どうも二極思考が流行っているようですね。
やれやれ。いつまで経っても自身の拘りやトラブルの所為で原始仏教にいけませんね。。。。。
○”友”と”アドバイスする”ことに密接な関係はあるか?
あると思っています。
●二極思考(すべては白か黒か)の否定
○【カルトでない物】
釈迦はカルトではありません。
友を作ることが仏道修行なのだそうです。
友にアドバイスすることが出来ていました。
(順序としてはアドバイス→友になる、もあると思います。拘ることではありません。)
もちろん時には見守ることも友の役目かもしれません。。。。。。。
○【創価はカルト】
創価はカルトです。
友を作ることが仏道修行という意識は薄い。
敵と味方、白か黒かの2極論です。
友にアドバイスすることが出来ません。
学会幹部を注意できなかったり会員同士で注意出来ないのです。
○不軽菩薩
//////////////////////////////////////
やさしい法華経物語
http://www.sunlotus.org/tales/yasashi/011_020/yasashi15.html
「非難はおろか、棒切れで打とうとしたり、石ころを投げつける者までいた。」
//////////////////////////////////////
下種(げしゅ) 仏が衆生の心に成仏、得道の種子を下すこと。
下種折伏(げしゅしゃくぶく) 衆生の心に成仏の種子を下すため、非を改めさせ、強く説法すること。
どんな人間にも仏性がある。下種をするんだ。というのが”建前の”学会の教えです。
本来の教えからすると、非難してくる人、暴力をふるう人ですら敬う精神が不軽菩薩なわけです。
現代では暴力は禁止されていますので「非難」が当てはまるでしょう。
どんな人でも成仏の可能性を否定しないで敬うのは良いことです。
ここまではCMCではありません。
ところがいつの間にか、ネットの創価学会員を見れば分かるとおり、一般人、
アンチ創価(MC論からはこの言い方はダメなのですが。)退会者には学会員からの罵倒が見受けられます。
法華経の精神とは逆に敬わないわけです。
その理由は、学会員ではないから、先生の悪口を言うから、学会員の悪口を言うから。。。。。日蓮正宗だから。。。。。です。
常に敵と味方、二極思考(すべては白か黒か)ということを教えているのは創価学会員であり聖教新聞です。
創価は友とか友以上の同志とか先生の真の弟子とかいいますが、既に差別があるわけです。
法華経の不軽菩薩の精神を正しく理解するならば石を投げてくる人にも、
拝んでくれる人にも同等の態度にならなくてはなりません。
しかもこれは末端の学会員だけに通用する話ではなく、学会幹部にも通用する話ではないでしょうか?
どうなんでしょうか?>誰か。
ここで「地湧の菩薩」というのを学会員は持ち出してくるかもしれませんが、
これは基本的に信仰していない人との差別をするためではないはずです。
むしろ法華経作者の気持ちとしては、
「法華経を読んだ人よ!地湧の菩薩になってくれ!」
でしょう。
○やっぱり創価はカルト
恋愛の破局や友情の破局、親子の破局などが創価思考の結果な訳です。もう過去記事の通り。
学会問題BBSからも転載をいくつか頂いているとおりです。
親が学会活動を優先して子供がご飯食べさせてもらえないコメントが記憶に新しいです。カルトなわけです。
子供を犠牲にする創価。何考えているんだ?学会員。
知れば知るほど嫌になる学会。その5
恋愛の破局や友情の破局、親子の破局に”出来るだけ、可能な限り”ならないようにするのがアンチ創価側の目標の一つでは?ケースバイケースで破局が仕方のない場合もあるでしょう。創価はカルトですから。
ですから過去記事に書いたとおり、出来るだけ多くの退会者やアンチ創価はHPやブログを立ち上げて欲しいのです。
○【他のカルト】
//////////////////////////////////////
マインドコントロールからの脱出
( 統一教会信者たちのこころ )
パスカル・ズィヴィー 恒友出版
//////////////////////////////////////
第9章
脱会したあとの心理状態
実例3―人の会話を聞きながら学ぶことができるし、新聞や本やテレビでこの問題を乗り越える事が出来る。
二極思考(すべては白か黒か)
1、いろいろな見方、考え方を認めない
2、自分は正しく、相手は間違っている
3、バランスのある見方、発想ができない
4、完全主義のように、矛盾、問題点をかかえている状態に耐えられない。
5、結論、結果を先読みして、わかったつもりになる。(過程の大切さがわからない)
6、感情のコントロールができない。(幼児のような感情におちいることがある)
//////////////////////////////////////
というわけで、創価学会員であれば絶対にダメだ!!!黒だ!!!といのは上記の本からしてもCMC思考な訳です。創価思考です。残念でした。
カルトな教義内容も信じる人と信じない人がいます。
カルトな人も同様、信じる人と信じない人がいます。
それを信じ込ませるテクニックがMCに当てはまると考えられる、、、、という事のようですね。
二極思考(すべては白か黒か)の否定を改めてしておきます。
●アンチ創価、創価シンパというレッテル
ずいぶん以前からアンチ創価、創価シンパというレッテルやheckさんシンパという言い方は
MC論から厳密に考えれば私一個人の考えではダメ、、、というようなことを書いてきました。
理由は上記の通りアンチ創価、創価シンパという二極思考(すべては白か黒か)だからです。
というのもアンチ創価、創価シンパというのはカルト論に密接に絡んだ、MC論、つまりMind、心の問題だと思います。
CMCとアダルトチルドレン、共依存は多かれ少なかれ、ケースバイケースであってもそれぞれ無関係ではなさそうです。
アダルトチルドレン、共依存も全部心の問題です。
創価学会被害者として退会することを否定していません。当然、退会できた方が良いに決まってます。
今問題にしているのは籍の問題ではありません。
ここからが問題です。
アンチ創価と言いますが、さて私の心を数字や形で具体的に「アンチ創価度」「アンチ創価指数」を表現できますかね?
出来ないでしょう。
CMCといっても心から出てきてしまうか心から生まれるかのであり、心の表現としてネット上のコメントやメール文章に現れるのではないでしょうか?
私への非難があるようですが、はったり特急の人と仲良くしているのは「自分で考え自分で決めたこと」です。
(別途、一般人の怒りとCMCの怒りで後述するかもしれません。)
創価学会そのものや、悪しき組織、悪しき教義、悪しき学会本部幹部、本尊など、は完全に否定しても、目の前にいるバリ活すらも被害者意識の有無があるか無いかだけの”心を持った人間”はどうやって完全に否定できるか????これは非常に難しいでしょう。(一発でカルトっぽい人もいますけどね。(笑)罵倒する人は分かりやすいかな?分かりにくいのは礼儀正しかったり言葉は丁寧だけど、人間関係の破壊を招く様な人は危険かも。)
('07.06.09 14:53追記)アンチ創価、創価シンパという立場で人トータル、人全体や人の心全体を二極思考(すべては白か黒か)で推し量れないと言うことです。コメントや記事、ネットマナーなどの人の言動には個々に白黒をつけることは矛盾しませんし問題ありません。
●過去記事より
kousanの白と黒の間には無数のグレーがある。
友岡氏の書籍には「全くの善もなく、全くの悪もない。」
過去記事にも友人を失ったことは多々書きましたが、その所為でしょうか?
3月頃から私の中では
//////////////////////////////////////
アーナンダー
「私たちが良き友を得ることは、仏道の半ばを完成した事に等しいですか?」
釈迦
「良き友を得ることは仏道の半ばどころか、仏道の全てです。」
ブッダは歩むブッダは語る 友岡雅也 著 第三文明社 より P6から主旨。
//////////////////////////////////////
これは非常に大きなテーマになりそうです。
なにしろ”友を得る”修行なので友を得る方法や答えが出たり、友を1人、10人、100人という人数を得るという問題でもなく、得るという目的でもなく”友を得続ける死ぬまでのテーマ”(修行)かもしれません。
●学会員と友情を結ぶことは基本的には危険です。
特に高校生、大学生、社会人1,2年生、不幸があった人等々、MC論や社会を知らないところにつけ込んで入信を迫ることがあるでしょう。
だからこそ、MC論が必要だと感じています。
一体何処で誰がMC論をもて遊んでいるんですかね?
もちろん皆さんのネット上の体験記や相談BBSも重要です。(BBSのあり方と専門家の有無については後述かも????)
( 高校生、大学生、社会人1,2年生、不幸があった人等々、MC論や社会を知らない人は創価学会員とは関わらない方が良いです。過去記事と矛盾していないつもりです。 )
('07.06.09 14:53追記)絶対に幸せになれるから創価学会の信仰は絶対である。他の宗教は一切邪宗である。(他の宗教は黒である。創価だけが白なのである。)という二極思考(すべては白か黒か)、創価思考を改めて否定します。
とある一学会員が問題あるのかないのかを見分けるにはMC論が必要だと思います。
ではどうすればいいのでしょうか?
●心構え1
どんなに誰からも素晴らしい人格と評され人であっても、全てが「完全」だとは見てもいけないし考えてもいけない。
「この人が言うことは絶対だ」とは思わない。
そうやって人を買いかぶるのは「池田氏」を祭り上げるのと同じ感性になってしまうと思います。
恐ろしいことです。
●心構え2
友人関係と人の評価
まずは自分に受け入れて考え、吟味する。
肯定と否定、是と非、を考える。
最終的に自分の物とするかどうか判断する、、、
批判的合理主義、可謬主義が重要かと。。。。
仏教と批判的合理主義
仏教と批判的合理主義++NOTHING TO YOU
批判的合理主義は人間関係にも使えそうですね。
今回も当てはまってすごいや。
○心の取り扱い、肯定と否定
人の意見や人にしても、カルト論、MC論、宗教論にしても、
アンチ創価、創価シンパでもどちらも「心を取り扱う」という共通項があるのです。
ところが学会員が「心の取り扱いに失敗している」事が多いと私は考えています。
以前コメントの転載を頂きましたが、
学会員の親子で [ 注意、叱り、アドバイス ] (何でも好きなのをどうぞ)が通じたことは
「心の取り扱いに”成功”している」
「”心を変える”ことに成功している」
このことは重要であり、宗教的であると思います。
素晴らしい体験であることに間違いはないと思います。
お母さんは宗教も子供の状況も両方を「受け入れて考え、吟味」して
「肯定と否定、是と非、を考え」
「最終的に自分の物とする」(最終的に子供を注意する)
としたのではないでしょうか?
○私の心じゃない、他人の心じゃないんだから、どうにもできない
これについて「変えることが可能である」と反論しましたが、
いつも成功するわけではありませんし、可謬ですから失敗もあり得ます。
また急激に変えていいのか?等々なども、ケースバイケースで考えるべき事であり、
”「私の心じゃないんだからどうにもできない」ケースが存在すること”
を否定しません。そっとしておいてあげるのも時には必要なんでしょうね。
●引用
聖書
「なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気づかないのか。」(マタイ6:3、ルカ6:41)
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」(ルカ6:37)
仏典
「目の前にあるものも、目の前にいないものも、遠くに住むものも、近くにあるものも、すでにあるものも、これから生まれるものも、一切の生きとし生けるものに幸いあれ。」(スッタニパータ)
「ただ誹(そし)られるだけの人、また、ただ褒(ほ)められるだけの人は、過去においてもいなかったし、未来にもいないであろう。現在にもいない。」(ダンマパダ)
●友とは?
もうここまで書けば言いたいことは分かると思うのですが、
注意、アドバイス、指摘、批判、なんでもいいですが、これらの事と同時に、私はブログ管理や和解を求めたり、出入り禁止をしています。
偶々、はったりの人と連携しましたが、学会員の信教、思想の自由を強制したり奪うのではなく「当たり前のマナーを守れ!」「謝罪するように」といっているだけです。和解を求めている人が何人かいるわけですが、和解を求めることがその人を黒!としたり、100%否定したりするカルト思考に相当するんでしょうかね?
特に「裁く、非難する、レッテルを貼る、ダメ出しをする」ということと「和解を求める、呼びかけ、話し合い」ということは距離が遠い、のでは???と思います。
是非、私のカルト思考をMC論の本から引用してご指摘下さい。
○補足
私もいつ頃から気がついたのか忘れましたが、何でもかんでも自分でする必要はないし
無理して全部をする必要はないと思います。
一番したいことをみんなで協力して少しずつやっていけると良いですね。
最も問題なのは友情が失われたことです。
いてくれるだけの友人でも大事にするべきではないでしょうか?
友人はいつもいてくれません。
ですから、ほんの少しでも一緒にいれること、いられること、いてもらえること
こうしたことを大事にしたいですね。
もちろん私も学会員でも良い人やコメントを残してくれる人は
大事にしないといけないですね。
但し、当然というか、学会員には創価学会に席を置く以上は
その人を多少は厳しい目で見ないといけないかもしれません。
密接な関係を持っていても友でしょう。
MC論しか互いに話題のない友でも友でしょう。
仏教教学しか互いに話題が無くても友でしょう。
冗談しかお互いに言わない関係でも友でしょう。
創価は良く「リーダー」「立派なリーダー」「池田先生のようなリーダー」
こうしたことを求められます。
池田氏は無謬、池田氏は大商人の生まれ変わり、、、こうした異常な伝説から
いつの間にか「無謬なリーダー」「無謬な友?」を求める傾向が強いです。
ですから、お互いに(無謬でない)可謬な友人がいいですね。
副管理人や管理人をおいてはいけない、そういうことではありません。
「無謬なリーダー」は意識や感覚の問題です。
悪しき創価思考、悪しきCMCです。
自分も相手も可謬でいいかと。。。でも指摘などで変わって欲しい気持ちも本当です。
変わってくれたら嬉しいし、でも変わってくれなくてもいいのです。
わかります?このニュアンス。
☆まとめ
というわけで、
1.二極思考(すべては白か黒か)の否定
1.アンチ創価だからダメ!、創価シンパだからダメ!というのは法華経の精神とも異なっているし、創価思考にそっくり。アンチ創価側でも注意!
1.”友”と”アドバイスする”ことに密接な関係があり注意できないのがカルトです。(時には見守る。批判的合理主義で判断する。)
以上
追記 ('07.06.09 14:53)
追記 ('07.06.10)
○不軽菩薩
○やっぱり創価はカルト
やれやれ。いつまで経っても自身の拘りやトラブルの所為で原始仏教にいけませんね。。。。。
○”友”と”アドバイスする”ことに密接な関係はあるか?
