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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

かみのみち

2024-10-14 09:46:30 | 日記・エッセイ・コラム
ネットでの番組や投稿をよく見る。
近頃はテレビを見る暇がないほど。
少しオーバーですがそういう感じ。
てかそこで最近よく目にするのが、
神道への関心の高まりを感じる話。
これを言うのはそれが外国人ゆえ。
てかこんなこと以前からあったが、
それがちょっと増えているのです。
神社は観光資源の一つでもあるし、
何しろ日本の文化が凝縮している。
そういう意味では元々関心はあったろう。
でもそれだけでなくその先に入っている。
今の社会や宗教に疲れてしまったからか。
てかこれは私が敢えて選んでいるのかも。
そうかも知れないが、
そうではないだろう、
と思うのです…、
・・・・・
これは前にも言ったことだが、
人は初めに神と出会っている。
それは言葉を持ったがゆえに。
言葉はこの世界を際立たせる。
これは世界を劇的に変えます。
てか現実世界は変わりません。
当り前だが何も変わりません。
変わるのは見え方だけである。
それは全身全霊の波動がそうさせる。
ときに神に出会うのです。
私はそう感得してきたが、
今はそれを確信している、
ゆえ初めに神話がなると。
そのひとつに聖書がある。
特にその冒頭の創世記が。
しても言葉を持ったのはいつ頃か。
このこと抜きで人は人たり得ない。
それはもう遠い遠い~往古のこと。
ときに言葉は如何にあったろうか。
しても言葉が重なれば語りとなる。
そこでは神の「こと」が語られる。
次いで現れるのが宗教というもの。
そこで語られるのは神の「こと」。
次いで現れるのが哲学というもの。
そこで語られるのは神の「こと」。
次いで現れるのが科学というもの。
そこで語られるのは神の「こと」。
つまりすべて神の「こと」を語っているのです。
その向き合い方や様相は異なるが。
しても問題は言葉の性格であると。
これは一旦持ってしまうと決して離れない。
離れようがなく心魂に纏わりつくのである。
しても呆けてしまえば少しは離れられるが。
私はこのことをずっと言っている。
これを知ろうと。
てか知っても離れられないが。
でも知れば少しくその縛りが緩やかになる。
と思うのですが。
・・・・・
この世界を一言で「せかい」と謂う。
それを分けると「もの」と「こと」になる。
物だけで事がなければ時はなくなる。
ときに永遠と一瞬は完全に同期する。
物があっても無きが如しの無の世界。
事があって初めて一瞬があらわれる。
そして一瞬の積み重ねが永遠となる。
これは私のいつもの念仏、
ここに「ことば」がある。
これは「言葉」と記すが、
これも既に言ったが、「事場」とも記すと、
まことに勝手ながら。
ここで少しく神道を想う。
神道は「教」でも「学」でもないと。
神道は「道」である。
道とは一瞬(こと)の積み重ねが残すその軌跡、
神の「こと」の世界に残されるもの、
あるがまま、なるがまま、ただそこにある。
神道とはそれに倣おうとするもの。
それは宗教哲学科学の前にある。
それは神話を語る前にもある。
それが神話を生むのである。
それは神話とともにある。
そういうものなのです。
それを思う。
これは神と出会ったときの想い、
つまり言葉を持ったときの想い、
ときの想いを思うこと、
それが「かみのみち」であると。
私が思うところのですが。
それゆえ神道は教義を持たない。
言葉以前の想いに思いを馳せる。
言葉の意味ではなく事場を思う。
ゆえ言葉に縛られるのを嫌うと。
許より言葉と伴に生きるのだが、
それはときに神への捧げものに、
感謝と願いを込めた祈りとして。
そういうものです。
・・・・・
人が人となった頃のことを、
勝手ながらに想像してみた。
これは人類という大きな括りでの話。
でも人はみんなそれを経験している。
それは誕生直後の成長過程において。
人は言葉を持って生まれてはこない。
言葉は生まれてから手に入れるもの。
それは生み育てる母から得るのです。
事情によっては母に替わるものから。
それを母語と言うはしかり。
まことに言い得て妙である。
しても人はその間の事情を覚えない。
それは人類が手に入れた状況に同じ。
これが究極の疑問であるが。
しても「かみのみち」に疑問はない。
それは初めからそして今も目の前に。
それを想うことからすべては始まる。
神話も宗教哲学科学なども。
それを覚えよう。

文化文明

2024-10-07 08:48:52 | 日記・エッセイ・コラム
以前にも言ったが、
文化文明とはよくぞ言ったものである。
文(言葉)が化けて生活を豊かにする。
文(言葉)がその未来を明るく照らす。
それを私は分化分明と字を替えてみた。
音韻としてはまんまに同じ、
でも字義がまったく異なる。
でも分とは言い得て妙だと。
それは正に言葉の技だから。
ゆえなんちゃって自画自賛、
エヘン!
