創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

293.犀角独歩さんの日記 仏教は本来「信仰」ではなかった

2009年07月03日 22時18分30秒 | 創価学会
http://gree.jp/?mode=blog&act=view_per_entry&user_id=8028711&urn=urn%3Agree%3Ablog%3Aentry%3A202195498

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仏教は本来「信仰」ではなかった
2009/01/03 11:20
仏教は元々は信仰ではなかった。そう言うと、ビックリする人も多いだろう。
「強信」は信仰者のステータスのようなもので、それが大石寺であれ、創価学会であれ、顕正会であれ、熱心な会員信徒であればあるほど、重視することだろうから。
たとえば、わたしのペンネームの由来である最古の経典・スッタニパータ・蛇の章「犀の角のようにただ独り歩め」には「信」はただの一度も出てこない。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo02/mob/sainotutunonoyonitadahitoriayume.html
「信」が、では、もともとの仏教になかったというとそうではなく、プラニダーナはあった。この信は帰依(南無)の意味合いを帯びていない。「願い」といった意味合いに近い。
しかし、そうした仏教を一変させる思想運動が西北インドを中心に席巻する。ヒンドゥー教バーガヴァタ派のバクティ(誠信)の流行だ。
ヒンドゥー教は、もちろん、神への信仰だ。だから、その原型は「“神”への絶対の帰依」を意味した。しかし、ひとたび、これが仏教に摂取すると容易に「“仏”への絶対の帰依」へと変貌する。驚くことに、元来、願いほどの意味で用いられていたプラニダーナまでも同様の意味で使われるように変貌してしまう。
こうして、仏教の持つ修道修行は、バクティにとって変わられることになる。日本に至ってはさらに極端で仏教を受容することを「信仰」と呼ぶようにまで変化する。仏教は本来、修行実践するものであったのに、その修行実践そのものまでが信仰であると解釈されるに至る。
「信」が絶対の価値を持つに至るその遠因は、実はヒンドゥー教であり、その影響も受けながら創作された『法華経』もまた、信の強調が目立つ。
しかし、『法華経』がさらに徹底した「信仰」に書き換えたのは、羅什の翻訳にその原因があった。こうして完成したのが漢訳法華経、すなわち『妙法蓮華経』である。

原本の法華経がバクティ化した「信」の影響を色濃し示すまでも「絶対の帰依」と表現はそれほど、強くない。この点を「一乗思想」で書き直したのが『妙法蓮華経』である。わたしの羅什嫌いの理由はここにある。
日蓮が「南無妙法蓮華経」と言ったのは、この羅什の徹底を、さらに徹底した結果である。
よって、日蓮における法華経の受容はまさに信仰、強信そのものであったと言える。しかし、こうした信の強調は、仏教の本来の姿とは大きくかけ離れ、むしろ、ヒンドゥー教バーガヴァタ派のバクティのアレンジ「唯一絶対の仏の絶対の帰依」である。日蓮の教えはヒンドゥー教の影響を受けた「絶対」「信」に色濃く染まったものであるというほかない。
法華経における唯一絶対仏思想は「寿量品」に極まる。久遠仏思想である。
日蓮門下では、この寿量仏を妙法蓮華経(法)と一体であるという教学が流行する。仏・法が一体であり、そこに帰依(南無)することを「南無妙法蓮華経」であるとする解釈である。
こうした一方、田舎天台と言われる仙波談林ではひそかに独特の教学解釈がなされていった。その久遠仏釈尊より天台が勝り、釈尊の法華経より天台の摩訶止観が勝るという解釈である。
天台勝釈尊劣/止観勝法華経劣
「天台は勝れ釈尊は劣る/止観は勝れ法華経は劣る」という勝劣思想がここにあった。所謂「恵心流口伝法門」における極意である。
この解釈を生んだ仙波談林に、実は大石寺の日時以降の歴代が学んだという。
さて、ここから持ち帰られたこの考えは、大石寺において日蓮を本仏と解釈するアイディアの元となった。すなわち
日蓮勝釈尊劣/御書勝法華経劣
日蓮こそが本仏であり勝れ、釈尊は劣り、その日蓮が説いた御書こそ勝れ、末法に法華経巻は劣るという考えだ。「久遠元初」「自受用身」「本因」といった教学のアイディアもすべて恵心流口伝法門から盗用である。こうしたことは、文献資料を精査すれば、理解されることだ。よって、大石寺の日蓮本仏論は後世の変形解釈であり、日蓮本来の教学とは違うと言われるのである。
もちろんのことだが、釈尊より天台が勝れるといった考えは本来の天台の思想にはない。妙楽にもない。伝教にもなく、もちろん、日蓮にもない。真蹟遺文を精査すれば、わかることだが、日蓮は絶対仏・寿量本仏釈尊の絶対帰依者であった。日興の思想を精査しても、仏:寿量本仏、法:妙法蓮華経、僧:日蓮とする三宝観は不動であった。しかし、その後、仙波談林の影響を受け、大石寺の教学は大きく書き換えられてしまう。この大成者が日寛その人である。日寛はまた、天台宗細草談林の能化でもあったのだ。天台宗のこうした秘伝を大石寺に盗み入れるには格好の人物であったわけだ。わたしの日寛嫌いはここにある。
教学史を真面目に勉強すれば、どの時点で、どのように教学が書き換えられていくか、何の影響に依るのかわかるものだ。
さらに日蓮自らが書いた漫荼羅を研究すれば、所謂「本門戒壇の大御本尊」が、日蓮の真筆ではなく、それを元にした贋作であることは容易に見極められる。
わたしが戒壇本尊を批判するのは、それが日蓮の真筆によっていない偽物であるからだ。大石寺の教学を批判するのは、日蓮の本来の教学と違っているからだ。
さらにわたしが信仰を卒業したというのは、それが本来の仏教ではないからである。
信仰に冒された人は、善悪を信・不信でしか解釈できない熱病に冒される。しかし、その信仰とはヒンドゥー教の影響を受けて変形された似非仏教である。バクティ(強信=狂信)からプラニダーナ(信=願い)へ。それがわたしの提言である。なぜならば、それが本来の仏法であるからだ。
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2. 犀角独歩 (22) - 2009/01/03 13:00
○○○○さん

