自己愛の記事は次の記事のテーマで草稿中です。
タイトルが「逃げる、飛び込む(求める)、停止、そして。。。」それぞれのキーワードの心理学の裏づけが本記事です。
逃げるメカニズム(現実逃避)や思考停止の過程や心理学的な説明は既に記事(282、285、287)として書いてあります。
●飛び込む(求める)のはなぜ????
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201.MCされる過程や順番 ”自分から嘘やCMCに飛び込む????” - 創価学会の信仰に功徳はあるか?http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/a8831822c002131e2618aa18c538f0c2
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過去記事で「どこからどこまでが嘘で本当なのか、カルトと宗教の見分けがつかず、自分から嘘やCMCに飛び込む(求める)?」と書きましたが、どの程度心理学は裏付けてくれるのでしょうか?
なにしろ自分自身からカルト入信などの嘘や不健全に飛び込んで(求めて)ゆくのですから、周りの普通の人から見たら疑問に思うばかりです。
なお、「どこからどこまでが嘘で本当なのか、カルトと宗教の見分けがつかず」これは過去記事に書いてきたとおり、情報操作、つまり嘘の情報(仏教学や人物像)を教えられるという点です。情報操作(嘘)だけでなく怒りと恐怖を与えられていることも要因の一つであるのは創価などの日蓮正宗系では確実と言えます。
「不健全な嘘やCMCに自分から飛び込む、あるいは自分から求める」と書きましたが、どの程度心理学は裏付けてくれるのでしょうか?
自分から飛び込む、自分から求める、いったい何に対して飛び込み、求めているのでしょうか?
理由は何であるか?個人や組織のどこに見え隠れしているのでしょうか?
心理学、カウンセリングから学べる内容(健全さ)から不健全な 「何かが」 見えてくるのではないでしょうか?
今までに何度か取り上げてきましたが、心理学のテーマの一つである権威主義を取り上げます。
ちょっと長い引用になります。
●自由からの逃走
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こうしてルッターは人々を教会の権威から解放したが、一方では、人々をさらに専制的な権威に服従させた。すなわち神にである。
(中略)
ルッターの信仰は自己を放棄することによって愛されることを確信することであった。それは国家とか「指導者」に対し、個人の絶対的な服従を要求する原理と、多くの共通点を持つ解決方法である。
ルッターが権威を恐れ、権威を愛したことは彼の政治的信念にも現れている。彼は教会の権威に反抗し、新しい有産階級───その一部は聖職者の階級制度における上層階級であった───に対しては憤りにみち、また農民の革命的な傾向をある点までは支持していたが、しかも彼は皇帝という世俗的な権威に対する服従を、熱烈に要請していたのである。
(中略)
また彼(ルッター)はいう。「神は、たとえどんなに正当なものであろうとも、群衆に暴動を許し給うよりも、どんなに悪逆なものでも、支配を存続させるほうを選び給うであろう。……君主はどんなに暴君であっても、依然として君主たるべきである。君主は、かれが支配者として臣下を持たなければならないからには、時には少数のものを殺さざるを得ないこともあり得る。」
(自由からの逃走 エーリッヒフロム 日高六郎 訳 創元新社 昭和42年03月20日31版発行 P90)
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ルッターのパーソナリティは彼の教義と同じように権威に対し二つの矛盾した面を持っていた。一方では、世俗的な権威と専制的な神の権威に威圧され、他方では教会の権威に反抗した。大衆に対する態度にも同じような矛盾がみられる。大衆が、ルッターがもうけた限界の中で反抗する限りは、彼は彼らの味方となる。しかし彼の認める権威の中で攻撃するようになると彼らに対する激しい嫌悪と軽蔑のとが現れてくる。われわれは逃避の心理学的なメカニズムを取り扱うところで、権威を愛する気持ちと無力な人間に対する憎悪の気持ちとが同時に存在することが「権威主義的性格」の典型的な特徴であることを示すだろう。
(自由からの逃走 エーリッヒフロム 日高六郎 訳 創元新社 昭和42年03月20日31版発行 P91)
