---------------
お食事中の人は読まないで下さいね。
---------------
師匠とは?
バリ活の人と度々問題になるのが、池田氏をどういう師匠として捉えるか?ですね。
寒苦鳥の部屋: 最近の世相「虐待」から考えた事 寒苦鳥さんの記事を読んでも分かるとおり、もはや完全に信仰の意義を忘れた数字主義、数信仰をしています。私も度々、地区で数信仰に疑問を持つことなく活動していましたが、ここまで酷いとは。面倒を見てあげるべき一学会員さんを統監(創価の名簿、個人カード。)を右へ左へまるで爆弾を扱うかのように「かかわりたくない」「めんどくさい」ってやつですかね?
今でも創価の決まり事として変わっていなければ、入信して一年間は折伏を受けた組織に付くというのがあります。一年を過ぎると、その人が住んでいる地元組織ということになります。同じ場合は一年過ぎてもそのままですね。
折伏する際に創価の人は「池田氏は素晴らしい学ぶべき師匠」ということであなたにとっても師匠です。という説明や切り口です。一応、強制ではありませんが、過去記事に書いたとおり池田氏を師匠である、と思うか、MCされるか、あるいは口にしなければ幹部には絶対になれないと思います。21番 創価学会員さんとのやりとり。その4 池田氏が嫌いであるとか、師匠で無いという男子部幹部は一人も見た事はありませんからね。
さて、ブログを立ち上げてから疑問に思うようになったのが、創価は距離の小さい、身近な師匠をつくる風潮が薄いのではないでしょうか?
●師弟の距離
私も学会員時代に師匠である池田氏にお会いしたいと真剣に考え祈っていましたし、自分の周りでもいつかお会いしたい、握手したい、あるいは本部長さんで、肩をたたかれて「頑張っているね」と激励されたい、という具体的なものもありました。でも祈りが真剣でも会う事は難しいです。よく「お題目の多い人の所に先生はいらっしゃる。」という創価伝説がありますが、これも「嘘」ですよね。婦人部は必ず会えないといけない事になってしまいます。
やはり海外よりは日本、地方よりは大都市、中でも東京、中でも幹部、あるいは創価学園か創価大学、というのは変わらないと思います。特にここ数年は池田氏は東京と山梨以外は言ってないと思います。以前は名古屋、大阪、福岡に行っていたはずですが、少なくなったか、行かなくなった場所があるはずです。
大きな体育館のような会場で万人に通用するような曖昧で当たり前の事をいつまでも繰り返して本当に意味があるのでしょうかね?本来は難しい仏法教義をきちんと説明する場所だと思うのですけどね。なかなか会えない池田氏は明らかに距離の遠い師匠でしょう。 池田大作氏の同時中継とは?スピーチとは?書籍とは?
プンニカーおばさんは目の前の人を説得して入信させたわけです。そこには一時的かもしれませんが、小さな師弟ができあがったと思います。ゴータミーは芥子を探しに町の中に行って色々な人の話を聞くうちに町の中でやっぱり一時的ですが、町の人とゴータミーの間に小さな師弟ができあがったと思います。どちらも距離の短い師弟ですね。当時はネットも何もありませんから、それが当たり前というか、それしか出来なかったわけですが。
男子部の中でも「誰々について行く。創価班の委員長についていく。区男(区男子部長のこと)についていく」という発言が活動家の中にありました。なのでこうした距離の近い師弟は全くないわけではありません。男子部で有れば部長や本部長あたりの人は好かれるかどうかで部活がうまくいくかいかないか?という面はあるでしょう。悪しき創価思考は別ですが、実際、いい人達であったと思いますしね。
但し、池田氏を絶対の師匠とする事で地方幹部を師匠としたり絶対視するような内部分裂は起きにくいのかもしれません。
●師弟の時間
これも池田氏は短いですね。
芸能人の久本さんが池田氏から「わかっているよ」といわれて泣いている動画がyoutubeにあったはずですが、こうした池田氏の言動は本当に分かっているのか疑わしいし、おそらくは「ただの思いやり」なのでしょう。
●一方通行な師匠?