コメント有り難うございます。
追って書こうと思っていますが、「信」について、もう一点、重要な問題があります。妙法蓮華経(法華経)における「信」の用法はすべて法、そして、仏が目的語になっている点です。つまり、信じる対象は仏法に限られています。仏法を説く“人”への信に対する言及はないということです。

ところが法華教団、なかんずく、日蓮門下において、特に創価学会・顕正会を含む大石寺圏では人と集団に対する信が強調されます。「池田先生」「浅井先生」「御法主上人猊下」という人をです。
『涅槃経』では「依法不依人(法によって人によってはならない)」と明確に記されていますし、日蓮もまた、この厳戒を護りました。

いま「議論ある団体」また、ネット上で「カルト」と称される日蓮門下集団の「先生」「猊下」は、ところが人への帰依を説いているわけです。ここに問題がありませんか。法華経にも、涅槃経にも人に対する信など説いていないわけです。人への信、さらには特定教団への信を強調するのは、法華経からみても完全な邪説でしょう。

こうしたグループとリーダーは、本来、仏と法へ限定された信を自分たちに向かせています。この点が「信」を考えるいちばんのポイントではないでしょうか。
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9 コメント

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Unknown (そううそ)
2009-07-03 22:42:38
http://inunomeme.blog.ocn.ne.jp/kakarityou/2009/07/post_18dd.html?cid=22125739#comment-22125739

こんばんは。
gizmoさん

御無沙汰しています。
そううそです。

>たとえば自分の子供が罪を犯したとき、
(中略)
>罪を犯したとしても、断罪出来ない気持ちなのです。

ここについては賛成です。
私が喜怒哀楽を持ち得るようにgizmoさんも喜怒哀楽を持ちえます。
同様に「信じる」も私も今現在日常で他者や物事を信じています。
gizmoさんも今現在日常で他者や物事を信じるのは普通にあるでしょう。

gizmoさんがメメさんに書いたコメント文章も普通に有り得ると思います。

>「信じる」って、とっても大切なことだと思うんですよ。
(中略)
>「それでも信じる」という姿勢が大切だと思いうんですよ、僕はね。

強信というやつですね。
しかし、原始仏教の「信じる」は創価学会の教える「信じる」はやや違っています。
犀角独歩さんの日記がよく書かれていて分かりやすいので転載許可を頂いているところです。
許可頂けましたら是非読んでみて下さい。

