goo blog サービス終了のお知らせ 

ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

しこう

2024-11-18 07:47:53 | 日記・エッセイ・コラム
私の思考の傾きのことで、
それを「しこう」と言ってみた。
漢字では私向とでも書いてみる。
普通なら嗜好とでも言うのかな。
言葉とはイでありこれは伝えるものであるが、
言葉はとどのつまりは自分に向いてくる。
それゆえにかこびり付いて離れない。
これは着ている衣のようなもの。
てか着飾るものではないと。
ファッションではなく、
そも身そのものに。
聖書は言う。
言葉を持ったがゆえ、
ヒトは裸であることに気付き恥ずかしさを覚えた。
そこでそれを隠すためイチジクの葉を身に着けた。
言葉を持つとはイを持つということ、
イとは意味であるが、
それは意識でもある。
それは自我を立てる。
これが進めばイチジクの葉ではすまない。
イチジクを意恥辱と言えば親父ギャグか。
そしてそれはついには衣となる。
この衣は身に付ければ容易には脱げない。
てか一生ついて回る。
それは動物が身に付けてる毛皮のように。
ファッション的要素があっても、
決して脱ぐことは出来ない。
そう謂うものである。
・・・・・
言葉という衣は要注意です。
身に付ければ容易に脱げないから。
それは現下のリベラル諸氏を見ればあきらか。
我々が普段着ている衣は問題なし。
むしろ時と場を考慮して着替えればいい。
衣裳を変えれば意識が変えられる。
晴れの場では晴れ着を、
日常の場では普段着を、
仕事に置いては仕事着、
これは仕事に対する意識を高める、
警察官に医者や看護師それに料理人や鉄道員等々。
自分の意識を変えるだけではない。
廻りの人々にもそれを伝えられる。
それが社会生活を円滑にする。
ちなみにそこには、
ファッションと謂う要素もあって、
男もだろうが女の人はそれ以上に、
着るものによって心が変るようだ。
それは衣裳だけでなく化粧もです。
これらは取り替えてこそ意味あり。
ということはこういう衣替えなら、
これは大方良いことばかりである。
ちなみに、
リベラルは往々にして制服を嫌う。
てか歴史伝統文化を壊したいのか、
ともかく訳の分からんことを言う。
最近制服のことは余り聞かないが、
男女~問題ではもう言いたい放題。
婚姻制度など不要・事実婚で良い、
その口で今は同性婚を認めろとか。
極め付けは例のLGBT~問題であり、
脱げない衣までも自由にしろとか。
體という由緒ある衣にまで口出し。
自由とは自ずからの由であるのに。
それを知ってそれを生きんとするもの。
それが自由である。
してもこれは言葉(意識)の産物。
でも體という衣は言葉以前の代物、
簡単に手を付けるものではないと。
それは本人の意識のなお向こうに。
しても本人の意識なら止むを得ず。
他者の安易な口出しは論外も論外。
それがたとえ親であっても。
にしてもリベラル界隈では、
自由のはき違えが甚だしい。
てか「自由」だけではない、
抽象的言辞は皆そうである。
自由・平等・人権・平和それに多様性とか持続性とか。
抽象とは具象の逆であり現実にはないもので、
未来の導にはなるがその実は幻想である。
だから私は「私向」と言う。
これなら問題はありません。
そこに他者への強要はない。
それに比べてリベラルの向きは度し難い。
具体的な言辞での強要は多少は目を瞑る。
抽象的な言辞での強要はこれは許せない。
これが通れば何でもありになる。
現下の状況がまさにそれである。
だから私は怒ってるのです。
てかカンカンに怒っている。
まぁそれ以上のことはない。
彼らと同類になるは真っ平、
だから、、、
・・・・・
ヒトと謂う生き物の導はDNAにある。
これが體を造りそこに気を乗せる。
これがそのヒトの一生を貫く。
してもヒトはそこに言葉が乗ってくる。
狼少年のように狼に育てられたことで、
體はヒトでも人になれなかったものも。
言葉を得る機会を逸したからであるが、
體はともかく気は狼のままだったのだ。
てかヒトが人となるには言葉が不可欠。
そのことを知ろう。
それはDNAに匹敵するほどの力をもつ。
それは衣裳のように取外しができない。
生身の毛皮のごとく身から離れない。
しても言語の種類の話しではない、
言語の存在そのもののことです。
してもそれは現の実ではない。
それは実に貼った印であり、
実から離れれば只の幻想、
ゆえ注意が必要なのだ。
だからの標題である。
思考とは私向であり嗜好だと。
うん!

