テレビを見ていたらちょっと心に響いた。
深夜のアニメでのことです。
最近よくある設定の物語り。
魔法少女の物語であります。
彼女は魔法少女を目指していたが、
なかなか思い通りにはいきません。
そこで一寸横道に逸れるのですが、
てか今はそこまでだが、
そこで出てきた話です。
・・・・・
ときに彼女らは、
ときの魔法の最先端からは外れていたが、
そこで古代魔法というものを知るのです。
そこでのやり取りに大いに興がそそった。
設定は学校での授業のときのこと、
野菜を収穫して皆で頂くという話、
そこで先生が言った言葉が意味深。
ちなみに先生は魔女である。
それが古代魔法の話をした。
地と水と光があれば植物は命が得られるという、
そのことである。
命はすべてそこから始まる。
所謂光合成と言われるもの。
すべてはそこから始まると。
まあそういうことです。
てか知識としては常識であろう。
ビックリすることではない。
でも人間はそれが創れない。
地と水と光があってもです。
でも自然はそれを創ります。
考えてみれば奇妙奇天烈摩訶不思議な話。
これこそ魔法であると。
てか魔法でなけりゃ一体何なんだ。
人間には創れないのです絶対的に。
その仕組みや仕掛けが分かっても。
でもそれを出来ると思う人がいる。
要素を集めて条件を整えればだが。
てか要素を集めてもそれは集めてるだけ、
てか条件を整えてもそれは整えてるだけ、
でも肝心なところでは何もしない。
つまり魔法の手助けをしてるだけ。
そしてそれが起こるのを待つだけ。
何度でも言うが、
人間はそもそも何も創っていない。
ことを知って手助けをしてるだけ。
てかこのアニメは魔法少女の物語りです。
作者らの意図は知らないが、
ここでの話がまんまの主題ではなかろう。
てかであろうとなかろうと、
なにげない言葉であっても、
まことに核心を突いている。
そこが面白い。
とても面白い。
・・・・・
振り返って現下の世界、
これはもう目にあまる。
その無作法極まりなし。
そこで思うのです。
存在の「まこと」就中生命の「ふしぎ」。
それは自ずから然りであり、
そこに自ずからの由がある。
これは皆魔法のなかにある。
まんまにそこに在るのです。
人にはそれが少しは見える。
それは言葉の存在によって。
ゆえに魔法ではないが「らしき」ことはできる。
あくまで「らしき」である。
してもここに言葉は魔法の道具となった。
それがこれまで色んな形で使われてきた。
初めはことを知らせるため。
それがときとともに語りに。
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、
神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
この4行は創世記のはじめ。
ここには地と水と光がある。
ときにことの始まりを知っていたか。
してもこの魔法は真性の魔法である。
人間のモドキ魔法とは訳が違うのだ。
でもやはりこれも言葉によるとした。
だからヨハネは言った(以下3行)。
はじめに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった。
聖書の原義の神は知らず、
漢字では「神」としるす。
示して申す、と著わしそれが存在の核心であると。
和語ではそれは「かみ」と言うが、
その意味は上ということだろうか。
しても言葉には霊(たま)が宿っており、
口に出せば実現するものと言われている。
これらはすべて平仄が合っている。
ところで、
この項の上で言った無作法だがその因は明白、
それは言葉の仕切りを違えたこと。
神の仕切りと人の仕切りとを混同。
人は皆神の子であり、
ゆえ神であるのだが、まんまの神ではない、
未だ子であることを、そのことを覚えない。
・・・・・
ちなみに蛇足ですが、
いつも思うのである。
そして新ためて思う、
漢字には妙があると。
それは単なる記号ではなく絵であること。
その妙がシナでは余り生きない。
絵が音の記号になっているから。
絵と音が固定されることになる。
音の意が絵にしばられることに、
絵の意が音にしばられることに。
ということです。
日本ではそこが自由となる。
音は音の由を発揮する。
絵は絵の由を発揮する。
連結するが自由がある。
それを担保するのがかなとカナ。
なかなかなことである。
うん!
