ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

2019-05-27 11:58:14 | 日記・エッセイ・コラム
現代人は大きな罠の前に立っている。
それは言葉という罠である。
聖書はそれを警告していたのに。
必ず陥ると知っていたから。
それでも、
陥ると覚悟している者だけが、
かろうじてその前に留まれる、
のだが。
しかし、それができない者がほとんどだ。
昨今は実に酷い有様である。
・・・・・
言葉を持たない生物は、
己のすべての感覚で現実に向き合っている。
その範囲は人の目から見れば非常に小さいものだ。
この広大無辺な宇宙からすれば。
だがである。
彼らが向き合っている範囲は、
この宇宙の一片ではあっても、
そこに切れ目はなく、
どこまでも繋がっている。
結局は宇宙そのものなのである。
人も本来は同じである。
だが如何せん言葉を持ってしまった。
それが何を意味するのか分からないようだ。
現代人はこのことを問わなくなった。
言葉に溺れてしまった。
・・・・・
神の言葉は現実だ。
神は言葉によってこの世界を創ったのだから。
だが人はなぜか言葉を手に入れた。
聖書はそのことを暗示している。
さすればである、
人にとって言葉は借物(仮物)でしかない。
神の言葉は現実であり、人の言葉は仮想なのだ。
確かに現実の一端を表現するには都合がいい。
それが言葉の質だから。
そしてそれを合理とか言っている。
ここで勘違いをした。
一端はどこまでも一端なのに、その一端に囚われたのだ。
一端を言葉に置き換える術を得て、勘違いしてしまった。
それを大きくすれば全部になると。
でも一端は一端である。
どこまで行っても一端である。
その向うにいつも未知の領域がある、圧倒的な。
それを神秘と謂う。
現実とは神秘に他ならないのだ。
それを知ろう。
・・・・・
それにである。
人間ももとよりすべての感覚で現実に向き合っている。
そこは他の生物と同じだ。
さりがら常に目の前の現実を言葉に置き換えてしまう。
その置き換えられた言葉に感覚が引きずられる。
言葉(により創られた思い)に囚われてしまう。
これが普通であり、宿命と言うべきか。
どうも大脳が発達したお陰らしい。
その大脳に写された言語的現実を現実と認識するのです。
全細胞による感応よりも大脳の認識が優先されてしまう。
つまり仮想現実を生きることになる。
お化けや幽霊は脳が見ている幻想だと言うが、
合理というものも幻想と変わりはないのです。
私はそう思っている。
ただ科学的思考は少し違うと思う。
科学は現実によって裏打ちされたものだけが認められると。
それなら仮想とは言えないだろう。
あくまで(自然)科学のことだが。
・・・・・
現実とは神秘である。
神秘が宇宙の現実である。
とは言え、合理にも意味がある。
大いに意味がある。
日常の行動の決め事にするのは素晴らしい。
範囲を決めて用いるなら、それも有用です。
でも実際の現実は広大である。
神秘に満ち満ちている。
それを知ろう。
しかして、神秘に対処するには方途がある。
それは祈りである。
合理では埋められない領域、
その圧倒的な領域を埋めるのは祈りである。
人間は言葉を持ったときから、そうである。
祈りを生きてきたのだ。
罠を前にして留まるには、
それを置いて他にない。