私の思考の傾きのことで、
それを「しこう」と言ってみた。
漢字では私向とでも書いてみる。
普通なら嗜好とでも言うのかな。
言葉とはイでありこれは伝えるものであるが、
言葉はとどのつまりは自分に向いてくる。
それゆえにかこびり付いて離れない。
これは着ている衣のようなもの。
てか着飾るものではないと。
ファッションではなく、
そも身そのものに。
聖書は言う。
言葉を持ったがゆえ、
ヒトは裸であることに気付き恥ずかしさを覚えた。
そこでそれを隠すためイチジクの葉を身に着けた。
言葉を持つとはイを持つということ、
イとは意味であるが、
それは意識でもある。
それは自我を立てる。
これが進めばイチジクの葉ではすまない。
イチジクを意恥辱と言えば親父ギャグか。
そしてそれはついには衣となる。
この衣は身に付ければ容易には脱げない。
てか一生ついて回る。
それは動物が身に付けてる毛皮のように。
ファッション的要素があっても、
決して脱ぐことは出来ない。
そう謂うものである。
・・・・・
言葉という衣は要注意です。
身に付ければ容易に脱げないから。
それは現下のリベラル諸氏を見ればあきらか。
我々が普段着ている衣は問題なし。
むしろ時と場を考慮して着替えればいい。
衣裳を変えれば意識が変えられる。
晴れの場では晴れ着を、
日常の場では普段着を、
仕事に置いては仕事着、
これは仕事に対する意識を高める、
警察官に医者や看護師それに料理人や鉄道員等々。
自分の意識を変えるだけではない。
廻りの人々にもそれを伝えられる。
それが社会生活を円滑にする。
ちなみにそこには、
ファッションと謂う要素もあって、
男もだろうが女の人はそれ以上に、
着るものによって心が変るようだ。
それは衣裳だけでなく化粧もです。
これらは取り替えてこそ意味あり。
ということはこういう衣替えなら、
これは大方良いことばかりである。
ちなみに、
リベラルは往々にして制服を嫌う。
てか歴史伝統文化を壊したいのか、
ともかく訳の分からんことを言う。
最近制服のことは余り聞かないが、
男女~問題ではもう言いたい放題。
婚姻制度など不要・事実婚で良い、
その口で今は同性婚を認めろとか。
極め付けは例のLGBT~問題であり、
脱げない衣までも自由にしろとか。
體という由緒ある衣にまで口出し。
自由とは自ずからの由であるのに。
それを知ってそれを生きんとするもの。
それが自由である。
してもこれは言葉(意識)の産物。
でも體という衣は言葉以前の代物、
簡単に手を付けるものではないと。
それは本人の意識のなお向こうに。
しても本人の意識なら止むを得ず。
他者の安易な口出しは論外も論外。
それがたとえ親であっても。
にしてもリベラル界隈では、
自由のはき違えが甚だしい。
てか「自由」だけではない、
抽象的言辞は皆そうである。
自由・平等・人権・平和それに多様性とか持続性とか。
抽象とは具象の逆であり現実にはないもので、
未来の導にはなるがその実は幻想である。
だから私は「私向」と言う。
これなら問題はありません。
そこに他者への強要はない。
それに比べてリベラルの向きは度し難い。
具体的な言辞での強要は多少は目を瞑る。
抽象的な言辞での強要はこれは許せない。
これが通れば何でもありになる。
現下の状況がまさにそれである。
だから私は怒ってるのです。
てかカンカンに怒っている。
まぁそれ以上のことはない。
彼らと同類になるは真っ平、
だから、、、
・・・・・
ヒトと謂う生き物の導はDNAにある。
これが體を造りそこに気を乗せる。
これがそのヒトの一生を貫く。
してもヒトはそこに言葉が乗ってくる。
狼少年のように狼に育てられたことで、
體はヒトでも人になれなかったものも。
言葉を得る機会を逸したからであるが、
體はともかく気は狼のままだったのだ。
てかヒトが人となるには言葉が不可欠。
そのことを知ろう。
それはDNAに匹敵するほどの力をもつ。
それは衣裳のように取外しができない。
生身の毛皮のごとく身から離れない。
しても言語の種類の話しではない、
言語の存在そのもののことです。
してもそれは現の実ではない。
それは実に貼った印であり、
実から離れれば只の幻想、
ゆえ注意が必要なのだ。
だからの標題である。
思考とは私向であり嗜好だと。
うん!
