ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

取扱注意

2017-04-10 13:33:38 | 日記・エッセイ・コラム
今は随分変わってきたが、
以前は非常に先進的で良いイメージだった。
リベラルのことである。
アメリカではどうなってるのか知らないが、
日本ではそのようだ。
明らかにリベラルを自称する人が減ってきた。
もともとそうなのだが、リベラル人士には知識人が多い。
なぜなら、それは言葉で現実を括ろうとするものだから。
それもあって若い頃は大抵かぶれるものだ。
私も例外ではない。
・・・・・
言葉は現実ではない。
言葉は現実を写すもの、現実を示唆するものである。
人という言葉は我々のような人を指す。
それは人以外の動物と区別するのに有効である。
しかも人という現実に即してる。
活きた言葉だ。
それが人権となると厄介だ。
人権などは実はどこにもないのである。
人権があるなら犬権も牛権も、はたまた虫権もある。
人にだけ権利があるというのか。
そんなことはない。
すべての存在に権利を認めたら面倒臭くて生きてられない。
もちろん分かってる。
人権とは人間社会でのみ通用するものだと。
さりながら、それは観念つまり頭の中の幻想でしかない。
それにそれは日本人には馴染まない。
奴隷制または奴隷制であった社会では馴染むものだ。
人を人として扱わない場では意味がある。
そういう場でこそである。
奴隷制のなかった日本では?の意味不明の言葉となる。
まあ使い方によっては少しは役に立つが。
ともかくリベラル人士は分かっていない。
つまり、
人権という幻(言葉)があるだけで、
人権という実はない、
ということが。
ムキになって言うことでもないが。
・・・・・
世界に一つだけの花、という歌がある。
人は一人ひとり違いがあり、皆それぞれに価値があると。
違いを認め、それを尊重しようと。
まあ当たり前というか、もっともなことである。
その一方で違いに対して妙に反発する。
男と女は違うといえば、女性差別だと。
明らかに違うのに。
日本人と朝鮮人は違うといえば、人種差別だと。
少なくとも、今の韓国・北朝鮮とはまったく馴染めないが。
ともかくである。
違いを差別と言えばきりがない。
すべてが差別になる。
それは違いの否定である。
それぞれの価値の否定である。
まったき矛盾である。
それに何より、言葉は本来中立である。
言葉は人を差別しない。
人を差別するのは人(の心)である。
どんな言葉も蔑みの心で発すれば、それは差別語となる。
問題は言葉ではないのだ。
ちなみに昨今は言葉狩りが横行している。
言葉狩りする心こそ差別する心だとも知らないで。
・・・・・
ことほど左様に、
リベラルとは取扱注意なのである。
適切に扱えば大変有効なものだが。
残念!