本当は・みょうなこと・ではなく、
・たえなること・と言いたかった。
みょうとは不思議なことという感じかな。
たえとは普通でないことという感じかな。
そこに素晴らしいという趣きをも含んで。
妙とはそんな文字であるかと。
そこで奇妙という二字熟語である。
これも同じ意の文字を重ねて、
そこに深みを与えるとの、
漢字の得意技の一つ。
それがどうした、
すいません、
・・・・・
宇宙は運動振動波動でなっている。
それをひとことで言えば波動だと。
今まで度々言っているが、
運動とは物(塊り)そのものが動くこと。
振動とは物(塊り)の内での動きのこと。
波動とは物ではなくすぐれて事であるが、
それは物(媒体)を次々と動かしていく、
という感じかな。
この三つを一言で謂えば波動かと。
波動は先の二つともを含んでいる。
世界は宇宙はそれらで満ちている。
前にそれをまた別の言葉で響きと言った。
なかなかに良い命名だと思う。
てか自画自賛。
さてこれからが本題。
人の声音は波動を発生させる。
それはそも共振共鳴そのもの。
だから人の心魂に響くのです。
それが人をして動かさしめる。
その波動を声と言う。
しかもそれは人だけのことではない。
すべての物はそも波動で出来ている。
だからあらゆる音は声だとも謂える。
まあそういうことで、
自然とはそういうものであり、
つまり声音であり共振共鳴で満ちており、
つまり響きで出来ている。
人はそれを真似たのです。
そしてそれを手に入れた。
それが大いなる力となる。
だからヨハネは言ったのだろう、
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった、
と。
まことにまことに。
ヨハネは言葉は神であったと言うが、
でもそこはちょっと微妙。
勿論ヨハネは分かっていたと。
言葉が神であるとは、
言葉の一つひとつに神はあるのだが、
その一つをもって神だとは言っていない。
すべてが声音のこの世界、
その発信元こそが神だと。
そも聖書は言う、
すべては神の口から出る、
ひとつひとつの言葉に依ると、
ヨハネは当然それを疑っていない。
すべてはそこに…。
まことにまことに。
・・・・・
ところで、
ヨハネの言っている神は、
日本人の言う言霊のことかも、
そうも思うのです。
にしても、
日本語は聖書に同期同調していると。
まずは「ことば」である。
これは言葉と記すが事端と記しても可笑しくない。
これは音読みでは違うが、
訓読みでは同じ音になる。
それが「ことば」である。
神の言葉がすべての事端を惹起する。
なら「ことば」とはまさに妙である。
欧米語では言葉を何と言うのだろう。
英語ではワードだろうがその語源成立ちは知らず。
つぎに「かみ」である。
英語ではゴッドである。
これは固有名詞である。
それにギリシャ神話の神々、
これらはそれぞれ固有名詞があるが、
一般名詞(総称)としての神はあるのか、
そこはよく分からない。
でも日本の「かみ」はあきらか。
それは上下の上の意もあろうが、
てかそれはまさに神と記す。
示す偏に申すで、
すなわち示して申すである。
それは声音を発するものなのである。
つまり「かみ」に上でなく神を当てたのです。
ここにあきらかかと。
だから聖書のまんまである、
しかも神とは単数でも複数でもない。
一にして全なのです。
全体をひとつと見做せば一神であり、
それが多数の集まりなら多神となる。
ヨハネの言葉や日本の言霊を想えば、
それは多神的であるが、
その奥に潜むものを思えば究極の一神かと。
ただそこに固有名詞を宛てるのはどうかと。
それはスーパースターを連想させる。
そこに誤解と災いの種がある。
現に争いの絶え間なく、
収集がつかない。
・・・・・
基より言葉がすべての始まり。
日本語は一音一意で音に拘る。
響きを大切にする。
共振共鳴を求める。
だから歌うのです。
歌会始めのごとく。
それに漢字を使用する。
これは絵字であり一字一意である。
これは見るもので光とともにある。
ここにあるのは美しさを求める心。
しかも正しさ清さなども含まれる。
だから美はそれらすべてを包含す。
その心を育てるのが日本語であり、
それが日本の文化なのであります。
比べて欧米の言葉は、
子音が多くて発音がやっかい。
日本人にはであるが。
しかもその文字は記号的に過ぎる。
それは心魂には響きにくく、
すぐれて脳で処理するもの。
だから何事も理屈でケリを付けようとする。
そこはすぐれており、
それが近代文明をつくり且つ大きく発展させた。
それが宇宙の神秘を解き明かすと思えるほどに。
そんななか人格神的唯一絶対神を信仰する。
だからか、
ニーチェは神は死んだと言い、
ニコラ・テスラは神はいない、
法則があるだけと言ったとか。
ここに誤解があると私は思う。
人の言葉は人の創作。
神に替わるものを見つけたとして、
神を捨てる必要などない。
それを神とすればいいだけのこと。
現にヨハネは言葉は神だと言った、
それなのに…。
日本人ならそんな風にはならない。
あなたが日本人なら分かるだろう。
大日本(おおやまと)は、
言霊の幸はふ神の国です、
敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花。
私は確信する、
彼らが日本を知っていれば、
そうは言わなかったろうと、
あのアインシュタインを想えば尚。
世界はあきらかに妙である。
うん!