・・・・・
ここに漢字の妙がある。
そも言葉とは音である。
文字とはその音を記号として著わしたもの。
文字が音韻と異なるのは長く留まるところ。
これが言葉を残すことに大いなる力を発揮。
話し言葉と書き言葉が合わさって言葉は盤石に。
近年そこに電じ言葉が加わった。
これは付録みたいなものですが、
でも計算(IT)ができることで、
もう一つの世界を開けたのです。
それはさておき、
漢字のこと。
妙と言ったがこれは所謂文字の妙だけではない。
音を記号にした文字ではないのです。
絵を言葉にした文字なのである。
音には必ずしも捉われない。
ここに妙がある。
ここに大いに妙がある。
大和言葉は基本的に音韻である。
その一音一音に意味がある。
基本は母音なのだが、その数は多くはなく、
それは大宗50の音韻に収まる。
一音一音に意味があり、
その数も限られているから、
かく音は広く深い含みを抱える、
でも逆に意趣の広がりは表しにくい。
音を示すだけならそれは音と変わらない。
ときに文字は音を超えることはない。
そこに漢字が登場する。
これは絵だから音が同じでも意味が違うことも。
これは使い方によればもの凄く有用。
例えば冒頭にその例が、
文化文明を分化分明としてもいいのではと。
これは手前勝手な例ではあるが、
この例に限らずほかに幾らでも。
これは絵を言葉とするからだが、
これが日本語の世界を広くする。
それに実に相性抜群なのだ、
一音一意の和語と一字一意の漢字との合体、
まさに鬼に金棒である。
漢字は絵であるから少し形を変えれば、
すぐに数を増やせるし、
それを熟語にすればなおのこと。
でもそこにはそれぞれの特徴が、
和語は同音意趣だが漢字は同音異義となる。
てか世界で絵を文字(言葉)にしてるのは、
知る限りでは今や漢字だけ。
ちなみに、
後発諸国が先進国になかなか追いつけないのは、
言語(言葉)が主たる原因なのでは。
自国語だけでは圧倒的に語彙が不足。
ゆえ英語などを学ばねばなりません。
しても学術的なことはやはり難しい。
必要に応じての会話ならともかくも。
思えば日本語はそこがすごいのです。
自国語でおよそすべてを表現できる。
最先端の学問でも凡そできるのです。
現に書店ではそれらが置かれている。
しかもそれを当然の如く思っている。
それを可能にしたのが語彙の豊富さ。
それに貢献してるのが漢字なのです。
それが幕末明治期に発揮されました。
言わずもがなこんなことご存知かと。
・・・・・
なお漢字の妙のこと、
先のことと重なるが。
それは日本人が言葉を用いるときのこと、
普通は音(記号)だけなのだが、
日本人は音と記号と絵という三つの要素をフルに使う。
これは話すときも読むときもである。
話すときにも絵を想い、読むときにも音を想う。
ついでに記号も、ひらがなとカタカナが。
これは最近のことで、
それは欧米外来語の取り入れ方、
カタカナ語の増大に表れている。
そんなこんなで、
脳内でこれらがウロチョロする。
それが色彩りと陰影を創り出す。
まことに妙なるかな。
ここで上の繰り返しにもなるが、
それをもう一度。
例えば「ぶんか」、
これは漢字で文化とも分化とも記す。
でも読みが同じでも意味や意趣が違ってくる。
またその逆がある。
例えば「分別」、
これはその読み方に違いがある、
ふんべつともぶんべつとも読む。
その読み方で意味や意趣がかわってくる。
先にも言ったが、
和語は同音意趣がその内奥に、
漢字は同音異義が当たり前に、
てかときには同字異議までも。
まあいろいろである。
それに何より漢字には漢字の世界がある。
一つひとつの文字が文体をなし、
一つひとつの文字が思想となる。
