●再び、プンニカーおばさん。
また?(^_^;)と思われる人もいるかと思いますが、それだけ重要だと思います。感想その3、感想その4は普通の人にも分かる様に書きましたが、また今回から一般向けではなくなります。どうしてもハードルは高めになってしまいます。 なお、友岡氏の著書を読んだ人なら分かっていただけると思うのですが、私のブログでは友岡氏と同じ説明もありますが、違う所もあります。P16からP23では、先の記事その1にも書いたとおり、”善悪””自分の人生の外にいる人””軽さの力”を説明しています。ですのでそれ以外は私の独自見解です。(heckさんとyucchiさんの件では友岡氏の論説を引き合いに出す結果になりましたね。)
ブッダは歩むブッダは語る 感想その2 ここにも書きましたが、再掲載しますね。
●バラモンとプンニカーおばさんの体験談。(再掲載)
バラモンが水の中に入って悪業を流す修行をしています。日本で言うなら寒中水泳とか滝に打たれるのと同じですね。そこへプンニカーというおばさんがやってきます。
「バラモンさん、どうして水の中に入っているの?手足も震えているじゃないですか?」
「これは有名な水浴びの修行であり、水浴びの修行で悪業を流す事が出来て天国に生まれ変わる事が出来るのだ。」
「そりゃあ、おかしいですよ。水で悪業が流れるなら、良い業も流れてしまうことになります。人殺しや強盗をした人も水浴びをすればいいの?善業も流してしまうなら、善にも悪にも関係ないあなたは人生の外にいる人になっちゃうよ? 水で悪業が流れるなら、カエルやヘビ、水の中にいる生物が天国にウヨウヨいる事になりますよ?」
(1)「バラモンさん、もう水に入ることなんか止めたら?体をこわしちゃうよ?」(1)
●見覚えのある罵倒と現実的な慈悲。
「ブッダは歩むブッダは語る 感想その2」で途中書きになっていたのが、この(1)の箇所が有る無しでどこかで見覚えありませんか?というものです。ここで気がついた人はネットで創価、アンチ創価によく関わっている人でしょうかね?(1)の文章を除いて、ちょっと口汚くするとリアルとネットで見かける創価学会や日蓮正宗の罵倒にそっくりです。どうすれば天国に行けるのか?あるいはどうすれば成仏出来るのか?そしてそこには難解な仏法用語や曖昧な精神論である師弟不二、「偉大な指導者」も南無妙法蓮華経もなければご本尊もありません。ところが「邪宗をすると不幸になり、創価に入れば幸福になります。」
でも何が幸福で何が不幸なんでしょうかね?この場合、「体をこわす」ということが不幸なのですが、酒やたばこも度が過ぎれば明らかに体に悪いですが、「大好き」な人もいるでしょう。この(1)の「体をこわしちゃうよ?」この指摘は意外に難しいですね。
ネットのあちこちにある議論は(1)の無い「バラモンとプンニカーおばさんのやりとり」なんですよね。もちろん文章上、ある人が書いていて慈悲や思いやりがある場合も当然あるでしょう。しかし往々にして創価学会および日蓮正宗の人にはこうした(1)無しが非常に多いと思います。つい先日も創価のとある方とやりとりをしていましたが、質問には答えてくれますが、深い議論になりません。やはり、というかいつも?創価側が「とある所に」弁論、議論のクロージングをしないからこうした創価思考に陥るのでしょう。
バラモンとプンニカーおばさんの会話は(1)が無いと水を浴びる事で天国に行けるのか?浴びないと地獄に行くのか?と言う議論になってしまいます。(1)が無い議論は実を言うと、プンニカーおばさんもバラモンも確かめようのない想像の議論なのです。
再度書きますが、私は「テーリー・ガーター」は読んでいませんし、友岡氏がどの程度、原文や訳文を読んでいるのかも知りません。友岡氏が著書にどのように意図的に書いているかどうかは不明ですが、ここに関しては私も 絶対に「もう水に入ることなんか止めたら?体をこわしちゃうよ?」という会話があったであろうし、「テーリー・ガーター」の経文に書かれていた(いる?)と思います。(1)があれば慈悲であり、無ければ罵倒かあるいは議論に近いですね。(1)があると言う事は慈悲がある、と言えると思います。
これこそが注意してあげるという「???の」(後述します。)慈悲であった、と思うからです。
一番重要なのは「体をこわさない事」「体を壊さないという幸福」ですね。実に現実的です。確かめようのない天国地獄論を問題にしていません。
とある人とのブログのやりとりでも宗教は「現実」がアンチとシンパの接点といいましたが同感です。私も過去の記事で「幸福が接点」になる。と書いています。これは説得する、入信させようとする宗教者の立場ですね。今後は「現実の幸不幸が接点」と言う事になると思います。説得において「現実の幸不幸が接点」ならば今の公明党投票依頼など一つとして同意出来ませんし、投票など出来ませんね。
感想その1では「●問題のあると思われる罵倒。」で証拠が残ってゆくと言う観点からだけでしたが、今回仏教の特徴である「慈悲」と言う点が明確になったと思います。
●成仏した?成仏してない?