>「縁」のある人を信じることって大切なことだと思うんです。
>大切なパートナーとつきあっていく、その際にパートナーが、
>たとえば、取り返しのつかない罪を犯した。
>そのときに、パートナーを切り捨てられるのか、どうか。

gizmoさんからも日顕氏と池田氏に進言してあげて下さい。
縁ある人を切り捨てるのは仏法じゃありませんよ、って。

>アンチ的気質を持った人は、
(中略)
>それは「縁」があったので、その「縁」を大切にしているということなんです。

ここは何が言いたいのか分かりませんでした。
整合性や一貫性が無く矛盾しているような気がしました。

>学会員同士というのは家族ですからね。
>どうしても、互いに「かわいくてかわいくてしかたない」存在なのです。

確かに「家族」というキーワードは美しく、創価班精神の「会員を大切に」なども
良い事であると思います。
しかし本当に池田大作氏は末端の会員を大切にしているでしょうか?
ここはNoだと断言出来るでしょう。
末端の会員が教団トップを大事にしているだけです。

法華経非仏説、大御本尊、日顕氏との決着、こういったことを曖昧にして
正宗VS創価における末端同士の法論折伏の際は確実に学会側が負けます。
もちろん末端学会員を切り捨てた日顕氏(取り巻きも)も異常者かと思います。

gizmoさんは過去チョンガーさん達と同じアンチだった過去もある所為か、
コメントが色々とついちゃって人気者状態ですね。(笑)
私個人はメメさんとgizmoさんがごく普通の会話を続ける事は脱創価によいのではないか?と私個人は勝手に想像しています。

色々と書きましたが、
1.一般人やアンチから見て「信じる事は大切」など創価学会の嘘や問題点が数多くありすぎるので
  学会で教わった事や学会肯定を書くと批判がある、gizmoさんにはこの点を理解して欲しいと思います。
2.gizmoさんが学会の嘘や問題点を他者に与えないで欲しい、この様に私は思います。
  読書など学会以外の文献でよく調べてからにして下さい。
3.gizmoさんが学会の嘘や問題点を受け入れるか、学会を肯定したいのであれば
  1と2を前提としてもgizmoさんが学会信仰を続ける事は(他者からの批判があっても)可能でしょう。

ではでは

投稿 そううそ | 2009/07/03 22:14
返信する
Unknown (そううそ)
2009-07-04 00:43:14


追記

法華経非仏説、大御本尊、日顕氏との決着、こういったことを曖昧にして
正宗VS創価における末端同士の法論折伏の際は確実に学会側が負けます。
池田氏は末端の会員にとって不利な材料か不利な状況しか与えていません。
学会仏教学は中身がないのですから、その説明責任は池田氏にあるでしょう。

投稿 そううそ | 2009/07/04 00:42
返信する
妙法蓮華経であって釈尊経じゃないんだよ (Libra)
2009-08-23 07:23:51
  わたしは独歩さんのような考えには賛成しないのでコメントしておきます。


1.法華経の「信」の性格
 法華経が【絶対的人格(神仏?)への帰依】を説く経典などではないとゆーことは、そのタイトルから明らかだろうとわたしは思います(法華経のタイトルの意味については以下の記事の中でコメント済)。

  『法華経』と釈尊の思想
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html


2.日蓮の「信」の性格
 で、その法華経のタイトルを唱えることを修行のスタイルとして採用した日蓮が【絶対的人格(神仏?)への帰依】のようなものを自他に勧めていたとも思いません。

 「あらゆる仏は法華経から生まれるのだから、仏ではなく法華経の題目を本尊とする」とゆーのが日蓮の考えですから(以下の記事の中でコメント済)。

  日蓮思想の現代的意味、回答(2007.01.11-03)~
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html

 あと、日蓮は、天台の『法華文句』の「人軽法重」(大正蔵第34巻、p. 143c)を引用して、「天台云く『人は軽く法は重きなり』〔中略〕、人軽しと申すは仏を人と申す法重しと申すは法華経なり」(「宝軽法重事」、全集、p. 1475)と言っています。


3.法華経の「久遠仏」の性格
 法華経の「久遠仏」とゆーのは、帰依の対象とすべき絶対的人格を描き出そうとしているわけじゃなくて、むしろ、帰依の対象とすべき教え(法)を統一しようとゆーのがその真のねらいだと思います(以下の資料を参照)。