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彼の経済的問題に対する考えが伝統的であったとしても、一方、個人の無価値を強調したのは対照的で、人間はただの世俗的な権威に従うばかりでなく、経済的成果という目的のためにその生活を従属させなければならないという方向へ、導いたのであった。この傾向は今日では、ファシストにおいて頂点に達した。彼らは人生の目的は「より高い」権力や指導者や、また民族共同体のために、犠牲になることであると強調している。
(自由からの逃走 エーリッヒフロム 日高六郎 訳 創元新社 昭和42年03月20日31版発行 P92)
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ひらがなは適宜、漢字変換しました。
参考。
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』ノート Notes on "Escape from Freedom" by Erich Fromm
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フロムは「自由からの逃走」のなかで権威に対する態度が健全となるかならないかは、その家族の人間関係、とくに両親との関係によって規定されるとしています。彼によると、宗教改革で有名なルターは典型的な権威主義的性格の持ち主だそうです。
権威主義的な性格とは、権威を否定しながらも、権威にあこがれを抱くというアンビバレント(両価的)な態度をとる人のことです。自由からの逃走によると、ルターは過度に厳格な父親に育てられた結果、真の愛情や安心感を得ることができませんでした。その為に権威を憎み、反抗を重ねながらも、父親や法王・皇帝の権威をまえにすると思わずひれふしてしまうのです。
ルターが宗教改革の指導者として迎えられたのも、彼のこうしたパーソナリティが当時の社会の人々の共感を得たからです。
(深層心理がわかる辞典 南 博 日本実業出版社 1998年06月05日9版発行 P236)
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ルッターのパーソナリティが権威主義的であり客観的、心理学的に問題があったにもかかわらず、大衆がある程度支持した、ということです。
「自由からの逃走」を読めば、ヒトラーのパーソナリティが明らかに悪しき権威主義的であり客観的、心理学的に問題があった事がわかります。にもかかわらず、大衆がある程度支持してしまった。。。。「自由からの逃走」様々な問題に気がつかされます。更にいろいろな本を読めばわかるのですが、生活に苦しむ中産階級や労働者、農民、こいうった人々の「怒り」や「不満」を吸収して支持を伸ばし、ヒトラーが政権を取っていった経緯がわかります。 ナチスやヒトラーはドイツ経済に奇跡的(?奇跡的らしい。私は経済がよくわかりません。)な復興をもたらしたようです。ヒトラーは当時のドイツが経済危機を乗り越える必要な人だったわけです。
しかし、不健全や異常さなどに気がつかなかったために、ユダヤ人の虐殺、戦後のドイツ国民にとって悲劇でしかない結果になりました。
不健全な人、ふさわしくない人がトップに立てば、それなりか、それ以上の悲劇がある、ということかと。
金正日、プーチンやチャウシェスクを見れば一目瞭然かと思います。
ヒトラーのパーソナリティは池田大作氏のそれにそっくりだと私は思います。創価公明の問題も同じ本質的な問題や近い構造を持つと私は考えています。
現代では戦争が起こると世界中で経済危機の可能性がありますから戦争の可能性は低いのですが、経済支配やチベット問題ような虐殺は起こりえるのです。
実際、欧米諸国などがチベット問題で中国に批判しても現実的なブレーキにならないのが現実です。
心理学やカウンセリングを勉強すると、体に悪いとわかっていてもお酒を過度(いきすぎ、極端に)摂取してアルコール依存症になる、あるいは
暴力のあるパートナーに依存、共依存の関係になる等々、カルト問題以外でいくらでも事例があります。
人は時として気がつく/気がつかないにかかわらず不健全なものに惹かれたり飛び込んだりするのが事実のようです。バランス感覚を失った極端な賞賛や良い所取り、良い所は極端に過大評価して悪い所は現実逃避して見ない、目先のことだけ考えるのも一因かもしれません。最初は良くても後々ちょっとしたきっかけで不健全になる事例ももちろんあるでしょうが、創価学会に着目しても以前から言論問題や第一次宗門問題などを抱えていたので、創価も正宗もずっと以前から不健全である、と見るべきだと私は考えています。
では個人のアルコール依存症、人への依存、共依存など、人が不健全を求めたり不健全に飛び込むのはどの程度まで集団にも当てはまるのでしょうか?
