これは以前に書いたのですが、
まだここには入れてなかった。
補足として再登場です。
・・・
言葉とは物事に線を引くことです。
むやみやたらに引くわけではない。
そこに違いを認めてです。
でも分断はできない。
そも皆繋がっている。
それを敢えて引くのです。
そのことを意識したのは本を読んでからです。
確か養老孟司先生の本だったと思う。
人間の消化器官の話でした。
口から始まりお尻にいたる。
口、喉、食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肛門など。
そこに境目はない。
みな繋がっている。
でも違いを認めて線を引く。
そして別物として扱う。
いわば方便です。
・・・・・
これは身体という物です。
だからまだ分かりやすい。
でも元が具象であっても、言葉の本質は抽象である。
というより概念と言うべきか。
口はもとより口という物です。
それを言葉にすれば口一般となる。
人の口も犬や猫の口もですが、
形状が違っても皆口なのです。
それにまた出入の場所も口と言う。
入口というように。
肛門は口ではないが出口と言えば口でもある。
まあそういうことです。
言葉をなぜどうして手に入れたのか、
その経緯は不明だが、
それを持ってからは、
現実(の物事)に線を引きまくってきた、
少しでも違いを感じれば。
その起点は要は「我」だと思っている。
私と世界の間に線を引くこと、
自我の出現である。
ならば犬や猫には自我がないのか。
そんなことはない。
他とは違う自分というものが、
確かにあるでしょう。
それが命の原点となっている。
それが命の原動力となる。
でも明確な線は引かない。
概念がないから。
だから、思うに、
彼らはすべて(世界)と繋がっている、
無意識に、しかもだからこそ隙間なく。
でも死は恐れているように見える。
その様に仕組まれているのは確か。
でもそれはあくまで仕組みなのだ。
本当は恐れてはいないだろう。
それに往々にして、
自分の命と引き換えに子を残すものもある、
それが当然のように。
知っている限りでは鮎や蛸(雌)がそうである。
恐れとは言葉を持った人間特有の現象なのかも。
彼らにも恐れがあるように見えるのは、
人間の思いの投影であり、
人間に近しい生物には特にそうかと。
そう思うのです。
・・・・・
ここでハッキリしてるのは、
現実があって言葉があるということ、
その逆ではないと。
ここに落とし穴がある。
だから聖書は警告していた。
なのにである、
現下は言葉が現実を押しのけて、
さも我こそが現実だと歩き回る。
その顕著な現われが、
中華思想(何が何でも自分がすべて)であり、
リベラル(言葉至上主義で現実無視)であり、
原理主義(倒錯した言葉を押し通す)である。
他にもあるだろうが。
彼らは自分の言葉に合わないものは否定する。
現実の否定を厭わないのだ。
主客転倒である。
だからです。
もう何度も言っているが、
言葉は取扱注意なのだと。
従がって、
知っての通り、
言葉を生業とする者こそ危うい。
落とし穴におちいり易いのです。
日々の生活に追われている者は、
それを私は庶民と言っているが、
そんな庶民は現実を生きている。
だから庶民が最後の砦だと思う。
でも情報化時代とうたわれて久しく、
それがコンピュータの進展によって、
その庶民にも言葉が押し寄せる時代、
油断はできない。
でもどうしても迷ったら最後の手段がある、
この日本には。
それは言葉を捨てること。
「こと」である言葉は、
完全には捨てられないが、
一時的に捨てるのです。
そして身体(全細胞)に訊く。
時に引いていた線が消えてすべてが繋がる。
それを「腑に落ちる」と言う。
うん!
・・・
こういう伝統・文化があった。
今もあります。
私の原点です。
まだここには入れてなかった。
補足として再登場です。
・・・
言葉とは物事に線を引くことです。
むやみやたらに引くわけではない。
そこに違いを認めてです。
でも分断はできない。
そも皆繋がっている。
それを敢えて引くのです。
そのことを意識したのは本を読んでからです。
確か養老孟司先生の本だったと思う。
人間の消化器官の話でした。
口から始まりお尻にいたる。
口、喉、食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肛門など。
そこに境目はない。
みな繋がっている。
でも違いを認めて線を引く。
そして別物として扱う。
いわば方便です。
・・・・・
これは身体という物です。
だからまだ分かりやすい。
でも元が具象であっても、言葉の本質は抽象である。
というより概念と言うべきか。
口はもとより口という物です。
それを言葉にすれば口一般となる。
人の口も犬や猫の口もですが、
形状が違っても皆口なのです。
それにまた出入の場所も口と言う。
入口というように。
肛門は口ではないが出口と言えば口でもある。
まあそういうことです。
言葉をなぜどうして手に入れたのか、
その経緯は不明だが、
それを持ってからは、
現実(の物事)に線を引きまくってきた、
少しでも違いを感じれば。
その起点は要は「我」だと思っている。
私と世界の間に線を引くこと、
自我の出現である。
ならば犬や猫には自我がないのか。
そんなことはない。
他とは違う自分というものが、
確かにあるでしょう。
それが命の原点となっている。
それが命の原動力となる。
でも明確な線は引かない。
概念がないから。
だから、思うに、
彼らはすべて(世界)と繋がっている、
無意識に、しかもだからこそ隙間なく。
でも死は恐れているように見える。
その様に仕組まれているのは確か。
でもそれはあくまで仕組みなのだ。
本当は恐れてはいないだろう。
それに往々にして、
自分の命と引き換えに子を残すものもある、
それが当然のように。
知っている限りでは鮎や蛸(雌)がそうである。
恐れとは言葉を持った人間特有の現象なのかも。
彼らにも恐れがあるように見えるのは、
人間の思いの投影であり、
人間に近しい生物には特にそうかと。
そう思うのです。
・・・・・
ここでハッキリしてるのは、
現実があって言葉があるということ、
その逆ではないと。
ここに落とし穴がある。
だから聖書は警告していた。
なのにである、
現下は言葉が現実を押しのけて、
さも我こそが現実だと歩き回る。
その顕著な現われが、
中華思想(何が何でも自分がすべて)であり、
リベラル(言葉至上主義で現実無視)であり、
原理主義(倒錯した言葉を押し通す)である。
他にもあるだろうが。
彼らは自分の言葉に合わないものは否定する。
現実の否定を厭わないのだ。
主客転倒である。
だからです。
もう何度も言っているが、
言葉は取扱注意なのだと。
従がって、
知っての通り、
言葉を生業とする者こそ危うい。
落とし穴におちいり易いのです。
日々の生活に追われている者は、
それを私は庶民と言っているが、
そんな庶民は現実を生きている。
だから庶民が最後の砦だと思う。
でも情報化時代とうたわれて久しく、
それがコンピュータの進展によって、
その庶民にも言葉が押し寄せる時代、
油断はできない。
でもどうしても迷ったら最後の手段がある、
この日本には。
それは言葉を捨てること。
「こと」である言葉は、
完全には捨てられないが、
一時的に捨てるのです。
そして身体(全細胞)に訊く。
時に引いていた線が消えてすべてが繋がる。
それを「腑に落ちる」と言う。
うん!
・・・
こういう伝統・文化があった。
今もあります。
私の原点です。
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