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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

色を思う

2024-12-23 09:09:53 | 日記・エッセイ・コラム
光に色は無いと思っている。
物に色は無いと思っている。
てか無い無い尽くしである。
おかしなことを言ってると、
てか思われるかも知れない。
でも本当にそう思っている。
見た目では光はその波長により色が変る。
でも同じ電磁波の類でも他はどうだろう。
ご存知の通り色として感知などできない。
なら光も電磁波ですからそこは同じはず。
なのに光だけは違うのです。
それは器官があるからです。
それは感知するよう創られている。
ゆえそれが壊れていれば見えない。
これは道理である。
それにもうひとつ、
見えるとしても直の光は見えない。
反射した光しか見えない。
それはなぜか、
それが目的だからである。
物を感得するには必要だからです。
俗に色・形と言われるが、
それは同じものでそも色なのです。
色の変化がときに形を見せるだけ。
そもすべては色なのです。
ゆえ同じ色なら形は現れない。
これも道理である。
しても光だけが特別なのです。
これは人の初めからそうです。
ときに人はそれを覚えた。
そして語りとして残した。
神が最初に発したことば、
それは「光あれ」である。
ときに色が現われてきて、
そこに物あることを知る。
なるほど、の、なるほど。
げに時の人らは凄すぎる。
物語りを創った人らです。
それに比べて現下の有様、
見るに堪えない程の無様。
それにしても、
それを創ったのは誰か、光を色と感じる器官を。
我々ではない。
では一体誰か。
答は既に出ている。
事の場に潜んでいる力である。
ゆえそれを「ことば」とした。
それも神の口から出るものと。
ふむふむ、む。
・・・・・
これも既に言ったこと。
しかも何度も何度も…。
ヒトは何も創らない何も創れない。
場に潜む力を利用して育てるだけ。
場に潜む力を使い形を変えるだけ。
本当のところは何も創っていない。
場に潜む力とは事の場にあり、
ゆえそれを「ことば」と言う。
ヒトはゆえ己の力も「ことば」と呼ぶ。
これは場の力をなぞったもの。
だから私はずっと言ってきた。
神の言葉は真理であり現実である、
人の言葉は仮想であり方便である、と。
ここに尽きる。
てか神の言葉をなぞっている限り、
人の言葉もそこにその力がやどる。
しかれども離れればそれは只の音。
就中問題なのは抽象的言辞である。
これは余程注意しない限り離れる。
注意も注意の要注意なのです。
それがいま暴走している。
それが現下の世界の有様。
その象徴的な言辞に権利や自由がある。
これらをどこにでも持ち出し、
「こと」を恣意的に解釈する。
そして内実をまったく顧みず、
看板だけをひとり歩きさせて、
水戸黄門の印籠?とする。
例えば自由。
フリーダムは知らず、
自由とは「自の由を立てること」。
例えばだが、
靖国神社を参拝するはそも自由である。
その人の思いとして自由である。
その立場役職に関わらず。
それが自由である。
しかれども、
靖国神社を参拝してはいけないは自由ではない。
これは自由ではなく自由の否定である。
でもこれを言論の自由と言う。
極めつけの便利使い。
それにまた、
最近は不倫がよくメディアを賑わせる。
これは個人的なことなのでほっとけばいいのに。
思えば以前はそこは寛容であった。
良くないのは当然のこととしても。
しても彼らのように言葉を使えば、
不倫する自由があってもとも言えるが。
それに権利のこと。
最近なぜか社会から性別をなくそうとしている。
これが解せない。
私は想うのです。
例えば哺乳類はその種で分けられるが、
くくりを変えれば雌雄でも分けられる。
生き方からすれば雌雄の違いは種の違いより大きい。
そこには決定的な違いがあるから。
なのに社会から性別の違いを消そうとしている。
見ていて鬼気迫るほどに。
それも知識人こそそのようで。
これが権利ということになれば様相が変る。
そこでは臆面もなく女性を持ち出してくる。
下の例もその一つ。
トイレフリーとは真逆の女性専用車両てか。
もう支離が滅裂である。
こんな例は数限りなし。
してもおかしな現象ではある。
言葉とは分けるもの、違いを知って分けるもの。
それを分別という。
その分別を無くそうとしているのです。
その癖ゴミ出しには分別分別と喧しい。
これが言葉に生きるリベラルです。
世界が壊れる筈である。
・・・・・
それにしても、
ヒトの感覚は視覚も聴覚も嗅覚もはたまたその他も、
體(脳を含めてすべての器官)が捉えるのです。
その體は場にひそむ力で創られる。
ヒトが自らの手で創るのではない。
してもそれは、
その様に見えるように聞こえるように、
そして感じられるように創られている。
その感覚が本当かは絶対に分からない。
でもその様に創られているのです。
それも場にひそむ力によって。
ゆえにそれを疑う必要はない。
それは紛れもない現実である。
人それぞれでその感覚が多少違っても。
問題は言葉です。
これはそれを得る力は与えられるが、
その後は人に委ねられる。
その後は人が創るのです。
それが言葉を育て歴史伝統文化を創る。
なにより生き方の総体としての文化を。
それが今なぜかドンドン壊されている。
この状況が理解できない。
この状況が?
ん?