「???の」と書きましたが、これって一体誰の事でしょうかね?プンニカーおばさん?そうです。プンニカーおばさんのことです。友岡氏の著書によると、彼女は貧しい水くみでしたがブッダの教えにあい、信者となり「後に」バラモンを救った、とあります。ですので、友岡氏の著書を信じるならば彼女はおそらくは釈迦の直接の弟子かあるいは教団?の弟子だったのでしょう。
しかし、弟子であったにせよ、なかったにせよ、どちらにしても「救った人と救われた人の体験が経文として残っている。」のです。さてそうすると「テーリー・ガーター」(女性弟子の話)「テーラー・ガーター」(男性弟子の話)の人たちは様々に人を救った事が想像されます。ところでこの人々は成仏したんですかね?成仏してないんですかね?
経文に残る様な”偉大な事をした”(人を救った)人が、成仏していないと言えますか?
理屈にせよ、情にせよ、「成仏した」と言えない創価の人。とっとと天国にでも地獄にでも行ってください。たびたび書いてきましたが、創価の未入信家族が最後まで題目をあげなくても、死ぬ間際に題目を一度だけあげても、創価の人はお題目を送るでしょうし、成仏を祈るでしょうし、成仏していると思うでしょう。先にちょっとだけ書いた、赤ちゃんが生まれたけど直ぐに病気になり、家族は一生件目にお題目をあげますが、あっという間に亡くなってしまう。。。。。。それでも創価の人はお題目を送るでしょうし、赤ちゃんが題目も本尊も何も分からなくても「成仏した」そう思うでしょうし、体験談に「この子のおかげで信心を教えていただきました。」と書くくらいです。
経文に残る様な釈迦の弟子が、成仏していないと言えますか?
つまり、
これこそが「プンニカーおばさんの」慈悲であった、と思うからです。
これこそが「仏の」慈悲であった、と思うからです。慈悲があれば仏なのでしょうかね?
但し、ここでは仮として現在から見た”過去の”釈迦の時代、”過去の”亡くなった人の死後の成仏をいいます。生きている時の成仏はまた別途。
●女人成仏
ブッダは歩むブッダは語る 感想その1「●アンチ創価と創価」ここでも少し書いてきました。
「法華経非仏説としても仏説としてもプンニカーおばさんが法華経の女人成仏を知っていて安心しながら?バラモンに注意したとは考えにくいのです。」と言う観点からだけでした。これは後々書いていきますが、法華経及び日蓮を完全?否定してゆく事になる気がします。今の所、理論としてはぼんやりではありますが。その1で書いた日蓮否定という事はこの事です。 創価の師弟不二にも大きく関わってきます。師弟不二の完全否定です。
私、そううそ の根拠のない想像だけなのですが、もし仮に釈迦の弟子になる以前にこうしたプンニカーおばさんとバラモンの会話があったとすれば、これはこれで驚異です。「テーリー・ガーター」にこの記録が残る事からも、とても原始仏教、釈迦仏教が素晴らしかったと思います。 当然、釈迦の弟子であったであろうことが想像されるんですけどね。。。。
ですが友岡氏の著書を読んだ人でないと分からないと思うのですが、この著書には意図しているのか、仏教自体がそうなのか不明ですが、邪宗の人間が蘇生していく事が書かれています。バラモンもそうです。ゴータミーもそうです。アングリマーラーもそうです。もしかするとプンニカーおばさんも弟子になる以前にこうした事が出来たのかもしれません。
下手をすると(日蓮仏法からみたら)邪宗同士の人の会話であった可能性があるのです。後述します。
日蓮仏法では法華経から見たら仮の教えである爾前経(にぜんきょう)ですが、釈迦の弟子でない人や釈迦の教えを知らなくてもプンニカーおばさんと同等に成仏の可能性があると言う事になります。もちろん正法、像法、末法論がある。というのは理解しています。