・たえなること・と言いたかった。
みょうとは不思議なことという感じかな。
たえとは普通でないことという感じかな。
そこに素晴らしいという趣きをも含んで。
妙とはそんな文字であるかと。
そこで奇妙という二字熟語である。
これも同じ意の文字を重ねて、
そこに深みを与えるとの、
漢字の得意技の一つ。
それがどうした、
すいません、
・・・・・
宇宙は運動振動波動でなっている。
それをひとことで言えば波動だと。
今まで度々言っているが、
運動とは物(塊り)そのものが動くこと。
振動とは物(塊り)の内での動きのこと。
波動とは物ではなくすぐれて事であるが、
それは物(媒体)を次々と動かしていく、
という感じかな。
この三つを一言で謂えば波動かと。
波動は先の二つともを含んでいる。
世界は宇宙はそれらで満ちている。
前にそれをまた別の言葉で響きと言った。
なかなかに良い命名だと思う。
てか自画自賛。
さてこれからが本題。
人の声音は波動を発生させる。
それはそも共振共鳴そのもの。
だから人の心魂に響くのです。
それが人をして動かさしめる。
その波動を声と言う。
しかもそれは人だけのことではない。
すべての物はそも波動で出来ている。
だからあらゆる音は声だとも謂える。
まあそういうことで、
自然とはそういうものであり、
つまり声音であり共振共鳴で満ちており、
つまり響きで出来ている。
人はそれを真似たのです。
そしてそれを手に入れた。
それが大いなる力となる。
だからヨハネは言ったのだろう、
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった、
と。
まことにまことに。
ヨハネは言葉は神であったと言うが、
でもそこはちょっと微妙。
勿論ヨハネは分かっていたと。
言葉が神であるとは、
言葉の一つひとつに神はあるのだが、
その一つをもって神だとは言っていない。
すべてが声音のこの世界、
その発信元こそが神だと。
そも聖書は言う、
すべては神の口から出る、
ひとつひとつの言葉に依ると、
ヨハネは当然それを疑っていない。
すべてはそこに…。
まことにまことに。
・・・・・
ところで、
ヨハネの言っている神は、
日本人の言う言霊のことかも、
そうも思うのです。
にしても、
日本語は聖書に同期同調していると。
まずは「ことば」である。
これは言葉と記すが事端と記しても可笑しくない。
これは音読みでは違うが、
訓読みでは同じ音になる。
それが「ことば」である。
神の言葉がすべての事端を惹起する。
なら「ことば」とはまさに妙である。
欧米語では言葉を何と言うのだろう。
英語ではワードだろうがその語源成立ちは知らず。
つぎに「かみ」である。
英語ではゴッドである。
これは固有名詞である。
それにギリシャ神話の神々、
これらはそれぞれ固有名詞があるが、
一般名詞(総称)としての神はあるのか、
そこはよく分からない。
でも日本の「かみ」はあきらか。
それは上下の上の意もあろうが、
てかそれはまさに神と記す。
示す偏に申すで、
すなわち示して申すである。
それは声音を発するものなのである。
つまり「かみ」に上でなく神を当てたのです。
ここにあきらかかと。
だから聖書のまんまである、
しかも神とは単数でも複数でもない。
一にして全なのです。
全体をひとつと見做せば一神であり、
それが多数の集まりなら多神となる。
ヨハネの言葉や日本の言霊を想えば、
それは多神的であるが、
その奥に潜むものを思えば究極の一神かと。
ただそこに固有名詞を宛てるのはどうかと。
それはスーパースターを連想させる。
そこに誤解と災いの種がある。
現に争いの絶え間なく、
収集がつかない。
・・・・・
基より言葉がすべての始まり。
日本語は一音一意で音に拘る。
響きを大切にする。
共振共鳴を求める。
だから歌うのです。
歌会始めのごとく。
それに漢字を使用する。
これは絵字であり一字一意である。
これは見るもので光とともにある。
ここにあるのは美しさを求める心。
しかも正しさ清さなども含まれる。
だから美はそれらすべてを包含す。
その心を育てるのが日本語であり、
それが日本の文化なのであります。
比べて欧米の言葉は、
子音が多くて発音がやっかい。
日本人にはであるが。
しかもその文字は記号的に過ぎる。
それは心魂には響きにくく、
すぐれて脳で処理するもの。
だから何事も理屈でケリを付けようとする。
そこはすぐれており、
それが近代文明をつくり且つ大きく発展させた。
それが宇宙の神秘を解き明かすと思えるほどに。
そんななか人格神的唯一絶対神を信仰する。
だからか、
ニーチェは神は死んだと言い、
ニコラ・テスラは神はいない、
法則があるだけと言ったとか。
ここに誤解があると私は思う。
人の言葉は人の創作。
神に替わるものを見つけたとして、
神を捨てる必要などない。
それを神とすればいいだけのこと。
現にヨハネは言葉は神だと言った、
それなのに…。
日本人ならそんな風にはならない。
あなたが日本人なら分かるだろう。
大日本(おおやまと)は、
言霊の幸はふ神の国です、
敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花。
私は確信する、
彼らが日本を知っていれば、
そうは言わなかったろうと、
あのアインシュタインを想えば尚。
世界はあきらかに妙である。
うん!