ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

パウロの手紙

2017-04-03 14:35:43 | 日記・エッセイ・コラム
イエスの12使徒の一人、
パウロが殉教の死を向かえる前に、
手紙を書いている。
それが新約聖書のテモテ第二の手紙である。
・・・・・
「終りの日には困難な時代がやって来ることを
よく承知しておくように」
という言葉から始まる。
終りの日とは一つの時代が終わり、
新しい時代に入る時のことである。
「その時に人々は自分を愛する者、金を愛する者、
大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、
両親に従わない者、感謝することを知らない者、
汚れた者になる」
続けて、
「情け知らずの者、和解しない者、そしる者、
節制のない者、粗暴な者、善を好まない者、
裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、
神よりも快楽を愛する者になる」
と言う。
今まさにそんな時代になっている。
シナもそうだしアメリカもそうだ。
お隣の韓国はまさに…である。
・・・・・
ところで、
昨今話題の中心であった森友問題だが、
そこでは、
当初教育勅語がやり玉に挙がった。
自民党の菅幹事長は、
いつもの定例記者会見だったと思うが、
教育勅語を利用するのは差し支えない、
と言った。
その教育勅語だがせいぜい600字余りの短いものだ。
内容は概ね下記の通りである。
「父母に孝行し、兄弟は仲良くし、夫婦は協力し合い、友人は信じ合い、
人には恭しく、自分は慎ましくして、広く人々を愛し、
学問を修め、仕事を習い、知能を伸ばし、徳行・能力を磨き、
進んで公共の利益に奉仕し、世の中のために尽くし、
常に憲法を重んじ、法律を守り、
もし国家に危機が迫れば忠義と勇気をもって国家のために働き、
天下に比類なき皇国の運命を助けるように」
と、まあこんなことである。
戦後の自虐史観の中で育った者には、
多少違和感を感じる向きもあるだろうが、
言っていることに不都合などない。
先のパウロの手紙に比すれば分かるだろう。
彼の内容(終りの時代の世相)とは真逆のことばかりだ。
これは時代に立ち向かう言葉であり、
新しい時代を開く言葉である。
・・・・・
日本は継続の国である。
始まりはあったとしても、終りはなく常に始まりの中にある。
それが継続というものだ。
戦後の有様を見ていると、
いかにメディアが堕落しているか、
ということである。
むろんこれは日本だけのことではない。
独裁国家は論外だが、
自由と民主主義を標榜する欧米も、
目を覆うばかりの惨状である。