ドタバタ

2024-11-11 06:49:30 | 日記・エッセイ・コラム
やってるやってる、
毎度おなじみのドタバタ劇。
過日行われた日本の衆議院議員選挙、
これは予定通りドタバタの内に終わりました。
してもこれからアメリカでも行われます。
てか既に始まっていたがいよいよクライマックスです。
てかそれがあっけなく終わってしまった。
これらは吉本新喜劇のようでまだ愛嬌がある。
でも黒海を挟んで上と下で行われている、
あのドタバタはもう笑ってられない。
小理屈ばかりで収拾の気配なし。
これらすべての因は同じか、
勿論今の日と米の劇も。
・・・・・
しかしなかなかのドタバタであった。
この予定通りのドタバタはこれで終わったのではない。
今も続いてるし、てかこれからが本番である。
これはアメリカも同じであろう。
してもこのドタバタ劇は嘘で出来ている。
これが作りものの劇なら嘘とは言わない。
それならもう立派なエンターテイメント。
なんちゃって。
それを嘘と言うは何ゆえか。
それは民主主義といいながら実は民主主義でないから。
初めから虚構とすればそれは嘘ではない。
虚構であるのに本当だと言うからである。
嘘とはそう言うものである。
してもそれが気づきにくい。
てかそこには為の仕掛けが。
それは「民主主義」という言葉が第一である。
具体的な仕掛けとしては選挙がその筆頭です。
選挙があり民が選ぶから民が選んだのだから、
だから民主であると…。
その実本当の仕切りは別の所にある、
それも一つではないかも?知れない。
ということです。
思えば「民主主義」は初めから大嘘であった。
これはフランス革命時にあらわれた言葉かと。
てか思えば欧米はシナと変わらない。
言葉をすべて政治的に使うところが。
まあ似た者どうしでんがな。
それはさておき選挙のこと。
民衆が選んでるって本当か。
そも候補者全員に紐を付けておけば、
結果など関係なし誰かの思いのまま。
でなけりゃ誰かと誰かの争いである。
それに民衆が利用されているだけか。
同時に民衆を錯覚させてガスを抜く。
そも民主とは民衆の思いを汲むこと。
それなら独裁であってもできるわな。
選挙などなくともそれは実現できる。
てか本当の民主主義は日本にあった。
神武天皇のお言葉にもそれが知れる。
明治天皇の「五か条の御誓文」には尚それがあきらか。
時は流れだからその状況はいろいろだが。
戦後の日本はまだそれが残っていた。
それが中選挙区制である。
それがあるとき壊された。
そして今のドタバタ劇に。
・・・・・
さてもここで選挙を思う。
インチキの一つ、二大政党制。
こんな見えすいたインチキはない。
上記の通り、どちらにも紐をつけておけば思いのまま。
やり易いことこの上なし。
それがこれまでの大方の大統領選挙であった。
てか過去に殺された大統領はその紐が切れていたのか。
てか前回の選挙も同じ、だからのあの大不正選挙です。
てか彼はハッキリと言っていたが、国民の側に立つと。
それがアメリカ・ファーストです。
