光に色は無いと思っている。
物に色は無いと思っている。
てか無い無い尽くしである。
おかしなことを言ってると、
てか思われるかも知れない。
でも本当にそう思っている。
見た目では光はその波長により色が変る。
でも同じ電磁波の類でも他はどうだろう。
ご存知の通り色として感知などできない。
なら光も電磁波ですからそこは同じはず。
なのに光だけは違うのです。
それは器官があるからです。
それは感知するよう創られている。
ゆえそれが壊れていれば見えない。
これは道理である。
それにもうひとつ、
見えるとしても直の光は見えない。
反射した光しか見えない。
それはなぜか、
それが目的だからである。
物を感得するには必要だからです。
俗に色・形と言われるが、
それは同じものでそも色なのです。
色の変化がときに形を見せるだけ。
そもすべては色なのです。
ゆえ同じ色なら形は現れない。
これも道理である。
しても光だけが特別なのです。
これは人の初めからそうです。
ときに人はそれを覚えた。
そして語りとして残した。
神が最初に発したことば、
それは「光あれ」である。
ときに色が現われてきて、
そこに物あることを知る。
なるほど、の、なるほど。
げに時の人らは凄すぎる。
物語りを創った人らです。
それに比べて現下の有様、
見るに堪えない程の無様。
それにしても、
それを創ったのは誰か、光を色と感じる器官を。
我々ではない。
では一体誰か。
答は既に出ている。
事の場に潜んでいる力である。
ゆえそれを「ことば」とした。
それも神の口から出るものと。
ふむふむ、む。
・・・・・
これも既に言ったこと。
しかも何度も何度も…。
ヒトは何も創らない何も創れない。
場に潜む力を利用して育てるだけ。
場に潜む力を使い形を変えるだけ。
本当のところは何も創っていない。
場に潜む力とは事の場にあり、
ゆえそれを「ことば」と言う。
ヒトはゆえ己の力も「ことば」と呼ぶ。
これは場の力をなぞったもの。
だから私はずっと言ってきた。
神の言葉は真理であり現実である、
人の言葉は仮想であり方便である、と。
ここに尽きる。
てか神の言葉をなぞっている限り、
人の言葉もそこにその力がやどる。
しかれども離れればそれは只の音。
就中問題なのは抽象的言辞である。
これは余程注意しない限り離れる。
注意も注意の要注意なのです。
それがいま暴走している。
それが現下の世界の有様。
その象徴的な言辞に権利や自由がある。
これらをどこにでも持ち出し、
「こと」を恣意的に解釈する。
そして内実をまったく顧みず、
看板だけをひとり歩きさせて、
水戸黄門の印籠?とする。
例えば自由。
フリーダムは知らず、
自由とは「自の由を立てること」。
例えばだが、
靖国神社を参拝するはそも自由である。
その人の思いとして自由である。
その立場役職に関わらず。
それが自由である。
しかれども、
靖国神社を参拝してはいけないは自由ではない。
これは自由ではなく自由の否定である。
でもこれを言論の自由と言う。
極めつけの便利使い。
それにまた、
最近は不倫がよくメディアを賑わせる。
これは個人的なことなのでほっとけばいいのに。
思えば以前はそこは寛容であった。
良くないのは当然のこととしても。
しても彼らのように言葉を使えば、
不倫する自由があってもとも言えるが。
それに権利のこと。
最近なぜか社会から性別をなくそうとしている。
これが解せない。
私は想うのです。
例えば哺乳類はその種で分けられるが、
くくりを変えれば雌雄でも分けられる。
生き方からすれば雌雄の違いは種の違いより大きい。
そこには決定的な違いがあるから。
なのに社会から性別の違いを消そうとしている。
見ていて鬼気迫るほどに。
それも知識人こそそのようで。
これが権利ということになれば様相が変る。
そこでは臆面もなく女性を持ち出してくる。
下の例もその一つ。
トイレフリーとは真逆の女性専用車両てか。
もう支離が滅裂である。
こんな例は数限りなし。
してもおかしな現象ではある。
言葉とは分けるもの、違いを知って分けるもの。
それを分別という。
その分別を無くそうとしているのです。
その癖ゴミ出しには分別分別と喧しい。
これが言葉に生きるリベラルです。
世界が壊れる筈である。
・・・・・
それにしても、
ヒトの感覚は視覚も聴覚も嗅覚もはたまたその他も、
體(脳を含めてすべての器官)が捉えるのです。
その體は場にひそむ力で創られる。
ヒトが自らの手で創るのではない。
してもそれは、
その様に見えるように聞こえるように、
そして感じられるように創られている。
その感覚が本当かは絶対に分からない。
でもその様に創られているのです。
それも場にひそむ力によって。
ゆえにそれを疑う必要はない。
それは紛れもない現実である。
人それぞれでその感覚が多少違っても。
問題は言葉です。
これはそれを得る力は与えられるが、
その後は人に委ねられる。
その後は人が創るのです。
それが言葉を育て歴史伝統文化を創る。
なにより生き方の総体としての文化を。
それが今なぜかドンドン壊されている。
この状況が理解できない。
この状況が?