よく創価学会員は池田氏に会えなくても 師匠である池田氏の生き方、大聖人の生き方を学ぶんだ。素晴らしいんだ。といいますが、人間として一方通行の師弟とは成り立つのでしょうか?
常に師弟関係も一方通行なのでしょうか?ゴータミーは芥子を探しに町に行って色々の人の話を聞くうちに町の中でやっぱり一時的に、小さな師弟ができあがったと思います。後日、釈迦の弟子になったそうですから、ゴータミーが「師」になったと思います。実際にテーリーガーターのゴータミーは今我々にとって師匠になり得るでしょう。ネットや書籍ですけどね。
お互いにゴータミーのように弟子から師匠へ、そして私の根拠のない想像ですが、また弟子へという場合があった気がします。。。
たとえば、三味線とかギターの通信教育がありますよね。一方通行です。
通信教育なら指使いは自分で直さないといけませんが、面と向かって会う師匠で有れば双方向なので気づいて注意してくれるはずです。
テーリーガーターや原始仏教に出てくる釈迦やプンニカーおばさんやゴータミーなどの師に限りなく近いです。必ず一方通行ではなく、双方向です。会話ですからね。
池田氏は一時的に会ってガンバレとは言いますが、注意や時間をかけて接するような気は遣ってはくれないでしょう。池田氏は握手するか記念撮影するかぐらいですかね?若い時には様々に御書講義や個人指導、質問会がありましたが、今は完全にアイドルでしょうね。但し、過去の池田氏の個人指導や書籍に書かれている指導から今でも学ぶ事があるでしょう。
やはり自分の身近にいる親や友人、先輩などが「師」であっても良いと思います。創価学会に限っても限らなくても、です。 なので、創価の人が今でも「いつでも必ず」池田氏を師匠とするのは一般論や曖昧論としては賛成出来ますが、今の現実問題を見ているととても師匠とは思えません。そして永遠の指導者という「何時までも」師匠なのは異常では?新しい思想家(だった?)なのでしょうか?
テーリーガーターや友岡氏の書籍を読んで思ったのは池田氏は人生の師とよく言われますが、人生を賭けるほどならばもっと密接な師でないといけない気がします。日蓮も池田氏も無謬ではないのですから、「いつでも必ず」師匠ではない気がします。但し、日蓮の場合は信仰として鎌倉時代での新たな思想家ですから信仰の師匠とするのは条件付きですが、問題ないと思います。
それに師弟の人間関係も問題です。自分の身近な人が師匠なのに常に池田氏が師匠だと身近な人への感謝が出来にくいです。テーリーガーターのネットにある翻訳文を読むとバラモンはプンニカーおばさんに感謝しています。テーリーガーター 2 師匠が弟子からの感謝や見返りを求めるようでは仏法ではありませんが、こうした弟子からの感謝の意識はどうしても必要でしょう。はったり特急の学会員さんが言っていましたが、「釈迦の書籍を読んだ所、感謝が大事なのが分かり感動した。」(主旨)とおっしゃっていました。実際に学会員は「恩のある先生のために」という事で行動しますが、どう考えても関係の薄い池田氏にそこまで感謝するなら、自分の身近な人により、更に、感謝、報恩が必要でしょう。
知れば知るほど嫌になる学会。そのxシリーズ に引用した親子関係はやはり疑問です。池田氏や創価、公明に尽くせば子供などどうでもいい。と言う感覚はおかしいです。
私がとあるブログに書いたコメント。
---------------
ネットの創価の人は私から見るとほとんど何も言わずに去って行きますね。「え?たったそれだけ?」って。