あると思っています。
●二極思考(すべては白か黒か)の否定
○【カルトでない物】
釈迦はカルトではありません。
友を作ることが仏道修行なのだそうです。
友にアドバイスすることが出来ていました。
(順序としてはアドバイス→友になる、もあると思います。拘ることではありません。)
もちろん時には見守ることも友の役目かもしれません。。。。。。。
○【創価はカルト】
創価はカルトです。
友を作ることが仏道修行という意識は薄い。
敵と味方、白か黒かの2極論です。
友にアドバイスすることが出来ません。
学会幹部を注意できなかったり会員同士で注意出来ないのです。
○不軽菩薩
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やさしい法華経物語
http://www.sunlotus.org/tales/yasashi/011_020/yasashi15.html
「非難はおろか、棒切れで打とうとしたり、石ころを投げつける者までいた。」
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下種(げしゅ) 仏が衆生の心に成仏、得道の種子を下すこと。
下種折伏(げしゅしゃくぶく) 衆生の心に成仏の種子を下すため、非を改めさせ、強く説法すること。
どんな人間にも仏性がある。下種をするんだ。というのが”建前の”学会の教えです。
本来の教えからすると、非難してくる人、暴力をふるう人ですら敬う精神が不軽菩薩なわけです。
現代では暴力は禁止されていますので「非難」が当てはまるでしょう。
どんな人でも成仏の可能性を否定しないで敬うのは良いことです。
ここまではCMCではありません。
ところがいつの間にか、ネットの創価学会員を見れば分かるとおり、一般人、
アンチ創価(MC論からはこの言い方はダメなのですが。)退会者には学会員からの罵倒が見受けられます。
法華経の精神とは逆に敬わないわけです。
その理由は、学会員ではないから、先生の悪口を言うから、学会員の悪口を言うから。。。。。日蓮正宗だから。。。。。です。
常に敵と味方、二極思考(すべては白か黒か)ということを教えているのは創価学会員であり聖教新聞です。
創価は友とか友以上の同志とか先生の真の弟子とかいいますが、既に差別があるわけです。
法華経の不軽菩薩の精神を正しく理解するならば石を投げてくる人にも、
拝んでくれる人にも同等の態度にならなくてはなりません。
しかもこれは末端の学会員だけに通用する話ではなく、学会幹部にも通用する話ではないでしょうか?
どうなんでしょうか?>誰か。
ここで「地湧の菩薩」というのを学会員は持ち出してくるかもしれませんが、
これは基本的に信仰していない人との差別をするためではないはずです。
むしろ法華経作者の気持ちとしては、
「法華経を読んだ人よ!地湧の菩薩になってくれ!」
でしょう。
○やっぱり創価はカルト
恋愛の破局や友情の破局、親子の破局などが創価思考の結果な訳です。もう過去記事の通り。
学会問題BBSからも転載をいくつか頂いているとおりです。
親が学会活動を優先して子供がご飯食べさせてもらえないコメントが記憶に新しいです。カルトなわけです。
子供を犠牲にする創価。何考えているんだ?学会員。
知れば知るほど嫌になる学会。その5
恋愛の破局や友情の破局、親子の破局に”出来るだけ、可能な限り”ならないようにするのがアンチ創価側の目標の一つでは?ケースバイケースで破局が仕方のない場合もあるでしょう。創価はカルトですから。
ですから過去記事に書いたとおり、出来るだけ多くの退会者やアンチ創価はHPやブログを立ち上げて欲しいのです。
○【他のカルト】
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マインドコントロールからの脱出
( 統一教会信者たちのこころ )
パスカル・ズィヴィー 恒友出版
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第9章
脱会したあとの心理状態
実例3―人の会話を聞きながら学ぶことができるし、新聞や本やテレビでこの問題を乗り越える事が出来る。
二極思考(すべては白か黒か)
1、いろいろな見方、考え方を認めない
2、自分は正しく、相手は間違っている
3、バランスのある見方、発想ができない
4、完全主義のように、矛盾、問題点をかかえている状態に耐えられない。
5、結論、結果を先読みして、わかったつもりになる。(過程の大切さがわからない)
6、感情のコントロールができない。(幼児のような感情におちいることがある)
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というわけで、創価学会員であれば絶対にダメだ!!!黒だ!!!といのは上記の本からしてもCMC思考な訳です。創価思考です。残念でした。
カルトな教義内容も信じる人と信じない人がいます。
カルトな人も同様、信じる人と信じない人がいます。
それを信じ込ませるテクニックがMCに当てはまると考えられる、、、、という事のようですね。
二極思考(すべては白か黒か)の否定を改めてしておきます。
●アンチ創価、創価シンパというレッテル
ずいぶん以前からアンチ創価、創価シンパというレッテルやheckさんシンパという言い方は
MC論から厳密に考えれば私一個人の考えではダメ、、、というようなことを書いてきました。
理由は上記の通りアンチ創価、創価シンパという二極思考(すべては白か黒か)だからです。
というのもアンチ創価、創価シンパというのはカルト論に密接に絡んだ、MC論、つまりMind、心の問題だと思います。
CMCとアダルトチルドレン、共依存は多かれ少なかれ、ケースバイケースであってもそれぞれ無関係ではなさそうです。
アダルトチルドレン、共依存も全部心の問題です。
創価学会被害者として退会することを否定していません。当然、退会できた方が良いに決まってます。
今問題にしているのは籍の問題ではありません。
ここからが問題です。
アンチ創価と言いますが、さて私の心を数字や形で具体的に「アンチ創価度」「アンチ創価指数」を表現できますかね?
出来ないでしょう。
CMCといっても心から出てきてしまうか心から生まれるかのであり、心の表現としてネット上のコメントやメール文章に現れるのではないでしょうか?
私への非難があるようですが、はったり特急の人と仲良くしているのは「自分で考え自分で決めたこと」です。
(別途、一般人の怒りとCMCの怒りで後述するかもしれません。)
創価学会そのものや、悪しき組織、悪しき教義、悪しき学会本部幹部、本尊など、は完全に否定しても、目の前にいるバリ活すらも被害者意識の有無があるか無いかだけの”心を持った人間”はどうやって完全に否定できるか????これは非常に難しいでしょう。(一発でカルトっぽい人もいますけどね。(笑)罵倒する人は分かりやすいかな?分かりにくいのは礼儀正しかったり言葉は丁寧だけど、人間関係の破壊を招く様な人は危険かも。)
('07.06.09 14:53追記)アンチ創価、創価シンパという立場で人トータル、人全体や人の心全体を二極思考(すべては白か黒か)で推し量れないと言うことです。コメントや記事、ネットマナーなどの人の言動には個々に白黒をつけることは矛盾しませんし問題ありません。
●過去記事より
kousanの白と黒の間には無数のグレーがある。
友岡氏の書籍には「全くの善もなく、全くの悪もない。」
過去記事にも友人を失ったことは多々書きましたが、その所為でしょうか?
3月頃から私の中では
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アーナンダー
「私たちが良き友を得ることは、仏道の半ばを完成した事に等しいですか?」
釈迦
「良き友を得ることは仏道の半ばどころか、仏道の全てです。」
ブッダは歩むブッダは語る 友岡雅也 著 第三文明社 より P6から主旨。
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これは非常に大きなテーマになりそうです。
なにしろ”友を得る”修行なので友を得る方法や答えが出たり、友を1人、10人、100人という人数を得るという問題でもなく、得るという目的でもなく”友を得続ける死ぬまでのテーマ”(修行)かもしれません。
●学会員と友情を結ぶことは基本的には危険です。
特に高校生、大学生、社会人1,2年生、不幸があった人等々、MC論や社会を知らないところにつけ込んで入信を迫ることがあるでしょう。
だからこそ、MC論が必要だと感じています。
一体何処で誰がMC論をもて遊んでいるんですかね?
もちろん皆さんのネット上の体験記や相談BBSも重要です。(BBSのあり方と専門家の有無については後述かも????)
( 高校生、大学生、社会人1,2年生、不幸があった人等々、MC論や社会を知らない人は創価学会員とは関わらない方が良いです。過去記事と矛盾していないつもりです。 )
('07.06.09 14:53追記)絶対に幸せになれるから創価学会の信仰は絶対である。他の宗教は一切邪宗である。(他の宗教は黒である。創価だけが白なのである。)という二極思考(すべては白か黒か)、創価思考を改めて否定します。
とある一学会員が問題あるのかないのかを見分けるにはMC論が必要だと思います。
ではどうすればいいのでしょうか?
●心構え1
どんなに誰からも素晴らしい人格と評され人であっても、全てが「完全」だとは見てもいけないし考えてもいけない。
「この人が言うことは絶対だ」とは思わない。
そうやって人を買いかぶるのは「池田氏」を祭り上げるのと同じ感性になってしまうと思います。
恐ろしいことです。
●心構え2
友人関係と人の評価
まずは自分に受け入れて考え、吟味する。
肯定と否定、是と非、を考える。
最終的に自分の物とするかどうか判断する、、、
批判的合理主義、可謬主義が重要かと。。。。
仏教と批判的合理主義
仏教と批判的合理主義++NOTHING TO YOU
批判的合理主義は人間関係にも使えそうですね。
今回も当てはまってすごいや。
○心の取り扱い、肯定と否定
人の意見や人にしても、カルト論、MC論、宗教論にしても、
アンチ創価、創価シンパでもどちらも「心を取り扱う」という共通項があるのです。
ところが学会員が「心の取り扱いに失敗している」事が多いと私は考えています。
以前コメントの転載を頂きましたが、
学会員の親子で [ 注意、叱り、アドバイス ] (何でも好きなのをどうぞ)が通じたことは
「心の取り扱いに”成功”している」
「”心を変える”ことに成功している」
このことは重要であり、宗教的であると思います。
素晴らしい体験であることに間違いはないと思います。
お母さんは宗教も子供の状況も両方を「受け入れて考え、吟味」して
「肯定と否定、是と非、を考え」
「最終的に自分の物とする」(最終的に子供を注意する)
としたのではないでしょうか?
○私の心じゃない、他人の心じゃないんだから、どうにもできない
これについて「変えることが可能である」と反論しましたが、
いつも成功するわけではありませんし、可謬ですから失敗もあり得ます。
また急激に変えていいのか?等々なども、ケースバイケースで考えるべき事であり、
”「私の心じゃないんだからどうにもできない」ケースが存在すること”
を否定しません。そっとしておいてあげるのも時には必要なんでしょうね。
●引用
聖書
「なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気づかないのか。」(マタイ6:3、ルカ6:41)
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」(ルカ6:37)
仏典
「目の前にあるものも、目の前にいないものも、遠くに住むものも、近くにあるものも、すでにあるものも、これから生まれるものも、一切の生きとし生けるものに幸いあれ。」(スッタニパータ)
「ただ誹(そし)られるだけの人、また、ただ褒(ほ)められるだけの人は、過去においてもいなかったし、未来にもいないであろう。現在にもいない。」(ダンマパダ)
●友とは?
もうここまで書けば言いたいことは分かると思うのですが、
注意、アドバイス、指摘、批判、なんでもいいですが、これらの事と同時に、私はブログ管理や和解を求めたり、出入り禁止をしています。
偶々、はったりの人と連携しましたが、学会員の信教、思想の自由を強制したり奪うのではなく「当たり前のマナーを守れ!」「謝罪するように」といっているだけです。和解を求めている人が何人かいるわけですが、和解を求めることがその人を黒!としたり、100%否定したりするカルト思考に相当するんでしょうかね?
特に「裁く、非難する、レッテルを貼る、ダメ出しをする」ということと「和解を求める、呼びかけ、話し合い」ということは距離が遠い、のでは???と思います。
是非、私のカルト思考をMC論の本から引用してご指摘下さい。
○補足
私もいつ頃から気がついたのか忘れましたが、何でもかんでも自分でする必要はないし
無理して全部をする必要はないと思います。
一番したいことをみんなで協力して少しずつやっていけると良いですね。
最も問題なのは友情が失われたことです。
いてくれるだけの友人でも大事にするべきではないでしょうか?
友人はいつもいてくれません。
ですから、ほんの少しでも一緒にいれること、いられること、いてもらえること
こうしたことを大事にしたいですね。
もちろん私も学会員でも良い人やコメントを残してくれる人は
大事にしないといけないですね。
但し、当然というか、学会員には創価学会に席を置く以上は
その人を多少は厳しい目で見ないといけないかもしれません。
密接な関係を持っていても友でしょう。
MC論しか互いに話題のない友でも友でしょう。
仏教教学しか互いに話題が無くても友でしょう。
冗談しかお互いに言わない関係でも友でしょう。
創価は良く「リーダー」「立派なリーダー」「池田先生のようなリーダー」
こうしたことを求められます。
池田氏は無謬、池田氏は大商人の生まれ変わり、、、こうした異常な伝説から
いつの間にか「無謬なリーダー」「無謬な友?」を求める傾向が強いです。
ですから、お互いに(無謬でない)可謬な友人がいいですね。
副管理人や管理人をおいてはいけない、そういうことではありません。
「無謬なリーダー」は意識や感覚の問題です。
悪しき創価思考、悪しきCMCです。
自分も相手も可謬でいいかと。。。でも指摘などで変わって欲しい気持ちも本当です。
変わってくれたら嬉しいし、でも変わってくれなくてもいいのです。
わかります?このニュアンス。
☆まとめ
というわけで、
1.二極思考(すべては白か黒か)の否定
1.アンチ創価だからダメ!、創価シンパだからダメ!というのは法華経の精神とも異なっているし、創価思考にそっくり。アンチ創価側でも注意!
1.”友”と”アドバイスする”ことに密接な関係があり注意できないのがカルトです。(時には見守る。批判的合理主義で判断する。)
以上
追記 ('07.06.09 14:53)
追記 ('07.06.10)
○不軽菩薩
○やっぱり創価はカルト
みみちゃんさん
お返事が遅くなってすいませんでした。
>「親子」は別々の人間ですから信仰が違っても不思議ではないですよ。
同感です。子供が生まれたらそのまま学会入会という伝統はやめて欲しいですね。
>何かの「宗教組織に属する」かどうかが信仰「そのもの」ではない
>「所属」なんてものは、単なる形式に過ぎない。
創価や日蓮正宗では自分たちの「宗教組織に属する」ことが成仏の条件一つだと説いていますね。
日蓮宗は邪宗であり駄目だと言っていますね。
>そううそさんが仰りたいのは
>「間違った信仰のあり方を学会本部から教えられた親」の教育により、多くの2世3世が似通った苦悩を抱えていることから考えられることとして、そうした信仰のあり方を教育の方針に反映させてしまうことに問題があるのではないか。
>ということでしょうか?