てか不正がなければ前回も彼に決まっていただろうに。
にしても共和党にも隠れリベラルが一杯いる。
前回の選挙でそれが露わになった。
今回は同じ手は使えまい。
ところで日本の話し。
そも日本は中選挙区制だった。
これは人を選ぶ選挙であった。
党も重要な要素だがそも人である。
それが誰にそそのかされたか小選挙区に。
これは人を選ぶ選挙から党を選ぶ選挙に変えた。
勿論立候補は何人でもできる。
でも実質的に二者択一になる。
さらにである。
そこに政党助成法が作られる。
政治資金の問題がそうさせた。
ゆえに政党交付金制度が作られた。
ここで更に政党が強くなった。
これで個人の出る幕はほぼなくなった。
選挙の前に党が候補者を選別するから。
これほどの被選挙権無視はないだろう。
だからと言って新規の政党は作れない。
要件を満たさないからとの糞屁理屈で。
だから政党を名乗れないまま戦うしかない。
まことに大きなハンデである。
てかもう選挙制度をいじり放題の勝手放題。
それが現下の状況である。
そこに更に「一票の格差」問題である。
なに言ってんだ。
これは行き過ぎた個人主義の弊害そのもの。
数の横暴ここに極まれり。
国連を見よ一国一票である、国民が何人いようと。
これは地域や地域文化を守るには必要なものです。
そこに個人を持ち出す必要はない。
そも国土の均衡的発展も考えねば、
それに地域格差の是正も必要だし、
ゆえ数による横暴は避けねばならない。
なのに一票の格差とはなんのこっちゃ。
それを裁判所が言うとは、
まさに政治問題なのにだ。
これだけではないが他にも色々あって、
裁判所も同様にシッチャカメッチャカ。
いよいよの袋小路である。
・・・・・
てか冒頭で少しだけ触れたが、
アメリカの大統領選挙のこと、
前回とは大違いで時を置かず、
トランプが勝利宣言を出した。
前回は勝っていたのにあの様。
狐につままれたようだったが。
今回はその様なことがなくて、
狐の代わりハリ鼠が出て来た。
てか敗北宣言を出したのです。
もう決まりである、暗殺でもない限り。
民主主義が今回ばかりは幻想からまことになった。
奇貨とすべし。
まことに喜ばしいことである。
でもこれでドタバタが終わったわけではない。
むしろこれからが本番である。
明るいドタバタだからいいか。
してもメディアの偏向ぶりが、
これで誰の目にもあきらかに。
多分圧倒的な差であったかと。
それを接戦だと言うばかりで。
本家のアメリカは最後は日和ってたが。
これで黒海の上下での争いが終われば、
リベラルの醜態が一層あきらかになる。
てか日本はどうするんだろう。
この結果は想定内であろうに。
今後のドタバタが益々面白くなりそう。
笑ってばかりはいられないが。
しても本当の自由やその芽は日本にあり昔から。
民主主義は自由人と共にあるもの。
そも階級で分断された三角社会では無理なのだ。
大日本は天皇陛下を中心とした円環社会である。
民主主義はこの円環社会でないと成り立たない。
と謂うことで日本人は日本人に帰ろう。
てか!とか!てへ!