私の場合は、教学や学会の説明だけでも一度の折伏では絶対に足りませんでしたね。自分の体験はなくても話す事はいっぱいあったので、この差が不思議でしょうがないです。しかも 「根拠のない一般論」に終始するか酷いと罵倒になります。普段一体どの様に折伏しているのか非常に疑問です。 家庭訪問だけでも毎回話す事は違っても自分のパターンというものが出来るのが普通なのですが。。。。究極的な事を言えば、裏で陰口をたたくのは自由ですし構いませんが、それは宗教ではありません。
話したい事がある、伝えたい事がある、というのが宗教なはずです。ドライではなくウェットな人間関係のはずです。少なくとも折伏成功体験は私の知る限りすべて、ベタベタで、密接で、くどくて、しつこくて、暖かい人間関係です。
なので、ネットの創価の人は違和感が多すぎます。
---------------
池田氏の言う事は世間一般にある通常の書籍と同等ぐらいに考えておかないとこれから入信したり信心する人は危険かもしれません。
●綺麗な師匠と汚い師匠
ブッダは歩むブッダは語るP44~、にはこうあります。 ある病人がいて自分で排泄する汚物の処理も出来ずにいます。その汚物まみれの人に釈迦が水をかけ汚物を洗い、敷物も洗って綺麗にして寝かせてあげたそうです。
マザーテレサはあの年齢になっても最後まで人を救ったらしいですし、犬の死骸まで「そこに主がおられる」と言って処理したそうです。(すいません、この辺のマザーテレサのネットの証拠が見つかりません。どこかで見た気がするのですが。。。。誰か教えて下さい。これで記事掲載に時間がかかってしまいました。>特にキリスト教の方。 m(_ _)m )
池田氏は。。。。。金ぴか勲章集め大好き?
もう、私がブログを書いている間だけでも、池田氏が何人もの人を見捨てて退会に至ったか、、、書いてきた通りです。 昔、池田氏の若かりし頃に貧しい母子にお弁当をあげたり、おばあさんの手を引いてあげた写真と今では別人ですね。
また釈迦はぞろぞろとお供を連れ歩く事はなかった様です。アーナンダ一人程度の従者を連れ、自分の弟子には私と同じように人を救ってらっしゃいと言って自分たちで個々に行動させたようです。釈迦が一般人から施された食事の食中毒で亡くなったらしい事を考えると、弟子が少なかった事の裏付けになるでしょう。こうした点も驚異といえるでしょう。
日蓮正宗も創価もトップはぞろぞろ連れ歩いて他宗破折も対話も人助けもありません。かろうじて、創価のお金の力で良く言えば寄付をして daisaku ikeda と名の付く道を造る事ぐらい?本当に偉いのは誰なんでしょうね?
('07.01.17修正)ノリエガ将軍とのモニュメントチャウシェスクとの記念の銅像(だっけ?)が創価都合で撤去された事を考えると非常に疑問です。
お二人の厚い友情は?友ではなかったの?
goma: 池田宣揚本でさらなる洗脳を企む学会
●ネットも師弟?
はったりもそうですね。はったりに書かれる記事で創価の人は多少なりとも学んでいると思います。
現実問題として、ネット、書籍、などから仏法の勉強は出来るようになりました。書籍については学会員時代にも出来たはずですが、忙しい中で大白蓮華、新聞を全部読むのは大変かと思います。また、創価思考、創価専用の仏法教義(以下、創価教義)なので、疑うのが難しいです。第三文明や聖教新聞社などからも仏法の書籍はありますが、全部創価解釈ですからね。「一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。」というのが日蓮の弟子の日興上人教えなので、当時の天台宗(法華経の事?)以外の勉強は余裕がある人以外はする必要はない、邪宗や一般仏教を勉強しない傾向が創価にはあります。今日現在でも五時八教で折伏する人はいるんじゃないでしょうか?
