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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

切り取り

2025-03-03 08:19:53 | 日記・エッセイ・コラム
言葉とは現実にあてた「しるし」である。
現実は「ものごと」としてある。
それは一体でありすべてが繋がっている。
それを「もの」と「こと」に分ける。
ものとものも、こととことも、です。
そして「ことば」が出来る、人の言葉が。
初めにあった「ものごと」はひとつです、
すべてが繋がっているのだから。
日本語は後にくるのが本体です。
ことのもの、ではなく、もののこと、である。
現実とは「もののこと」なのだ。
その「こと」を在らしめる場を「ことのば」という。
ここで思い出す、
ヨハネの言葉を。
 初めに言葉があった、
 言葉は神とともにあった、
 言葉は神であった、
まさにまさに、
まさにである。
・・・・・
いつもの言葉遊びである。
しても何を言いたいのか。
それは標題に示したこと、
人の言葉は切り取りだと謂うこと。
神の言葉の切り取りだと謂うこと。
言わずもがな、
理屈を捏ねて言うのも恥ずかしい限り。
先人らはそれを分かっていた。
イエスは許より聖書を残した人々らは。
聖書はその冒頭でそれをしめしている。
私の言う「ことのば」を「天と地」と言っているが。
イエスは悪魔に答えて言った、
人はパンのみにて生きるにあらず、
神の口から出る一つひとつの言葉による、
と。
そしてヨハネである。
これはズバリである。
そこにあるのは「ことのば」への畏敬、
それはそこにある存在への畏敬であり、
それをなべて信仰と言う。
それは體が捉えた心魂の震えから発するもの。
ときに言葉は不要、てかむしろ邪魔に。
しても言葉の生き物・人間は言葉で分かろうとする。
それが物語となり神話となる。
そして終には宗教となる。
宗教が基としての信仰を忘れなければいいが、
それを忘れると暴走する。
言葉(神)への信仰を言葉(人)が搔き乱す。
そんな例はこれまでの歴史に枚挙の暇もなし。
してもこれこそ現今の惨状の本体です。
しかしてこれもまたイエスの言葉です。
天なる父よ許して下さい、
彼らは自分が何をしてるのか分からないのです、
と。
・・・・・
人の言葉は脳内の幻想(念)である。
いつもの言い回しである。
してもこの念、概念と言っても同じ、
これを「今の心」と記している。
これは漢字の妙であり実に絶の妙である。
まさにまさにである。
體が捉えたあらゆる情報を元に、
それを集約して脳が再構成する。
それを今の心として定着させる。
それは流れの瞬間である。
それを流れから切り取るのです。
そしてそれを定着させる。
これが念であり、
これが言葉になる。
これが人間の凄技です。
冒頭に「ものごと」と言った。
「こともの」ではないのです。
本体は実に「こと」なのです。
物だけがあって事が無ければ、
永遠に劣化しない絵画の如し、
有っても無きが如し無の世界、
そんな世界はありえない。
そこに言葉はありません。
随分前に言ったことだが、
この世界は運動振動波動でなっていると。
これが「こと」の大本である。
しかして、
それは流れであり一方的なもの、
バックツウザフューチャは無いのです。
てか物は実際に切り取りが出来る。
ゆえ印を付けることが出来る。
でもそれは事を免れない。
やはり今の心である。
すべて念なのだ。
・・・・・
切り取りと言えばこれは報道の得意技です。
なにを報道してなにを報道しないかも含め。
ここに今のオールドメディアの実体がある。
学校教育では言葉尻ではなくその本意主旨を汲み取れ、
と教わったような気がするが。
言葉の本質が切り取りだとしても、
故にこそそれを文として在らしめ、
補わんと知恵をしぼっているのに、
彼らがそれをしないのは一体なぜ、
てかそれはそういうことですよね、
報道機関ではなくプロパガンダ機関になっているってこと。
ですがネットニュースは大方噂話の類、
ですからそこは明らかに別物、
それに報道のプロでもないし。
てかそこに規制をかけるって、
それは無理ですし絶対してはいけない。
自由を縛れば心魂が行き場を失い暴走。
ためもあり言論の自由があるのに。
でも個人攻撃には注意が必要です。
それにしても、
言葉を言葉で以って規制する、
これは堂々巡りの永久ループ。
規制するならそれは心魂です。
言葉を発する大本の心魂です。
てかこの場合は規制と言う言葉は不遜、
規制ではなく倫理道徳と言うべき。
それは情操教育や文化に依存する。
そう心得よう。
とにもかくにも言葉の質を知ろう。
切り取りであると覚悟しよう。
虚構であると覚悟しよう。
ゆえ構えを立てよう。
それしかないと。
うん!