移民

2024-12-16 06:46:14 | 日記・エッセイ・コラム
どうしても解せない。
移民政策のことです。
積極的には推進していないが、
ことあれば進める方向に話を持っていく。
その理由が分からないのです。
てか私には思うところがある。
てか安倍政権ですら事実上そうであった。
移民推進ではないと言っておきながらも、
なんかずるずると受け入れに。
リベラルの圧力に屈したのか。
コメのボスの言いなりなのか。
コメはそも移民の国ですから。
日本とは根本的に違うのです。
てか移民を否定してはいない。
縁あればそれもいいでしょう。
日本が好きで日本に住みたい、
なれるなら日本人になりたい、
それはそれで結構なことです。
でも安易な受け入れはどうも。
私は昔から思っています、
基本は「棲み分けによる共生」であると。
これがなっていてこそである。
・・・・・
アメリカはトランプ氏が当選したから変わる。
安易な受入、就中不法移民はなくなるだろう。
リベラルの移民受入は事実上無制限。
なぜなら受け入れざるを得ないから。
主たる原因はひとつ、
それが因と果を呼ぶ。
そも既に経済が破綻している、
それはもう随分前からである、
そも働きより消費の方が大で、
それで経済が回らなくなった、
それを国外で穴埋めしている、
ために戦争が必要なのである、
それが難民を生み移民となる、
ゆえ移民を受けざるを得ない、
てかむしろ移民が必要なのだ
低賃金労働者を欲するがゆえ、
かくて分厚い中産階級が没落、
それで帳尻を合わせているが、
こんな循環が続くわけがない、
その悪あがきが世界を混乱に、
すべては欧米リベラルの仕業、
日本もそこに引き込まれてる、
これが今の日本の状況である。
以上だが、
要するに、
主たる原因は彼らの悪あがき、
それが移民をつくり、
それに移民も必要で、
ということでこうなっている。
これが進めば世界は一極化し均質になる。
ごく一部の支配者と後は…に。
ここに登場したのがトランプ、
同じく登場していた安倍晋三、
言わずもがな、
アメリカ・ファーストと日本を取り戻す。
これはすなわち「棲み分けによる共生」、
かつ「その上での緩やかな連帯」である。
これがどうしようもなく目障りであった。
だから何が何でもで潰された。
ところでプーチンはロシア・ファースト、
これで分かるでしょうロウ戦争が何かは。
NATOとロシアの喧嘩なんです。
ということがいままでの経過。
してもこの度の大統領選挙と、
規模は違うが兵庫県知事選挙、
これが正体を白日の下に晒す。
しかして今後どうなるか、
第三次世界大戦は望まないが、
世界の破綻はもう待ったなし。
いよいよ正念場の正念場。
日本もただでは済まない。
でも思うのである、
ここで立てるのは日本だけである。
あの敗戦後に立ち上がったように。
最後は日本人が頼りなのです。
だから頼みます庶民の皆様方、
皆様方だけが頼りである、
知識人には頼れない。
・・・・・
ということで、
縁あっての移民は歓迎しても、
故なき移民の受入は止めよう。
でも多くの人に日本を知ってもらうのは、
これは大いに意味意義があり結構なこと。
だから、観光客は歓迎しよう、
だから、留学生も歓迎しよう、
だから、研修生も歓迎しよう、
それに、ビジネス往来は勿論、
しても不法滞在はよろしく取り締まろう、
ということで、ある。
ということで、ハイ、
ハイ!ハイ!のハイ。
一寸ハイが過ぎたか。