なのでネットでもリアルでも時には師匠であり弟子であり、、、、という場合があると思います。
以上
'07.01.17 修正
'06.12.25 誤記訂正
お食事中の人は読まないで下さいね。
---------------
師匠とは?
バリ活の人と度々問題になるのが、池田氏をどういう師匠として捉えるか?ですね。
寒苦鳥の部屋: 最近の世相「虐待」から考えた事 寒苦鳥さんの記事を読んでも分かるとおり、もはや完全に信仰の意義を忘れた数字主義、数信仰をしています。私も度々、地区で数信仰に疑問を持つことなく活動していましたが、ここまで酷いとは。面倒を見てあげるべき一学会員さんを統監(創価の名簿、個人カード。)を右へ左へまるで爆弾を扱うかのように「かかわりたくない」「めんどくさい」ってやつですかね?
今でも創価の決まり事として変わっていなければ、入信して一年間は折伏を受けた組織に付くというのがあります。一年を過ぎると、その人が住んでいる地元組織ということになります。同じ場合は一年過ぎてもそのままですね。
折伏する際に創価の人は「池田氏は素晴らしい学ぶべき師匠」ということであなたにとっても師匠です。という説明や切り口です。一応、強制ではありませんが、過去記事に書いたとおり池田氏を師匠である、と思うか、MCされるか、あるいは口にしなければ幹部には絶対になれないと思います。21番 創価学会員さんとのやりとり。その4 池田氏が嫌いであるとか、師匠で無いという男子部幹部は一人も見た事はありませんからね。
さて、ブログを立ち上げてから疑問に思うようになったのが、創価は距離の小さい、身近な師匠をつくる風潮が薄いのではないでしょうか?
●師弟の距離
私も学会員時代に師匠である池田氏にお会いしたいと真剣に考え祈っていましたし、自分の周りでもいつかお会いしたい、握手したい、あるいは本部長さんで、肩をたたかれて「頑張っているね」と激励されたい、という具体的なものもありました。でも祈りが真剣でも会う事は難しいです。よく「お題目の多い人の所に先生はいらっしゃる。」という創価伝説がありますが、これも「嘘」ですよね。婦人部は必ず会えないといけない事になってしまいます。
やはり海外よりは日本、地方よりは大都市、中でも東京、中でも幹部、あるいは創価学園か創価大学、というのは変わらないと思います。特にここ数年は池田氏は東京と山梨以外は言ってないと思います。以前は名古屋、大阪、福岡に行っていたはずですが、少なくなったか、行かなくなった場所があるはずです。
大きな体育館のような会場で万人に通用するような曖昧で当たり前の事をいつまでも繰り返して本当に意味があるのでしょうかね?本来は難しい仏法教義をきちんと説明する場所だと思うのですけどね。なかなか会えない池田氏は明らかに距離の遠い師匠でしょう。 池田大作氏の同時中継とは?スピーチとは?書籍とは?
プンニカーおばさんは目の前の人を説得して入信させたわけです。そこには一時的かもしれませんが、小さな師弟ができあがったと思います。ゴータミーは芥子を探しに町の中に行って色々な人の話を聞くうちに町の中でやっぱり一時的ですが、町の人とゴータミーの間に小さな師弟ができあがったと思います。どちらも距離の短い師弟ですね。当時はネットも何もありませんから、それが当たり前というか、それしか出来なかったわけですが。
男子部の中でも「誰々について行く。創価班の委員長についていく。区男(区男子部長のこと)についていく」という発言が活動家の中にありました。なのでこうした距離の近い師弟は全くないわけではありません。男子部で有れば部長や本部長あたりの人は好かれるかどうかで部活がうまくいくかいかないか?という面はあるでしょう。悪しき創価思考は別ですが、実際、いい人達であったと思いますしね。
但し、池田氏を絶対の師匠とする事で地方幹部を師匠としたり絶対視するような内部分裂は起きにくいのかもしれません。
●師弟の時間
これも池田氏は短いですね。
芸能人の久本さんが池田氏から「わかっているよ」といわれて泣いている動画がyoutubeにあったはずですが、こうした池田氏の言動は本当に分かっているのか疑わしいし、おそらくは「ただの思いやり」なのでしょう。
●一方通行な師匠?