その絵柄や組立てが文体であり、
その絵柄や組立てに思想がある。
それが絵というもの、
絵はそこで物を語る、
まことに面白きかな。
・・・・・
起原は知らず、
漢字はもう日本語の文字である、
カレーやラーメンが日本食であるように。
それに起源は場所にあらず、
それは人にあると。
そこに関わった人々が日本に来れば、
それは起源が移動したことにもなる、
と思うのだが。
てか別に起源を主張したいわけではない。
しても日本にも文字があったか、
それがほぼ漢字に置き換わった、
ひらがなとカタカナは横に置き。
このことを私は思うのです。
それほどのものであったと、漢字は。
ときにそれを選んだのです。
それにしても、
漢字の起源だというシナは、
それはそうだと思うし異論はないが、
当の漢字への思い入れはまったく感じず、
それを感じるのは漢唐にせいぜい明まで、
それ以降はほぼハリボテか。
してもそれはなぜか遣唐使派遣の終了と、
ほぼ軌を一にしてるような、
思い過ごしか、
なんちゃって。

ふんべつ

2024-09-30 09:06:08 | 日記・エッセイ・コラム
人間はこの世界を分別している。
ちなみにこれは「ふんべつ」と読む。
ゴミの収集ではありません。
この分別は言葉に依って育てられる。
でもこの言葉最近ほとんど聞かない。
「ぶんべつ」はよく聞くが。
ゴミが増えてるからかもな。
特に東京の永田町あたりで。
これが昨今の状況なのです。
言葉に育てられたこの分別、
それが起伏と陰影をつくり、
そして文化文明をもたらす。
なのにその分別を消し去り、
茫漠たる砂漠を広げるのみ。
字義は體を現わすと謂うか、
よくぞ言ったりの文化文明、
その字をかえたら分化分明、
それがもう息も絶え絶えに。
・・・・・
起伏と陰影は自然のあかし。
これをなべてなくしてしまえば、
そこは必ず砂漠と化してしまう。
現にある砂漠はそういう所です。
サハラ砂漠にゴビやタクラマカン砂漠。
してもそこは緑あふれる時代もあったようだ。
雨が少なければ草原にでなければ森に。
それが今では御覧のとおり。
気候変動もあるし人が関われば尚のこと。
緑は一旦無くなれば、
その回復は相当難しいかと。
これはあくまで自然のこと。
これはこれで問題なのだが、
私が心配なのは心魂のこと。
虫のようにまんまに生きるなら、
てか體を主体にして生きるなら、
自然はそれを壊さない。
それを壊すとすれば人間である。
これが私の一番の危惧なのです。
てか今まさにそれが進行中。
それは言葉を持ったからで、
それが心魂を表に出さしめ、
そして分別を育てるのだが、
その分別が今消されている。
それは起伏と陰影の消失で、
それはそこを砂漠化させる。
今の政策の多くがそちらに向いている。
移民もそうである。
移民が必要だとは嘘である。
要するにすべてはやり方だ。
安易に他人に頼るのは危険。
人間に言う言葉ではないが、
人もやはり地産地消である、
てか棲み分けに依る共生と謂うべきか。
まあそういうことです。
文化が違えば移民は異民となる。
その土地の文化を尊重するならいいが、
己の生き方を無理強いするなら、
ときに完全なる異民となる。
では移民とは何なんだ。
それがその土地が好きでそこに馴染んで生きたい、
と言うことなら分かる。
それなら異民にはならない。
世界はひとつとはよく言われる。
これがまた一寸気になるのです。
これは存在すべてを想定して言ってるのではない。
人間だけを想定してのことです。
今やサピエンスだけになった人間世界、
それを以って一つだと。
枠をはめその枠内をひとつだとはいつでも言える。
