなのは虚しい。
何か手ごたえが欲しい。
そこで名前でもあったらいいと思う。
だが勝手に付けるのもおこがましい。
取り敢えずは自らの所作をそれに当てることにする。
それが神である。
そうこうしている内に、それが定まったのです。
などと勝手に想像している。
・・・・・
神とは漢字である。
音読みとしては「しん」である。
訓読みでは「かみ」という。
訓読みこそ日本の音である。
この「かみ」は別の漢字で上というのがあり、
これも「かみ」と読む。
だから神と上は音では同じであり、
意味的には通じるところがあるのだろう。
この上という字には別の読み方もある。
それは「うえ」である。
でも神様は「うえさま」とは言わない。
でもこの読み方も時には使うのである。
家来が殿様を呼ぶ時などに。
なぜか訓読みには二つある場合がある。
これがよく分からない。
古くから大きな勢力が二つあったゆえか。
上を「かみ」と言う勢力が祈りに関わっていたのかも。
ともかく神は「かみ」と読む。
ちょっと横に逸れました。
・・・・・
普通祈りは主に神社で行っている。
神社は日本中いたるところにある。
小さな祠などを含めればそれこそ無数にある。
神威を感じる所(場)や物(木や石など)には結界を張って祀るのだ。
だから日本中どこにでも祈りはある。
いつ祈るかも特に定めはないようだ。
勿論神社などでの祭礼は定められている。
庶民は思い立ったが吉日であり、いつでもいいのだ。
それにである、普段の生活の場でもよく又特に神棚がなくてもいい。
と言うより、心からの願いは時と場所を選ばない。
例えば家族が手術のとき病院の待合で、
例えば子供が入試のとき自宅の台所で、
例えば兄弟が試合のとき応援の会場で、
等々挙げれば切りがない。
祈りとは日常なのである。
日本人の祈りはそういうものである。
いつでもどこでも祈りはあるのだ。
日本人は心の中に祈りの「どこでもドア」を持っている。
まあ日本人だけではなかろうが。
でもこの「どこでもドア」は日本の神様と相性がいい。
何しろドラえもんが生まれた国なのだ。
・・・・・
ドラえもんの作者の思いは知らず、
勝手ながらにそう思っている。
ちなみに、だから日本はまさにドラえもんの国だと。
それにである、
日本は一般的には多神教と言われるが、
それは神様が多数おられるというより、
神様はいつでもどこにでもおられると、
まあそういうことだろう。
何にしても融通無碍の自由な国である。