ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

線を引く

2021-11-15 07:13:07 | 日記・エッセイ・コラム
これは以前に書いたのですが、
まだここには入れてなかった。
補足として再登場です。
・・・
言葉とは物事に線を引くことです。
むやみやたらに引くわけではない。
そこに違いを認めてです。
でも分断はできない。
そも皆繋がっている。
それを敢えて引くのです。
そのことを意識したのは本を読んでからです。
確か養老孟司先生の本だったと思う。
人間の消化器官の話でした。
口から始まりお尻にいたる。
口、喉、食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肛門など。
そこに境目はない。
みな繋がっている。
でも違いを認めて線を引く。
そして別物として扱う。
いわば方便です。
・・・・・
これは身体という物です。
だからまだ分かりやすい。
でも元が具象であっても、言葉の本質は抽象である。
というより概念と言うべきか。
口はもとより口という物です。
それを言葉にすれば口一般となる。
人の口も犬や猫の口もですが、
形状が違っても皆口なのです。
それにまた出入の場所も口と言う。
入口というように。
肛門は口ではないが出口と言えば口でもある。
まあそういうことです。
言葉をなぜどうして手に入れたのか、
その経緯は不明だが、
それを持ってからは、
現実(の物事)に線を引きまくってきた、
少しでも違いを感じれば。
その起点は要は「我」だと思っている。
私と世界の間に線を引くこと、
自我の出現である。
ならば犬や猫には自我がないのか。
そんなことはない。
他とは違う自分というものが、
確かにあるでしょう。
それが命の原点となっている。
それが命の原動力となる。
でも明確な線は引かない。
概念がないから。
だから、思うに、
彼らはすべて(世界)と繋がっている、
無意識に、しかもだからこそ隙間なく。
でも死は恐れているように見える。
その様に仕組まれているのは確か。
でもそれはあくまで仕組みなのだ。
本当は恐れてはいないだろう。
それに往々にして、
自分の命と引き換えに子を残すものもある、
それが当然のように。
知っている限りでは鮎や蛸(雌)がそうである。
恐れとは言葉を持った人間特有の現象なのかも。
彼らにも恐れがあるように見えるのは、
人間の思いの投影であり、
人間に近しい生物には特にそうかと。
そう思うのです。
・・・・・
ここでハッキリしてるのは、
現実があって言葉があるということ、
その逆ではないと。
ここに落とし穴がある。
だから聖書は警告していた。
なのにである、
現下は言葉が現実を押しのけて、
さも我こそが現実だと歩き回る。
その顕著な現われが、
中華思想(何が何でも自分がすべて)であり、
リベラル(言葉至上主義で現実無視)であり、
原理主義(倒錯した言葉を押し通す)である。
他にもあるだろうが。
彼らは自分の言葉に合わないものは否定する。
現実の否定を厭わないのだ。
主客転倒である。
だからです。
もう何度も言っているが、
言葉は取扱注意なのだと。
従がって、
知っての通り、
言葉を生業とする者こそ危うい。
落とし穴におちいり易いのです。
日々の生活に追われている者は、
それを私は庶民と言っているが、
そんな庶民は現実を生きている。
だから庶民が最後の砦だと思う。
でも情報化時代とうたわれて久しく、
それがコンピュータの進展によって、
その庶民にも言葉が押し寄せる時代、
油断はできない。
でもどうしても迷ったら最後の手段がある、
この日本には。
それは言葉を捨てること。
「こと」である言葉は、
完全には捨てられないが、
一時的に捨てるのです。
そして身体(全細胞)に訊く。
時に引いていた線が消えてすべてが繋がる。
それを「腑に落ちる」と言う。
うん!
・・・
こういう伝統・文化があった。
今もあります。
私の原点です。

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