ネットでの番組や投稿をよく見る。
近頃はテレビを見る暇がないほど。
少しオーバーですがそういう感じ。
てかそこで最近よく目にするのが、
神道への関心の高まりを感じる話。
これを言うのはそれが外国人ゆえ。
てかこんなこと以前からあったが、
それがちょっと増えているのです。
神社は観光資源の一つでもあるし、
何しろ日本の文化が凝縮している。
そういう意味では元々関心はあったろう。
でもそれだけでなくその先に入っている。
今の社会や宗教に疲れてしまったからか。
てかこれは私が敢えて選んでいるのかも。
そうかも知れないが、
そうではないだろう、
と思うのです…、
・・・・・
これは前にも言ったことだが、
人は初めに神と出会っている。
それは言葉を持ったがゆえに。
言葉はこの世界を際立たせる。
これは世界を劇的に変えます。
てか現実世界は変わりません。
当り前だが何も変わりません。
変わるのは見え方だけである。
それは全身全霊の波動がそうさせる。
ときに神に出会うのです。
私はそう感得してきたが、
今はそれを確信している、
ゆえ初めに神話がなると。
そのひとつに聖書がある。
特にその冒頭の創世記が。
しても言葉を持ったのはいつ頃か。
このこと抜きで人は人たり得ない。
それはもう遠い遠い~往古のこと。
ときに言葉は如何にあったろうか。
しても言葉が重なれば語りとなる。
そこでは神の「こと」が語られる。
次いで現れるのが宗教というもの。
そこで語られるのは神の「こと」。
次いで現れるのが哲学というもの。
そこで語られるのは神の「こと」。
次いで現れるのが科学というもの。
そこで語られるのは神の「こと」。
つまりすべて神の「こと」を語っているのです。
その向き合い方や様相は異なるが。
しても問題は言葉の性格であると。
これは一旦持ってしまうと決して離れない。
離れようがなく心魂に纏わりつくのである。
しても呆けてしまえば少しは離れられるが。
私はこのことをずっと言っている。
これを知ろうと。
てか知っても離れられないが。
でも知れば少しくその縛りが緩やかになる。
と思うのですが。
・・・・・
この世界を一言で「せかい」と謂う。
それを分けると「もの」と「こと」になる。
物だけで事がなければ時はなくなる。
ときに永遠と一瞬は完全に同期する。
物があっても無きが如しの無の世界。
事があって初めて一瞬があらわれる。
そして一瞬の積み重ねが永遠となる。
これは私のいつもの念仏、
ここに「ことば」がある。
これは「言葉」と記すが、
これも既に言ったが、「事場」とも記すと、
まことに勝手ながら。
ここで少しく神道を想う。
神道は「教」でも「学」でもないと。
神道は「道」である。
道とは一瞬(こと)の積み重ねが残すその軌跡、
神の「こと」の世界に残されるもの、
あるがまま、なるがまま、ただそこにある。
神道とはそれに倣おうとするもの。
それは宗教哲学科学の前にある。
それは神話を語る前にもある。
それが神話を生むのである。
それは神話とともにある。
そういうものなのです。
それを思う。
これは神と出会ったときの想い、
つまり言葉を持ったときの想い、
ときの想いを思うこと、
それが「かみのみち」であると。
私が思うところのですが。
それゆえ神道は教義を持たない。
言葉以前の想いに思いを馳せる。
言葉の意味ではなく事場を思う。
ゆえ言葉に縛られるのを嫌うと。
許より言葉と伴に生きるのだが、
それはときに神への捧げものに、
感謝と願いを込めた祈りとして。
そういうものです。
・・・・・
人が人となった頃のことを、
勝手ながらに想像してみた。
これは人類という大きな括りでの話。
でも人はみんなそれを経験している。
それは誕生直後の成長過程において。
人は言葉を持って生まれてはこない。
言葉は生まれてから手に入れるもの。
それは生み育てる母から得るのです。
事情によっては母に替わるものから。
それを母語と言うはしかり。
まことに言い得て妙である。
しても人はその間の事情を覚えない。
それは人類が手に入れた状況に同じ。
これが究極の疑問であるが。
しても「かみのみち」に疑問はない。
それは初めからそして今も目の前に。
それを想うことからすべては始まる。
神話も宗教哲学科学なども。