明快な答え

2025-02-24 09:27:53 | 日記・エッセイ・コラム
明快な答えがあった。
過日のトランプ大統領の声名である。
人間の性には「男と女しかない」と。
まったくもってその通りかと。
言われてみれば最も過ぎて声も出ません。
考えて見れば、
雌雄を持って命を繋ぐものは、
すべてがそうである。
言葉では「中性」と言うこともできるが、
現実にはないのです。
それらは言葉の技である。
それを知ろう。
・・・・・
私はXは永久凍結されてるからそれは見ないが、
そこでの投稿を伝えているのを見ることはある。
そのひとつで最近気になったものが、
それはLGBTQ~の彼彼女の投稿である。
正確?かどうかは横に置きその意は、
私は朝起きたときに今日は男であるか女であるかを決める、
と言い私は男でもなく女でもなくその外にいるとか。
ここに典型的な嘘がある。
その言辞は男と女と謂う言葉抜きには成り立たない。
性を意識すればそこに在るのは男と女だけなのです。
現実に生きるときは男か女のどっちかだし、
その存在は男と女の外にいる?
そも脳内は男と女で満ちているのだ。
てかその言葉を抜きにして彼彼女の念は定まらない。
言葉は現実ではない、脳内の幻想(念)である。
しても念に捉われると謂うのが人間であり、
それが言葉と生きる人間と謂うものである。
ここで言えるのは、
彼彼女は両性を持っているということであって、
中性でもなくその外でもない。
またさらに言えば、
幻想の脳内や念とかを除けば、
現実には體は男と女しかない、
超希には両性具有もあるかと。
そも中性はありませんそれにその外も。
この当り前が実のところ分かりにくい。
このままでは言葉が人類に止めを刺す。
でも大丈夫だろう、
そこまで人間はバカではないかと、
トランプさんもいるし私もいます、
エヘン!
・・・・・
それにしても又思うのである。
體には男と女しかないのだが、
その體が持つ気には微妙な揺れがある。
当方はそう思うのだが、
これは事実でもあろう。
思うに、
地球生命の始まりに性はなく無性生殖であった。
それは命の戦略としてはリスクがあり、
進化の過程にて有性生殖となってきた。
性とは生命の永遠性を担保するもので、
これは趣味趣向の問題ではないのです。
このこと覚えておこう。
それはさておき、
当初は細胞が単に分裂して増えるもの、
ときにすべての細胞が母であるのです。
母という言葉はここでは適切ではないかも知れないが、
それでも母と言うしかなく母と言っておきます。
父はどう考えても後発なのだ。
それは人の體にも現れている。
用もないのになぜ乳首がある。
それに有性生殖の生き物には、
すべてが雌のものが存在する。
それがときに一部が雄となり生殖する。
どう考えても母が先であると。
それに何と言っても根本の細胞分裂は、
すべて母の胎の内で為される。
ところで聖書はなぜか逆になっている。
てかそれは知らず追及もしません。
まあ意味ある方便としておく。
てかここで言いたいのは、
人間の體が持つ微妙な性の揺れのこと。
女はどこまでも女であり、
男は男であるが女を経てなっていると、
生命進化的にはであるが。
現実もその様でもあると。
女の心を持った男性はいても、
その逆はほとんどいないかと。
その逆は実に體には表われず、
それはほとんど言葉の技かと、
それは念の作用であると。
私はそう思っている。
・・・・・
しかし昨今はその姓に於いて、
不見識かつ不埒が満ちている。
戦前にもあったが戦後は特にその様で。
男女共同参画に始まり男女同権はもとよりだが、
てかこんな当り前をスローガンにし鼓舞してお金を使う、
バカバカしい限りですよ。
そこへもってきてさらに、
父母の家を壊そうとしている。
それは戦後すぐの民法の改正、
その後押しの為の個人の強調、
その後押しの為の自由の誤用、
さらに更に、
ついにLGBTQ~を前面に持ち出してきた。
婚姻とは男女を父母にする社会の智慧、
これを壊そうとする魂胆としか思えず、
為にLGBTQ~の彼彼女らが利用されているのです。
さらにそこへもってきて選択的夫婦別姓である。
選択的と言うのは欺瞞であり、要するに夫婦別姓である。
これは父母の家を壊すことに。
シナ朝鮮を見れば分かるでしょう。
父母の家は一つです、それが父の姓にせよ母の姓にせよ。
それが厭なら新しい姓にすればいいだけのこと。
言っとくけど、それはひとつ、
当然でしょう。
会社合併の例を持ち出すまでもなくね。
ここで和歌を一つ、
海恋し潮の遠鳴り数えては乙女となりし父母の家。
(与謝野晶子)
私はこの歌が大好きなんです。
悠久の命を歌っているようで。
彼女の想いは知らない、
でもそこにそれを想うのです。
特にそこにある「乙女」が象徴的で感じ入る。
乙女はまさに命の基、それが母になって命を繋ぐ。
それを想うのです。
・・・・・
日本には天皇陛下がおられる。
天皇陛下には姓がありません。
皇后陛下にも当然ありません。
その御子にも当然ありません。
皇室の方々にもありませんが、
男子には宮号というものがあります。
これは称号であって姓ではありません。
ということですが、
その天皇陛下は日本の象徴である。
これは定められてるが、
むろん古より続くもの。
そこに姓はないのです。
ゆえにかたよりがなく、
まさに「しん」となる。
円環の社会の芯である。
それを想うのです、
まことにまことに、