そうですね。そうした面もありますね。
>親が「学会本部の指導」を「教師」とするか「反面教師」とするかで、その結果は全く違う
そうですね。
それから他にも子供が親の信仰観を教師とするか反面教師とするか?という視点もありますね。
>「親が教える信心」というものがおのずと違うため、「学会の家庭に生まれ育った子供はみな不幸」という結論を出すことは出来ません
>「学会本部の指導が間違っている」からといって、子供は必ずしも学会員である親から「悪い影響を与える」とは限らない
残念ながらここは意見が違いますね。
私を折伏した某君は親に言われるから、組織に言われるから、折伏をした面があると私は思います。
「学会の家庭に生まれ育った子供はみな不幸」ではないかもしれまでんが、私へのカルトの拡大、不幸の拡大はありました。
>『薄れていく教学研鑽
ここは私もブログの過去記事に書いたとおり、教学研さんの会合が少なくなり、仏教を学ぶ意識が薄くなっていったことは全く同感です。
>みなそれぞれ「その人なりの理由」があるからですよ。
>こうした私のような、「感謝できる親」からこの信仰を教わった。
>そして「その信仰で辛い現実を乗り越えてきた」という実感を持っている。
誰であれ、実感が持てたのは良かった事だと思います。
>そうした「人間として善い人」が、学会には確かに存在する」ことを「知っている」
私も過去記事において学会員が「比較的良い人」だったことを何度書いています。
>>”友を得ることが仏道修行”
>> ”友を得ることが人生の「小さなテーマ」では?曖昧でしょうか?”
>「小さなテーマ」という言葉のなかに謙虚さと同時に自信のなさがが漂います。
私にとっては過去記事に書いたとおり大きなテーマのようです。
みみちゃさんには共感がなかったようなので人生の「小さなテーマ」ではどうでしょうか?
>善い友から、自分が納得できる答えを出すヒントが得られることを願っています。
有り難うございます。
是非今後とも私の良き友でいて下さい。。。。。信仰が違っても。です。
ではでは
そううそ
ではでは
やはり「いや~な気分」になったらスルーでお願いします。
>>過去に遡って問題点や矛盾点を探さなければならなくなる。
>しかし今のみみちゃんさんは識者から親子で信仰心が違う事があっても伏木ではない、とはお考えにならないのですか?
もちろん同じでも良い訳です。
そううそさん
よく読んで下さい。
私は全て「あくまでも自分の場合」「自分の経験」に基づいて「自分の人生の整合性」を考察したことから、思うことや考えを書いています。
そううそさんが引き合いに出す例(場合)というのは「人の場合」であって、「私の場合」とは違う。
それを「過去に遡って考えて」みても「人の場合」が当てはまらない。
「私の場合」とは「違う」と思うことから、では、それはどうしてなのか?という「違い」についての説明をしました。
『親子で信仰が違うことがあっても不思議(伏木って書いてあったけど)ではない』とありますが、このことについて私は何も述べてはいません。
せっかくですから書きますが、「親子」は別々の人間ですから信仰が違っても不思議ではないですよ。
というか、私は「信仰」について、その概念を自分なりの解釈として散歩虫さんのところで書いてあります。
それに、私は学会員で夫の父は天台宗の檀家です。
そのことについて以前メールにも書きましたし、日記にも書いてあります。
そこで「宗教観の押し付け」について私がもの凄く嫌悪してる気持ちも書いてあります。
これらは私のコメントや考えを理解する上で見落とせない「私の価値観の表現箇所」ですから、それを認知せずして対話をするのはまさに水掛け論であり、不毛な対話となります。
ですから、そもそもあのコメントを読んでいながらにして『しかし今のみみちゃんさんは識者から親子で信仰心が違う事があっても伏木ではない、とはお考えにならないのですか?』という質問を私にするのはヘンです。
何度も書きますが、「信仰」とは、あくまでも「心の行為」であって「自分の心」でするものです。
そこには「他人の意思」は存在しないし、介入できません。
それを自分の意にそぐわないと思う人が、非を説いてなんとか入り込もうとするのを「土足で人の心に踏み込む」というんですね。
これは学会に限らず、どんな宗教を持つ人もみな共通するところです。
それに、何かの「宗教組織に属する」かどうかが信仰「そのもの」ではないと思います。
「所属」なんてものは、単なる形式に過ぎない。
悪いけど、そううそさんはこういう部分がちらほらあります。
私(以外の人でも)の真意を書いた箇所(理解する上で重要な部分です)を見落として、枝葉である表現箇所を切り文し、それに対して考えて書いているように見えます。
私は自分の考えをただ主張するだけでなく、その根拠や理由を道理として考えながら必ず書いていますよ。
残念ですが、引用された部分ではないところに私の真意としての答えは書いてあります。
>>信心が間違っているとするなら、何らかの矛盾が何処かしらの時点にあるはず
>これはちょっと違います。
”学会本部が教える信仰のあり方が間違っている。”
だから
親の教育方針がどこかで間違っている可能性がある、ということです。
ここは何がちょっと違うのかわかりませんね・・
そううそさんが仰りたいのは
「間違った信仰のあり方を学会本部から教えられた親」の教育により、多くの2世3世が似通った苦悩を抱えていることから考えられることとして、そうした信仰のあり方を教育の方針に反映させてしまうことに問題があるのではないか。
ということでしょうか?
それなら確かに、間違った考えから、信仰のあり方もまた間違ったように指導する人がいて、その人からの影響を大なり小なり受けて「間違った信仰のあり方に従い」ながら子供に教育してきたとしたら、子供が苦悩を抱えても不思議ではないと思います。
まさに親が「学会本部の指導」を「教師」とするか「反面教師」とするかで、その結果は全く違う展開となっていきますね。
けれども、その「教師」「反面教師」を選択するのは他ならない「その人自身」であって「個人の意思」によるものであり、その人自身の価値観に応じて実際の人間関係の対応に反映されるのではないでしょうか?
そのように考えれば、「家庭によって」同じ2世であっても「教育のされかた」「親が教える信心」というものがおのずと違うため、「学会の家庭に生まれ育った子供はみな不幸」という結論を出すことは出来ませんね。
ですから、私が言いたいことというのは、「学会本部の指導が間違っている」からといって、子供は必ずしも学会員である親から「悪い影響を与える」とは限らないということです。
実際、私の父は今で言う「アンチ」で、昭和60年の日記には、幹部批判がたくさん書かれています。この幹部批判といっても、「本部」ではなく「地元」に対してです。
いつから批判をするようになったのかは知りませんが、恐らく組織への不信感を感じるようになったのは、タテ線からブロックに移行されてからのようです。
そうした組織体制の変遷により指導が変わっていったのを父は感じていたのでしょう、日記には『薄れていく教学研鑽如実。草創期からBになってからの指導の幹部方式に転移したところに起因』と書かれています。
そしてその後に続けて『しかし私は“地道に実践~生涯教学”を目指して持経を誓う覚悟。日々新た~に。』との言葉で、自分の思いを締めくくっています。
他にも「己の信仰の確立」という言葉も書かれていますし、父は何を依所として学会の中で信心をしてきたのか、それは今にしてようやく私の身に置き換えた時、実感としてより理解できるところのものとなりました。
父は自分が信奉するこの仏法の理念は「草創期にあった」ということなんでしょうか。
それが現在(昭和60年)の学会にはないけれど、それでも「自分は仏法を実践する」という思いでいたのだと思います。
ですから、「父の信仰」というのは「今の学会の信仰」とは明らかに違うもので、それはたぶん私が生まれた時点においても「違うもの」だったように思います。
こうした親は、私のみならず他にも多く存在していたであろうことは、ネット上の非活である人のコメントなどから分かるかと思います。
なぜ学会批判しているにも拘らず、学会が明らかに間違っていると知りながらも未だ脱会しないのか?この信心を否定しないのか?
みなそれぞれ「その人なりの理由」があるからですよ。
こうした私のような、「感謝できる親」からこの信仰を教わった。
そして「その信仰で辛い現実を乗り越えてきた」という実感を持っている。
親でなくても、そうした「今」を享受できるに至った中で、「確かに感謝するだけの尊敬に値する人間性を持つ人」に出会い、そうした「人間として善い人」が、学会には確かに存在する」ことを「知っている」からではないでしょうか。
『”学会本部が教える信仰のあり方が間違っている。”』というのは、あくまでもそううそさんが学会本部から教えられた信仰のあり方が間違いだと分かり、そのような指導はそううそさんが入会した頃でのものでしょう。
少なくとも、私の信仰の経緯と事実について、そううそさんは「知らない」わけですから、短絡に学会家庭の問題の要因について、どの家庭にも当てはまる、共通しているかのように、「負の側面」からの視点だけで、答えも結論も出すことはできないと思います。
人により様々ですよ。
必ずしも「負の価値は負の価値しか生じない」ということはないです。
>もちろん人も教義もどちらもいつも100%必ずMCされるわけではありません。過去記事と矛盾しないと思います。"
これはもう、なんと言いますか・・
「MC論」の視点からだけでなく、もう少し「心のあり方」を「素直に」感じて考えたほうがよいかと思います。
なんだか感覚的にバランス悪いですよ。
どうも視点が偏りがちに感じます。
>学会員に聞かせてあげて下さい。(笑)(^_^;A
学会員は「間違っている」ことには気付いてはいませんよ?
間違いも矛盾も感じてはいないでしょうから、これは悩んでもいない学会員にいっても「馬の耳に念仏」です。
>>私は視点が違うんでしょうね。
>人生観や価値観の違いですね。
ですから「そこ」が違うんです。
視点です。
物事の見方です。
自分の人生観や価値観を抜きに、「論理」としてどうか?
人生観とかは「その後」に考察する時に判断材料として加えていくものです。
後者は視点の発展した、いわば「進化形」ともいえるかと思います。
>”友を得ることが仏道修行”
”友を得ることが人生の「小さなテーマ」では?曖昧でしょうか?”
あぁ・・なるほど。
いいんじゃないですか。
曖昧どころか具体的じゃないですか。
「小さなテーマ」という言葉のなかに謙虚さと同時に自信のなさがが漂います。
一人で歩ける自信をつけるには、友の存在というのは大きな力となるものです。
善い友から、自分が納得できる答えを出すヒントが得られることを願っています。
こんばんは。
>私はいつでもどこでも感覚は一定です
何となく分かる気がしますよ。
>それはなんとも失礼しました。
いえいえ。
とんでもないです。
>いや~な気分にさせて
>適当に流しちゃって下さい。
(笑)ヽ(^o^;)ノヽ(^o^;)ノ
>私は自分の考えを書くだけですので。
私のいつもそうしています。
ただ私の場合は自分の心の整理のためと考え方の移り変わりを書くことで
一般人のカルト入信が多少なりとも避けられると考えています。
またブログに纏めることも意味があると思っています。
>人の「気持ちが分からない」という部分においてでしょうか。
私も神様仏様ではないのである人の全てを分かってあがられることは無理ですね。
良く聞いてあげたいとは思っているので相手への質問が多くなっていますが。。。
>生まれた時から信仰してる
そうですね。
>過去に遡って問題点や矛盾点を探さなければならなくなる。
しかし今のみみちゃんさんは識者から親子で信仰心が違う事があっても伏木ではない、とはお考えにならないのですか?
もちろん同じでも良い訳です。
/////////////////////
創価学会の信仰に功徳はあるか? 創価教育、創価思考の現証(結果)が目黒区議団
だから2世3世4世の子供さん達は創価と親に矛盾、違和感を感じたらそれは正しいですよ?親の性格は別ですよ?あくまでも創価思考や創価教育の矛盾です。
/////////////////////
>信心が間違っているとするなら、何らかの矛盾が何処かしらの時点にあるはず
これはちょっと違います。
”学会本部が教える信仰のあり方が間違っている。”
だから
親の教育方針がどこかで間違っている可能性がある、ということです。
過去に書いたとおり、ある人がいつもMCしようしているわけではありません。
/////////////////////
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/a8831822c002131e2618aa18c538f0c2
創価学会の信仰に功徳はあるか? MCされる過程や順番 ”自分から嘘やCMCに飛び込む????”
"☆まとめ
といわけで「創価のMCは入信する時だけにあるのではなく、入信後など創価の何処でも何時でも存在する。」と思います。
もちろん人も教義もどちらもいつも100%必ずMCされるわけではありません。過去記事と矛盾しないと思います。"
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/cmt/71ab8a248581fe7ef2788937fc34dea0
Unknown (そううそ)
2007-06-17 12:55:59
>学会の根本的間違いをMC論に丸投げ
>短絡的に総括させてしまう理論として用いるのにはしっくりときません。
>「組織にMCされてるから」では論理的な批判方法としては稚拙な感じがするんですね。
カルト論、マインドコントロール論については先の記事にも書いたのですが、
何時、何処で誰がマインドコントロールされるか?については明確な定義がありません。
必ずしも創価学会員100%全員がカルトな人ではありませんし、
いつも必ずマインドコントロールしている人ではありません。
/////////////////////
>道理に合わない結果なんてないんですね。
>物事は全てそうでしょ。
>でもそれを客観的な理解に至るまでは以外と考えなかったりするんですよね・・
有り難うございます。
みみちゃんさんの上記の言葉も参考にして、私も創価の罰論、地獄論のMCを説くきっかけにしたいと思います。
みみちゃんさんとお母さんの記事も先日ある人との会話の中で出てきて再度大いに参考になりました。
>間違いというのは「理解できない」から間違うのであって、
>その「理解できない」ことについて理解しなければならないのに、そこに理解できないどころか気付けなかったりする。
学会員に聞かせてあげて下さい。(笑)(^_^;A
>そううそさんは何度も学会の家庭に生まれ育った人が陥る問題点を取り上げて指摘されています
そうですか?
あまり書いていないと思っています。あれれ???
>悪いけど、私の身には各当しない。
なるほど。
>私は視点が違うんでしょうね。
人生観や価値観の違いですね。
>私は脱会する気はさらさらないし、除名されない限り、一生「学会員」でしょうから。
そのようにお考えでしたか。。。。。
ちょっと驚きました。
>>では人生の「小さなテーマ」では?曖昧でしょうか?
>では、そのテーマとは?
(笑)(^_^;A
何を話していたかお忘れですか?