(つづく)
タイトルが「逃げる、飛び込む(求める)、停止、そして。。。」それぞれのキーワードの心理学の裏づけが本記事です。
逃げるメカニズム(現実逃避)や思考停止の過程や心理学的な説明は既に記事(282、285、287)として書いてあります。
●飛び込む(求める)のはなぜ????
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201.MCされる過程や順番 ”自分から嘘やCMCに飛び込む????” - 創価学会の信仰に功徳はあるか?http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/a8831822c002131e2618aa18c538f0c2
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過去記事で「どこからどこまでが嘘で本当なのか、カルトと宗教の見分けがつかず、自分から嘘やCMCに飛び込む(求める)?」と書きましたが、どの程度心理学は裏付けてくれるのでしょうか?
なにしろ自分自身からカルト入信などの嘘や不健全に飛び込んで(求めて)ゆくのですから、周りの普通の人から見たら疑問に思うばかりです。
なお、「どこからどこまでが嘘で本当なのか、カルトと宗教の見分けがつかず」これは過去記事に書いてきたとおり、情報操作、つまり嘘の情報(仏教学や人物像)を教えられるという点です。情報操作(嘘)だけでなく怒りと恐怖を与えられていることも要因の一つであるのは創価などの日蓮正宗系では確実と言えます。
「不健全な嘘やCMCに自分から飛び込む、あるいは自分から求める」と書きましたが、どの程度心理学は裏付けてくれるのでしょうか?
自分から飛び込む、自分から求める、いったい何に対して飛び込み、求めているのでしょうか?
理由は何であるか?個人や組織のどこに見え隠れしているのでしょうか?
心理学、カウンセリングから学べる内容(健全さ)から不健全な 「何かが」 見えてくるのではないでしょうか?
今までに何度か取り上げてきましたが、心理学のテーマの一つである権威主義を取り上げます。
ちょっと長い引用になります。
●自由からの逃走
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こうしてルッターは人々を教会の権威から解放したが、一方では、人々をさらに専制的な権威に服従させた。すなわち神にである。
(中略)
ルッターの信仰は自己を放棄することによって愛されることを確信することであった。それは国家とか「指導者」に対し、個人の絶対的な服従を要求する原理と、多くの共通点を持つ解決方法である。
ルッターが権威を恐れ、権威を愛したことは彼の政治的信念にも現れている。彼は教会の権威に反抗し、新しい有産階級───その一部は聖職者の階級制度における上層階級であった───に対しては憤りにみち、また農民の革命的な傾向をある点までは支持していたが、しかも彼は皇帝という世俗的な権威に対する服従を、熱烈に要請していたのである。
(中略)
また彼(ルッター)はいう。「神は、たとえどんなに正当なものであろうとも、群衆に暴動を許し給うよりも、どんなに悪逆なものでも、支配を存続させるほうを選び給うであろう。……君主はどんなに暴君であっても、依然として君主たるべきである。君主は、かれが支配者として臣下を持たなければならないからには、時には少数のものを殺さざるを得ないこともあり得る。」
(自由からの逃走 エーリッヒフロム 日高六郎 訳 創元新社 昭和42年03月20日31版発行 P90)
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ルッターのパーソナリティは彼の教義と同じように権威に対し二つの矛盾した面を持っていた。一方では、世俗的な権威と専制的な神の権威に威圧され、他方では教会の権威に反抗した。大衆に対する態度にも同じような矛盾がみられる。大衆が、ルッターがもうけた限界の中で反抗する限りは、彼は彼らの味方となる。しかし彼の認める権威の中で攻撃するようになると彼らに対する激しい嫌悪と軽蔑のとが現れてくる。われわれは逃避の心理学的なメカニズムを取り扱うところで、権威を愛する気持ちと無力な人間に対する憎悪の気持ちとが同時に存在することが「権威主義的性格」の典型的な特徴であることを示すだろう。
(自由からの逃走 エーリッヒフロム 日高六郎 訳 創元新社 昭和42年03月20日31版発行 P91)