  『法華経』のねらい──諸教の統一・諸仏の統一(菅野博史)
  http://fallibilism.web.fc2.com/131.html

 だって、『妙法蓮華経』であって『釈尊経』じゃないんだから。
返信する
Unknown (そううそ)
2009-08-23 10:53:25
おはようございます。
libraさん

 どんな宗教でも「信」(信じる)を問う一面はあるでしょう。
問題は当人の信じ方、また他者への信の与え方だと思います。

私でないだれか(他者)が法華経信仰しても良いと私は思いますし、日蓮を師匠としても別によいかと。
問題は信じる(信仰)という行為の中に人格形成を含め健全か不健全なのか?の違いがあると私は考えています。

過去記事にも書いたとおり、創価などの正宗系は自分たちの正当性を主張する為に

他者は不幸になる、不幸な人達、
「アンチの末路」などと言ったり、
他宗教は邪宗である、と。。。。

誰もが病気で死んでいったりするわけですから、「アンチの末路」などは問題言動と言えるでしょう。
創価などの正宗系信仰者には認識や認知の問題があります。
歪んだ他者への認識。歪んだ他宗教への認識があるわけです。

「問題は当人の信じ方、また他者への信の与え方」と書きましたが、
創価などの正宗系信仰者には「歪んだ信じ方」「他者への信の与え方が歪んでいる」かと。

自分でないだれか(他者、日蓮)を信じたり、何かの本(法華経)を読書して信じることは現代人の誰にでも有り得ます。

日蓮や法華経から良いところ、悪いところ、現代に通用するところ、現代に通用しないところを理解して他者に与えることは可能かと私は思います。

日蓮や法華経から良いところ、悪いところ、現代に通用するところ、現代に通用しないところを理解しているのか理解していないのか私には不明ですが、明らかに上記の教団は教団都合な嘘や不健全を他者に与えている、と私は思います。

私がgizmoさんに言いたかったのは「日常的に信じることの大切さが誰にでもあるからと言って、教団都合な教えを無認識、根拠無しに言わないで下さい」ということです。

なお私は宗教はこれからの人には不要である、と言う意見も持っています。
これは信仰者の皆さん、特にカルト教団に属したことのない人達の言動が重要かと私は考えています。
皆さんの行動次第では日本で今よりよい仏教界が出来る可能性はあると思います。
しかしその可能性は限りなく低いかと。。。。。

現代の教団都合な宗教界では「不健全に当人の信じる、また他者への不健全な信の与え方」をするでしょう。

祈るという行為についても健全さ不健全さはあると思います。
ご参考
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http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/ae1b9d5cc1fd8444b53ec87a38176628

207 名前:そううそ ◆ozOtJW9BFA [sage] 投稿日:2008/11/05(水) 00:28:35 ID:???
>>203
ハンドル名の無い人とコメントするのはあまり好きではないのですが
少しだけ。
学会員のお医者さんに限らず、一般でもどちらでもいいです。
名医を捜したとしましょう。
でも病状から80%~90%の確率で助かりません。とか言われたらどうしますか?
当人や学会員の家族は必死になって祈るでしょう。

一般の人だって信仰行為ではないとか、無宗教だとかでも
手術成功10%だとしても祈る様な気持ちでしょう。
一般の人だって祈る事はあるでしょう?
ですから、私は祈る事、そのこと自体を否定しません。心や気持ちの問題ですから。
でも創価は物事の内容や物事と信仰を教える順序が正反対なのです。
MCですから当人達が気が付くかどうかは別にして人を傷つける結果になるのです。

「日蓮仏法」「自力本願」「他力本願」という美しい言葉、四字熟語を、死や病気に
目前にしている人に向かってあるいは手術をしている人に向かってあなたは言えるでんでしょうね。
軽薄というか薄っぺらいというか言葉が全く足りないと言うか。。。。。。。。
祈って通院するという行動。確かにそう言うケースはあるでしょう。
でも行動して絶望が来たらどうしますか?
先に書いたとおり、一般人でも創価でも誰でも祈る事もあるでしょう。
苦しみや絶望、不幸に直面した時に「宿業」や「罰論、地獄論」を本人が思い浮かべたり、
自分あるいは他者が「宿命転換をしよう!」これらがもう問題であり、宗教とカルトの違いであり、
正反対だと私は考えています。