”友を得ることが仏道修行”
”友を得ることが人生の「小さなテーマ」では?曖昧でしょうか?”
-------------------------
>>>退会してMC論や友岡氏の書籍やLibraさん達に学べば学ぶほど、 ”友を得ることが仏道修行” という言葉が重要視されます。
>>>大事なのは徹底的に話し合うことですね。
>>私、仏道修行とか拘りないですよ。
>>「修行」なんてコトバはもう意識からすっ飛んじゃいましたから。
>では人生の「小さなテーマ」では?曖昧でしょうか?
-------------------------
>でもどうして喧嘩してしまいそうと思うんですか?
>私は人と喧嘩とかしませんから。
失礼しました。
安心しました。
そううそさん、おはようございます。
私はいたって普通です。のつもりです。
というか、私はそうでも、管理者というのは私の認識する以外のことに気遣われてるということですね。
それはなんとも失礼しました。
で、またいや~な気分にさせてしまうコメントを書いてしまうかも?ですが・・
そんな気分になったら「あーそうですかそうですか」と適当に流しちゃって下さい。
あくまでも私は自分の考えを書くだけですので。
>2世3世には私に分からない苦しみがあるでしょう。
ん・・
私に「2世ゆえの苦しみ」というのがあるとすれば、それは、「学会の信心」を善悪の判断を考えるまでもなく正しいと思う気持ちが「変わることはない」から、「間違っている」とか「正しくない」という人の「気持ちが分からない」という部分においてでしょうか。
私は自分の意思で入会した人と違って、いわば生まれた時から信仰してるようなものですからね。
「信仰」なんて概念すら知らなくても考えなくても、信仰を持った両親の元に生まれ育てられたことで、そうした内面的価値は成長過程で据えられてきたわけですよ。
で、その成長過程においても「何ら矛盾も違和感も抱かずに」むしろ「整合性を持って」ですから、それを「間違っている」と考えるなら、過去に遡って問題点や矛盾点を探さなければならなくなる。両親のことも、自分自身も、家庭も、全て客観的に見て考えてどうだろうかと。
私は一応それをしましたよ。何度も。
この信心が間違っているとするなら、何らかの矛盾が何処かしらの時点にあるはずだと思って、繰り返し繰り返し自分の過去に遡って、そして現在に至るまでを記憶から一つ一つ確認して考えながら。
で、何ひとつ問題点も矛盾も見当たらなかった。
道理に合わない結果なんてないんですね。
物事は全てそうでしょ。計算結果が間違っていれば、どこかで必ず間違いがあるもんです。
人は間違いに気付いた時、その間違いの合理性を考えるものでしょう。どうして間違ったのか・・って。
でもそれを客観的な理解に至るまでは以外と考えなかったりするんですよね・・
間違いというのは「理解できない」から間違うのであって、その「理解できない」ことについて理解しなければならないのに、そこに理解できないどころか気付けなかったりする。
自分は理解したつもりでいたのに、結果から考えたら「理解できてはいなかった」ということを客観的に考えるにはいたらないということです。
これは学校のテスト結果のプロセスを例に考察してみたんですが、いろんな物事に通ずる理論ではないでしょうかね。
で、これはある意味、理性の欠如というか未熟さを示すものであって、それだけ理性というのは物事を判断する上で必要な力ともいえるでしょう。
そういう意味では、本来、知的動物である人間にも拘らずそうした特性を生かすことなく・・価値とせず・・感情に比重を置いた思考というのは、理論的には非価値的で合理性がないと考えられると思います。
散歩虫さんのところに書いたことに付け足せば、「私は信心のことに関して、何一つ両親に反感を抱いたことはなかった」ということです。
そううそさんは何度も学会の家庭に生まれ育った人が陥る問題点を取り上げて指摘されていますが、悪いけど、私の身には各当しない。
私は「学会に入ってたがゆえに」という「2世の苦しみ」を感じたことがないので、そうした悩みを抱えた人の苦しみは知りがたいかもしれませんね。
>創価学会放棄宣言というBBSがあり、いくつかコメントを転載させて頂きました。
その中には親子断絶になってしまうケースがありました。
知れば知るほどイヤになる学会、シリーズを読んでみて下さい。
以前見たことありますよ。
でも「だから学会がイヤになる」とはなりませんでしたが。
ほとんどのケースはですね、基本的な「親子関係」に問題があると感じますし、誰もがそこを除いて考えてる感は否めません。
私は視点が違うんでしょうね。
そして、親が学会に「入っていたから」親は転倒の価値観を持ってしまったのか?といえば、あながちそうとも限らないと思います。
その親自身のもともとの精神性というか、心に何らかの問題点がある場合もありますしね。みんな生きてきた経緯は様々ですから、短絡的に一点に帰着して考えても問題の解決には至らないでしょう。
>じゃ、学会に深く関わり続けてみては?(笑)(^_^;A
深く関わっていこうとは思いませんが、生涯関わってはいくでしょうね。
私は脱会する気はさらさらないし、除名されない限り、一生「学会員」でしょうから。
>より一層、自立
かつ
より一層、安心感のある日常。
より一層、笑顔のある家族関係、、、などなどを築いて下さいね。
ありがとうございます。
でも安心感のある日常なんてものはないですよ。
毎日「どうするか?」と判断しながら選択してゆく繰り返しの日常ですから、後悔も逡巡も当然あります。
笑顔でいようと常に意識もしないし。
家族関係といっても、「個々の関わり」が基本ですから、夫と子供3人ひっくるめてではなく、「それぞれと」対自分で内面的に価値ある関わりをしていきます。
>では人生の「小さなテーマ」では?曖昧でしょうか?
テーマですか。
ん~・・
では、そのテーマとは?
私はただ、自分が生まれたこと、そして生きたことを、享受できればよいかなと。
そして、伝えることができれば・・
>> 先生が本幹で怒鳴ったのは「妥当」
>>ゆっちさんの場合は「妥当」でない。ということでしょうか。
>いえ、どちらも妥当ではありません。
どちらも何の【幸福、メリット、良い】という結果も得られていません。
方法としてもベストでもベターでもなく、どちらも同じようなかなり多くの問題を抱えています。
そうですか?
私はどちらの方からも得たものはありますよ。
価値を与えて頂きました。
正の価値からしか得られないと考えるのは貧しいかな・・と。
>本来は宗教であるはずの創価学会が見過ごすことなく解決出来ないといけないと思います。
宗教で解決できるなら、世界の不幸など絶滅してよいはずでしょう。
それはない。
連続性の中に全ては存在してるんですから、終りはあっても完全な「終末」などないと思います。
>このままコメントやり取りを続けていると私がみみちゃんさんと喧嘩してしまいそうで
どうコメントするか悩んでいました。
悩まなくていいですよ。
でもどうして喧嘩してしまいそうと思うんですか?
私は人と喧嘩とかしませんから。
>> そういう点、自分の感覚をもっと信じて、そこに忠実に従い、
>これが自分は苦手のようです。
そうなんです。
そううそさんと私の違いはこれなんですね。
学会批判については結論的には一致するんですが、その結論に至る理論がそもそも違うんです。
私は既に某所での日記にも書いた通り、常に、「自分の感性を信じて」生きてきたし、生きている。
それはこれからも変わらないと思います。
私が唯一自分に持てる自信とは「感性」。
これだけです。
歴史認識の池田氏の影響力や責任についての議論から池田氏のトータルな責任論に発展しました。
やはり孔雀さんのような問題人物は排除すべき。
場合によって人に影響したり私や外の人への「迷惑」でしかない。。。。
なんども私は経験しているのですが、記事をまたがって恨んだり怒ったりしてくる人がいるようですからね。時間的にも尾を引くと言うことでしょう。
必要ならコメント禁止かコメント欄を閉じる。
再度必要ならコメント許可を再開すればいいのですからね。。。。。
いえいえとんでもない。
>みみちゃんとは、普通にお話
これが大事かと。
孔雀さんとの一件もあり、流れ的に皆さんが言い争いになりやすい状態だったかもしれません。
いやいやいや、何にもたいしたことはしていませんのです(照)
みみちゃんとは、普通にお話させていただいていただけで。
こちらこそ、いつもお世話になっております。
ありがとうです(*'-'*)
こんばんは
> よく読んでなくてごめんなさい
Libra さんとのコメントやシリーズは後追いで結構ですので良ければ読んでみて下さい。
それと、散歩虫さんのところのコメント読みました。
みみちゃんさんのお気持ちがよく理解できるコメントでしたね。
それと「みみちゃん」のハンドル名で書き込める場所が又一つ増えて良かったですね。(^o^)/
> 読んでないでコメントしてしまおうとするこの根性を、ま、見逃してほしい
いえいえ、言い争いにはなっていない間は特に強制や要望はしませんので。
> すんごい誤字脱字で、おまけに自分で読み返して意味??の箇所
( ´・ω・)人(・ω・` )ナカーマ
私もそんな記事やコメントがあります。。。。。。
> 責任を取ったとはいえ
一応、この辺の会話は「池田氏が絶対に責任をとりそうにない。」ので
不毛に為りつつありますね。(笑)白黒二極論の本記事に書いてありますが、
パスカル・ズィヴィーさんのおっしゃっている事に従って、白黒をつけるのではなく
この辺で止めておきましょう。
//////////////////////////////////////
第9章
脱会したあとの心理状態
1、いろいろな見方、考え方を認めない
4、完全主義のように、矛盾、問題点をかかえている状態に耐えられない。
5、結論、結果を先読みして、わかったつもりになる。(過程の大切さがわからない)
//////////////////////////////////////
私もたまには白黒をつけるのではなくて、お互いに池田氏が責任をとって死ぬのか
責任をとらないまま死ぬのか楽しみにしましょう。
> 「全ての人が納得」できる結果など、先生に果たすことはできません。
> 先生は魔法使いではなく、ただの人間ですから。
同感です。私も「万人の心に納得」がいく責任などを求めてはいません。
> それに、せっかく例に挙げられても、宗教団体と会社は違いますよ。
当然です。経営責任など私は最初から求めていませんし書いていませんよ?(笑)(^_^;A
あくまでも学会組織としての仏教教義や学会精神、方針、公明との関わり方などなど、です。
> 両者の組織は、目的も違えば果たす責任も義務も違う。
同感です。あくまでも「人として」どうか?ですよね。上記の通りです。
まともな人なら会社”組織”でも宗教”組織”同じ”組織”、責任はとるでしょう。普通はね。
> ここがどうも、受動か能動かの違いと、優劣主義を見極める点になるのかと・・
(中略)
> いずれにしろ、精神的な自立が曖昧な過程において宗教を求めると、返って自立を阻んでしまうのかな?と、なんか他人事のように考えてしまいました。ごめんなさい。
いえいえとんでもないです。
わたしのほうこそ、散歩虫さんのように上手にコメントが出来なくて申し訳ないです。
上記へのお返事は散歩虫さんとのやりとりが答えになっているかと思います。
みみちゃんさんと私の経験、体験、思い(心)も両立するんですよね。
お互いの意見や体験や心は違います。
でも両立しますね。みみちゃんさんと私もどちらも、です。
> ただ「2世」だったというだけのことで。
いえいえ、そんなことは。。。。。。。
2世3世には私に分からない苦しみがあるでしょう。
創価学会放棄宣言というBBSがあり、いくつかコメントを転載させて頂きました。
その中には親子断絶になってしまうケースがありました。
知れば知るほどイヤになる学会、シリーズを読んでみて下さい。
> 無いものを探して求めて、というより、「存在してる中から」様々、自分の内面的価値として得てきた
私よりしっかりされている気がします。よかったですね。
> 専門家は構いませんが、素人はそこまで突っ込んだりしなくても、と。
> ん・・なんかですね、論証云々って、ちょっと違う気がするんですよ。
> なんかそれは哲学じゃなくね?っつーか人間にとって肝心なことってそういうんじゃなくね?って感じ。
>も、なんか不毛な「論理の主張合戦」って感じで興味なし。勝手にやってろ。みたいなもんです。
同感です。私も自分のブログで教義の不毛な言い争いがイヤでほとんど書いていません。
言い争いになる教義の議論は不毛でしょう。
>仏法論争とかって、教学マニアというか「オタ」同士の対決!!って感じ
(笑)
> 「創価はカルト」と結論づけてしまうのはどうかなと、腑に落ちない思いもある
じゃ、学会に深く関わり続けてみては?(笑)(^_^;A
止めといたほうが良いと思いますが、とめません。(^_^;A 冗談ですよ?(^_^;A
> 確かに学会はカルトの概念に符合します。
そうですね。
> だからといって、全ての退会者が「全く非はない」とは言い切れない
確かにそうです。では、どうして信心したのでしょうか?創価学会に
あなたの宗教は間違っている。だから不幸になる。
あなたの不幸は宿業。学会活動する事で宿命転換できます。
散歩虫さんのところでお二人が書いていたとおり、上記のような理由で
無謬な宗教、無謬である池田氏、法華経、創価学会、本尊、日蓮正宗などなど。。。。
これが正しい!、これが真実!ということを教えてきたのが学会です。
みみちゃんさんも学会や正宗の問題点に気がついてきたわけですから、
より一層、自立
かつ
より一層、安心感のある日常。
より一層、笑顔のある家族関係、、、などなどを築いて下さいね。
> 心の均衡がとれなくなるには、縁の作用だけでなく自分の心の働き方にも問題がある
同感です。私も専門家ではないのですが、みれいさんや散歩虫さんのところで
勉強させて頂くと同じような感想を持ち得ます。
> 私、仏道修行とか拘りないですよ。
> 「修行」なんてコトバはもう意識からすっ飛んじゃいましたから。
では人生の「小さなテーマ」では?曖昧でしょうか?
> もうね、そういう難解な仏教用語を使って主張するの、ほんとイヤ。
(中略)
> 意味わかんねーって。ほんとそう思う。
同感です。上記の通り。
> 先生が本幹で怒鳴ったのは「妥当」
> ゆっちさんの場合は「妥当」でない。ということでしょうか。
いえ、どちらも妥当ではありません。
どちらも何の【幸福、メリット、良い】という結果も得られていません。
方法としてもベストでもベターでもなく、どちらも同じようなかなり多くの問題を抱えています。
> >しかし、仏法者として頭の悪い私ですら、仏法者はどうあるべきか?ということをある程度、
> 理解できることを学会員が全く理解していないのはあまりにも疑問です。
>
> そううそさん、仏法者?