魔法少女

2024-11-04 07:06:31 | 日記・エッセイ・コラム
テレビを見ていたらちょっと心に響いた。
深夜のアニメでのことです。
最近よくある設定の物語り。
魔法少女の物語であります。
彼女は魔法少女を目指していたが、
なかなか思い通りにはいきません。
そこで一寸横道に逸れるのですが、
てか今はそこまでだが、
そこで出てきた話です。
・・・・・
ときに彼女らは、
ときの魔法の最先端からは外れていたが、
そこで古代魔法というものを知るのです。
そこでのやり取りに大いに興がそそった。
設定は学校での授業のときのこと、
野菜を収穫して皆で頂くという話、
そこで先生が言った言葉が意味深。
ちなみに先生は魔女である。
それが古代魔法の話をした。
地と水と光があれば植物は命が得られるという、
そのことである。
命はすべてそこから始まる。
所謂光合成と言われるもの。
すべてはそこから始まると。
まあそういうことです。
てか知識としては常識であろう。
ビックリすることではない。
でも人間はそれが創れない。
地と水と光があってもです。
でも自然はそれを創ります。
考えてみれば奇妙奇天烈摩訶不思議な話。
これこそ魔法であると。
てか魔法でなけりゃ一体何なんだ。
人間には創れないのです絶対的に。
その仕組みや仕掛けが分かっても。
でもそれを出来ると思う人がいる。
要素を集めて条件を整えればだが。
てか要素を集めてもそれは集めてるだけ、
てか条件を整えてもそれは整えてるだけ、
でも肝心なところでは何もしない。
つまり魔法の手助けをしてるだけ。
そしてそれが起こるのを待つだけ。
何度でも言うが、
人間はそもそも何も創っていない。
ことを知って手助けをしてるだけ。
てかこのアニメは魔法少女の物語りです。
作者らの意図は知らないが、
ここでの話がまんまの主題ではなかろう。
てかであろうとなかろうと、
なにげない言葉であっても、
まことに核心を突いている。
そこが面白い。
とても面白い。
・・・・・
振り返って現下の世界、
これはもう目にあまる。
その無作法極まりなし。
そこで思うのです。
存在の「まこと」就中生命の「ふしぎ」。
それは自ずから然りであり、
そこに自ずからの由がある。
これは皆魔法のなかにある。
まんまにそこに在るのです。
人にはそれが少しは見える。
それは言葉の存在によって。
ゆえに魔法ではないが「らしき」ことはできる。
あくまで「らしき」である。
してもここに言葉は魔法の道具となった。
それがこれまで色んな形で使われてきた。
初めはことを知らせるため。
それがときとともに語りに。
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、
神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
この4行は創世記のはじめ。
ここには地と水と光がある。
ときにことの始まりを知っていたか。
してもこの魔法は真性の魔法である。
人間のモドキ魔法とは訳が違うのだ。
でもやはりこれも言葉によるとした。
だからヨハネは言った(以下3行)。
はじめに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった。
聖書の原義の神は知らず、
漢字では「神」としるす。
示して申す、と著わしそれが存在の核心であると。
和語ではそれは「かみ」と言うが、
その意味は上ということだろうか。
しても言葉には霊(たま)が宿っており、
口に出せば実現するものと言われている。
これらはすべて平仄が合っている。
ところで、
この項の上で言った無作法だがその因は明白、
それは言葉の仕切りを違えたこと。
神の仕切りと人の仕切りとを混同。
人は皆神の子であり、
ゆえ神であるのだが、まんまの神ではない、
未だ子であることを、そのことを覚えない。
・・・・・
ちなみに蛇足ですが、
いつも思うのである。
そして新ためて思う、
漢字には妙があると。
それは単なる記号ではなく絵であること。
その妙がシナでは余り生きない。
絵が音の記号になっているから。
絵と音が固定されることになる。
音の意が絵にしばられることに、
絵の意が音にしばられることに。
ということです。
日本ではそこが自由となる。
音は音の由を発揮する。
絵は絵の由を発揮する。
連結するが自由がある。
それを担保するのがかなとカナ。
なかなかなことである。
うん!