もう一度繰り返しますが、自分あるいは他者が「宿命転換をしよう!」では駄目なのです。
創価では自分、他者の「宿命転換」は良い事ですよね。私も元学会員ですから、
あなたの言いたい事よくわかりますよ。「宿命転換をすればいい」それは違うのです。

「自力本願」「他力本願」どちらか一方あるいは両方「信じたら病気は消えますか?」
答えは「消えません」です。
私は2chになれていないのでこれまでとさせて頂きます。

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簡単に言うと現代の宗教は人格形成や健全な信仰の次世代への継承においてメリットのある教団はほとんどない。
人格形成の出来る師匠と呼べる人は限りなく少ない、その様に考えています。

(正宗ではなく日蓮宗だって問題があると思います。他の仏教教団も同じかと。)

Libraさんや富士門流信徒の人々の人間性や感覚(バランス感覚など)が少しでも伝わると良いのですが。

ではでは
返信する
事実と当為を区別せよ (Libra)
2009-08-23 19:03:30
 そううそさんは事実の領域と当為の領域をごっちゃにしてませんか?

 わたしが上に書いたことは事実の領域の話です。

 以下の2つは別の領域の話です。

1.事実として、法華経の「信」の性格はいかなるものなのかとゆー話(事実の領域の話)。

2.絶対的人格(神仏)への帰依という性格の「信」を人は実践すべきであるのかとゆー話(当為の領域の話)。
返信する
Unknown (そううそ)
2009-08-23 20:25:31
Libraさん
こんばんは。

>1.事実として、法華経の「信」の性格はいかなるものなのかとゆー話(事実の領域の話)。

私の経験でしかありませんが、
原始仏教を前提とした法華経信仰をする学会員さんもいれば
私は原始仏教の信徒ではないといって法華経信仰(日蓮信仰)をする学会員さんもいます。
中観に正当性を感じる人もいれば大乗仏教の「誰でも仏になれる」に原始仏教からの正当性を感じる人もいるのでしょう。
前者も後者も信じたり実践するだけではカルト問題にはなりません。
その前後や普段の言動が問題になります。

事実として、法華経の「信」はいかなるものなのか?
ということについては下記のカルトとは正反対のアプローチがあれば良いと思います。
自分に対しても他者に対しても宗教の接し方や与え方があれば良いかと。

カルトに傷ついたあなたへ
http://www.geocities.jp/recoverycult2005/

ですから、ぶっちゃけた話として
Libraさんのようなきちんとした 「トータルな教学」 の知識が無くても信仰は成り立つと思います。
「部分的な教学」 の知識しか無くても信仰は成り立つと思います。

●法華経の「信」の性格を問うべきか?

究極的な話でしかありませんが、
法華経の「信」の性格を問うても問わなくても良いかと。

但し、創価のオバチャン達のように法華経の「信」の性格を問わない為、知らない為に暴走する可能性は高いでしょう。
創価のオバチャン達は教団に悪用されるからです。
創価のオバチャン達がLibraさんに教えられて、(Libraさんが悪用するはずもないので)
一つしか知らなくても一つしか理解できなくてもそこから信仰は始まるのでしょう。
法華経の「信」の性格を問うて理解できた方が良いに決まっています。

私はカルトに深く関わった人間ですので、あまり法華経の「信」とはなんぞや?みたいな結論は深く追求しない方がよいと考えています。

カルト活動していない会員や一般人に期待するしかないと私は思います。
歪めて理解する可能性が低いですから。

●「妄想」

 前回も今回も私の「妄想」という言葉が問題になっていると思います。
書き方が乱暴で大変に申し訳ありません。

鎌倉時代の日蓮には法華経仏説や五時八経は成り立っていたので信仰の正当性はあったのでしょう。
日蓮に悪意はなかったでしょう。

しかし現代人から見て法華経仏説や五時八経は成り立っていません。
にもかかわらず、無謬な日蓮、罰を与える絶対的なイメージの日蓮がカルト教団の信徒会員にあります。
カルト信仰者の心の中には教団から教えられた絶対的な日蓮がいます。(日蓮の妄想)
いつしかカルト信仰者が他者に悪意を示しているとは気づかずに布教します。
教団トップは教団や日蓮の問題点を知って信徒会員に教えませんから、悪意あるでしょう。