よく創価学会員は池田氏に会えなくても 師匠である池田氏の生き方、大聖人の生き方を学ぶんだ。素晴らしいんだ。といいますが、人間として一方通行の師弟とは成り立つのでしょうか?
常に師弟関係も一方通行なのでしょうか?ゴータミーは芥子を探しに町に行って色々の人の話を聞くうちに町の中でやっぱり一時的に、小さな師弟ができあがったと思います。後日、釈迦の弟子になったそうですから、ゴータミーが「師」になったと思います。実際にテーリーガーターのゴータミーは今我々にとって師匠になり得るでしょう。ネットや書籍ですけどね。
お互いにゴータミーのように弟子から師匠へ、そして私の根拠のない想像ですが、また弟子へという場合があった気がします。。。
たとえば、三味線とかギターの通信教育がありますよね。一方通行です。
通信教育なら指使いは自分で直さないといけませんが、面と向かって会う師匠で有れば双方向なので気づいて注意してくれるはずです。
テーリーガーターや原始仏教に出てくる釈迦やプンニカーおばさんやゴータミーなどの師に限りなく近いです。必ず一方通行ではなく、双方向です。会話ですからね。
池田氏は一時的に会ってガンバレとは言いますが、注意や時間をかけて接するような気は遣ってはくれないでしょう。池田氏は握手するか記念撮影するかぐらいですかね?若い時には様々に御書講義や個人指導、質問会がありましたが、今は完全にアイドルでしょうね。但し、過去の池田氏の個人指導や書籍に書かれている指導から今でも学ぶ事があるでしょう。
やはり自分の身近にいる親や友人、先輩などが「師」であっても良いと思います。創価学会に限っても限らなくても、です。 なので、創価の人が今でも「いつでも必ず」池田氏を師匠とするのは一般論や曖昧論としては賛成出来ますが、今の現実問題を見ているととても師匠とは思えません。そして永遠の指導者という「何時までも」師匠なのは異常では?新しい思想家(だった?)なのでしょうか?
テーリーガーターや友岡氏の書籍を読んで思ったのは池田氏は人生の師とよく言われますが、人生を賭けるほどならばもっと密接な師でないといけない気がします。日蓮も池田氏も無謬ではないのですから、「いつでも必ず」師匠ではない気がします。但し、日蓮の場合は信仰として鎌倉時代での新たな思想家ですから信仰の師匠とするのは条件付きですが、問題ないと思います。
それに師弟の人間関係も問題です。自分の身近な人が師匠なのに常に池田氏が師匠だと身近な人への感謝が出来にくいです。テーリーガーターのネットにある翻訳文を読むとバラモンはプンニカーおばさんに感謝しています。テーリーガーター 2 師匠が弟子からの感謝や見返りを求めるようでは仏法ではありませんが、こうした弟子からの感謝の意識はどうしても必要でしょう。はったり特急の学会員さんが言っていましたが、「釈迦の書籍を読んだ所、感謝が大事なのが分かり感動した。」(主旨)とおっしゃっていました。実際に学会員は「恩のある先生のために」という事で行動しますが、どう考えても関係の薄い池田氏にそこまで感謝するなら、自分の身近な人により、更に、感謝、報恩が必要でしょう。
知れば知るほど嫌になる学会。そのxシリーズ に引用した親子関係はやはり疑問です。池田氏や創価、公明に尽くせば子供などどうでもいい。と言う感覚はおかしいです。
私がとあるブログに書いたコメント。
---------------
ネットの創価の人は私から見るとほとんど何も言わずに去って行きますね。「え?たったそれだけ?」って。