●「テーリー・ガーター」「テーラー・ガーター」
先ほど、下手をすると邪宗同士の人の会話であった可能性があるのです。と書きましたが、釈迦の弟子だったとしてもプンニカーおばさんは明確に何々経の人ではありません。原始仏教では何々経ということが成仏の理由では無いという事になります。
「テーリー・ガーター」「テーラー・ガーター」が経文になったのであり、プンニカーおばさんは驚くべき事に
「経文を前提にバラモンを説得していません。」
「経文でバラモンを説得していません。」
我々は「テーリー・ガーター」(女性弟子の話)「テーラー・ガーター」(男性弟子の話)の人たちは様々に人を救った事を経文として、ありがたい「お経」として受け止めますが、どちらも体験談集のようです。「プンニカー」で検索するとネットにも実際にその詳しい様子を説明するサイトが出てきますね。(私のサイトが一番上で恥ずかしい (*^_^*)。)
過去記事にも少し書いてきましたが、プンニカーおばさんの説明は自然な理屈や道理です。悪業論、生まれ変わり?論はありますが、現世での幸不幸を重視して説いているのも実に興味深いですね。バラモンもゴータミーもアングリマーラーも来世に賭けるというよりは現世でよく生きた?ように読みとれます。
●水浴びの修行は原始仏教では否定されていた。その2
ブッダは歩むブッダは語る 感想その2 でもちょっとだけ触れましたが、今でも、火渡り、水浴びの修行はあちらこちらにあるんですね。年中行事だけかと思いきや、毎日ではなくてもお金を払ってまで体験するようです。
宝生宗 昇龍山 常明寺
修験摩訶の会における修行の位置づけ
現代でも水を浴びて自分を変えられる、という考え方、つまり、教義があると言う事ですね。水を浴びて良い結果、幸福が得られる?かどうかはよく分かりませんけどね。冷たい水で身が引き締まり考え方が変わる、、ということでしょうか?
体が悪い人には水浴びの修行は出来ませんね。絶対にこれをしなければ駄目だ、不幸になる。そうした考えを「宝生宗 昇龍山 常明寺」はおそらく持っていないでしょうけどね。あくまで人生の指針、あるいは宗教の一つとして、と言う事ではないでしょうか?日蓮正宗、創価や日蓮の様に「駄目だ!!!!」とは言わないでしょうね。
現代でも水浴びの修行にこだわる人などには「テーリー・ガーター」「テーラー・ガーター」が通用する場合があるのです。プンニカーおばさんだけでなく、子供を失った人で有ればゴータミー、犯罪者で有ればアングリマーラーも??
何が言いたいかというと、日蓮仏法では法華経から見たら仮の教えである爾前経(にぜんきょう)ですが、現代でも水浴びを止める人がいる可能性があるのです。
宝生宗などのように宗教はともかくとしても現代でも水浴びなどを止めさせる可能性があるのです。これでも現代では役に立たないとか、仮の教えである爾前経(にぜんきょう)なのでしょうか?
●まとめ
経文とは、、、、、その1、2、3からのまとめとして。。。。。。
「伝達する」「説明する」「納得できる」ということに「成功しているのですから、経文」
プンニカーおばさんの言う事は現実的。
原始仏教では、限りなく会話であるらしい??(会話だけでなく、概念や戒律もある?)
どんな人でも見捨てない。距離の近い目の前の人を救っている。むしろ不幸な人の所に行く。距離を縮めている。
アングリマーラーは殺人者だったのに釈迦は弟子が止めるのも聞かずに助けに行ったらしい。
永延と続く議論や罵倒よりも慈悲や指摘の可能性が高い。
指摘というのはゴータミーも。子供を亡くしたのは自分だけじゃなくて大勢いる。無くした人でも強く生きている?と言う事に気がつく?
現代でも水浴びなど不幸につながる行動を止めさせる可能性がある。ホントに爾前経(にぜんきょう)?