それを「しこう」と言ってみた。
漢字では私向とでも書いてみる。
普通なら嗜好とでも言うのかな。
言葉とはイでありこれは伝えるものであるが、
言葉はとどのつまりは自分に向いてくる。
それゆえにかこびり付いて離れない。
これは着ている衣のようなもの。
てか着飾るものではないと。
ファッションではなく、
そも身そのものに。
聖書は言う。
言葉を持ったがゆえ、
ヒトは裸であることに気付き恥ずかしさを覚えた。
そこでそれを隠すためイチジクの葉を身に着けた。
言葉を持つとはイを持つということ、
イとは意味であるが、
それは意識でもある。
それは自我を立てる。
これが進めばイチジクの葉ではすまない。
イチジクを意恥辱と言えば親父ギャグか。
そしてそれはついには衣となる。
この衣は身に付ければ容易には脱げない。
てか一生ついて回る。
それは動物が身に付けてる毛皮のように。
ファッション的要素があっても、
決して脱ぐことは出来ない。
そう謂うものである。
・・・・・
言葉という衣は要注意です。
身に付ければ容易に脱げないから。
それは現下のリベラル諸氏を見ればあきらか。
我々が普段着ている衣は問題なし。
むしろ時と場を考慮して着替えればいい。
衣裳を変えれば意識が変えられる。
晴れの場では晴れ着を、
日常の場では普段着を、
仕事に置いては仕事着、
これは仕事に対する意識を高める、
警察官に医者や看護師それに料理人や鉄道員等々。
自分の意識を変えるだけではない。
廻りの人々にもそれを伝えられる。
それが社会生活を円滑にする。
ちなみにそこには、
ファッションと謂う要素もあって、
男もだろうが女の人はそれ以上に、
着るものによって心が変るようだ。
それは衣裳だけでなく化粧もです。
これらは取り替えてこそ意味あり。
ということはこういう衣替えなら、
これは大方良いことばかりである。
ちなみに、
リベラルは往々にして制服を嫌う。
てか歴史伝統文化を壊したいのか、
ともかく訳の分からんことを言う。
最近制服のことは余り聞かないが、
男女~問題ではもう言いたい放題。
婚姻制度など不要・事実婚で良い、
その口で今は同性婚を認めろとか。
極め付けは例のLGBT~問題であり、
脱げない衣までも自由にしろとか。
體という由緒ある衣にまで口出し。
自由とは自ずからの由であるのに。
それを知ってそれを生きんとするもの。
それが自由である。
してもこれは言葉(意識)の産物。
でも體という衣は言葉以前の代物、
簡単に手を付けるものではないと。
それは本人の意識のなお向こうに。
しても本人の意識なら止むを得ず。
他者の安易な口出しは論外も論外。
それがたとえ親であっても。
にしてもリベラル界隈では、
自由のはき違えが甚だしい。
てか「自由」だけではない、
抽象的言辞は皆そうである。
自由・平等・人権・平和それに多様性とか持続性とか。
抽象とは具象の逆であり現実にはないもので、
未来の導にはなるがその実は幻想である。
だから私は「私向」と言う。
これなら問題はありません。
そこに他者への強要はない。
それに比べてリベラルの向きは度し難い。
具体的な言辞での強要は多少は目を瞑る。
抽象的な言辞での強要はこれは許せない。
これが通れば何でもありになる。
現下の状況がまさにそれである。
だから私は怒ってるのです。
てかカンカンに怒っている。
まぁそれ以上のことはない。
彼らと同類になるは真っ平、
だから、、、
・・・・・
ヒトと謂う生き物の導はDNAにある。
これが體を造りそこに気を乗せる。
これがそのヒトの一生を貫く。
してもヒトはそこに言葉が乗ってくる。
狼少年のように狼に育てられたことで、
體はヒトでも人になれなかったものも。
言葉を得る機会を逸したからであるが、
體はともかく気は狼のままだったのだ。
てかヒトが人となるには言葉が不可欠。
そのことを知ろう。
それはDNAに匹敵するほどの力をもつ。
それは衣裳のように取外しができない。
生身の毛皮のごとく身から離れない。
しても言語の種類の話しではない、
言語の存在そのもののことです。
してもそれは現の実ではない。
それは実に貼った印であり、
実から離れれば只の幻想、
ゆえ注意が必要なのだ。
だからの標題である。
思考とは私向であり嗜好だと。
うん!