無人レジ

2025-02-17 08:29:20 | 日記・エッセイ・コラム
私はアナログの信奉者である。
でもデジタルが嫌いなわけではない。
デジタルは非常に便利で有効なものである。
アナログは現場主義現実主義である。
これは神の事の場にある。
そこには體が受取る情報が止めどなくある。
ところがデジタルはそこに大きな抜け穴をつくる。
てか点で捉えるから当然。
でもゆえより鮮明になる。
しかもときに時と場を大きく超える。
瞬時に遠くに音と絵を届けることもできるのです。
これを利用するのは当然。
要は使い方次第なのです。
にしても肝に命じておくことがある。
すべては現場現実に帰ると。
言わずもがなだが。
・・・・・
最近は無人レジが増えている。
これはハッキリ言って嫌いである。
おもてなしの欠片もない。
だからこれを避けている。
ゆえ無人レジだけの店は行かない。
そんなこともあってネット市場も利用しない。
特にアマゾンはね。
日本的経営があるとは思えないからです。
それは売り手良し買い手良し世間良しの精神のこと。
日本企業でも有るとは限らないが。
それでもどうしても欲しいもので、
実店舗で見つけられなければそこで探す、
てか利用することもある。
そうですここでも時と場を超えられるのです。
便利は便利それはまさに。
てかそもネット市場を否定してはいない、
ただ嫌いなだけです。
でもこれは只の気まぐれではない、
そういう方針です。
でもネットで買うときは、
できるだけその商品の製造元を利用する、
てかこれは私の方針には反しない。
それはさておき元に戻り無人レジ。
無人レジとは要するに売買のこと、
これはすなわち経済のことであり、
これの始まりは「市」であろうか。
これは物々交換に始まりやがてそこに貨幣が。
以前にも言ったが経済とは助け合いであると。
それは売り手良し買い手良し世間良しである。
ゆえにそこにあるのは「おもてなし」である。
おもてなしとは一方通行ではなくそも双方向。
その精神で市は栄える。
そこにあるのは別の言葉で言えば、
それはエンターテイメントである。
つまりエンタメなのだ。
人が集まりそれが又人を呼び、
ワイワイガヤガヤの賑わいに。
それがイベントになればまさにエンタメ。
その始まりは売買にあり市にあり。
だから無人レジが嫌いなのだ。
てか必要なものを求めるだけならそれも良し。
だから否定はしないと、
ただ嫌いなだけである。
てかそれはそれとして、
欧米では無人レジはむしろ撤退しているとか。
万引きが横行して経営が為りたたないようだ。
目論見が逆転したのだ。
日本ではそれほどでもないが傾向は同じ。
やはりその対策は必要。
てかそれもあるが、
私が厭なのはそこに「市」が消えるから。
だから嫌いなのである。
理由は違ってもいづれ撤退するだろうと。
要は適材適所であると、
私はそう思っています。
・・・・・
ところで無人販売と言うのがある、
この日本には。
てかこれは無人レジに一寸似てる。
てか一寸似てるがまったく違うものです。
そこには同じ販売でもレジがないのです。
この違いは決定的なのです。
レジとはキャッシュレジスターのことで、
日本語で言えば金銭登録機。
登録つまり記録つまり言葉。
まあそう言うことです。
無人販売にはそれがないのです。
しても言葉がないわけではない。
価格の表示はあるはず。
してもそれは記録ではない。
必要最低限のお知らせです。
それにそれは相手次第です。
そこにあるのは信用信頼に基づく空気である。
そこにあるのはアウンの呼吸である。
てかこのアウンはどこから来るのか。
てかこれには私なりの存念があるが。
それは場への感謝と祈りである。
場とはそこに存在する物事のすべて、
そのすべてへの感謝と祈りです。
それがアウンをかもす。
そしてときにそこに無人販売が。
そこに言葉はない。
むしろ邪魔になる。
と謂うことだろう。
ぁうん!