> なんて、ちょっとビックリ。
ひえー。書き間違えました。元仏法者です。(笑)(^_^;A
仏法者も、元仏法者も創価流、創価思考のレッテル張りに近いかもしれませんが。。。。
> 学会員は「常に温和が仏法者」という認識はない
> 「ひとたび牙をむいてきたら徹底して攻め抜け!!
>婦人部の幹部とか特に。
同感です。
> まぁそういうウチもあったりなんでしょうけどね。
> 創価だけとはいえないと思いますが。
> っていうか。
> 「宗教」が原因というより、「きっかけ」のような気がしますけどね。
> もっと心の本質部分にあるのではないでしょうか。
なるほど。。。。
理解されているようなので、みみちゃんさんのご家庭では創価問題をきっかけとして
家庭不和とか喧嘩はなさそうですね。なんとなく安心しました。
> 被害者意識の強い人って、酒乱癖の人と似たような心理作
そうなんですか?(笑)(^_^;A
> 絶対、何かしらあるもんですよ。自分が無神経に見落として鈍感に過ごしてきたことが。
なかなかに難しいですね。
本来は宗教であるはずの創価学会が見過ごすことなく解決出来ないといけないと思います。
散歩虫さんのようにやわらかいクッションの様なコメントが私には出来なくて
悩んでいましたが、お二人のコメントを読んで安心しました。
このままコメントやり取りを続けていると私がみみちゃんさんと喧嘩してしまいそうで
どうコメントするか悩んでいました。
良かったですね。私もみみちゃんさんの言いたい事が理解できたのでよかったです。
有り難う御座いました。
思いがけず今の結果があると思いますが、散歩虫さんも有り難う御座いました。
ナウシカさん
>仏法者どころか、人間としてどうあるべきか?
> まずは、人間として私として、どう生きるか?
> これが永遠の課題といいますか…
> 世間様も、学会員よ、もっと普通に生きてくれ!という感じ
そうですね。
一ついえるのは、よく「ありがたい教え、ありがたい仏様」という言い方がありますが、
学会員は往々にして「ありがたくない」ですね。(^_^;A
こうした今の状況で学会員のナウシカさんから的確なコメントを頂けるのは助かります。
> そういう点、自分の感覚をもっと信じて、そこに忠実に従い、
これが自分は苦手のようです。
> ファンタジェーンやそこに生きる人たちに拘り続けることに、果たして意味はあるのか?
> 私も悩んでいるところです。
何かあればナウシカさんのブログでも良いので書いて下さい。
ポエムでもいいですよ。(^^)
それはさておき…
>しかし、仏法者として頭の悪い私ですら、仏法者はどうあるべきか?ということをある程度、
理解できることを学会員が全く理解していないのはあまりにも疑問です。
う~ん、人間として頭の悪い私は、仏法者どころか、人間としてどうあるべきか?ということを、ほとんど理解してなくて、常々う~んう~んって唸っているので、ましてや仏法者としてなんて、ほんとわからない未知なる世界って感じです。
まずは、人間として私として、どう生きるか?
これが永遠の課題といいますか…
だから学会員としては、もう先が読めているというか、学会員としてどう生きるか?という点では、もうゴールが見えてる感じで(組織から望まれているという形では)だからもうそこはええねん!という感じです。
世間様も、学会員よ、もっと普通に生きてくれ!という感じじゃないでしょうか?
ファンタジェーンはないんだよということです。
心が作り上げる終わらない物語を読み続けているんだということを言いたいです。
そういう終わらない物語を、横から立てから斜めから眺めて、こうあるべきでしょ!というのも、結局はその終わらない物語を信じているような、自分の心に描いているような、そういうところで目が覚めたくない何かがあるのか?そう思えてしまいます。
アトレーユ?のような英雄もいなければ、それを励ます自分も物語の中にはいないし、悲しみの沼もなければ、お告げの場所?も実際にはないものです(映画『ネバーエンディングストーリー』を参照のこと)
そういう点、自分の感覚をもっと信じて、そこに忠実に従い、良くも悪くも悩みながら進むしかないんじゃないですか?
『弱い自分に勝てるなら、誰に負けたって良いさ』(コブクロ「風見鶏」より)
ファンタジェーンやそこに生きる人たちに拘り続けることに、果たして意味はあるのか?
私も悩んでいるところです。
私としてもこの事は ”心の整理整頓が出来、MCを解くことが出来たので良かった” と思っています。
私は気持ちを吐露することを否定してはいませんよ。
どんなに吐き出しても不安定な心の状態で何年も居続ける人がいるのも知っています。
私はそういう体験をしてないから、正直、退会者の心情はなかなか理解することができません。
でも、身心消耗し傷つき、退会したことの正当性を全て学会の教義など「宗教」に非を持たせて、「創価はカルト」と結論づけてしまうのはどうかなと、腑に落ちない思いもあるわけです。
確かに学会はカルトの概念に符合します。
だからといって、全ての退会者が「全く非はない」ということは、申し訳ないけど言い切れないと思う。
心の均衡がとれなくなるには、縁の作用だけでなく自分の心の働き方にも問題があるものです。
自分の心の有り様を、それこそ突き詰めて模索してみることもしないのは、それはいかがなものかと思うんですよ。
何かしら、自分の心のあり方に留意すべき点があったりするものです。そうした自分の心を掘り下げてみることもしてみないと。
そうでないと、何度も書くように「対象を変えるだけ」という、主体を無視する陥穽があるんですね。
結局同じなんですよ。「学会よりもいいものがあった」っていうふうになりがち。
絶対的なものなんてこの世には存在しないわけで、でもそれを潜在的に求める人というのは優劣意識が働いて常に相対的な何らかの優なる対象を自ら見つけ出すか、他に求めがちな傾向があるように思います。
常に、対自分ではなく、対「自分の依所」。自分よりも「依所に価値を置く」っていうんでしょうか・・そんな気がしてならない。
>退会してMC論や友岡氏の書籍やLibraさん達に学べば学ぶほど、 ”友を得ることが仏道修行” という言葉が重要視されます。
大事なのは徹底的に話し合うことですね。
私、仏道修行とか拘りないですよ。
「修行」なんてコトバはもう意識からすっ飛んじゃいましたから。
もうね、そういう難解な仏教用語を使って主張するの、ほんとイヤ。
御書の否定とかじゃないですよ。自分が得るのはいい。でも、人に対して絶対に使いたくない、最近、そういう気分です。
人が誇らしげに仏教用語の御託並べてんの見るとすんごい嫌悪感が湧く。
そういうの宗教に興味ない人にはなんも感じらんないどころか引くから。
意味わかんねーって。ほんとそう思う。
>ですから、その「怒鳴るに至る根拠」を12月にゆっちさんにも「どういうことですか?」と聞いたのですが、
返事はなく更に「私の友人関係を否定する罵倒」が帰ってきただけでした。
あぁ・・
これは「怒鳴るに至る根拠が妥当」という点では、先生が本幹で怒鳴ったのは「妥当」で、ゆっちさんの場合は「妥当」でない。ということでしょうか。
あんまり並列させて考える例ではないと思いますが。
>しかし、仏法者として頭の悪い私ですら、仏法者はどうあるべきか?ということをある程度、
理解できることを学会員が全く理解していないのはあまりにも疑問です。
そううそさん、仏法者?
なんて、ちょっとビックリ。
ちなみに私は仏法者っていう自覚がないんですが。
で、学会員は「常に温和が仏法者」という認識はないと思いますよ。
先生の指導読んでりゃ「ひとたび牙をむいてきたら徹底して攻め抜け!!って仰ってるでしょ。」とまぁ、さらりとそう言いますわな、婦人部の幹部とか特に。
>現役、元、どちらの学会員もkousanなどに無謬を求めたことが残念なことでした。
またいやはなんとも・・
もう私の中でとっくに終ってたので今更感がいっぱいなんですが。
えー、あれはですね。ま、当然だろうと。
いけないんじゃないん、そういうのは。っていうことを言ってたわけで。
誰がkousanに無謬を求めたのか私にはわかりませんが。
>私のブログにおいては一般的な男女問題は取り扱っていません。
私の文章も悪いかもしれませんが、
””創価関連における””
ふ~ん・・なるほど。
>家族、恋人、夫婦、親子などの人間関係の破壊を問題にしています。
・・・
まぁそういうウチもあったりなんでしょうけどね。
創価だけとはいえないと思いますが。
っていうか。
「宗教」が原因というより、「きっかけ」のような気がしますけどね。
もっと心の本質部分にあるのではないでしょうか。
こういう言い方悪いかもしれないけど、被害者意識の強い人って、酒乱癖の人と似たような心理作用があるような気がします。
それに、なんか、なんでもかんでも全て「悪い宗教のせいだ!」っていう論調って、好きじゃない。
そういうの、ネガティブな響きしかなくて切なさいっぱいでイヤになる。
「ウチの家族がへんな宗教にはまって困ってます」というなら、ではなぜ、そういう宗教にはまったのか?
まず、そこからでしょう、考えるのは。
遡って遡って、で、お互いの係わり方をよくよく振り返ってみる。
絶対、何かしらあるもんですよ。自分が無神経に見落として鈍感に過ごしてきたことが。
宗教が原因っていったって、結局は「人間関係で上手くいかない」のには変わりない。
そこを考えないと。
とまぁ、そういうわけで以下のように書いたわけですな。
>>今になって考えると、一概に「信仰ゆえ」というのではなかったと思っています。
>>それは自分の精神性に気付いてないからじゃないですか?
>これは何を言いたいのか不明です。
みみちゃんさんのことかな?
ま、自分の経験でもあるし、人の経験も聞いたり見たりしてです。
人は往々にして自分の精神性について、あんまり考えたりしないみたいですね。
人の顔はよく見えるけど、自分の顔は見えませんからね。
それだけ自分肯定を前提に置いて、他者否定をしてる人が多いってことでしょうか。
>ところで メール聞きたいことっておっしゃってましたが、大丈夫ですか?
未だにお返事頂いていませんが。。。。大丈夫ですか?
すみません・・
忘れてました。というか、自分の中では終ってました。
ご心配頂いてたんですね。ぜんぜん大丈夫です・・申し訳ない。
で、すみません。
なんか前のコメント、すんごい誤字脱字で、おまけに自分で読み返して意味??の箇所あったり。
ということで、3連休ぢゃ足りない!!と、ちょっぴり不満な気分でコメント書かせてもらいます。
>やはり、今までの間違いを正して、謝罪し方針転換を説明する必要があるでしょう。
間違った宗教というか思想をもって間違った行動を末端、トップに関係なく学会員がしているのですから
このことを正す責任があるでしょう。
全くもってそうですね。
今の学会員活動家の行為を転換させられるのは、先生自身が公式見解として、そううそさんが仰る通りの発言をされることが一番効果的ではないかと思います。
>最終的な責任は引退ですかね。。。。。?
これは学会に対して批判する誰もが望んでいることだと思います。
>>全て平等に納得させるこのできる方途などあるはず無い。
>そうでしょうか?
ですから会社の社長は?と例に挙げて聞いています。
幾ら大きな会社の社長でも不祥事を起こしたら説明責任や引責辞任はあるでしょう?
責任を取ったとはいえ「全ての人が納得」できる結果など、先生に果たすことはできません。
先生は魔法使いではなく、ただの人間ですから。
それに、せっかく例に挙げられても、宗教団体と会社は違いますよ。
両者の組織は、目的も違えば果たす責任も義務も違う。
>>きちんと一人ひとりが「自分で消化する」ことができるように
>これが宗教の場合難しい。。。。どうしても最初から、入信当初から、アドバイスを求めた時から
仏法をよく知っている人から教えて貰う形になってしまいます。
どうしても「教えを請う」形なわけです
ん~・・
ここがどうも、受動か能動かの違いと、優劣主義を見極める点になるのかと・・
私には「教えを請う」というのが、一見、能動的な心理に見えて実は「受身」に感じられるんです。
それは、続く言葉「どうしても『教えを請う』形なわけです」に表れているかと。
謙虚に「教え」を求める心はわかります。でも、その発露が「常依存的」な傾向のもののような気がする。そして、求める対象が無意識に「優劣」を・・悪い意味でブランド志向的に・・選別して、そこを心の依所として価値付けてしまうような。
私は「依存」する心を否定してるわけではないのですが、なんていうか、信頼という意味あいではなく、「すがる」というか・・悲哀のようなものが色濃く感じられるんですね。まぁ、心の赴くままに人を求めていくものでしょうから、それも自然といえば自然なんだけど・・
いずれにしろ、精神的な自立が曖昧な過程において宗教を求めると、返って自立を阻んでしまうのかな?と、なんか他人事のように考えてしまいました。ごめんなさい。
>みみちゃんさんの場合は人生観やご性格からしても自立されていますが、
私のように不幸が立ちはだかった場合、人は容易に宗教などを求めるのは自然なことです。
ん・・そういうもんなんでしょうね。
とはいえ、私も平々凡々、順風漫歩、お気楽な人生を生きてきたわけではないですが。
ただ「2世」だったというだけのことで。
私は「在る中」で、自分の環境に揃う中に在るものから、それらを縁として活用してきた。って感じでしょうか。
無いものを探して求めて、というより、「存在してる中から」様々、自分の内面的価値として得てきた・・そう思っています。
>もう一度繰り返しますが、創価公明、正宗は自分たちを無謬であるという認識があるために
話し合いはないのに、罵倒だけは盛ん、ということを問題にしています。
私は教学とかさっぱりちんぷんかんぷんなのでわかりませんが、各宗派の教義論争については正直あんまり興味ないしどうでもいいかと。
専門家は構いませんが、素人はそこまで突っ込んだりしなくても、と。
ん・・なんかですね、論証云々って、ちょっと違う気がするんですよ。
なんかそれは哲学じゃなくね?っつーか人間にとって肝心なことってそういうんじゃなくね?って感じ。
ま、それはそれで意味も価値もあるとは思いますよ、構いませんよ。
でも、一般的でない。日本の国内じゃ宗教家はなるほどでしょうけど、それでそんな仏法とは無縁な外人さんが法華経や日蓮の理念を理解できて共感することができるかといえば、も、なんか不毛な「論理の主張合戦」って感じで興味なし。勝手にやってろ。みたいなもんです。
あ。
ちょっと今思った。
言っちゃ悪いけどあれですね。仏法論争とかって、教学マニアというか「オタ」同士の対決!!って感じですね、端から見てると。
そういうやり合いに精を出して一喜一憂してるんなら違うことやれば。って私のような普通の人は思ってしまうんですよねぇ。
>また、、みみちゃんさんの話は「対話後の責任について」ということであれば、
あ、ごめんなさい。
やっぱりこれ、わかんないや。
この「対話後の責任について」っていうのが。
>私とLibraさんは釈迦仏法、法華経信仰、あるいは日蓮仏法の再構築ということが必要だと過去に論じています。
>「仏教教学の再構築が、”人の悲しみなんて「遠吠え」で「他人事」”に答えることかと。。。。。」
これはなるほどそうですね。
確かにやがては答えになるかと。
カルト・宗教脱会とその後(仮)
http://bbs11.fc2.com/php/e.php/mirei/?act=reply&tid=294586
ここを読んでから
心のリハビリの具体的な方法について
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8368/1174354195/
ここがいいかも。
ではでは
みみちゃんさん
>先生にインタビューですか?
