言葉とは現実にあてた「しるし」である。
現実は「ものごと」としてある。
それは一体でありすべてが繋がっている。
それを「もの」と「こと」に分ける。
ものとものも、こととことも、です。
そして「ことば」が出来る、人の言葉が。
初めにあった「ものごと」はひとつです、
すべてが繋がっているのだから。
日本語は後にくるのが本体です。
ことのもの、ではなく、もののこと、である。
現実とは「もののこと」なのだ。
その「こと」を在らしめる場を「ことのば」という。
ここで思い出す、
ヨハネの言葉を。
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった、
まさにまさに、
まさにである。
・・・・・
いつもの言葉遊びである。
しても何を言いたいのか。
それは標題に示したこと、
人の言葉は切り取りだと謂うこと。
神の言葉の切り取りだと謂うこと。
言わずもがな、
理屈を捏ねて言うのも恥ずかしい限り。
先人らはそれを分かっていた。
イエスは許より聖書を残した人々らは。
聖書はその冒頭でそれをしめしている。
私の言う「ことのば」を「天と地」と言っているが。
イエスは悪魔に答えて言った、
人はパンのみにて生きるにあらず、
神の口から出る一つひとつの言葉による、
と。
そしてヨハネである。
これはズバリである。
そこにあるのは「ことのば」への畏敬、
それはそこにある存在への畏敬であり、
それをなべて信仰と言う。
それは體が捉えた心魂の震えから発するもの。
ときに言葉は不要、てかむしろ邪魔に。
しても言葉の生き物・人間は言葉で分かろうとする。
それが物語となり神話となる。
そして終には宗教となる。
宗教が基としての信仰を忘れなければいいが、
それを忘れると暴走する。
言葉(神)への信仰を言葉(人)が搔き乱す。
そんな例はこれまでの歴史に枚挙の暇もなし。
してもこれこそ現今の惨状の本体です。
しかしてこれもまたイエスの言葉です。
天なる父よ許して下さい、
彼らは自分が何をしてるのか分からないのです、
と。
・・・・・
人の言葉は脳内の幻想(念)である。
いつもの言い回しである。
してもこの念、概念と言っても同じ、
これを「今の心」と記している。
これは漢字の妙であり実に絶の妙である。
まさにまさにである。
體が捉えたあらゆる情報を元に、
それを集約して脳が再構成する。
それを今の心として定着させる。
それは流れの瞬間である。
それを流れから切り取るのです。
そしてそれを定着させる。
これが念であり、
これが言葉になる。
これが人間の凄技です。
冒頭に「ものごと」と言った。
「こともの」ではないのです。
本体は実に「こと」なのです。
物だけがあって事が無ければ、
永遠に劣化しない絵画の如し、
有っても無きが如し無の世界、
そんな世界はありえない。
そこに言葉はありません。
随分前に言ったことだが、
この世界は運動振動波動でなっていると。
これが「こと」の大本である。
しかして、
それは流れであり一方的なもの、
バックツウザフューチャは無いのです。
てか物は実際に切り取りが出来る。
ゆえ印を付けることが出来る。
でもそれは事を免れない。
やはり今の心である。
すべて念なのだ。
・・・・・
切り取りと言えばこれは報道の得意技です。
なにを報道してなにを報道しないかも含め。
ここに今のオールドメディアの実体がある。
学校教育では言葉尻ではなくその本意主旨を汲み取れ、
と教わったような気がするが。
言葉の本質が切り取りだとしても、
故にこそそれを文として在らしめ、
補わんと知恵をしぼっているのに、
彼らがそれをしないのは一体なぜ、
てかそれはそういうことですよね、
報道機関ではなくプロパガンダ機関になっているってこと。
ですがネットニュースは大方噂話の類、
ですからそこは明らかに別物、
それに報道のプロでもないし。
てかそこに規制をかけるって、
それは無理ですし絶対してはいけない。
自由を縛れば心魂が行き場を失い暴走。
ためもあり言論の自由があるのに。
でも個人攻撃には注意が必要です。
それにしても、
言葉を言葉で以って規制する、
これは堂々巡りの永久ループ。
規制するならそれは心魂です。
言葉を発する大本の心魂です。
てかこの場合は規制と言う言葉は不遜、
規制ではなく倫理道徳と言うべき。
それは情操教育や文化に依存する。
そう心得よう。
とにもかくにも言葉の質を知ろう。
切り取りであると覚悟しよう。
虚構であると覚悟しよう。
ゆえ構えを立てよう。
それしかないと。
うん!