私の場合は、教学や学会の説明だけでも一度の折伏では絶対に足りませんでしたね。自分の体験はなくても話す事はいっぱいあったので、この差が不思議でしょうがないです。しかも 「根拠のない一般論」に終始するか酷いと罵倒になります。普段一体どの様に折伏しているのか非常に疑問です。 家庭訪問だけでも毎回話す事は違っても自分のパターンというものが出来るのが普通なのですが。。。。究極的な事を言えば、裏で陰口をたたくのは自由ですし構いませんが、それは宗教ではありません。
話したい事がある、伝えたい事がある、というのが宗教なはずです。ドライではなくウェットな人間関係のはずです。少なくとも折伏成功体験は私の知る限りすべて、ベタベタで、密接で、くどくて、しつこくて、暖かい人間関係です。
なので、ネットの創価の人は違和感が多すぎます。
---------------
池田氏の言う事は世間一般にある通常の書籍と同等ぐらいに考えておかないとこれから入信したり信心する人は危険かもしれません。
●綺麗な師匠と汚い師匠
ブッダは歩むブッダは語るP44~、にはこうあります。 ある病人がいて自分で排泄する汚物の処理も出来ずにいます。その汚物まみれの人に釈迦が水をかけ汚物を洗い、敷物も洗って綺麗にして寝かせてあげたそうです。
マザーテレサはあの年齢になっても最後まで人を救ったらしいですし、犬の死骸まで「そこに主がおられる」と言って処理したそうです。(すいません、この辺のマザーテレサのネットの証拠が見つかりません。どこかで見た気がするのですが。。。。誰か教えて下さい。これで記事掲載に時間がかかってしまいました。>特にキリスト教の方。 m(_ _)m )
池田氏は。。。。。金ぴか勲章集め大好き?
もう、私がブログを書いている間だけでも、池田氏が何人もの人を見捨てて退会に至ったか、、、書いてきた通りです。 昔、池田氏の若かりし頃に貧しい母子にお弁当をあげたり、おばあさんの手を引いてあげた写真と今では別人ですね。
また釈迦はぞろぞろとお供を連れ歩く事はなかった様です。アーナンダ一人程度の従者を連れ、自分の弟子には私と同じように人を救ってらっしゃいと言って自分たちで個々に行動させたようです。釈迦が一般人から施された食事の食中毒で亡くなったらしい事を考えると、弟子が少なかった事の裏付けになるでしょう。こうした点も驚異といえるでしょう。
日蓮正宗も創価もトップはぞろぞろ連れ歩いて他宗破折も対話も人助けもありません。かろうじて、創価のお金の力で良く言えば寄付をして daisaku ikeda と名の付く道を造る事ぐらい?本当に偉いのは誰なんでしょうね?
('07.01.17修正)ノリエガ将軍とのモニュメント
お二人の厚い友情は?友ではなかったの?
goma: 池田宣揚本でさらなる洗脳を企む学会
●ネットも師弟?
はったりもそうですね。はったりに書かれる記事で創価の人は多少なりとも学んでいると思います。
現実問題として、ネット、書籍、などから仏法の勉強は出来るようになりました。書籍については学会員時代にも出来たはずですが、忙しい中で大白蓮華、新聞を全部読むのは大変かと思います。また、創価思考、創価専用の仏法教義(以下、創価教義)なので、疑うのが難しいです。第三文明や聖教新聞社などからも仏法の書籍はありますが、全部創価解釈ですからね。「一、当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。」というのが日蓮の弟子の日興上人教えなので、当時の天台宗(法華経の事?)以外の勉強は余裕がある人以外はする必要はない、邪宗や一般仏教を勉強しない傾向が創価にはあります。今日現在でも五時八教で折伏する人はいるんじゃないでしょうか?
なのでネットでもリアルでも時には師匠であり弟子であり、、、、という場合があると思います。
以上
'07.01.17 修正
'06.12.25 誤記訂正