今は随分変わってきたが、
以前は非常に先進的で良いイメージだった。
リベラルのことである。
アメリカではどうなってるのか知らないが、
日本ではそのようだ。
明らかにリベラルを自称する人が減ってきた。
もともとそうなのだが、リベラル人士には知識人が多い。
なぜなら、それは言葉で現実を括ろうとするものだから。
それもあって若い頃は大抵かぶれるものだ。
私も例外ではない。
・・・・・
言葉は現実ではない。
言葉は現実を写すもの、現実を示唆するものである。
人という言葉は我々のような人を指す。
それは人以外の動物と区別するのに有効である。
しかも人という現実に即してる。
活きた言葉だ。
それが人権となると厄介だ。
人権などは実はどこにもないのである。
人権があるなら犬権も牛権も、はたまた虫権もある。
人にだけ権利があるというのか。
そんなことはない。
すべての存在に権利を認めたら面倒臭くて生きてられない。
もちろん分かってる。
人権とは人間社会でのみ通用するものだと。
さりながら、それは観念つまり頭の中の幻想でしかない。
それにそれは日本人には馴染まない。
奴隷制または奴隷制であった社会では馴染むものだ。
人を人として扱わない場では意味がある。
そういう場でこそである。
奴隷制のなかった日本では?の意味不明の言葉となる。
まあ使い方によっては少しは役に立つが。
ともかくリベラル人士は分かっていない。
つまり、
人権という幻(言葉)があるだけで、
人権という実はない、
ということが。
ムキになって言うことでもないが。
・・・・・
世界に一つだけの花、という歌がある。
人は一人ひとり違いがあり、皆それぞれに価値があると。
違いを認め、それを尊重しようと。
まあ当たり前というか、もっともなことである。
その一方で違いに対して妙に反発する。
男と女は違うといえば、女性差別だと。
明らかに違うのに。
日本人と朝鮮人は違うといえば、人種差別だと。
少なくとも、今の韓国・北朝鮮とはまったく馴染めないが。
ともかくである。
違いを差別と言えばきりがない。
すべてが差別になる。
それは違いの否定である。
それぞれの価値の否定である。
まったき矛盾である。
それに何より、言葉は本来中立である。
言葉は人を差別しない。
人を差別するのは人(の心)である。
どんな言葉も蔑みの心で発すれば、それは差別語となる。
問題は言葉ではないのだ。
ちなみに昨今は言葉狩りが横行している。
言葉狩りする心こそ差別する心だとも知らないで。
・・・・・
ことほど左様に、
リベラルとは取扱注意なのである。
適切に扱えば大変有効なものだが。
残念!
以前は非常に先進的で良いイメージだった。
リベラルのことである。
アメリカではどうなってるのか知らないが、
日本ではそのようだ。
明らかにリベラルを自称する人が減ってきた。
もともとそうなのだが、リベラル人士には知識人が多い。
なぜなら、それは言葉で現実を括ろうとするものだから。
それもあって若い頃は大抵かぶれるものだ。
私も例外ではない。
・・・・・
言葉は現実ではない。
言葉は現実を写すもの、現実を示唆するものである。
人という言葉は我々のような人を指す。
それは人以外の動物と区別するのに有効である。
しかも人という現実に即してる。
活きた言葉だ。
それが人権となると厄介だ。
人権などは実はどこにもないのである。
人権があるなら犬権も牛権も、はたまた虫権もある。
人にだけ権利があるというのか。
そんなことはない。
すべての存在に権利を認めたら面倒臭くて生きてられない。
もちろん分かってる。
人権とは人間社会でのみ通用するものだと。
さりながら、それは観念つまり頭の中の幻想でしかない。
それにそれは日本人には馴染まない。
奴隷制または奴隷制であった社会では馴染むものだ。
人を人として扱わない場では意味がある。
そういう場でこそである。
奴隷制のなかった日本では?の意味不明の言葉となる。
まあ使い方によっては少しは役に立つが。
ともかくリベラル人士は分かっていない。
つまり、
人権という幻(言葉)があるだけで、
人権という実はない、
ということが。
ムキになって言うことでもないが。
・・・・・
世界に一つだけの花、という歌がある。
人は一人ひとり違いがあり、皆それぞれに価値があると。
違いを認め、それを尊重しようと。
まあ当たり前というか、もっともなことである。
その一方で違いに対して妙に反発する。
男と女は違うといえば、女性差別だと。
明らかに違うのに。
日本人と朝鮮人は違うといえば、人種差別だと。
少なくとも、今の韓国・北朝鮮とはまったく馴染めないが。
ともかくである。
違いを差別と言えばきりがない。
すべてが差別になる。
それは違いの否定である。
それぞれの価値の否定である。
まったき矛盾である。
それに何より、言葉は本来中立である。
言葉は人を差別しない。
人を差別するのは人(の心)である。
どんな言葉も蔑みの心で発すれば、それは差別語となる。
問題は言葉ではないのだ。
ちなみに昨今は言葉狩りが横行している。
言葉狩りする心こそ差別する心だとも知らないで。
・・・・・
ことほど左様に、
リベラルとは取扱注意なのである。
適切に扱えば大変有効なものだが。
残念!
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