世界はひとつ

2024-12-09 09:25:25 | 日記・エッセイ・コラム
世界はひとつって言う人がいる。
これがよく分からない。
てかこんなのは当り前。
これも言葉のマジック。
その括りで見れば、その括りはひとつ。
それはそうですよ。
でもその上の大きな括りから見れば、
それは部分であり部分の中のひとつ。
少なくとも地球生命は繋がっている。
どんな生き物もその生き物だけでは生きられない。
最初に出来た生き物からすべて繋がっている。
それにその生き物を誕生させたものとも。
それはときの地球環境と言うべきか。
てか根源はそこに内包する神秘。
それを分かる必要はないと。
分かるとは言葉の幻想。
てか言葉を持ってしまったから、
どうしても分かろうとする。
それも仕方ないだろう。
てか分からないことは分からないでいい、
てかそれを分かろうとするのもいい、
そういう生き物なのです人間は。
まあいつもの言葉遊びです。
・・・・・
てかここで自分のことを考える。
私にとって私は唯一無二の存在。
それを意識して自我が表に出る。
その體は本来独立した命である細胞の集まり、
それが60兆個も集まっているという。
つまり60兆個の細胞の連合体である。
ではそのどこに一つの自我があるのか。
それを特定できるとは思えない。
ときに脳だと言う人もいる。
それはその様に見えるだけ。
ではどこにあるのか、
それは一つひとつの細胞にあるとしか、
私はそう思っている。
以前一つの細胞は口とイで出来ていると言った。
「ろ」と「い」ではない、口(くち)と胃(はら)である。
その心は、口はただの出入り口、
その本体はほぼほぼ胃と言える。
その細胞が集まって造っている。
脳もその一つというだけのこと。
科学的にどうなのか知らないが、
私は根拠もなくそう思っている。
してもどこにあろうと、細胞一つひとつは同じ。
配置されたその部位器官によって役割がかわる。
というだけのことで、私はそれが身分だと。
身分は価値の上下でも貴賤の上下でもない。
それは役割分担である。
それを知ってそれをやること、これが各細胞の仕事。
自由とはまさにこれで、
自(おの)れの由を知ってその由を生きる、
ことに尽きる。
これが日本人が知る「身分と自由」である。
てか昔は知らず、
いま難しいのは「自由」の捉え方。
余りにも方々に持ち出し支離滅裂。
しても自れを知るのは本来難しい。
てか欧米の思想に振り回され過ぎ。
欧米は奴隷制度が根底に潜むから。
また話が逸れた。
個体としての自我はひとつ、
それは多くの部位器官でできており、
とどのつまりは個々の細胞によっていると。
個々の細胞や各部位器官の自我とその共同体(個人)の自我は、
そも同じもので基本的に衝突しない。
もし衝突するならそれは病という異常事態。
これを個人とその共同体(社会)に置き換えても同じ。
身分と自由、を考えれば分かる筈。
これは何を意味してるかと言えば、
役割分担をしての助け合いである。
社会はそもそのためにあるのです。
・・・・・
そこで標題での言、世界はひとつ。
これが苦手なのである。
てかむしろ嫌いである。
なぜか嘘っぽく感じて。
てか世界はひとつは当り前、
でもその世界は多数の世界でなっている、
てかその上にさらにもっと大きな世界も。
それは括り方でかわるもの。
ゆえそれを言うのもいいが、
そこを外せば落し穴に嵌る。
くどいようだが、もう一度。
この世界はその下の小さな世界の集まりであり、
その世界が同じような世界と伴にこの世界をつくっている、
ということ。
そこでです、
「世界はひとつ」という言い方よりも、
「世界はたすう」という言う方が良い。
すなわち「棲み分けによる共生で出来ている」という方が。
そも「世界はひとつ」はその括りが曖昧である。
てか「棲み分けによる共生」は括りを問わない。
ゆえ私はずっとこれを言っている。
地球生命はまさにそのようにある。
ちなみに、
所謂グローバリズムはそも「悪い意味」での世界はひとつ、
これは一部の者が世界を支配しようする思想、
てか言葉はその為の必須の道具、
ハイ、