知らねばならぬこと

2025-02-10 08:49:19 | 日記・エッセイ・コラム
この世界は(宇宙は)すべて繋がっている。
そこに隙や穴はないのです、と思っている。
それは在るものが有る世界であり、
無いものは「無い」のである。
とてもシンプルなのです。
てか聖書の出エジプト記にて、
モーセの問いに答えて神は言った、
私は在るものである、と。
この「もの」とは厳密には「ものごと」のこと。
これらは前回言ったこと。
私はこれを疑わない。
私の體がそれを全身全霊で感じている。
私の體はまさにその「神の事の場」により創られたもの。
そして貴方方の體も。
脳も體の一部だから脳にも問うが、
まあ普通は大抵そうだが、
ここと言うときは體に問うている。
てか、
私はこの言葉が好きです、
體に問うが。
・・・・・
ここにすべての問題が隠れている。
現下のすべての問題の本源がある、
それはヒトの言葉である。
これが人だけを神の事の場から遊離させる。
そんな力を持っているのです。
だから聖書はそれを警告した。
なのに人はそれに気付かない。
そしていまだ問えないでいる。
てか問おうとしていない。
それを罪と言うばかりで。
問えばそのヒントはある。
それは人の言葉は神の言葉を写したものと謂うこと、
である。
このことに尽きます。
つまり人の言葉は神の言葉の断片であると。
だから次々と新たな言葉を作りだすことに。
にしてもいくら作り出しても追いつかない。
ゆえに文章にして繋げて補正しようとする。
それが物語となり又論理ともなる。
でも断片であることに変わりなし。
このこと決して免れない。
神の言葉は隙も穴もない、つまりアナログなのです。
人の言葉は隙あり穴あり、つまりデジタルなのです。
これを知ろう。
てかここであらためて分かること、
それはふたつ。
一つは場がもうひとつできること。
一つはそこが穴だらけということ。
先に言ったが、
このことを問うていない。
てか問おうとしていない。
一つは既に聖書が警告してるのに。
しても人の事の場が穴だらけとは、
考えたら分かりそうなものなのに、
なぜか知らんふり。
そしてこのデジタル全盛の時代に。
これはこのままでは落し穴になる。
ちなみにこれは余談だが、
コンピュータは何で出来ているかと言えば、
それは言葉であると。
その核心は言葉であり、そも言葉の権化である。
これをずっと言っている。
だから人間とは相性がいいのです。
ゆえ危険なのです、頼り過ぎれば。
しかもそれはそも穴だらけである。
でもそれは小さければ見えません。
てかそこがミソなのです。
それはさておき、ここで、
アナログとデジタルの違いの例を。
一つは時計、
アナログの針時計はすべての時刻を表示する、
常に動いているからかときに曖昧、
デジタルの字時計は区切った時刻を示すだけ、
時に止まっているので却って鮮明、
一つは音盤、
アナログの針音盤は音の揺らぎを全て捉える、
そこにあるその揺らぎが心地良い、
デジタルの穴音盤は音を点でとらえてクリア、
大音量にも耐えてそこは迫力満点、
てかとか。
してもデジタルは道具としてはすぐれている。
それはそこにある紛れを消せるから。
てかそのこと承知の上なら。
でも少しく危うい。
・・・・・
てかすべては言葉の技である。
それが問題を惹起するとして、
それを解決するのは、言葉では出来ないと。
ならそれは何なのか。
それは言うまでもないこと…であると。
であるが…とは何なのかはよく分からない。
まあそれなりに存念はあるが。
でもその前に、
言葉でしなければならないことがある。
それは言葉の技である知るを発揮して。
そして知らねばならない。
それは言葉が持つ「質」を知ることである。
それを知らねばならない。
これは言葉の仕事である、
まさに言葉の仕事である。
ときに問題の多くは解決する。
そして人類は又その先に進む。