イの不思議

2024-10-28 07:01:26 | 日記・エッセイ・コラム
これは「イ」であるが「い」も「i」も同じ。
カタカナひらがなローマ字であるが同じもの。
これらはみんな音でありそれを字にしたもの。
ここに漢字がある、それは「意」です。
これも音は同じでありイと読む。
これは音読みですが、この文字には常用の訓読みがない。
辞書を開けば「こころ」とか「おもふ」とか。
意味としてはそう謂うものだと。
てか私は訓もイなのかと何気に思っていたが。
てかそう考えても違和感がない。
てか今もそう思っている。
まあええやろ、
・・・・・
「意」はその下部に心あり。
ゆえ心と読むは違和感なし。
心を取ればそれは「音」である。
なら意とはそれは音の心である。
ということはまさに言葉のこと。
しても音は「日が立つ」である。
だから意とは「日が立つ心」となる。
なんのこっちゃ。
というこっちゃ。
日が立つとは光のこと、
それは波動それも究極の波動である。
これは媒介するものがない?のです。
ちなみに音も波動であるが、
これは空気が媒介するもの。
物の動きが空気を震わせて。
せやから「意」ちゅうのは、
要するに音の心でありそれは光の心であると。
ゆえにそれは音霊であり言霊である。
それを想うとこの意匠は実によく出来ている。
これをとらえるのは、
ひとつ耳である、
これは聞くと謂い、か行のイであり。
これをとらえるのは、
ひとつ目であり、
これは見ると謂い、マ行のイである。
どちらもイである。
だからです、
だから私は想うのです、
意の音読みのイは訓読みでもおかしくないと。
そう思うのです。
それがどうした。
どうもしません。
・・・・・
ここに漢字がある、それは胃である。
これも音は同じでありイと読む。
これは意と違って具体的なものです。
これも常用の訓読みがない?
例えば腸ならはらとかはらわたとか。
てか部位を大きく取って「はら」と言うのか。
胃と腸を合わせて胃腸と言うように。
多分そうだろうと。
ゆえ「はら」には色んな字を宛てる、
腹とか肝とか原とかも。
私は勝手ながら胃にも。
それは「もと」や「こころ」とかの意がある。
思えば生物は単細胞から始まる。
それは口と胃(はら)しかない。
外部からエネルギーを取り込み、
その力を利用して活動を行ない、
そして不要なるものを排出する。
その繰り返しが生きるということである。
その體は口(尻)と胃(イ)だけである。
口とは開いているところであり、
その実の體は胃(イ)だけです。
ここにあきらか、
すべては「はら」から始まるのです。
それは口の有る袋で細の胞とかいう。
ゆえ脳が「はら」に直結しているは当然、
その始まりを思えば。
そこで胃ですが、これは田の下に月。
月はあの月でなく臓器を指している。
田は言うまでもなく水田のこと。
これはエネルギーの大元である。
胃とはゆえ命のはらである。
まことにまことに。
・・・・・
日本語には50音表がある。
これは「あ」からはじまる。
でももうひとつの表がある。
イロハ歌である。
これはイから始まる。
数詞のその始まり一はイチと読みこれは音読みである。
数詞はこの音読みが定着しているが、
訓読みの「ひ~」はハ行のイであり、
母音としてはイです。
これもイからとする。
それにしてもこのイロハ歌、
情感に溢れておりその趣向も逸品である。
それが50音でなっている。
それにそれはイから始まる。
これは段落の表示によく利用されていた。
それに何と言っても言葉はそも意である。
そのイから始まるのです。
ちなみに、
意と同じような意を示す文字に謂がある。
これは「…というイみ」のイである。
これはイやイイと読まれる。
これは音も訓も同じらしい。
偏の言と旁の胃でできてる。
言の訓読みは「い」である、「こと」とも読むが。
して見ればこの字は偏も旁もイである。
これをイイと読むは当然か。
それやこれやで、
なんやかんやで、
言葉にイきる人のイのちは、
多くはイから始まっている。
もってうえのごとし。
イ条。