その枠をサピエンスの別れである人種とすればそうではない。
その枠を文化文明としてもそれはひとつではない。
これは人間の分別なのだがこれがときに余りに恣意的になる。
今それを言ってるのが所謂グローバリズムである。
てか彼らには目的があるのです。
あくまで目的(支配?)のため。
だから私は毛嫌いしている。
そうではなく言ってる人もいるのだが。
そこでよく使われる言葉に平等がある。
存在という究極の一点ではそうだろう。
動物や植物などの生命やそうでないものも含めて。
でもその一点を除けば現実には平等はありません。
まったき同じはないのです。
皆それぞれに違うのである、
そこには起伏や陰影がある。
それが現実で各々の起点はそこにある。
それを無理やりならしてしまえば、
エントロピー増大の極致となって、
ときにすべてが止ることに。
勿論グローバリストはそんなこと百も承知。
彼らは彼らの目的のため言ってるだけ、
噓も噓の大嘘です。
平等と言えばもう一つ現下の大問題が。
それは男性性と女性性のことです。
この違いは大きいすこぶる大きい。
にも関わらず同じだと言っている。
言っておくが、
同じ面を見れば同じ、違う面を見れば違う、
こんなの当り前である、
言うのもバカバカしい。
これは平等のはき違えである。
男には男の體と男の心がある。
女には女の體と女の心がある。
これは厳然とした事実である。
このことLGBT~が証明してる。
體だけでなく心があることを。
男の體に女の心があることで、
女の體に男の心があることで。
誕生の過程では體が先だと思うが、
影響はむしろ心魂の方が大きいか。
その発露がそれぞれの文化となり「らしさ」となる。
ゆえLGBT~にはLGBT~の生き方がある。
彼ら彼女はその現実を生きるのである。
そこにあるそれぞれの生き方が文化となりらしさになる。
それを分別によって区切れば、
男の文化女の文化男らしさ女らしさ私らしさになる。
それが地域の文化になり国の文化となるのです。
それは家風や社風にもそして国柄ともなる。
しても文化やらしさはときとともに移り変わる。
それは鎖となって人を縛るものではないと。
それは人を育てるために柔らかく包むもの。
これらすべて言葉の技であり、
それを日本では分別とか言う。
人間は違いを知る生き物です。
それが言葉の技の本質である。
人間はその言葉と生きて行く。
ここはしっかり押えておこう。
てか、
なんか取り留めのない話だが、
ついでにもう一つ思うことを。
言葉はそも中立である、
良きことを示しても悪しきことを示しても、
それはそれを示すためのもの、
ともに必要だからあるのです。
それはその言葉自体の良し悪しではないと。
それはその「言葉」の役割なのである。
それに「言葉」は人を差別しない。
人を差別するのは人であり人の心である。
どんな言葉でも悪意を持って言えばそれは差別語となる。
どんな言葉でも悪意がなければそれはただの言葉である。
こんなの当り前すぎて、
言うのもバカバカしい。
てか、
・・・・・
だから私は言うのです、
この世界は嘘と狂気で満ちていると。
この世界とは今の世界のことである。
神の言葉は知らず、
人の言葉は基より神の言葉ではない。
人の言葉は人が創りしもの、
それは世界を分別するもの、
それは物事を分別するもの、
ゆえそこに文化文明がある。
思えば直近の大嘘、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
ちょっと前の大嘘には例の男女共同参画。
そも男女の共同なければ命は生まれない、
人類はその初めから男女共同参画なのだ。
敢えてこれを持ち出す理由は如何?