シンプルワールド

2025-02-03 08:03:21 | 日記・エッセイ・コラム
最近深夜のアニメに嵌まっている。
夜は苦手なので録画しておいて翌夕以降に見るのです。
そこでは異世界ものが多くあるのだが、
これがなかなか面白く好んで見ている。
似たものにパラレルワールドという言葉がある。
これは仮想世界とか並行世界とか謂うのですが、
単なる空想世界でなく現実世界と併存している、
と謂うものである。
先の異世界とはそういうものです。
だからそこでは人が行き来できる。
その範疇には幽界冥界もあります。
まあ設定は色々だが斬新で面白い。
・・・・・
世界という言葉を宇宙と言ってもまあ同じ。
人間世界とか対象を区切ればそれは違うが、
存在のすべてを包むものとすれば同じもの。
標題のワールドはそういう意で記している。
所謂ワンワールドは人間社会を指してるが。
しても思うのです。
現実の宇宙には「無いもの」は無いのです。
現実の宇宙は「在るもの」だけが有る世界。
ちょっと分かりにくいが、
でもこれがすべてである。
無いものは無い、は当り前であり、
ここにあるのは無という概念だけ、
神の事の場には現の実があるのみ。
だからです「無い」ものは無いと。
これに似たものに「0」や「マイナス」それに「虚」。
てか人の言葉はこれらに限らずすべてがそういうもの。
てかそれは神の言葉を写すことから始まる。
てかその成り立ちに思いを致せば、
人の言葉の限界はおのずと明らか。
往古の人類はそれを知っていたか、
それを想う。
だから初めにあったのが天と地で、(もの)
そしてそれは言葉とともにあった。(こと)
物は常に動いているもの、
止まってる様に見えても。
そうです物はいつも事の場にある。
物を知るとは事を知ることに同じ。
局面を区切って事を知る。
物事はそも一心同体です。
ちなみに和語の凄さはここにある。
ちなみに漢字の凄さもここにある。
それを「ことば」と言うは「こと」の「ば」だから。
それを「言葉」と記すは事の場であり事の端だから。
神を「示して申す」としるすのも。
論理は不要、ここにすべてがある。
にしても、
言葉の生き物・人間は言葉ですべてを知ろうとする。
それは無理なのだがそれが人間の性である。
ちなみに余談だが、
それを埋めようとするのが宗教である。
でもお分かりでしょうここには矛盾が。
宗教とはつまり教である。
それは人の言葉で出来ている。
言葉の限界は言葉では埋まらない。
そこを埋めるのは言葉ではないのです。
それを知ろう。
それが何かは言うまでもないかと、
……。
ちなみにまた余談だが、
精神界で言われている人類の次元の上昇や、
科学界で言われている新たな進化の階段を上るとか、
は有り得ることだが、
それは言葉に依ってではない、
言葉を越えた手段を手に入れればであろう。
それは言葉を持ちながら言葉にとらわれず、
のそういう世界である。
そう想うのです。
いま世界でも日本でも言葉が氾濫している。
メディアは嘘に塗れておりネットがそれを暴きだす、
メディアはネットこそが問題だと反論するが空しい、
そもどちらも虚構なのだから。
問題は構えなのである。
メディアは構えを失って久しく、ネットは玉石混交。
さてもどうなるのやら。
・・・・・
シンプルワールドとはなにか。
言わずもがなそれは「神の事の場」のこと。
人は神の言葉をなぞって己の言葉を作った。
それが「人の事の場」を作ることになった。
これがまさにパラレルワールドなのである。
そしてこの「人の事の場」を生きることに。
でもそれは「神の事の場」なしでは有りえない。
てかじつは「神の事の場」そのものなのだ。
だからゆえ神話がつくられる。
それもまた当然のこと。
それは言葉を持つ前から體が捉えていたものだから。
そもヒトの體は誰がつくったのか。
言わずもがなか、それは神の事の場である。
その體には器官がある、
神の事の場がつくった器官である。
その器官が神の事の場をとらえる。
目や耳や鼻それに口や他の諸々で。
その器官がとらえたものを疑う必要はない。
そのまんまでいいのだ。
虫(無私)の心のまま。
それが神の事の場の意思です。
考えればシンプルなことです。
ゆえシンプルワールドと言う。
それを日本語で記せば「神振輪有土」てか。
そこで生きることをば「神振輪有道」とか。
てかとか、
とはいつもの言葉遊び、
まあちょっと遊び過ぎ、
かな。
でも世界はシンプルである、
シンプルなワールドである。
ハイ!