プンニカーおばさんは驚くべき事に「経文を前提にバラモンを説得していません。」何々経の人ではない。
しかしこうして見るとプンニカーおばさんとバラモンの対話には色々と学ぶべき多くの事がありますね。
また?(^_^;)と思われる人もいるかと思いますが、それだけ重要だと思います。感想その3、感想その4は普通の人にも分かる様に書きましたが、また今回から一般向けではなくなります。どうしてもハードルは高めになってしまいます。 なお、友岡氏の著書を読んだ人なら分かっていただけると思うのですが、私のブログでは友岡氏と同じ説明もありますが、違う所もあります。P16からP23では、先の記事その1にも書いたとおり、”善悪””自分の人生の外にいる人””軽さの力”を説明しています。ですのでそれ以外は私の独自見解です。(heckさんとyucchiさんの件では友岡氏の論説を引き合いに出す結果になりましたね。)
ブッダは歩むブッダは語る 感想その2 ここにも書きましたが、再掲載しますね。
●バラモンとプンニカーおばさんの体験談。(再掲載)
バラモンが水の中に入って悪業を流す修行をしています。日本で言うなら寒中水泳とか滝に打たれるのと同じですね。そこへプンニカーというおばさんがやってきます。
「バラモンさん、どうして水の中に入っているの?手足も震えているじゃないですか?」
「これは有名な水浴びの修行であり、水浴びの修行で悪業を流す事が出来て天国に生まれ変わる事が出来るのだ。」
「そりゃあ、おかしいですよ。水で悪業が流れるなら、良い業も流れてしまうことになります。人殺しや強盗をした人も水浴びをすればいいの?善業も流してしまうなら、善にも悪にも関係ないあなたは人生の外にいる人になっちゃうよ? 水で悪業が流れるなら、カエルやヘビ、水の中にいる生物が天国にウヨウヨいる事になりますよ?」
(1)「バラモンさん、もう水に入ることなんか止めたら?体をこわしちゃうよ?」(1)
●見覚えのある罵倒と現実的な慈悲。
「ブッダは歩むブッダは語る 感想その2」で途中書きになっていたのが、この(1)の箇所が有る無しでどこかで見覚えありませんか?というものです。ここで気がついた人はネットで創価、アンチ創価によく関わっている人でしょうかね?(1)の文章を除いて、ちょっと口汚くするとリアルとネットで見かける創価学会や日蓮正宗の罵倒にそっくりです。どうすれば天国に行けるのか?あるいはどうすれば成仏出来るのか?そしてそこには難解な仏法用語や曖昧な精神論である師弟不二、「偉大な指導者」も南無妙法蓮華経もなければご本尊もありません。ところが「邪宗をすると不幸になり、創価に入れば幸福になります。」
でも何が幸福で何が不幸なんでしょうかね?この場合、「体をこわす」ということが不幸なのですが、酒やたばこも度が過ぎれば明らかに体に悪いですが、「大好き」な人もいるでしょう。この(1)の「体をこわしちゃうよ?」この指摘は意外に難しいですね。
ネットのあちこちにある議論は(1)の無い「バラモンとプンニカーおばさんのやりとり」なんですよね。もちろん文章上、ある人が書いていて慈悲や思いやりがある場合も当然あるでしょう。しかし往々にして創価学会および日蓮正宗の人にはこうした(1)無しが非常に多いと思います。つい先日も創価のとある方とやりとりをしていましたが、質問には答えてくれますが、深い議論になりません。やはり、というかいつも?創価側が「とある所に」弁論、議論のクロージングをしないからこうした創価思考に陥るのでしょう。
バラモンとプンニカーおばさんの会話は(1)が無いと水を浴びる事で天国に行けるのか?浴びないと地獄に行くのか?と言う議論になってしまいます。(1)が無い議論は実を言うと、プンニカーおばさんもバラモンも確かめようのない想像の議論なのです。
再度書きますが、私は「テーリー・ガーター」は読んでいませんし、友岡氏がどの程度、原文や訳文を読んでいるのかも知りません。友岡氏が著書にどのように意図的に書いているかどうかは不明ですが、ここに関しては私も 絶対に「もう水に入ることなんか止めたら?体をこわしちゃうよ?」という会話があったであろうし、「テーリー・ガーター」の経文に書かれていた(いる?)と思います。(1)があれば慈悲であり、無ければ罵倒かあるいは議論に近いですね。(1)があると言う事は慈悲がある、と言えると思います。
これこそが注意してあげるという「???の」(後述します。)慈悲であった、と思うからです。
一番重要なのは「体をこわさない事」「体を壊さないという幸福」ですね。実に現実的です。確かめようのない天国地獄論を問題にしていません。
とある人とのブログのやりとりでも宗教は「現実」がアンチとシンパの接点といいましたが同感です。私も過去の記事で「幸福が接点」になる。と書いています。これは説得する、入信させようとする宗教者の立場ですね。今後は「現実の幸不幸が接点」と言う事になると思います。説得において「現実の幸不幸が接点」ならば今の公明党投票依頼など一つとして同意出来ませんし、投票など出来ませんね。
感想その1では「●問題のあると思われる罵倒。」で証拠が残ってゆくと言う観点からだけでしたが、今回仏教の特徴である「慈悲」と言う点が明確になったと思います。
●成仏した?成仏してない?