はい。(笑)
>もうツッコミ満載
やっぱり?
いつもコメント下さるように怒濤のようにドカーっとインタビューしちゃって下さい。
なんというか、コメントを読むと学会本部に乗り込んだりしちゃいそうな勢いのみみちゃんさんの様な気がします。(^_^;A
あ!?バイクで乗り込みますか?(笑)
昔の衣装持ち出しますか?(笑)
私は50ccの原付どまりですので(笑)(^_^;A後ろにしがみつこうかな?ヽ(^o^;)ノヽ(^o^;)ノ
>じゃ実際、先生にその責任をどう受け止め、どのように果たしてもらいたいと考えますか?
やはり、今までの間違いを正して、謝罪し方針転換を説明する必要があるでしょう。
間違った宗教というか思想をもって間違った行動を末端、トップに関係なく学会員がしているのですから
このことを正す責任があるでしょう。
日蓮の謙虚さと求道精神と法論主義、対話主義とあまりにもかけ離れています。
>全ての人が納得できる「責任の果たし方」
最終的な責任は引退ですかね。。。。。?
>学会で得た信仰観を自分の人生に大きく影響させて係わって生きている
同感です。上記の通り。
>全て平等に納得させるこのできる方途などあるはず無い。
そうでしょうか?
ですから会社の社長は?と例に挙げて聞いています。
幾ら大きな会社の社長でも不祥事を起こしたら説明責任や引責辞任はあるでしょう?
>きちんと一人ひとりが「自分で消化する」ことができるように
これが宗教の場合難しい。。。。どうしても最初から、入信当初から、アドバイスを求めた時から
仏法をよく知っている人から教えて貰う形になってしまいます。
どうしても「教えを請う」形なわけです。
みみちゃんさんの場合は人生観やご性格からしても自立されていますが、
私のように不幸が立ちはだかった場合、人は容易に宗教などを求めるのは自然なことです。
>判断材料となる情報提示をしながら意見を述べ合う
>もっとも価値的ではないか
同感です。
「情報提示をしながら意見を述べ合う」このことは過去記事においても私は何度も書いています。
学会本部トップは正宗トップと「情報提示をしながら意見を述べ合う」必要があると思います。
相手が一個人の場合はもちろん当てはまりません。
対話主義と可謬主義ですね。昨夜深夜にLibraさんとも話し合いました。是非読んでみて下さい。
>議論の意義は、自分の感受性を意識して論理的な思考へと活性させることにあるのでは?
同感です。上記の通り。
>ありがちな「収め方」だったりするんじゃないですか?
あり得るでしょうね。
>でもね、自分が納得できることなら「あり」ですか?
>自分の気持ちさえ治まれば、あとはいいですか?何も問題に感じない。
>人の悲しみなんて「遠吠え」で「他人事」で、自分の胸にまで届いてはきませんか?
いいえ、そこまで私は明確に言及しているつもりはありません。
むしろ、創価公明、正宗の無責任な態度、話し合わない態度、隠蔽する態度
こうしたことを問題にしているのであり、みみちゃんさんの話はその先の「対話後の責任について」です。
もう一度繰り返しますが、創価公明、正宗は自分たちを無謬であるという認識があるために
話し合いはないのに、罵倒だけは盛ん、ということを問題にしています。
また、、みみちゃんさんの話は「対話後の責任について」ということであれば、
私とLibraさんは釈迦仏法、法華経信仰、あるいは日蓮仏法の再構築ということが必要だと過去に論じています。
「仏教教学の再構築が、”人の悲しみなんて「遠吠え」で「他人事」”に答えることかと。。。。。」
しかし今の時点では私にはとてもとても無理かと思います。
>自分はこんなに辛い思いをさせられたと吐露する
書かないことで新たに不幸が広がるよりはマシでしょう。
私の入信経緯を思い出して下さい、高校生、大学生の頃です
これは非常に問題だと思います。
>自分が癒されれば満足。
watasi_no_cult_taiken
"もう一度、過去を書き出す"
http://iwatachi.com/watasi01.html
ハッサン氏のマインドコントロールの恐怖には自分自身の体験を書き出すことを重要視しています。
私としてもこの事は ”心の整理整頓が出来、MCを解くことが出来たので良かった” と思っています。
>そううそさんは「怒鳴るのがいけない」と考えているんじゃないですか?
怒鳴る、=誹謗中傷という意味ならYesです。
しかし、人間には喜怒哀楽があり、喧嘩しても良いし仲直りしても良いのです。
時には議論しても良いのです、時には議論せず見守っても良いのです。
時には喧嘩しても良いのです、時には喧嘩せず見守っても良いのです。
時には怒っても良いのです、時には怒らず見守っても良いのです。
時には喧嘩しても良いのです、また仲直りすれば良いのです。もちろん仲直りしなくても良いのです。
退会してMC論や友岡氏の書籍やLibraさん達に学べば学ぶほど、 ”友を得ることが仏道修行” という言葉が重要視されます。
大事なのは徹底的に話し合うことですね。
>問題は怒鳴るに至る「根拠」です。
まったくです。
ですから、その「怒鳴るに至る根拠」を12月にゆっちさんにも「どういうことですか?」と聞いたのですが、
返事はなく更に「私の友人関係を否定する罵倒」が帰ってきただけでした。
>なんか「この人は」という先入観というか思い込みというか決め付けがないですか?
>っていうか、自分が理想とピッタリ一致する人っていますか?
確かにそういう一面があります。
しかし、仏法者として頭の悪い私ですら、仏法者はどうあるべきか?ということをある程度、
理解できることを学会員が全く理解していないのはあまりにも疑問です。
現役、元、どちらの学会員もkousanなどに無謬を求めたことが残念なことでした。
>理想なんて価値観があるだけ理想もそのように存在するもんでしょう。
>どれもこれも「ピッタリ」なんて、そんな人いませんよ。
日蓮本仏論、池田資本仏論、池田氏永遠の指導者もこれが原因ですかね。。。。。。
>同じことをいうのは「同じ論理」だからです。
>論拠が一つなんですから。
>「思考停止」でも「回避」でもないです。
>それをいうなら「思考回路が単一」ではないですかねぇ~?
みれいさんのMC論のBBSをご覧下さい。
いわゆるカルト思考ですね。私のブログでは創価思考とも書いてあります。
>>何事も無い人はそれで良いのですが、困るのは
>>1.周りにカルト思考で迷惑をかける場合。
>>1.取り返しのつかない不幸に至った場合。。。。ですかね。。。
>「あなたは何事もないから問題ない」ではなくて、「何事か起きることをしている」のが問題なんでしょう。
????
同じ事を言っているつもりですが?
>具体的な迷惑行為だけに問題意識を感じる
違います。「だけ」ではありません。上記の通り。
>>夫婦喧嘩やカップルが別れることもそうかと。。。。
>いや、違いますね。
>こんな「男女のこと」は、そもそも「価値観」の問題です。
いやいや、違います。(^_^;A
私のブログにおいては一般的な男女問題は取り扱っていません。
私の文章も悪いかもしれませんが、
””創価関連における””
家族、恋人、夫婦、親子などの人間関係の破壊を問題にしています。
知れば知るほど嫌になる学会
夫婦恋人で信仰が違う時
シリーズを読んでみて下さい。
>今になって考えると、一概に「信仰ゆえ」というのではなかったと思っています。
>それは自分の精神性に気付いてないからじゃないですか?
これは何を言いたいのか不明です。
みみちゃんさんのことかな?
私も自分の恋愛のことを多少書きましたが、破局は創価学会が原因ではありません。
原因は別であり、明記してあるはずです。
ところで メール聞きたいことっておっしゃってましたが、大丈夫ですか?
未だにお返事頂いていませんが。。。。大丈夫ですか?
>今の世間の常識は、未来には「非常識」になるという認識は持っていてほしいですね。
同感です。
>学会を主導してる人達が、気がついてるかついてないかは疑問ですが・・
>そうした人に引きずられてる信仰心厚い会員達は、ま、気付いてないでしょうね。
気がついていないでしょう。
ではでは
そううそ
かなり難しいことも書かれていますね。
ちょっと時間を下さい。(^_^;A
三連休でちょっぴり嬉しいみみちゃんです。
で、先生にインタビューですか?
もうツッコミ満載でレフリーがドカドカ乱入してきそうですわ。そっちのほうが怖いって。
聞きたいこと、確かめたいこと、沢山ありましたけどね・・今までは。
じゃ、さっそく辛口コメントいきます。
>だからこそ、新聞上で活字になって池田大作の名前で出ている物はやはり池田氏に責任があるかと。普通の企業だって社長が全文考えないかもしれませんが、責任は社長にあります。
こうした主張に対して私が思うのは、責任の所在を明らかにして「ではどうしますか?」ということなんです。
池田先生に責任がある。先生一人に全ての責任があるとしましょう。
じゃ実際、先生にその責任をどう受け止め、どのように果たしてもらいたいと考えますか?
これはね、それこそ第二の「豊田商事事件」の顛末も「あり」と言えちゃうくらい、悲惨な終焉を望む人もいるかと思います。
人によっては怒りや憎しみの強弱も様々。責任の求め方もそれぞれ。果たし方の希望や意見だっていろいろでしょう。
そうした考えを持つ人が、いったいどれだけいるか。それら全ての人が納得できる「責任の果たし方」なんて、現実可能なものでしょうか?
学会に入会した人は勿論、その家族も近しい人も、学会で得た信仰観を自分の人生に大きく影響させて係わって生きているわけでしょう?
学会に係わった人の数を上げたらきりがない。それだけの声を心を、一つも漏れなく全て平等に納得させるこのできる方途などあるはず無い。
私はそれこそ不毛な主張だと思います。
だからこそ、いつもいつも責任追及みたいな主張で議論を展開させていくより、きちんと一人ひとりが「自分で消化する」ことができるように、判断材料となる情報提示をしながら意見を述べ合うことのほうが、主張をする側もそれを受ける側も、もっとも価値的ではないかと考えます。
議論の意義は、自分の感受性を意識して論理的な思考へと活性させることにあるのでは?と、思いますから。
で、仮に「自分は納得」いくような責任が果たされたとします。
自分はそれで納得できちゃったから、まぁ一応これでいいか、と。それでも納得できない人が要求する様を横目で見て、「まぁまぁ、そこまでは無理というもんだよ。ある程度はガマンも仕方ないんじゃない。」みたいなこと言っちゃうのが、ありがちな「収め方」だったりするんじゃないですか?
社会なんて現実はそんなもんでしょう。
そういうフェアでないことが常識的に横行してるのが人倫社会の営みなんです。それが「超現実」です。
でもね、自分が納得できることなら「あり」ですか?
自分の気持ちさえ治まれば、あとはいいですか?何も問題に感じない。
人の悲しみなんて「遠吠え」で「他人事」で、自分の胸にまで届いてはきませんか?
そんなご都合な意識なら、まさに今、学会に批判してる指摘するところ意識となんら変わりない、全く一緒。
「ただ対象が違うだけ」のもんです。
学会批判、池田批判、全然オッケーです。
でもね、ただ自分はこんなに辛い思いをさせられたと吐露するだけで、それを認めてくれるものは「是」と考えるのはあまりにも「利己的」ではないかと。
自分が癒されれば満足。自分を満たすものは是認され、自分の感覚の範疇外のものは是も非もないと。
これはあまりにも無責任・自分勝手な感覚としか思えない。
自分の知る、感じるものだけが「全世界ではない」という感覚を、私は忘れたくないと思っています。
>その狡さというかご都合主義がいけないんだと思います。。。。
でしょうね。
先生は何度も言われてますよ。
「曖昧はいけない。」と。
指導メモやらスピーチ集とか、いたる指導の中に書いてあります。
当然でしょう。
物事は全て因果ですし、シーンによって経過や過程など様々複合的に折り重なっていますから、捉え方なんて立場変われば如何様にも捉えられるもんです。
>>怒鳴るほうも怒鳴られるほうも「どっちもどっち」
>(笑)そうですか?仏法者として人としてどうかと思います。
そううそさんは「怒鳴るのがいけない」と考えているんじゃないですか?
私は別に人間だから怒鳴るのも「あり」だと思ってますが。
問題は怒鳴るに至る「根拠」です。いつもどんなこともそう考えています。
なんか「この人は」という先入観というか思い込みというか決め付けがないですか?
「人はかくあるべき」「仏法者はかくあるべき」みたいな。
人間ですよ?どんな善い人がいても人間ですからね。
っていうか、自分が理想とピッタリ一致する人っていますか?
私も理想が高くて高くて・・・だから辛辣なことばかり言ってしまうんですが。
だからこそ、そうした人間の理想像を人に求めないで「自分がそうなる」と考え、そうなる努力をしたらいいんじゃないでしょうか?
私、去年だったか、ある幹部の人に言いましたよ。
「信心していて良い先輩はいるけど、自分の模範となる人はいない。」って。
なんか愕然としてましたけどね。
私にしてみりゃ「当たり前」だろうと。
理想なんて価値観があるだけ理想もそのように存在するもんでしょう。
どれもこれも「ピッタリ」なんて、そんな人いませんよ。
>実際同時中継参加者は「師匠だから」「池田先生だから」。。。と
容認しているんじゃないでしょうか?