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彼の経済的問題に対する考えが伝統的であったとしても、一方、個人の無価値を強調したのは対照的で、人間はただの世俗的な権威に従うばかりでなく、経済的成果という目的のためにその生活を従属させなければならないという方向へ、導いたのであった。この傾向は今日では、ファシストにおいて頂点に達した。彼らは人生の目的は「より高い」権力や指導者や、また民族共同体のために、犠牲になることであると強調している。
(自由からの逃走 エーリッヒフロム 日高六郎 訳 創元新社 昭和42年03月20日31版発行 P92)
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ひらがなは適宜、漢字変換しました。
参考。
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』ノート Notes on "Escape from Freedom" by Erich Fromm
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フロムは「自由からの逃走」のなかで権威に対する態度が健全となるかならないかは、その家族の人間関係、とくに両親との関係によって規定されるとしています。彼によると、宗教改革で有名なルターは典型的な権威主義的性格の持ち主だそうです。
権威主義的な性格とは、権威を否定しながらも、権威にあこがれを抱くというアンビバレント(両価的)な態度をとる人のことです。自由からの逃走によると、ルターは過度に厳格な父親に育てられた結果、真の愛情や安心感を得ることができませんでした。その為に権威を憎み、反抗を重ねながらも、父親や法王・皇帝の権威をまえにすると思わずひれふしてしまうのです。
ルターが宗教改革の指導者として迎えられたのも、彼のこうしたパーソナリティが当時の社会の人々の共感を得たからです。
(深層心理がわかる辞典 南 博 日本実業出版社 1998年06月05日9版発行 P236)
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ルッターのパーソナリティが権威主義的であり客観的、心理学的に問題があったにもかかわらず、大衆がある程度支持した、ということです。
「自由からの逃走」を読めば、ヒトラーのパーソナリティが明らかに悪しき権威主義的であり客観的、心理学的に問題があった事がわかります。にもかかわらず、大衆がある程度支持してしまった。。。。「自由からの逃走」様々な問題に気がつかされます。更にいろいろな本を読めばわかるのですが、生活に苦しむ中産階級や労働者、農民、こいうった人々の「怒り」や「不満」を吸収して支持を伸ばし、ヒトラーが政権を取っていった経緯がわかります。 ナチスやヒトラーはドイツ経済に奇跡的(?奇跡的らしい。私は経済がよくわかりません。)な復興をもたらしたようです。ヒトラーは当時のドイツが経済危機を乗り越える必要な人だったわけです。
しかし、不健全や異常さなどに気がつかなかったために、ユダヤ人の虐殺、戦後のドイツ国民にとって悲劇でしかない結果になりました。
不健全な人、ふさわしくない人がトップに立てば、それなりか、それ以上の悲劇がある、ということかと。
金正日、プーチンやチャウシェスクを見れば一目瞭然かと思います。
ヒトラーのパーソナリティは池田大作氏のそれにそっくりだと私は思います。創価公明の問題も同じ本質的な問題や近い構造を持つと私は考えています。
現代では戦争が起こると世界中で経済危機の可能性がありますから戦争の可能性は低いのですが、経済支配やチベット問題ような虐殺は起こりえるのです。
実際、欧米諸国などがチベット問題で中国に批判しても現実的なブレーキにならないのが現実です。
心理学やカウンセリングを勉強すると、体に悪いとわかっていてもお酒を過度(いきすぎ、極端に)摂取してアルコール依存症になる、あるいは
暴力のあるパートナーに依存、共依存の関係になる等々、カルト問題以外でいくらでも事例があります。
人は時として気がつく/気がつかないにかかわらず不健全なものに惹かれたり飛び込んだりするのが事実のようです。バランス感覚を失った極端な賞賛や良い所取り、良い所は極端に過大評価して悪い所は現実逃避して見ない、目先のことだけ考えるのも一因かもしれません。最初は良くても後々ちょっとしたきっかけで不健全になる事例ももちろんあるでしょうが、創価学会に着目しても以前から言論問題や第一次宗門問題などを抱えていたので、創価も正宗もずっと以前から不健全である、と見るべきだと私は考えています。
では個人のアルコール依存症、人への依存、共依存など、人が不健全を求めたり不健全に飛び込むのはどの程度まで集団にも当てはまるのでしょうか?
(つづく)