goo blog サービス終了のお知らせ 

ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

魔法少女

2024-11-04 07:06:31 | 日記・エッセイ・コラム
テレビを見ていたらちょっと心に響いた。
深夜のアニメでのことです。
最近よくある設定の物語り。
魔法少女の物語であります。
彼女は魔法少女を目指していたが、
なかなか思い通りにはいきません。
そこで一寸横道に逸れるのですが、
てか今はそこまでだが、
そこで出てきた話です。
・・・・・
ときに彼女らは、
ときの魔法の最先端からは外れていたが、
そこで古代魔法というものを知るのです。
そこでのやり取りに大いに興がそそった。
設定は学校での授業のときのこと、
野菜を収穫して皆で頂くという話、
そこで先生が言った言葉が意味深。
ちなみに先生は魔女である。
それが古代魔法の話をした。
地と水と光があれば植物は命が得られるという、
そのことである。
命はすべてそこから始まる。
所謂光合成と言われるもの。
すべてはそこから始まると。
まあそういうことです。
てか知識としては常識であろう。
ビックリすることではない。
でも人間はそれが創れない。
地と水と光があってもです。
でも自然はそれを創ります。
考えてみれば奇妙奇天烈摩訶不思議な話。
これこそ魔法であると。
てか魔法でなけりゃ一体何なんだ。
人間には創れないのです絶対的に。
その仕組みや仕掛けが分かっても。
でもそれを出来ると思う人がいる。
要素を集めて条件を整えればだが。
てか要素を集めてもそれは集めてるだけ、
てか条件を整えてもそれは整えてるだけ、
でも肝心なところでは何もしない。
つまり魔法の手助けをしてるだけ。
そしてそれが起こるのを待つだけ。
何度でも言うが、
人間はそもそも何も創っていない。
ことを知って手助けをしてるだけ。
てかこのアニメは魔法少女の物語りです。
作者らの意図は知らないが、
ここでの話がまんまの主題ではなかろう。
てかであろうとなかろうと、
なにげない言葉であっても、
まことに核心を突いている。
そこが面白い。
とても面白い。
・・・・・
振り返って現下の世界、
これはもう目にあまる。
その無作法極まりなし。
そこで思うのです。
存在の「まこと」就中生命の「ふしぎ」。
それは自ずから然りであり、
そこに自ずからの由がある。
これは皆魔法のなかにある。
まんまにそこに在るのです。
人にはそれが少しは見える。
それは言葉の存在によって。
ゆえに魔法ではないが「らしき」ことはできる。
あくまで「らしき」である。
してもここに言葉は魔法の道具となった。
それがこれまで色んな形で使われてきた。
初めはことを知らせるため。
それがときとともに語りに。
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、
神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
この4行は創世記のはじめ。
ここには地と水と光がある。
ときにことの始まりを知っていたか。
してもこの魔法は真性の魔法である。
人間のモドキ魔法とは訳が違うのだ。
でもやはりこれも言葉によるとした。
だからヨハネは言った(以下3行)。
はじめに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった。
聖書の原義の神は知らず、
漢字では「神」としるす。
示して申す、と著わしそれが存在の核心であると。
和語ではそれは「かみ」と言うが、
その意味は上ということだろうか。
しても言葉には霊(たま)が宿っており、
口に出せば実現するものと言われている。
これらはすべて平仄が合っている。
ところで、
この項の上で言った無作法だがその因は明白、
それは言葉の仕切りを違えたこと。
神の仕切りと人の仕切りとを混同。
人は皆神の子であり、
ゆえ神であるのだが、まんまの神ではない、
未だ子であることを、そのことを覚えない。
・・・・・
ちなみに蛇足ですが、
いつも思うのである。
そして新ためて思う、
漢字には妙があると。
それは単なる記号ではなく絵であること。
その妙がシナでは余り生きない。
絵が音の記号になっているから。
絵と音が固定されることになる。
音の意が絵にしばられることに、
絵の意が音にしばられることに。
ということです。
日本ではそこが自由となる。
音は音の由を発揮する。
絵は絵の由を発揮する。
連結するが自由がある。
それを担保するのがかなとカナ。
なかなかなことである。
うん!

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。