「???の」と書きましたが、これって一体誰の事でしょうかね?プンニカーおばさん?そうです。プンニカーおばさんのことです。友岡氏の著書によると、彼女は貧しい水くみでしたがブッダの教えにあい、信者となり「後に」バラモンを救った、とあります。ですので、友岡氏の著書を信じるならば彼女はおそらくは釈迦の直接の弟子かあるいは教団?の弟子だったのでしょう。
しかし、弟子であったにせよ、なかったにせよ、どちらにしても「救った人と救われた人の体験が経文として残っている。」のです。さてそうすると「テーリー・ガーター」(女性弟子の話)「テーラー・ガーター」(男性弟子の話)の人たちは様々に人を救った事が想像されます。ところでこの人々は成仏したんですかね?成仏してないんですかね?
経文に残る様な”偉大な事をした”(人を救った)人が、成仏していないと言えますか?
理屈にせよ、情にせよ、「成仏した」と言えない創価の人。とっとと天国にでも地獄にでも行ってください。たびたび書いてきましたが、創価の未入信家族が最後まで題目をあげなくても、死ぬ間際に題目を一度だけあげても、創価の人はお題目を送るでしょうし、成仏を祈るでしょうし、成仏していると思うでしょう。先にちょっとだけ書いた、赤ちゃんが生まれたけど直ぐに病気になり、家族は一生件目にお題目をあげますが、あっという間に亡くなってしまう。。。。。。それでも創価の人はお題目を送るでしょうし、赤ちゃんが題目も本尊も何も分からなくても「成仏した」そう思うでしょうし、体験談に「この子のおかげで信心を教えていただきました。」と書くくらいです。
経文に残る様な釈迦の弟子が、成仏していないと言えますか?
つまり、
これこそが「プンニカーおばさんの」慈悲であった、と思うからです。
これこそが「仏の」慈悲であった、と思うからです。慈悲があれば仏なのでしょうかね?
但し、ここでは仮として現在から見た”過去の”釈迦の時代、”過去の”亡くなった人の死後の成仏をいいます。生きている時の成仏はまた別途。
●女人成仏
ブッダは歩むブッダは語る 感想その1「●アンチ創価と創価」ここでも少し書いてきました。
「法華経非仏説としても仏説としてもプンニカーおばさんが法華経の女人成仏を知っていて安心しながら?バラモンに注意したとは考えにくいのです。」と言う観点からだけでした。これは後々書いていきますが、法華経及び日蓮を完全?否定してゆく事になる気がします。今の所、理論としてはぼんやりではありますが。その1で書いた日蓮否定という事はこの事です。 創価の師弟不二にも大きく関わってきます。師弟不二の完全否定です。
私、そううそ の根拠のない想像だけなのですが、もし仮に釈迦の弟子になる以前にこうしたプンニカーおばさんとバラモンの会話があったとすれば、これはこれで驚異です。「テーリー・ガーター」にこの記録が残る事からも、とても原始仏教、釈迦仏教が素晴らしかったと思います。 当然、釈迦の弟子であったであろうことが想像されるんですけどね。。。。
ですが友岡氏の著書を読んだ人でないと分からないと思うのですが、この著書には意図しているのか、仏教自体がそうなのか不明ですが、邪宗の人間が蘇生していく事が書かれています。バラモンもそうです。ゴータミーもそうです。アングリマーラーもそうです。もしかするとプンニカーおばさんも弟子になる以前にこうした事が出来たのかもしれません。
下手をすると(日蓮仏法からみたら)邪宗同士の人の会話であった可能性があるのです。後述します。
日蓮仏法では法華経から見たら仮の教えである爾前経(にぜんきょう)ですが、釈迦の弟子でない人や釈迦の教えを知らなくてもプンニカーおばさんと同等に成仏の可能性があると言う事になります。もちろん正法、像法、末法論がある。というのは理解しています。
●「テーリー・ガーター」「テーラー・ガーター」