あ、これと同じじゃないですか?つか逆バージョン。
「先生だから」怒鳴ってはいけない。っていうわけですよ。
そんな気がしますが。
「容認」っていうのは違うんじゃないかなぁ・・
「当然だ!」と思う人もあれば、「どうして・・?」と心が動揺する人もいるかもしれないし。
「みんな」はない。みんな「いろいろ」で、「みんなの声」は出揃っていませんから、決め付けるのは早合点で間違いです。
>>人の数だけ心があって、その一人の心だって動き続けてる
>おっしゃるとおりですが、でもバリ婦人部はみんな同じ事を言いますよね。(笑)(^_^;A
思考停止というか肝心な部分の思考回避というか、ぐるぐる回っているんじゃないでしょうか?
同じことをいうのは「同じ論理」だからです。
論拠が一つなんですから。
「思考停止」でも「回避」でもないです。
それをいうなら「思考回路が単一」ではないですかねぇ~?
>何事も無い人はそれで良いのですが、困るのは
1.周りにカルト思考で迷惑をかける場合。
1.取り返しのつかない不幸に至った場合。。。。ですかね。。。
違いますよ。
「あなたは何事もないから問題ない」ではなくて、「何事か起きることをしている」のが問題なんでしょう。
自分の行為は何らかに影響を与えながら社会に存在してるんですよ。
そこを考えないといけない。
具体的な迷惑行為だけに問題意識を感じるのは、私は違うと思うな。
結果論は今の結果であって未来の結果とは限らない。時は流れていくわけですから。
連続性という発想で考えていかないと、短絡な指摘の終始になっていまいます。
>夫婦喧嘩やカップルが別れることもそうかと。。。。
いや、違いますね。
こんな「男女のこと」は、そもそも「価値観」の問題です。
人を好きになるのは「自分の勝手」でしょ。
嫌いになるのも「自分の勝手」。
恋愛は受身じゃないですよ、能動的なもんでしょ。
そんなことを「信仰に絡ませる」のは「逃避」かな?と。
実は他に、さまざま見落としてる要因とかあるのではないか?と私は考えています。
ウチの夫も20年以上?すんごい反対してましたが、最近じゃ私のほうが過激な批判をしてます。
で、ちょっと引いてます。そこまで言うか・・みたいな。
今になって考えると、一概に「信仰ゆえ」というのではなかったと思っています。
それは自分の精神性に気付いてないからじゃないですか?
自分を世間の常識に当てはめて正当化する人が多いですけど、その世間の常識とされる精神性についてはなんら疑問を感じたことがない。というのはちょっとオカシイかも。
今の世間の常識は、未来には「非常識」になるという認識は持っていてほしいですね。
間違いだらけの常識が沢山あるから、今の日本、こんなに問題が溢れてるんでしょ?そこも考えないと。
批判便乗もいいけど、もっと自分の感性を総点検したらどうですか?と、私はいいたいですね。
>問題は ”嘘”や”間違い”だった、と言う認識がその人になさすぎるのです。
>今の創価問題は教学に限っても”嘘”や”間違い”から今の創価があるのにそれに気がついていません。
学会を主導してる人達が、気がついてるかついてないかは疑問ですが・・
そうした人に引きずられてる信仰心厚い会員達は、ま、気付いてないでしょうね。
っていうか気付けないでしょう。
「絶対的な真理」を突きつけられてしまっては平伏すしかない。従属することが殉教精神でもあるんでしょうから。
学会指導として「真理は一つではない」と見解を示さない限り、多くの会員は気付くことができない。
そんなふうに思います。
http://blog.goo.ne.jp/mirei-2005/e/c6ab079d34bceb033e4c19aeeeddd19f
さすがはみれいさんです。
(笑)そーかなぁ~(^o^)
> ごめんなさい。
いえいえ。
>理論が「誰のもの」か?というのが問題ではないかと思います。
SGI提言や同時中継の発言とその新聞には責任あるでしょうね。
なにしろ学会員が絶賛(笑)しているわけですし。
>全てごちゃ混ぜですからね・・
(笑)
>よくあるでしょ、
>「言った言わない」っていう言葉の行き違い。
いやーよくありましたね。「よく」というか嫌になるくらい。。。。
(大笑)これは笑うところですね?????(^o^)
だからこそ、新聞上で活字になって池田大作の名前で出ている物はやはり池田氏に責任があるかと。普通の企業だって社長が全文考えないかもしれませんが、責任は社長にあります。
>それに、スピーチの内容全てが間違いってわけでもない
>そりゃぁ理に適った正論もしてますわ。
そうでしょうね。その狡さというかご都合主義がいけないんだと思います。。。。
>そもそもスピーチは総体的に抽象論で曖昧なんですね。
そうですね。
canary_windさんところでも言われていましたが、外部の人にはいつも同じに感じるようです。
私は。。。。。。(-_-)
> だから先生個人の見解と確実に判断できるのは、インタビュー発言ではないかと。
なるほど。新聞掲載原稿ではなくてインタビューですか。
是非インタビューしてみたい人がいるんじゃないですか?(笑)
>代々会長達もかなり疑惑ありなことをやってたらしいし、イケナイこともしてた
そのようですね。
>怒鳴るほうも怒鳴られるほうも「どっちもどっち」
(笑)そうですか?仏法者として人としてどうかと思います。
>みんな考えてますよ、ちゃんと。
ここはわたしとみみちゃんで違いますね。
実際同時中継参加者は「師匠だから」「池田先生だから」。。。と
容認しているんじゃないでしょうか?
>人の数だけ心があって、その一人の心だって動き続けてる
おっしゃるとおりですが、でもバリ婦人部はみんな同じ事を言いますよね。(笑)(^_^;A
思考停止というか肝心な部分の思考回避というか、ぐるぐる回っているんじゃないでしょうか?
>もっとみんな「お気楽」ですよ。
>思考なんて浅いですからね。
>おいおい・・ったく、能天気なババァだなぁ
>ほんと、だみだこりゃ。って感じで。
やっぱり幹部はみんなそろって、
”思考停止というか肝心な部分の思考回避というか、ぐるぐる回っているんじゃないでしょうか?”では?
>良い意味でアイデンティティを確立させる行為に繋がるわけですから、否定したくはないんですが
そうですね。
>実はこれが「妄信」の一番の要因
同感です。
>自分の中じゃ一つひとつリンクしてるんでしょ。「先生」という存在はそのリンクの先にあるものだったりすると思いますよ。
ふーむ。これはこれで興味深いかも。。。。。
>今まさに活動中の人には無理でしょうね。MC自覚ないですから。
何事も無い人はそれで良いのですが、困るのは
1.周りにカルト思考で迷惑をかける場合。
1.取り返しのつかない不幸に至った場合。。。。ですかね。。。
夫婦喧嘩やカップルが別れることもそうかと。。。。
>ほとんどの人がね、間違った信仰観
>これはlibraさんの指摘
まったくです。
ここ数日も嘘と思われる、創価都合、大石寺都合の教学を持ち出している人がいて議論中なのですが、やはり対処に困ります。
問題は ”嘘”や”間違い”だった、と言う認識がその人になさすぎるのです。
今の創価問題は教学に限っても”嘘”や”間違い”から今の創価があるのにそれに気がついていません。
>ほんともうみんな呪術
>これはもうヤバイですよ。
やばかった人。その一。>そううそ。(笑)
>もう素直に撤回してほしいですよね。違ってました。って。
まったくです。
>で先生はもう隠居生活でもしたほうがよろしいかと。
(笑)。先程の話ではないですが、池田氏に突撃インタビューして下さい。
みみちゃんさんなら、面白そう(爆)ヽ(^o^;)ノ
なんて思って久々書いてみました。
そううそさん、こんばんわ。
たまにロムはしてたのでレス読んでいたんですが。
ちょっとすっとぼけてました。
ごめんなさい。
で、そうですね・・
>池田名誉会長にゴーストライターが書いた物とは言え彼のスピーチの責任はあるとおもいます。
最終的な責任の所在は必ず彼にあるでしょう。
これはどうですかね。
発言の責任なんて、「自分が言ったことには責任を持つ」という考えから当然のことといえますが、内容の文章・・理論が「誰のもの」か?というのが問題ではないかと思います。ま、池田先生自身がそれに同意してのことなら当然、先生自身に責任ありでしょうが、なんつっても、もう新聞に掲載されたものと実際話したことと、カットされた話や寄稿とか全てごちゃ混ぜですからね・・
まず、一貫した先生自身の主張を全文立証とか不可である以上、なんとも言い難いものがあると思いますよ。
私はね、言ったかどうかよりも「理論がどうか?」というのが一番の問題であると思ってるんです。
よくあるでしょ、「言った言わない」っていう言葉の行き違い。
人によって言葉の受け止め方って違うから。
それに、スピーチの内容全てが間違いってわけでもないですし。
そりゃぁ理に適った正論もしてますわ。部分的に納得も共感もできるものもあります。
ただ、読み方・聞き方によっちゃぁ「ん?それってちょっと違くないかい?」っていうのもあって、でも、ま道理はそうだよね、確かに・・とも思えたり。
っていうわけで、そもそもスピーチは総体的に抽象論で曖昧なんですね。
だから先生個人の見解と確実に判断できるのは、インタビュー発言ではないかと。
新聞や雑誌でのインタビューで何て答えていたか?そこからしか確実な論証というのは得られないと考えています。
>スピーチの合間に出る原稿にない発言で、秋谷元会長への罵倒や○田氏への罵倒なども十分に池田氏の責任でしょう。
同時中継は編集されてカットされるそうですが、その場にいた人たちが全く思考停止しているのが問題です。
罵倒したことに全面、非があるとも言えないような気がしますが。
なんで罵倒されたのか?っていうのも考えないと。
代々会長達もかなり疑惑ありなことをやってたらしいし、イケナイこともしてたようですからね。
そりゃぁ怒るわな、確かに。ま、しょうがないんじゃん。とも思うし。
ま、怒鳴るほうも怒鳴られるほうも「どっちもどっち」というのが妥当ではないでしょうかね。
ですから責任を科すのは先生一人にはできないと思います。
で、参加者が思考停止というのはないと思いますよ。
みんな考えてますよ、ちゃんと。「どう考えてるか?」というだけのことでしょ。ここが重要なわけで、「問題」なんじゃないでしょうか。
人の数だけ心があって、その一人の心だって動き続けてるんですから・・自分のことを考えればなんとなく想像できますよね?
さまざま思考して落ち着かせるためには最終的にどっかへ思考を置くわけですから。それが心を収めるってことじゃないですか。
それぞれが自分に納得いくように、都合よく理解しちゃうんじゃないですかね。
>友情などから「あの人が悪いことをするはずがない!」というのと同様、自分にとって今までは師匠なので
師匠を否定することは自分否定に繋がると考えがちなのではないでしょうか?
自分否定・・ここまで意識の上では考えちゃいませんよ。もっとみんな「お気楽」ですよ。
思考なんて浅いですからね。
実際私言われましたから『考え過ぎよ・・でもマジメなのね。』なんて。
おいおい・・ったく、能天気なババァだなぁ・・と思ったもんですから。
ほんと、だみだこりゃ。って感じで。
これが圏婦ですからね・・もう内部は手に負えませんわ。
てか、婦人部なんてね、もう活動が生きがいになっちゃってるわけですから・・幹部なんて仕事もしてないし、他にやることないじゃないですか。
世間から見りゃただのおばちゃんが組織の中じゃ「婦人部長さん」で、綺麗な格好(趣味はいろいろ。感性によるので言及しませんが。)もできる。部員さんから「幹部だから」もてはやされる。
優越感をえられる最高のオアシスなわけですね。もうここにしか自己肯定感を得られる場所はないんです。
ま、良い意味でアイデンティティを確立させる行為に繋がるわけですから、否定したくはないんですが・・実はこれが「妄信」の一番の要因ではないかと、私的には見ています。自己中に走る要素。何を言っても聞く耳持たない活動家はだいたいがここに問題があるでしょう。
これは潜在意識の働きですから、その人は意識として自覚することはないんですね。
だからややこしいし面倒なわけです。会話をしていて、おかしいよ?と、論理的に話して説明したところで、なかなか本人は理解できない。
そういう意味では、信じている先生を批判されて自己否定と感じるより、ここで指摘をされて初めて「自己否定された」と感じるかもしれません。
自己肯定できる根拠となる実際の活動に関する批判を受けたら、もう面白くないですからね。
自分の中じゃ一つひとつリンクしてるんでしょ。「先生」という存在はそのリンクの先にあるものだったりすると思いますよ。
>MC論にはその脱却としてカウンセリング論があるように権威主義的パーソナリティーとその脱却には何か法則や条件などがあるかもしれませんね。>どうでしょうか?みれいさん、そのほか詳しい人。
精神的に病んで脱会した人、または考えてる人にはカウンセリングが必要かと思いますが、今まさに活動中の人には無理でしょうね。MC自覚ないですから。
私は今やってる人に気付いてもらわないことには、学会の問題解決には至らないと思います。
ほとんどの人がね、間違った信仰観でいるんですよ。これはlibraさんの指摘と主張が符合してる思います。
ほんともうみんな呪術なんだから。もう題目あげりゃ願いは叶う。って神がかりな信心を教えてますからね、これはもうヤバイですよ。
学会活動で福運を積むだの、業を切るだの、選挙や財務で功徳を貰うだの・・もう乞食根性っつーか乞食信心っていうか、食法餓鬼というか・・もう情けない言葉の連発で、会話がもう・・非現実的だから。
末端の会員なんて頭ん中じゃ日蓮なんかどっかすっとんでますよ、みんな。
あ~もうほんとここまでおかしな理論を浸透させた組織の指導性は確実に悪かったと思います。
もう素直に撤回してほしいですよね。違ってました。って。
で先生はもう隠居生活でもしたほうがよろしいかと。
生きがいはまた違う何かを見つけて下さい・・と。
多くをしゃべり過ぎたんでしょうね・・ポイントだけ話して、後は後輩に任せれば良かったんですよ。
>特に創価の場合は婦人部が支えているのですから、創価のおばちゃん達にも簡単に比較できて分かるような内容にするのが理想ですね。歴史認識ではそうはならなかったのが残念でした。
そうです。私はそれが言いたかったんです。
誰でも分かる話。当然でしょう。それが親切というものです。
あんなわかんない話を引き合いに出されたって、婦人部だけじゃなくて、一般の人だって大方が??って感じでしょうが。
だから「マニアック」って書いたんですよ。
普通ね、あんな中国と日本では昔・・なんて言ったって、最後まで真剣に聞く人いませんよ。もう途中でリタイヤだから。
あの人、なんか変わってるよねーって「ドン引き」だから、マジで。
しかもなに、あれ、全部引用じゃね?