現実は「ものごと」としてある。
それは一体でありすべてが繋がっている。
それを「もの」と「こと」に分ける。
ものとものも、こととことも、です。
そして「ことば」が出来る、人の言葉が。
初めにあった「ものごと」はひとつです、
すべてが繋がっているのだから。
日本語は後にくるのが本体です。
ことのもの、ではなく、もののこと、である。
現実とは「もののこと」なのだ。
その「こと」を在らしめる場を「ことのば」という。
ここで思い出す、
ヨハネの言葉を。
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった、
まさにまさに、
まさにである。
・・・・・
いつもの言葉遊びである。
しても何を言いたいのか。
それは標題に示したこと、
人の言葉は切り取りだと謂うこと。
神の言葉の切り取りだと謂うこと。
言わずもがな、
理屈を捏ねて言うのも恥ずかしい限り。
先人らはそれを分かっていた。
イエスは許より聖書を残した人々らは。
聖書はその冒頭でそれをしめしている。
私の言う「ことのば」を「天と地」と言っているが。
イエスは悪魔に答えて言った、
人はパンのみにて生きるにあらず、
神の口から出る一つひとつの言葉による、
と。
そしてヨハネである。
これはズバリである。
そこにあるのは「ことのば」への畏敬、
それはそこにある存在への畏敬であり、
それをなべて信仰と言う。
それは體が捉えた心魂の震えから発するもの。
ときに言葉は不要、てかむしろ邪魔に。
しても言葉の生き物・人間は言葉で分かろうとする。
それが物語となり神話となる。
そして終には宗教となる。
宗教が基としての信仰を忘れなければいいが、
それを忘れると暴走する。
言葉(神)への信仰を言葉(人)が搔き乱す。
そんな例はこれまでの歴史に枚挙の暇もなし。
してもこれこそ現今の惨状の本体です。
しかしてこれもまたイエスの言葉です。
天なる父よ許して下さい、
彼らは自分が何をしてるのか分からないのです、
と。
・・・・・
人の言葉は脳内の幻想(念)である。
いつもの言い回しである。
してもこの念、概念と言っても同じ、
これを「今の心」と記している。
これは漢字の妙であり実に絶の妙である。
まさにまさにである。
體が捉えたあらゆる情報を元に、
それを集約して脳が再構成する。
それを今の心として定着させる。
それは流れの瞬間である。
それを流れから切り取るのです。
そしてそれを定着させる。
これが念であり、
これが言葉になる。
これが人間の凄技です。
冒頭に「ものごと」と言った。
「こともの」ではないのです。
本体は実に「こと」なのです。
物だけがあって事が無ければ、
永遠に劣化しない絵画の如し、
有っても無きが如し無の世界、
そんな世界はありえない。
そこに言葉はありません。
随分前に言ったことだが、
この世界は運動振動波動でなっていると。
これが「こと」の大本である。
しかして、
それは流れであり一方的なもの、
バックツウザフューチャは無いのです。
てか物は実際に切り取りが出来る。
ゆえ印を付けることが出来る。
でもそれは事を免れない。
やはり今の心である。
すべて念なのだ。
・・・・・
切り取りと言えばこれは報道の得意技です。
なにを報道してなにを報道しないかも含め。
ここに今のオールドメディアの実体がある。
学校教育では言葉尻ではなくその本意主旨を汲み取れ、
と教わったような気がするが。
言葉の本質が切り取りだとしても、
故にこそそれを文として在らしめ、
補わんと知恵をしぼっているのに、
彼らがそれをしないのは一体なぜ、
てかそれはそういうことですよね、
報道機関ではなくプロパガンダ機関になっているってこと。
ですがネットニュースは大方噂話の類、
ですからそこは明らかに別物、
それに報道のプロでもないし。
てかそこに規制をかけるって、
それは無理ですし絶対してはいけない。
自由を縛れば心魂が行き場を失い暴走。
ためもあり言論の自由があるのに。
でも個人攻撃には注意が必要です。
それにしても、
言葉を言葉で以って規制する、
これは堂々巡りの永久ループ。
規制するならそれは心魂です。
言葉を発する大本の心魂です。
てかこの場合は規制と言う言葉は不遜、
規制ではなく倫理道徳と言うべき。
それは情操教育や文化に依存する。
そう心得よう。
とにもかくにも言葉の質を知ろう。
切り取りであると覚悟しよう。
虚構であると覚悟しよう。
ゆえ構えを立てよう。
それしかないと。
うん!