≪ルーマニア/首都ブカレスト観光≫
シナイアから南に130km走って、夕刻ブカレストに着いた。
さすが首都、建物がぎっしりと建った大都市だ。
最初に「凱旋門」前でバスを降りた。この「凱旋門」は第1次世界大戦の勝利を記念して1919年に建てられたものだという。パリの凱旋門を思い出したが、僅かな彫刻が施された簡素なものだった。
次に降りた場所が「旧共産党本部」前だった。1989年12月22日に当時の「チャウシェスク大統領」がこのテラスで演説し、集まった大群衆からブーイングされて、屋上からヘリコプターで逃亡した建物だ。
現在は労働省として使われているという。
また、前庭には、革命の犠牲者の慰霊塔が立っていた。
次にチャウシェスクが日本円にして1500億円を使って建てた巨大な宮殿「国民の館」に行った。
部屋数3107あり、内部の天井、壁、窓枠などには純金が施してある豪華なものだそうだ。
現在は、政党の事務所が入り、国際会議、コンサートなどに使われているという。
余りの大きさに、建物全体を写真に取ることが難しかった。
その日のホテルの傍に大型スーパーがあったので行って見た。残念なことにユーロが使えなかったので買い物ができなかった。
意外にも入り口に日本の100円ショップ「ダイソー」が入っていた。品揃えを見たら、日本の店にあるものもあった。
翌日、ルーマニアからブルガリアに向かうバスの中で、現地ガイド氏はチャウシェスク独裁政権下の国情を話した。概要は次の通りだ。
『ニコラエ・チャウシェスクは貧しい農民出身で、靴屋で働いていた。旧ソ連のスターリン時代にソ連で学び、1965年共産党書記長になった。その後農業の集団化が推進された。そして1974年に大統領と国軍のトップになった。
それからは貧しい人、理解力が低い人が昇進した。
食糧の配給制が始まり、券が配られた。しかし1Lの牛乳を買うのに、7時に開く店に3時から並ばなければ買えなかった。
反対した神父は獄死した。共産党に加担する神父も出た。神父がレポートを出した。調査時の話は録音されていた。
1989年にチャウシェスクに反対する牧師が演説をした。反対運動が盛り上がった「キミショアラ」で数百人が軍に撃たれた。マスコミも秘密警察に支配されていたので、ある市民が録音テープをドイツに持って行き、ドイツのラジオ放送で多くの人々がそのできごとを知った。
チャウシェスクは1989年12月に夫妻で当時の共産党本部屋上からヘリコプターで逃亡後、捕らえられて殺され、軍人墓地に埋葬された。
3人の子の1人(養子)は彼に反対していた。今は核物理学者である。2人は死んだ。
(特に次男のニクは、レイプ事件を起こしたり、体操選手のコマネチを愛人にと迫ったりする放蕩息子だった)
国民の14%、320万人が共産党の党員だったが、現在は5000人だ。
チャウシェスクの支配下では、秘密警察は無料で住宅、食糧、衣服などが与えられていた。
革命時、銃を使った秘密警察は少なかった。革命後、秘密警察は良い職業についたり、利子なしで金を借りれた。
当時は離婚も人口妊娠中絶も禁止され、5人以上子どもを生むと公的に優遇された。』
(子どもを捨てる親が多数出て孤児が増えた。孤児院では子どもを死なせると職員が罰せられるので、大人の血液を輸血される子が多くいた。その子ども達はエイズを発症した。)
また現地ガイド氏は、現在のルーマニアについても、一部を話した。
『退職者は、年に1回国内旅行を半額負担ですることができる。また特定の店で買い物をしたら、価格の50%を政府が負担してくれる。年金は賃金の65%が支給される。
労働者には残業はなく、年間に休日は4~5週間ある。(ルーマニアの消費税は、現在24%だった)
学校は、小学校4年間-中学校4年間-高校4年間の12年間だが、その内、最後の2年間は義務教育ではない。
(10年間の義務教育が終った時に、その後高校生活を続けるか、専門学校に行くかを選択する。10年で就職した場合は非熟練労働者にならざるを得なく、普通の就職はできない)
小学校は、水曜、土曜、日曜が休みで、授業時間は2部制なので8時から午後1時までだ。給食はない。午後は、中学生が来る。