LibraさんがHPに沢山書いて下さったように現代においても日蓮を師匠とできる宗教性は沢山あると思いますよ。

2.絶対的人格(神仏)への帰依という性格の「信」を人は実践すべきであるのかとゆー話(当為の領域の話)。

 うーん。絶対的人格ですか。。。。

私はブッダも日蓮も可謬な人だったと想像します。遺文や経文に残っていないだけかと。

私は人格形成という言葉にしてしまいますが、
別に日蓮から学んでも学ばなくてもいいしょうし、学んで実践するしないも自由かと。
法華経から学んでも学ばなくてもいいしょうし、学んで実践するしないも自由かと。
Libraさんから学んでも学ばなくてもいいしょうし、学んで実践するしないも自由かと。

現代において日蓮と全く同じ戒律(言動)をとっている僧侶はいないのですから、あまり期待はしていません。(笑)

どんな宗教教団にも宗教者にも嘘や間違いが有り得ます。正しいことも少しは言うでしょう。
宗教していない人でも嘘や間違いがありえます。

ではでは
返信する
ますますごっちゃになっとるやないか (Libra)
2009-08-23 22:30:24
 そううそさん、こんばんは。

 わたしは、「法華経信仰をする学会員さん」の信仰の中身については今回論じていません。わたしの今回のコメントは、法華経の「信」の性格はいかなるものなのかとゆー話です。

 そううそさんは、今回、「法華経の『信』の性格を問うても問わなくても良い」とおっしゃられたわけですけども、それなら、わたしは最初からコメントなんてする必要はなかったでしょう。

 わたしがあえてコメントしたのは、「法華経の『信』の性格を問う」た上で、わたしとは異なる見解を示されている独歩さんの発言を、そううそさんがこの記事の中で引用しておられ、しかも、それをあちこちにリンクしたりコピペしたりしているように見受けられたからです。

 わたしのコメントの趣旨はこれで理解して頂けましたか?
返信する
Unknown (そううそ)
2009-08-24 01:05:21
libraさん
こんばんは。

>わたしの今回のコメントは、法華経の「信」の性格はいかなるものなのかとゆー話です。

カルトについては問題視して批判や指摘は必要だと思います。
宗教については問題が少ないので批判や指摘は不要だと思います。

上記2つは私の意志も含まれます。

例えば独歩さんが真言宗をしていても原始仏教をしていても何でも構いませんが、そこにカルト性があれば問題視しますし、宗教であればOKかと。
今回の場合どの宗派でも信を説く/説かないは問題ではありません。

今回の場合、「信じる」という(宗教的な)行為にもgizmoさんのようなよりカルトに近いかカルト同等な与え方するのか?
それとも独歩さんの言うようなカルトからより遠い与え方なのか??、、ということかと。

独歩さんが信を説かなくてもOKかと。宗教の範囲だと思います。
Libraさんが信を説いてもOKかと。宗教の範囲だと思います。

本質の理解とその説明、それから原始仏教時代、鎌倉時代、現代と、どの様に変わってきたのか?
そうした説明がなされているのはLibraさんも富士門流も独歩さんも同じだと思います。
日蓮のいう信仰を続ける問答迷人さんと独歩さんで喧嘩なんかしていません。
日蓮のいう信仰を続ける問答迷人さんと私で喧嘩なんかしていません。
(BBSの荒らしなんかは私でも独歩さんでも問答さんでも不愉快ですし各人の断り方や怒り方があるでしょう。)

問題は宗教的な本質は人によってそれぞれ違うと言うことかと。
違っていても良い、違ってもOKかと。受け取り方、信じ方の問題ですね。

gizmoさんのは不健全かカルトな与え方でしょう。
私のブログで自己愛について書いていますが、

自分を愛する。
何かを信ずる。

それぞれ健全、不健全があると私は考えています。
返信する
Unknown (ナマズ)
2011-01-11 18:52:30
自分で教えを確かめるというのは、仏教の特色のひとつですね。

お釈迦様を本物かどうか自分で確かめるわけですから(他の仏弟子をお釈迦様だと勘違いしたエピソードもあります)

瞑想から見ても、思い込みは事実をみることの邪魔になります。

僕は信仰自体の救いのパワーはあると思いますが、それがゆえに争いの元にもなってると思います。

自分の宗教の信が強ければ強いほど、他の宗教とぶつかりますから。
この問題は世界宗教会議でも話し合われています。

日蓮宗VS浄土真宗
曹洞宗VS臨済宗
キリスト教VSイスラム教
仏教VSヒンドゥー教
小乗VS大乗



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