こんな世界はもうヤダヤダ、
駄々っ子ばかりでヤダヤダ、

千年王国

2024-09-23 09:44:10 | 日記・エッセイ・コラム
これはイエスの言う御国である。
イエスの再臨後に訪れるという。
そこは争いのない平和な千年王国と言われる。
しても人には喜怒哀楽と謂うものがあり、
集まって生きていれば摩擦はあるもので、
てかむしろ適度な摩擦は必要であります。
それを人は愛とか絆とか言うが、
これは実は無くてはならぬもの。
でも摩擦は過ぎれば軋轢となる。
ゆえ争いがまったくなくなることはない。
にしてもそれが大ごとにはならない世界、
そういう世の中になるのだろう、
それが千年王国だと、
・・・・・
でも条件があろう。
現下の言葉の有様では無理です。
心魂の発露である言葉であるに、
その言葉が心魂を縛ってしまう。
しかもそこに嘘と狂気が紛れ込むのです。
もはやどうにもなりません。
そこでです、
他の生き物、言葉を持たない他の生き物、
彼らがやってる意思疎通に学びましょう。
それは言葉でなく全身全霊でやっている。
つまり「體」でやっている。
そこには嘘が入り込まない。
てか多分狂気もないだろう。
精神世界のジャンルではよく言われることがある。
そのような意思疎通が必要だと、
嘘と狂気の入り込む余地のない。
例えばテレパシーとかのような。
千年王国にはこれが必須となる。
それも当然に言葉を持ったまま。
条件とはこのこと。
だからですだからのイエスの再臨である。
これを目の当たりにすれば世界は変わる。
それも瞬時に変わると。
でも本当に起こるのか、
聖書(新約)はそう言うのだが。
してもこれは大戦争の後でのことである。
世界が一旦壊れた後でのことである。
今まさに世界は壊れている最中、
ここでもし戦争が起これば、
ついに再臨が起こると、
それは良いとして、
その前が問題、
その前が。
でもSNSではこうも言われている。
日本が立てばそれは止められる。
大難が小難で収められると。
してもそれは日本が立てばです。
現下のこの惨状で日本は立てるのか。
自民党の総裁選びのあの状況で。
もう溜息しかない。
救いは陛下の存在、
それを信じるしか、
・・・・・
条件はさておいて、
ここで現状を思う。
人間は言葉の生物、言葉と生きて行く。
言葉は人類に文化・文明をもたらした。
文が生活を化える・文が明かりとなる。
これを手にしたらもう戻れない、
その前の世界には。
それは良いのだが、それが今この惨状。
その文の大元の言葉が人を壊している。
人を壊す道具となっている。
てかそのことに気づかない。
言葉はそこに違いを感じたとき、
線を引いてそれを二つに分ける、
そしてそれぞれに印をつけます、
それとこれ又はそれとそれ以外、
そして違いを知る。
これを分別と謂う。
この分別が今は息も絶え絶えに。
例えばです、
雌雄という大きな違い、
これを蔑ろにしている。
動物は種類によって分けられる。
それは雌雄によっても。
種類の違いは見た目にあきらか。
雌雄の違いは見た目ではそれ程でもない。
でも考えてみて下さい、
その違いは雌雄の方が圧倒的に大きいと。
にもかかわらずその違いを無くそうとは。
人間にだけではあるが。
それが今起きています。
これは分別を遠ざける。
せっかくの分別なのに。
このこと雌雄の違いだけではありません。
他にも多義に渡っていろいろと。
ときに差別と謂う言葉が重宝されている。
この言葉が次々と分別を押し込んでいく。
その圧力の凄まじさは実に恐ろしき限り。
嘘と狂気はここに凝縮。
これでは千年王国は夢のまた夢、
どうするのか神国日本、
陛下を頼るのはいいが、
まずは国民が立たねば、
ハテさて、
・・・・・
にしても難しいのです、
言葉を持ったまま嘘と狂気を免れるのは。
言葉は分別をもたらすがそれは同時に迷いももたらす。
ならどうする、
簡単です戻ればいいだけのこと、
體に戻ればいいのです。
脳はそも體の一部です。
それは支配者ではない、すべてを繋ぐものです。
ための核心であります。
日本にはその核心があるのです。
あとは民草が立つだけ、
千年王国はそこにある、
うん!