ん?
物に色は無いと思っている。
てか無い無い尽くしである。
おかしなことを言ってると、
てか思われるかも知れない。
でも本当にそう思っている。
見た目では光はその波長により色が変る。
でも同じ電磁波の類でも他はどうだろう。
ご存知の通り色として感知などできない。
なら光も電磁波ですからそこは同じはず。
なのに光だけは違うのです。
それは器官があるからです。
それは感知するよう創られている。
ゆえそれが壊れていれば見えない。
これは道理である。
それにもうひとつ、
見えるとしても直の光は見えない。
反射した光しか見えない。
それはなぜか、
それが目的だからである。
物を感得するには必要だからです。
俗に色・形と言われるが、
それは同じものでそも色なのです。
色の変化がときに形を見せるだけ。
そもすべては色なのです。
ゆえ同じ色なら形は現れない。
これも道理である。
しても光だけが特別なのです。
これは人の初めからそうです。
ときに人はそれを覚えた。
そして語りとして残した。
神が最初に発したことば、
それは「光あれ」である。
ときに色が現われてきて、
そこに物あることを知る。
なるほど、の、なるほど。
げに時の人らは凄すぎる。
物語りを創った人らです。
それに比べて現下の有様、
見るに堪えない程の無様。
それにしても、
それを創ったのは誰か、光を色と感じる器官を。
我々ではない。
では一体誰か。
答は既に出ている。
事の場に潜んでいる力である。
ゆえそれを「ことば」とした。
それも神の口から出るものと。
ふむふむ、む。
・・・・・
これも既に言ったこと。
しかも何度も何度も…。
ヒトは何も創らない何も創れない。
場に潜む力を利用して育てるだけ。
場に潜む力を使い形を変えるだけ。
本当のところは何も創っていない。
場に潜む力とは事の場にあり、
ゆえそれを「ことば」と言う。
ヒトはゆえ己の力も「ことば」と呼ぶ。
これは場の力をなぞったもの。
だから私はずっと言ってきた。
神の言葉は真理であり現実である、
人の言葉は仮想であり方便である、と。
ここに尽きる。
てか神の言葉をなぞっている限り、
人の言葉もそこにその力がやどる。
しかれども離れればそれは只の音。
就中問題なのは抽象的言辞である。
これは余程注意しない限り離れる。
注意も注意の要注意なのです。
それがいま暴走している。
それが現下の世界の有様。
その象徴的な言辞に権利や自由がある。
これらをどこにでも持ち出し、
「こと」を恣意的に解釈する。
そして内実をまったく顧みず、
看板だけをひとり歩きさせて、
水戸黄門の印籠?とする。
例えば自由。
フリーダムは知らず、
自由とは「自の由を立てること」。
例えばだが、
靖国神社を参拝するはそも自由である。
その人の思いとして自由である。
その立場役職に関わらず。
それが自由である。
しかれども、
靖国神社を参拝してはいけないは自由ではない。
これは自由ではなく自由の否定である。
でもこれを言論の自由と言う。
極めつけの便利使い。
それにまた、
最近は不倫がよくメディアを賑わせる。
これは個人的なことなのでほっとけばいいのに。
思えば以前はそこは寛容であった。
良くないのは当然のこととしても。
しても彼らのように言葉を使えば、
不倫する自由があってもとも言えるが。
それに権利のこと。
最近なぜか社会から性別をなくそうとしている。
これが解せない。
私は想うのです。
例えば哺乳類はその種で分けられるが、
くくりを変えれば雌雄でも分けられる。
生き方からすれば雌雄の違いは種の違いより大きい。
そこには決定的な違いがあるから。
なのに社会から性別の違いを消そうとしている。
見ていて鬼気迫るほどに。
それも知識人こそそのようで。
これが権利ということになれば様相が変る。
そこでは臆面もなく女性を持ち出してくる。
下の例もその一つ。
トイレフリーとは真逆の女性専用車両てか。
もう支離が滅裂である。
こんな例は数限りなし。
してもおかしな現象ではある。
言葉とは分けるもの、違いを知って分けるもの。
それを分別という。
その分別を無くそうとしているのです。
その癖ゴミ出しには分別分別と喧しい。
これが言葉に生きるリベラルです。
世界が壊れる筈である。
・・・・・
それにしても、
ヒトの感覚は視覚も聴覚も嗅覚もはたまたその他も、
體(脳を含めてすべての器官)が捉えるのです。
その體は場にひそむ力で創られる。
ヒトが自らの手で創るのではない。
してもそれは、
その様に見えるように聞こえるように、
そして感じられるように創られている。
その感覚が本当かは絶対に分からない。
でもその様に創られているのです。
それも場にひそむ力によって。
ゆえにそれを疑う必要はない。
それは紛れもない現実である。
人それぞれでその感覚が多少違っても。
問題は言葉です。
これはそれを得る力は与えられるが、
その後は人に委ねられる。
その後は人が創るのです。
それが言葉を育て歴史伝統文化を創る。
なにより生き方の総体としての文化を。
それが今なぜかドンドン壊されている。
この状況が理解できない。
この状況が?
ん?