んなのネットで調べてみろ。で済む話じゃね?ほんとアホくさ。
ああいうつまんない話をして議論とか言っちゃう神経がおかしいです。
もっとなじむ話ができないと、価値ないですね。ムダ。
というわけで、私もついつい嫌な気分にさせる書き方をしてしまいますが、これがまぁ本音かと。
権威主義的パーソナリティーとその脱却
○????
権威主義的人間関係とその脱却
のほうがいいかな?
池田名誉会長にゴーストライターが書いた物とは言え彼のスピーチの責任はあるとおもいます。
最終的な責任の所在は必ず彼にあるでしょう。
どうせ創価は都合善し悪しで意見をころころ変えるんでしょうけどね。(笑)
スピーチの合間に出る原稿にない発言で、秋谷元会長への罵倒や○田氏への罵倒なども十分に池田氏の責任でしょう。
同時中継は編集されてカットされるそうですが、その場にいた人たちが全く思考停止しているのが問題です。
友情などから「あの人が悪いことをするはずがない!」というのと同様、自分にとって今までは師匠なので
師匠を否定することは自分否定に繋がると考えがちなのではないでしょうか?
MC論にはその脱却としてカウンセリング論があるように権威主義的パーソナリティーとその脱却には何か法則や条件などがあるかもしれませんね。>どうでしょうか?みれいさん、そのほか詳しい人。
>コオロギ丸さん
こんばんは、はじめまして。
「敵だ!悪だ!」怒りのエネルギーは無視できない物があるので創価が怒りを煽るのは狡猾と言えますね。
まったく創価はやっかいです。
>みれいさん
>みみちゃんさん
マニアックという意味では男性女性どちらか片方のみが云々、と言うおかしな議論になってしまいましたね。
特に創価の場合は婦人部が支えているのですから、創価のおばちゃん達にも簡単に比較できて分かるような内容にするのが理想ですね。歴史認識ではそうはならなかったのが残念でした。
マニアックであるかどうか?男か女かどうなんだ?という話が逸れてしまいましたね。
私自身、歴史認識とは全く別の問題や質問、確かめようのない議論を何度も持ち出されて非常に不愉快でした。
遅くなりました。
>みれいさん、どうでしょうか?
うーん、難しいです。
どうマニアックか、が焦点ではないですかね?
日本のマニアックな文化は世界に誇れるところではないでしょうか。
和彫りの刺青、建築、医療機器、アニメ、などなど、こだわりの逸品がたくさんあるかと。
自己満足的に固執してマニアックでいるというのは、それがダメってわけではないと思うけど、誰にでも通用するわけではないでしょうね。
こちらでははじめてになります。宜しくお願いします。
二極思考こそが創価学会の活力源であり、生命線なのですね。その上に池田氏をはじめとする幹部連中がどっぷりと腰をおろしているのが、創価学会であるとおもいます。
学会員と非学会員、学会員になればなったで、その中で上下関係。造反者がでればでたでここぞとばかりに罵倒する。問題がでれば責任は取らない。全くすごい教団です。出会う人それぞれ白黒をつけるのは犬や猿の世界と同じですね。
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同一の議論で孔雀さんのコメントがつかないようにするためです。
色々お気遣いを頂きながら申し訳ありません。
学会活動をサークル程度、コミュニティを楽しんでる程度の会員はそこまでの関心なんて持ちません。
ただ、何も疑わずに信じていればいんですから。猜疑心なんて湧きませんよ。
私は普通の会員と同じ認識を経て、今に至る。
真実を少しずつ知り、疑問が解け、是非を判断し、また疑問が湧き、真実を知り・・その繰り返しで理論も構成されていくのだと思います。
残念ですが、私は「あまり熱心じゃない」んじゃなくて、「全く熱心ではない」学会員です。
その事実をきちんと理解しているつもりですが、それを「試みて」とは、どういうことなのでしょうか?
ほんとさっぱり伝ってこないんですが・・
>・・・池田名誉会長自身,そのスピーチの内容を認めた責任も意思もないんですか?
知りませんよ、私に聞くことじゃないでしょう?
先生は「私は書きます(人間革命やら、詩やら)」「まだまだ書いてあります!(本幹のスピーチ原稿)」とか言われてるけど、知ってる人は「実はあの原稿は幹部の××が書いてる」と言うわけで、それについての是非を私のような一会員に問うべきことではない。と思いますがねぇ。いかがでしょうか?
>池田氏は単なる客寄せパンダですか?その程度の人物を敬意の対象とできるのでしょうか?
ナウシカさんの仰るように客寄せパンダでしょうね。
「先生にお会いできる!」っつーのが、会合参加の意義でもありますから。
そんな程度の先生なのに、でも敬意の対象と「してるから」、それってどうよ?と、こうして批判意見をしてるんじゃないですか。
ったく、どいう読み方をしたらこういう質問が返ってくるのかわかんないし。
こういうおっさんがいたんですよ・・少し前。
なんか論調がそっくりなんだけど、別人ですよね?
ま、あのおっさんのほうが誤字脱字、変換ミスもなく、文章表現が上手でしたけどね。
まいいや。
>それが,読まされていること自体,学会委員に対する重大な裏切りだと考えますし。
重大な裏切りですよね。
それを知ってて黙ってるどころか、「生命を削って書いて下さってる!!」なんつーもんだから「ったくあの幹部、嘘ついて・・」とガックリきて、頭にくる。
というわけです。
なんだ、先生が一生懸命書いてるんじゃないじゃーん。って、普通思うわけですな。
まぁ私も正直、愕然・・って感じでしたけど、たしかにね・・あれだけの量をこれだけのペースで・・と考えたら、書けないのが当然で、書けたら常人ではない。
と思いますから、まぁ、それを書いちゃうだけでも先生は「超人だ!」と皆、感嘆するんですよね。
そういうところも畏敬の対象とする根拠になるのかな、と。
先生の何がスゴイか?といえば、そういう「知性」を見て知る以外、一般会員は知るすべもないですから、それもまた然りかもしれませんね。
そううそさん、ここでコメントさせてくで~!!
ってことで、孔雀さんへのレス♪
(せっかく書いたのに書き込めなかったから、もう書いちゃうからね。)
>マニアックな知識という認識自体が意味不明ですね。
史観については人により様々です。
立場が違えば視点もまた違いますからね。
一つを取って是非は問えない。
でも、自分の価値観に拘りを持つ人は一点集中的に「ある部分を争点」とし、そこを軸にして論理を主張しがちです。
「マニアックな知識」と表現するのは、そうした「ある部分」に固執した偏った見識を指してのこと。
そうした「捉え方」を「認識」と解釈してしまうのは、まさにステレオタイプの特徴と考えてもあながち間違いではないかもしれないですね。
(みれいさん、どうでしょうか?)
>そのように思うのは,あなたが女性だからではないですか?
ナウシカさんと同じく、男性・女性関係ないと思いますね。
マニアックな話が好きな女性は沢山いるでしょう。
一般的な傾向性だけで、ご自分の議論経験「だけ」で、また、男女の思考の特性として「女性だから」と考えるのはちょっと短絡かも。
ヤクザ映画に象徴されるように、返って男性の方が「情」を重んじる傾向があるもんですよ。
女性は「感情」で考えがちと思われてるなら、そこは思い込みのようですね。
女性は案外、情に疎いもんです。怖いほど冷たくもなれるし合理的な発想をします。
>だいたい,ここで戦略的な手法を全部,晒して話している事は
初期からの書き込みをみていると分かりますが,その批判する事に
対しての付けこみやすさというのは,相手にとって,批判はしやすいでしょうね。
現実には,それくらいわかった上で対応してます。
ここは何を仰ってるのかよくわかんないですね。
>ま,私が論破したのは全員男性ですけどね。かなり,真摯な問題なんですけどね。
「論破」という言葉。
こうした「自分の力の誇示」を表現しておきながら、物事を「真摯な問題」と価値付けているのにはなんだか矛盾を感じますね。
議論の題材の「何が重要」なのか分かりませんが、孔雀さんにとっての「重要価値」が、そのまま「誰にとっても」同じ価値であるとは限りません。
自分にとって価値がある物事は「真摯」に。で、そうでなければ「お好きにどうぞ」というのでは、あまりにも身勝手な発想ですよね。
>女性はマニアックだと感じる程度なのかもしれませんね。
「感じる『程度』なのかも」じゃありませんよ。
価値観の問題だと思いますが。
>あと,"ドン引き"とか"引かれる"というのは"議論に必要の無い"
"レッテル貼り"や"印象操作に当たり"ますが間違っていますか?
ええ、間違ってますね。
レッテル貼りでも印象操作でもなんでもない。
ここでの議論には必要な言葉でもありますよ。
だって私が孔雀さんの論理を実生活で実践した時、間違いなく誰も「引く」と想像できますから。
そういう話に誰も興味も関心も抱かない。本当は重要なことなのに、それでも「無関心」というのが世間の多くを占める人たちです。
孔雀さん、そのへん想像したことないんですか?ネットじゃなくて、実際、周りの身近な人たちに、そういう話とかしてみてどうなんですか?
婦人部の方とかに、そういう話をしてみてどんな反応が返ってきましたか?
そこが一番、聞きたいところです。
どういう反応を示すのか?
納得するものなのか?
どう考えを改めたか?
ここが、その理論が実用的かそうでないか判断する点になるかと思います。
学会・池田氏中傷のための非難であれば、何も理論を考えなくていいし、批判内容に説得力なんてなくても構わないわけです。
自分の理論に絶対性と無謬性を感じていて、それを議論で相手を論破することにより優越感を得たいと望むのであれば、論調が同じであろうが偏っていようが
一辺倒だって、手法がワンパターンだろうが構わない。同じことを壊れたレコードのように繰り返し繰り返し何度もリピートしてればいいんです。
でも、少なくとも私は違う。そうじゃない。
自分の所属組織の人に、間違いを理解させて改めさせたいという思いでいますから、使えない理論じゃ話になんないんですよ。
>難解な文章表現をされてるわけてすからね、
上記に記した様に物事には順序や駆け引きがありますが,その点をこの掲示板では
最初から晒しているのですから,ドン引きなんてされた事自体,現実
でもネットでもありませんが?一つ一つの争点に絞った上で論議を
展開致しますので。
孔雀さんの仰る「議論展開」というのは、自分が争点とする事柄は争点とし、相手側による争点は争点にもせずスルーですか。
ほほう・・なるほど、第一にご自分の主張を尊重される傾向が強いだけあって議論がワンマンなんですね。
絞ってるというより、自分が拘ってるだけじゃないんですか?そんな気がしますけど。
>みみちゃん 様 自身が,周りの事をまったく分かってないようですけど?
と,いうのも池田名誉会長のスピーチを他の人が書いたなんて考えている
学会員自体が非常に少数派だからです。この認識自体が普通の会員と
かけ離れてますよね?みみちゃん 様 自身,あまり熱心な学会員じゃないでは
ないですか。その事実をもっとよく試みてください。
私が周りをわかってない。
なんか笑っちゃうんですけど、学会員でもない孔雀さんに「分かってない」と言われてしまっては、じゃあ、孔雀さんは私以上に「分かってない」ってことになりますね。
それこそ学会組織の内情も指導内容も、ちんぷんかんぷんでしょう?
「認識がかけ離れてる」
これは「著者が本人か別人か」の認識を指すだけであり、その他、真実を知らされない一般会員が持つ「認識全般」を指してるわけではないですから、それをもって普通の会員と私がかけ離れているとは言えませんよね?
こんにちは
取り急ぎこれだけ。
●二極思考(すべては白か黒か)の否定
○【カルトでない物】
○【創価はカルト】
○【他のカルト】
●アンチ創価、創価シンパというレッテル
●過去記事より
●学会員と友情を結ぶことは基本的には危険です。
●心構え1
●心構え2
○心の取り扱い、肯定と否定
○私の心じゃない、他人の心じゃないんだから、どうにもできない
●引用
●友とは?
○補足
☆まとめ
上記の通り、どの項目も二極思考(すべては白か黒か)で考えることを否定している記事です。
ROMしている人が誤解無いように書いておきますが、ステレオタイプ(白か黒か)で人や人の心を判断するのは問題がある、という記事の主旨からはネガティブ、つまり否定の方の解説です。
MC論としてステレオタイプが含まれる事をそううそは否定しませんが、記事の主旨とは逆の方向の考え方ということですね。
創価学会の信仰は絶対である。絶対に幸せになれる。他の宗教は一切邪宗である。
(他の宗教は黒である。創価だけが白なのである。)という二極思考(すべては白か黒か)を否定するための記事です。
お間違えの無いように。>ALL
昨晩は酔っ払ってひとことコメント入れてます。
挨拶もないですね、すみません
どうも最近の研究(アメリカの)では、脳の発達過程で、思考法も変わってくる可能性もあるようでした。
なので、二極論で理解する時期とか、じっくり思考させることによって理解する時期とか、またそれに応じて話が通じたりつうじなかったりもあるかもしれませんね。
MC論を理解したら、次に他の研究者の理論で展開しても興味深いとおもいました。
>時には人に相談しながらも最終的には自分で、とある創価学会員を完全否定するのもアリだと思います
同感です。心の中は自由です。
>ステレオタイプがどのようにMCにかかわるのか
私の思うところは、
・あまり短絡的に答え(結論)ばかり求めてばかりいると、理論的な見方ができない。つまり思考しないわけです。そうなると、答えが感情に直結しやすくなると思います。
・実は理論的に非常におかしいことであったとしても、鵜呑みにして信じている可能性が出てきます。
・物事には結論そのものよりも過程が大事である事はしばしばあります。
ステレオタイプのメリットとしては、「判断の早さ」などが言えます。時間的には合理的といえます。
みれいさん
ケースバイケースという単語が各項目に当てはまると考えています。
>まずは自分に受け入れて考え、吟味する。
>肯定と否定、是と非、を考える。
>最終的に自分の物とするかどうか判断する、、、
>批判的合理主義、可謬主義が重要かと。。。。
(中略)
>また急激に変えていいのか?等々なども、ケースバイケースで考えるべき事であり、
ですから時には人に相談しながらも最終的には自分で、とある創価学会員を完全否定するのもアリだと思います。
ステレオタイプがどのようにMCにかかわるのか全く分かっていませんがケースバイケースは大事だと思います。
キーワードは「ステレオタイプ」
私はステレオタイプの思考が必ずしもいけないとは思いません。
ケースバイケースであることが大事であろうと思います。