とらわれの身

2024-10-21 11:07:00 | 日記・エッセイ・コラム
人類一番の問題は言葉である。
言葉は素晴らしいもので凄い力を持つもの。
これが人間に知らせたのです世界のことを。
それは語りとして現れる。
人間はそれを語らずにおられなくなる。
そして人間はそれを語り続けるのです。
それが人間である。
これは言い方をかえれば、
言葉から離れられないということです。
知らされたは良いのだが、
なお知らないことは無限、
稼ぎに追いつく貧乏なし、
ゆえとらわれの身となる。
なぜかこのことに気づかない。
気づく人は気づいてると思う。
でも所謂賢い人程気付かない。
言葉の凄さに溺れてしまって。
世に言われていることの一つ、
イエスの再臨とはこのゆえか。
ときにこのことを思い知ると。
それが新たな始まりとなろう。
それを想っている。
それを待っている。
・・・・・
現下の世界は諸に歪んでいる。
その査証の一つ、
江戸時代と今の日本との貧富の差を見ればいい、
実は今のほうが格差は大きいのです。
日本でもそうだから、
北米を初め世界では、
もう推して知るべし。
しても独裁国家なら分かるが、
自由と民主主義の国でもです。
これはどういうことか?。
自由と民主主義とは言葉だけ、
そんなものは実はないのです。
それは上辺だけのことであり、
すでに乗っ取られている。
てか初めから幻想なのである。
でも表向きは庶民の手にある。
と言うことにしてるのだ。
しても勿論庶民の手にはない。
ここに大きなトリックがある。
その道具こそ「言葉」である。
だけどこのことに気付かない。
だからくどいほど言っている、
世界は嘘と狂気で出来ている、と。
その典型として、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
このことを性懲りもなく言い続けている私。
ちなみに、
日本の江戸時代は実は素晴らしかったのだ。
思うに結構あったのです自由と民主主義が。
その証として、
ひとつ、識字率が高く庶民も多くが字を読めた。
それも、男子だけでなく女子もである。
ゆえに、瓦版があって貸本屋もあった。
それに、忠臣蔵という戯曲もしれっと上演している。
ひとつ、武士には武士の矜持があり自省的であった。
ゆえに、むしろ経済的には苦しかった。
ひとつ、日本には奴隷制がなく階級もなかった。
しても、身分とはその生業を指しており、
    階級ではなくすぐれて役割分担のこと。
思えば、今ほど職業の種類もなく、
    基本的には親の生業を継ぐことに、
    そこに自由の観念はなかったろう、
    そこから外れた者にはそれなりの。
して見れば現下の世界では自由を言い過ぎている感あり。
生きることを押さえてこそ初めて自由とか言えるのです。
先ずは如何に生きるかが第一である。
そこを押さえてこそだと。
それを押さえるに際し自由があってもいい。
それはそうなのだが社会の要請は外せない。
求められてこそ意味も意義も甲斐もあると。
そうです「自由」というのは厄介なのです。
前にも言ったがフりーダムはよく知らない。
てかそれは奴隷の解放を指すのであろうが。
それに宛てた言葉が自由。
でも自由なら少し分かる。
これは「自の由」である。
「おのれのよし」と読む。
これは社会の問題でなく、
すべて自分の問題である。
自分が自分を生きる、自分の由を生きるということ。
「由」は音読みでは「ゆう」だが、
それが訓読みなら「よし」である。
これは漢字では「良」とも書ける。
ならば由も良も「よし」であり同じ趣。
その「よし」を生きることに尽きます。
まあどうとでも言えるが。
言葉とはそもそういうものであり、
理屈を付ければ如何様にも言える、
ああ言えばこう言うの上祐の世界。
このことを利用してるのが現下の世界。
すべては自分らの都合に合わせて恣意的に。
これは「民主主義」という言葉についても同じ。
そも選挙そのものがいかがわしい限り。
てか二者択一ではそも選択の余地なし。
どちらを選んでも大同小異のお手盛り。
これを以ってあなた方が選んだのだと。
てかガチで争えば不正のオンパレード。
これがこれまでの米大統領選挙の実態。
日本もその間の事情は余り変わらない。
選挙制度の改革はもっぱら政治の都合。
その結果今回の衆議院選挙のこの有様。
政党交付金ゆえ党が力を得て人を選別、
政策で人を選ぶべきをそこが歪になる。
その後で国民に選んで下さいてか残念。
それならいっそ政党交付金はやめよう。
その方が新しい政党も立てやすいかも。
それにこの状況は個人をほぼ閉めだし。
そんでもって舞台中央で、
糞まみれと金まみれがくんずほぐれつ。
ゆえに言うのです、
今の世界は既に「言葉」が乗っ取られている、
それは心魂に纏わりついて離れがたく、
だからさらに言う、
言葉から自由になろうと、
言葉にとらわれずに「こと」を見よう、
そして「こと」に正面から向き合おう、
目の前の波動に己の波動を合わせよう、
言葉を持たない生き物がしている様に、
そうしよう、
うん!
・・・・・
思えば身分という言葉も誤解されてる。
階級と混同している風である。
60兆個も有ると言われるヒトの細胞、
その一つひとつは対等かつ平等である。
それがどこにあろうと、役割がどうであろうと。
身分とは身の分であり、そのことを指している。
脳は脳の為にあるのではない。
すべては身の為にあるのです。
むしろ身への奉仕者なのです。
身分に貴賤などある筈もなし。
社会をひとつの身とするなら、
個人個人はそれ身分であると。
身分を差別の初めとするは何たる不埒。
そも身分と謂う言葉自体を貶めている。
しても「身分と自由」こそ大事の大事。
そこにこそヒトの命の発露が。
でも既に言葉は乗っ取られており、
世界は嘘と狂気で満ちている。
ともかくもそれを知ろう。
そしてそれを知れば、
そこから始まる、
必ず始まる。