はじまり

2024-12-02 06:44:55 | 日記・エッセイ・コラム
私は宇宙にははじまりが無いと思っている。
始まりも終わりもない世界であると。
しても地球の始まりはあると。
それに生命の始まりも、
地球生命のです。
ここに私の思考の核心がある。
ひとつ「こと」は起点がなければ捉えられない、
ひとつ「こと」は終点がなければ定められない。
ゆえに人は始まりと終わりをつくる。
ここに思考がはじまる。
そして語るのです。
・・・・・
この世界は始まりも終わりもない。
ただ「場」があるだけ。
そこに「ものごと」がある。
「ものごと」は一体のもの。
「もの」だけで「こと」がなければ空に如かず。
「もの」は「こと」があってはじめて実となる。
そも一体なのだが物ではなく事こそ実を現わす。
ゆえ世界とは「こと」の「ば」である。
それは漢字では事場だが、これは事端としても同じ、
それをなぜか言葉とする。
音としてはすべて同じで「ことば」である。
「場」は一つであり全体を指している、
「葉」は「は〃」で無数を指している、
なるほど日本語はそも「そもそも」をしめしている。
その根本の力を「神」と表わすことも含め。
てか言葉を持ったヒトは伝えることを知る。
それを重ねて語ることを覚える。
これを覚えて思考がすすむ。
ときにできる物語りがある。
それは「はじまり」の物語りである。
起点を想う心がそれを創りだす。
てかこれは実としてあったもの。
その終点はまだ見ぬ未来である。
この語りがヒトをヒトとして人間に。
これは俗に神話と言われるもの。
神話はゆえ歴史でもあり、それは繋がってるのです。
神話は歴史であり歴史は神話である。
さらにここから宗教・哲学が起こる。
それは現今の科学にいたる。
さてもここに落し穴がある。
そも言葉は、人間の言葉は、虚構であるということ。
現実を写してるだけである。
虚構とは嘘ではありません、のように構えたものである。
あくまで構えだと謂うこと。
それを心得ていればいいが。
してもこれは魔法の道具になる。
この道具は実はなにも創らない。
でも育てられるのです、
てか作ることもできる、
場に潜む力を利用して。
それが人間の力である。
それだけが人間の力である。
そういうことですから、
ゆえそれを魔法と言う。
・・・・・
これは私の思想である。
でも私がつくったものではない。
そも日本の歴史伝統文化に内包されている。
そして何より言葉に込められている。
その言葉に生きているから、
それを取り出しているだけ、
私なりにですが。
人間は言葉の生き物である。
でもその言葉は同時に足枷にもなる。
これはもういつも言ってること。
大日本(おほやまと)はそれを心得ている。
ゆえ言葉と生きていても尚言葉に囚われず。
それが宗教への向き合い方に現れる。
俗に無宗教と言われる。
それはそうです、
宗教がなる遥か以前の心映えで、
はじまりの物語りが出来る前の、
その心のまにまに生きるのです。
事の場で言の葉に出会った頃の、
その心を持って。
柿本人麻呂はそれを歌っている。
それは万葉集の中にて。
しきしまの大和の国は、
言霊の幸はふ国ぞ、ま幸くありこそ、
と。
北畠親房は言っている。
その著神皇正統記にて。
大日本者神国、
おほやまとはかみのくになり、
と。
以て件の如し。

痛快!