それを覚えよう。
近頃はテレビを見る暇がないほど。
少しオーバーですがそういう感じ。
てかそこで最近よく目にするのが、
神道への関心の高まりを感じる話。
これを言うのはそれが外国人ゆえ。
てかこんなこと以前からあったが、
それがちょっと増えているのです。
神社は観光資源の一つでもあるし、
何しろ日本の文化が凝縮している。
そういう意味では元々関心はあったろう。
でもそれだけでなくその先に入っている。
今の社会や宗教に疲れてしまったからか。
てかこれは私が敢えて選んでいるのかも。
そうかも知れないが、
そうではないだろう、
と思うのです…、
・・・・・
これは前にも言ったことだが、
人は初めに神と出会っている。
それは言葉を持ったがゆえに。
言葉はこの世界を際立たせる。
これは世界を劇的に変えます。
てか現実世界は変わりません。
当り前だが何も変わりません。
変わるのは見え方だけである。
それは全身全霊の波動がそうさせる。
ときに神に出会うのです。
私はそう感得してきたが、
今はそれを確信している、
ゆえ初めに神話がなると。
そのひとつに聖書がある。
特にその冒頭の創世記が。
しても言葉を持ったのはいつ頃か。
このこと抜きで人は人たり得ない。
それはもう遠い遠い~往古のこと。
ときに言葉は如何にあったろうか。
しても言葉が重なれば語りとなる。
そこでは神の「こと」が語られる。
次いで現れるのが宗教というもの。
そこで語られるのは神の「こと」。
次いで現れるのが哲学というもの。
そこで語られるのは神の「こと」。
次いで現れるのが科学というもの。
そこで語られるのは神の「こと」。
つまりすべて神の「こと」を語っているのです。
その向き合い方や様相は異なるが。
しても問題は言葉の性格であると。
これは一旦持ってしまうと決して離れない。
離れようがなく心魂に纏わりつくのである。
しても呆けてしまえば少しは離れられるが。
私はこのことをずっと言っている。
これを知ろうと。
てか知っても離れられないが。
でも知れば少しくその縛りが緩やかになる。
と思うのですが。
・・・・・
この世界を一言で「せかい」と謂う。
それを分けると「もの」と「こと」になる。
物だけで事がなければ時はなくなる。
ときに永遠と一瞬は完全に同期する。
物があっても無きが如しの無の世界。
事があって初めて一瞬があらわれる。
そして一瞬の積み重ねが永遠となる。
これは私のいつもの念仏、
ここに「ことば」がある。
これは「言葉」と記すが、
これも既に言ったが、「事場」とも記すと、
まことに勝手ながら。
ここで少しく神道を想う。
神道は「教」でも「学」でもないと。
神道は「道」である。
道とは一瞬(こと)の積み重ねが残すその軌跡、
神の「こと」の世界に残されるもの、
あるがまま、なるがまま、ただそこにある。
神道とはそれに倣おうとするもの。
それは宗教哲学科学の前にある。
それは神話を語る前にもある。
それが神話を生むのである。
それは神話とともにある。
そういうものなのです。
それを思う。
これは神と出会ったときの想い、
つまり言葉を持ったときの想い、
ときの想いを思うこと、
それが「かみのみち」であると。
私が思うところのですが。
それゆえ神道は教義を持たない。
言葉以前の想いに思いを馳せる。
言葉の意味ではなく事場を思う。
ゆえ言葉に縛られるのを嫌うと。
許より言葉と伴に生きるのだが、
それはときに神への捧げものに、
感謝と願いを込めた祈りとして。
そういうものです。
・・・・・
人が人となった頃のことを、
勝手ながらに想像してみた。
これは人類という大きな括りでの話。
でも人はみんなそれを経験している。
それは誕生直後の成長過程において。
人は言葉を持って生まれてはこない。
言葉は生まれてから手に入れるもの。
それは生み育てる母から得るのです。
事情によっては母に替わるものから。
それを母語と言うはしかり。
まことに言い得て妙である。
しても人はその間の事情を覚えない。
それは人類が手に入れた状況に同じ。
これが究極の疑問であるが。
しても「かみのみち」に疑問はない。
それは初めからそして今も目の前に。
それを想うことからすべては始まる。
神話も宗教哲学科学なども。
それを覚えよう。