深夜のアニメでのことです。
最近よくある設定の物語り。
魔法少女の物語であります。
彼女は魔法少女を目指していたが、
なかなか思い通りにはいきません。
そこで一寸横道に逸れるのですが、
てか今はそこまでだが、
そこで出てきた話です。
・・・・・
ときに彼女らは、
ときの魔法の最先端からは外れていたが、
そこで古代魔法というものを知るのです。
そこでのやり取りに大いに興がそそった。
設定は学校での授業のときのこと、
野菜を収穫して皆で頂くという話、
そこで先生が言った言葉が意味深。
ちなみに先生は魔女である。
それが古代魔法の話をした。
地と水と光があれば植物は命が得られるという、
そのことである。
命はすべてそこから始まる。
所謂光合成と言われるもの。
すべてはそこから始まると。
まあそういうことです。
てか知識としては常識であろう。
ビックリすることではない。
でも人間はそれが創れない。
地と水と光があってもです。
でも自然はそれを創ります。
考えてみれば奇妙奇天烈摩訶不思議な話。
これこそ魔法であると。
てか魔法でなけりゃ一体何なんだ。
人間には創れないのです絶対的に。
その仕組みや仕掛けが分かっても。
でもそれを出来ると思う人がいる。
要素を集めて条件を整えればだが。
てか要素を集めてもそれは集めてるだけ、
てか条件を整えてもそれは整えてるだけ、
でも肝心なところでは何もしない。
つまり魔法の手助けをしてるだけ。
そしてそれが起こるのを待つだけ。
何度でも言うが、
人間はそもそも何も創っていない。
ことを知って手助けをしてるだけ。
てかこのアニメは魔法少女の物語りです。
作者らの意図は知らないが、
ここでの話がまんまの主題ではなかろう。
てかであろうとなかろうと、
なにげない言葉であっても、
まことに核心を突いている。
そこが面白い。
とても面白い。
・・・・・
振り返って現下の世界、
これはもう目にあまる。
その無作法極まりなし。
そこで思うのです。
存在の「まこと」就中生命の「ふしぎ」。
それは自ずから然りであり、
そこに自ずからの由がある。
これは皆魔法のなかにある。
まんまにそこに在るのです。
人にはそれが少しは見える。
それは言葉の存在によって。
ゆえに魔法ではないが「らしき」ことはできる。
あくまで「らしき」である。
してもここに言葉は魔法の道具となった。
それがこれまで色んな形で使われてきた。
初めはことを知らせるため。
それがときとともに語りに。
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、
神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
この4行は創世記のはじめ。
ここには地と水と光がある。
ときにことの始まりを知っていたか。
してもこの魔法は真性の魔法である。
人間のモドキ魔法とは訳が違うのだ。
でもやはりこれも言葉によるとした。
だからヨハネは言った(以下3行)。
はじめに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった。
聖書の原義の神は知らず、
漢字では「神」としるす。
示して申す、と著わしそれが存在の核心であると。
和語ではそれは「かみ」と言うが、
その意味は上ということだろうか。
しても言葉には霊(たま)が宿っており、
口に出せば実現するものと言われている。
これらはすべて平仄が合っている。
ところで、
この項の上で言った無作法だがその因は明白、
それは言葉の仕切りを違えたこと。
神の仕切りと人の仕切りとを混同。
人は皆神の子であり、
ゆえ神であるのだが、まんまの神ではない、
未だ子であることを、そのことを覚えない。
・・・・・
ちなみに蛇足ですが、
いつも思うのである。
そして新ためて思う、
漢字には妙があると。
それは単なる記号ではなく絵であること。
その妙がシナでは余り生きない。
絵が音の記号になっているから。
絵と音が固定されることになる。
音の意が絵にしばられることに、
絵の意が音にしばられることに。
ということです。
日本ではそこが自由となる。
音は音の由を発揮する。
絵は絵の由を発揮する。
連結するが自由がある。
それを担保するのがかなとカナ。
なかなかなことである。
うん!
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