2024-11-25 07:39:39 | 日記・エッセイ・コラム
てか痛快という言がまさにピッタリ、
久しぶりにこの言葉が頭をよぎった、
閉塞感溢れるこの日本で。
少し前にもありましたが、
それは大統領選挙での話、
これは、してやったり、と心中で大拍手、
してもアメリカでのこと。
でも影響の大きさは別格、 
そこは大きく違うのだが、
状況はすこしく似ていて、
どちらも歴?とした選挙。
その点ではまったく同じ。
痛快!痛快!
・・・・・
それは兵庫県の知事選挙である。
現役の知事が引きずり降ろされて起きたこと。
その降ろされ方が実に酷かった。
政治には直接関わらないことで、
スキャンダラスな話ばかりの中、
てかそれは仕方ないとも思った。
他人事でもあり何となくである。
奇異だったのは、
その知事があらためて出馬すると言ったこと。
ことが事実なら私ならできない。
それが奇異の始まりです。
これは覚悟がなくてはできない。
これは信念がなくてはできない。
てかこの件その初めから政治の話はなかった。
政治外のところで始って、
不遜にも県民を巻き込み。
選挙は政治をどうするかが本題である。
昨今はその本題を横に置くことが多い。
当方はそも民主主義を信用していない。
そこに政治などなく政治ごっこばかり。
先の衆議院選挙もそうであった。
不記載は問題だがそれは本題ではない。
肝心なところは国民を置き去り。
国民の思いを汲み取る気はゼロ。
そんな法律ばかりである。
私にはそう見えるのです。
そも庶民は現実を生きているのです。
生きるのに懸命でそれほど余裕なし。
それに言葉遊びは余り得意ではない。
そこを狙ってテレビや新聞が情報を流布する。
識者とか専門家と名乗って尤もらしいことを。
騙される訳ではないが流されるのだ。
これはそれを仕組んでいる者がいる。
ということ。
だから言うのです、
メディアは既に乗っ取られていると。
大統領選挙もこの知事選挙もそこは同じです。
この二つの経緯を見ればそれはもうあきらか。
ゆえにです、
この結果を見て痛快と言うのは。
でもメディアの人間が全員洗脳されてる訳ではない。
大方は普通の人である。
組織を乗っ取るにはその要を押さえればいい。
それは人事である。
ために会社なら株式を。
その形態によってそこは様々。
そこさえ押さえれば後は言いなり。
疑問を持ったり楯突けば切られるだけ。
ハイ!それまで、と。
しかして、
あらためてその手段を示せば、
主には二つある。
ひとつは選挙である。
これはまさに人の事そのもの。
これで政治とそれに伴う公的機関を押さえる。
今回の件では地方の酷さも露呈させた。
許より兵庫県だけのことではない、
北は北海道から南は沖縄まで、
それはもうご存知の通り。
ひとつは現代資本主義の在り方にある。
曰く、会社は株主のものだと。
よくも言ったりこの無理無体。
会社は公器だと言われるのに。
これで大企業はあらかた押さえられることに。
ちなみにだからトヨタを応援している。
日産は欧米の口車の乗って悶絶。
てかとか、と思っている。
・・・・・
思うにひとつ覚えておこう。
騙しが問題なのであるが、
その道具は言葉である、
てか言葉だけであり、
てか言葉しかなく、
てか言葉がすべてである。
これは人を騙すだけではない。
これは同時に自分をも騙すのです。
ゆえにその取り扱いが難しいのである。
言葉一つひとつの意味よりも、
言葉はそう謂うものであると、
先ずはそのことを知るべしと。
ようく見てるといい。
騙しているのはリベラル、
騙されているのも又リベラル、
それにつられて周りの人も同様に。
てかそれがもう厄介の厄介で、
ただただ困惑するばかり。
してもこれは私の定義によればである。
私の定義では、リベラルとは、
言葉を弄ぶヒト・言葉に弄ばれるヒト、
と謂うことですから。
ちなみに、
そこから逃れる方法があります、
それは脳に問うのではなく、
それを體に問うのです、
ときに腑に落ちる、
それに応える、
脳體腑応、
うん!