先ほど、下手をすると邪宗同士の人の会話であった可能性があるのです。と書きましたが、釈迦の弟子だったとしてもプンニカーおばさんは明確に何々経の人ではありません。原始仏教では何々経ということが成仏の理由では無いという事になります。
「テーリー・ガーター」「テーラー・ガーター」が経文になったのであり、プンニカーおばさんは驚くべき事に
「経文を前提にバラモンを説得していません。」
「経文でバラモンを説得していません。」
我々は「テーリー・ガーター」(女性弟子の話)「テーラー・ガーター」(男性弟子の話)の人たちは様々に人を救った事を経文として、ありがたい「お経」として受け止めますが、どちらも体験談集のようです。「プンニカー」で検索するとネットにも実際にその詳しい様子を説明するサイトが出てきますね。(私のサイトが一番上で恥ずかしい (*^_^*)。)
過去記事にも少し書いてきましたが、プンニカーおばさんの説明は自然な理屈や道理です。悪業論、生まれ変わり?論はありますが、現世での幸不幸を重視して説いているのも実に興味深いですね。バラモンもゴータミーもアングリマーラーも来世に賭けるというよりは現世でよく生きた?ように読みとれます。
●水浴びの修行は原始仏教では否定されていた。その2
ブッダは歩むブッダは語る 感想その2 でもちょっとだけ触れましたが、今でも、火渡り、水浴びの修行はあちらこちらにあるんですね。年中行事だけかと思いきや、毎日ではなくてもお金を払ってまで体験するようです。
宝生宗 昇龍山 常明寺
修験摩訶の会における修行の位置づけ
現代でも水を浴びて自分を変えられる、という考え方、つまり、教義があると言う事ですね。水を浴びて良い結果、幸福が得られる?かどうかはよく分かりませんけどね。冷たい水で身が引き締まり考え方が変わる、、ということでしょうか?
体が悪い人には水浴びの修行は出来ませんね。絶対にこれをしなければ駄目だ、不幸になる。そうした考えを「宝生宗 昇龍山 常明寺」はおそらく持っていないでしょうけどね。あくまで人生の指針、あるいは宗教の一つとして、と言う事ではないでしょうか?日蓮正宗、創価や日蓮の様に「駄目だ!!!!」とは言わないでしょうね。
現代でも水浴びの修行にこだわる人などには「テーリー・ガーター」「テーラー・ガーター」が通用する場合があるのです。プンニカーおばさんだけでなく、子供を失った人で有ればゴータミー、犯罪者で有ればアングリマーラーも??
何が言いたいかというと、日蓮仏法では法華経から見たら仮の教えである爾前経(にぜんきょう)ですが、現代でも水浴びを止める人がいる可能性があるのです。
宝生宗などのように宗教はともかくとしても現代でも水浴びなどを止めさせる可能性があるのです。これでも現代では役に立たないとか、仮の教えである爾前経(にぜんきょう)なのでしょうか?
●まとめ
経文とは、、、、、その1、2、3からのまとめとして。。。。。。
「伝達する」「説明する」「納得できる」ということに「成功しているのですから、経文」
プンニカーおばさんの言う事は現実的。
原始仏教では、限りなく会話であるらしい??(会話だけでなく、概念や戒律もある?)
どんな人でも見捨てない。距離の近い目の前の人を救っている。むしろ不幸な人の所に行く。距離を縮めている。
アングリマーラーは殺人者だったのに釈迦は弟子が止めるのも聞かずに助けに行ったらしい。
永延と続く議論や罵倒よりも慈悲や指摘の可能性が高い。
指摘というのはゴータミーも。子供を亡くしたのは自分だけじゃなくて大勢いる。無くした人でも強く生きている?と言う事に気がつく?
現代でも水浴びなど不幸につながる行動を止めさせる可能性がある。ホントに爾前経(にぜんきょう)?
プンニカーおばさんは驚くべき事に「経文を前提にバラモンを説得していません。」何々経の人ではない。
しかしこうして見るとプンニカーおばさんとバラモンの対話には色々と学ぶべき多くの事がありますね。