かみの「こと」

2024-09-16 10:06:46 | 日記・エッセイ・コラム
聖書の初めの初めの話し、
神は初めに天と地を創られた、と。
地は形なく淵(水)が覆って、いたと。
この天地とは謂わば「ば」である。
神は光あれ、と言われた、すると光があった。
これが世界の始まりです。
世界は光から始まります。
それにしても水はあった、
そも知らなかったのだが、
光の前にあったのである。
世界を命の始まりとするなら、
それは光合成から始まる。
ここにその水と光がある。
もうひとつ必要なものが。
それは二酸化炭素である。
これも初めからあったか。
そこはよく分からないが。
まことに妙なることです。
・・・・・
「ば」とは漢字では「場」と記す、
これは天地であり、次に光が創られた。
それは「ことば」で創られた。
これは漢字で言葉と記すが事端でもいいかと。
意味合いとしてはですが。
でもやはり「言」がその本意かと。
人は言葉を持ったからこそ「こと」を知った。
それは口から出る「ことば」に依ってであり、
だからの「言」であると。
言葉の葉は「は」であり「ば」ではない。
でも發音上濁音となり「ば」と發音する。
それは端と記しても同様。
しても「ことば」は「事場」とも記せる。
この場合の「ば」は發音上ではなくまんまである。
「は」ではなくそも「ば」である。
微妙に違うのですが、
「こと」は場にあり、ゆえの「事場」である。
想えば「は」は個別の事象のこと。
想えば「ば」はそれらを覆うもの。
ここにも現れている、
一にして全・全にして一、これが世界である。
てか「ことば」はその一言で、
これらすべてを表現している。
そこで思うのです、
言葉とはなんとも、
いとおかしきもの、
かげろうのごとく。
・・・・・
かくの如く、
日本語と聖書はその根に於いて繋がっている。
してもこのこと他の言語ではこうはいかないだろう。
日本語だからこそ読み解けるもの。
これは既に言ってきたが、
一音一意の和詞と一字一意の漢字、
この組合せが絶妙、
この妙を思わざるを得ない。
これも既に言ったことだが、
最近のいろいろな事象から、
特に日本語がその属する系統が不明なること、
またペトログリフの研究からも、
日本語は最も始まりに近い言語かと、
つくづくと思うのです。
ちなみに唐突であるが、
冒頭で言った光合成のこと。
水と光は上で触れたが、
二酸化炭素のこと、
これは聖書には出て来ない。
当り前でしょう、ときにその言葉はなかったから。
でも存在としては当然あったろうと。
ともかくそれで納得しておこう。
でも今この二酸化炭素が目の敵にされている。
これが分からない。
まったくもって分からない。
命の糧であるのに。
だからしつこくも何度も言って来た、
余りの大嘘にちょっと度が過ぎたが、
それは、
コロワクポリコレ地球温暖化脱炭素電気自動車、
というもので、
これはときの私の言い回しで念仏のようなもの。
ここにある脱炭素がそれである。
実に不可解。
てかそれはそれとして、
次に、
・・・・・
聖書には炭素は出て来ない。
先に言ったがその言葉はときになかった、
神の言葉でどういうのかは知らない。
それは現実として現れるだけのもの。
人の言葉はそれを置き換えてるだけ。
その置き換えがまだ十分でなかった。
それだけのこと。
ここにあきらか、
聖書はその根は神の言葉であっても、
実は人の言葉でできている、
このことに異論はなかろう。
神話とはときの人の言葉で、
神の「こと」を解き明かそうとしたもの、
それもときを重ねて磨きにみがいて、
まだ嘘という念がないときから。
これが歴史の始まりとなる。
かみの「こと」は現実として現れるもの、
ヒトの「こと」はそれに音を当てたもの、
これは言葉の上にしかなく、
ただのレッテルである。
この当り前がどうにも分からないようだ。
しても現今はそれが抜き差しならぬ狂気となっている。
それは欧米の否一神教の内奥に潜む。
それはレッテルを現実と混同させるもの。
それを一にリベラルと言う。
リベラルとは神を捨てた一神教である。
神を捨てた一神教とは言葉として矛盾、
してもそう言うより他ない。
それは混同するだけでなく、
それをまんまに現実とする、
謂わば自らを神とするもの、
胡散臭いにも程がある。
これが最大の癌である。
それを知ろう、