義務教育と公立大学は無償である。』 (教員は給料が安い)
シナイアから南に130km走って、夕刻ブカレストに着いた。
さすが首都、建物がぎっしりと建った大都市だ。
最初に「凱旋門」前でバスを降りた。この「凱旋門」は第1次世界大戦の勝利を記念して1919年に建てられたものだという。パリの凱旋門を思い出したが、僅かな彫刻が施された簡素なものだった。
次に降りた場所が「旧共産党本部」前だった。1989年12月22日に当時の「チャウシェスク大統領」がこのテラスで演説し、集まった大群衆からブーイングされて、屋上からヘリコプターで逃亡した建物だ。
現在は労働省として使われているという。
また、前庭には、革命の犠牲者の慰霊塔が立っていた。
次にチャウシェスクが日本円にして1500億円を使って建てた巨大な宮殿「国民の館」に行った。
部屋数3107あり、内部の天井、壁、窓枠などには純金が施してある豪華なものだそうだ。
現在は、政党の事務所が入り、国際会議、コンサートなどに使われているという。
余りの大きさに、建物全体を写真に取ることが難しかった。
その日のホテルの傍に大型スーパーがあったので行って見た。残念なことにユーロが使えなかったので買い物ができなかった。
意外にも入り口に日本の100円ショップ「ダイソー」が入っていた。品揃えを見たら、日本の店にあるものもあった。
翌日、ルーマニアからブルガリアに向かうバスの中で、現地ガイド氏はチャウシェスク独裁政権下の国情を話した。概要は次の通りだ。
『ニコラエ・チャウシェスクは貧しい農民出身で、靴屋で働いていた。旧ソ連のスターリン時代にソ連で学び、1965年共産党書記長になった。その後農業の集団化が推進された。そして1974年に大統領と国軍のトップになった。
それからは貧しい人、理解力が低い人が昇進した。
食糧の配給制が始まり、券が配られた。しかし1Lの牛乳を買うのに、7時に開く店に3時から並ばなければ買えなかった。
反対した神父は獄死した。共産党に加担する神父も出た。神父がレポートを出した。調査時の話は録音されていた。
1989年にチャウシェスクに反対する牧師が演説をした。反対運動が盛り上がった「キミショアラ」で数百人が軍に撃たれた。マスコミも秘密警察に支配されていたので、ある市民が録音テープをドイツに持って行き、ドイツのラジオ放送で多くの人々がそのできごとを知った。
チャウシェスクは1989年12月に夫妻で当時の共産党本部屋上からヘリコプターで逃亡後、捕らえられて殺され、軍人墓地に埋葬された。
3人の子の1人(養子)は彼に反対していた。今は核物理学者である。2人は死んだ。
(特に次男のニクは、レイプ事件を起こしたり、体操選手のコマネチを愛人にと迫ったりする放蕩息子だった)
国民の14%、320万人が共産党の党員だったが、現在は5000人だ。
チャウシェスクの支配下では、秘密警察は無料で住宅、食糧、衣服などが与えられていた。
革命時、銃を使った秘密警察は少なかった。革命後、秘密警察は良い職業についたり、利子なしで金を借りれた。
当時は離婚も人口妊娠中絶も禁止され、5人以上子どもを生むと公的に優遇された。』
(子どもを捨てる親が多数出て孤児が増えた。孤児院では子どもを死なせると職員が罰せられるので、大人の血液を輸血される子が多くいた。その子ども達はエイズを発症した。)
また現地ガイド氏は、現在のルーマニアについても、一部を話した。
『退職者は、年に1回国内旅行を半額負担ですることができる。また特定の店で買い物をしたら、価格の50%を政府が負担してくれる。年金は賃金の65%が支給される。
労働者には残業はなく、年間に休日は4~5週間ある。(ルーマニアの消費税は、現在24%だった)
学校は、小学校4年間-中学校4年間-高校4年間の12年間だが、その内、最後の2年間は義務教育ではない。
(10年間の義務教育が終った時に、その後高校生活を続けるか、専門学校に行くかを選択する。10年で就職した場合は非熟練労働者にならざるを得なく、普通の就職はできない)
小学校は、水曜、土曜、日曜が休みで、授業時間は2部制なので8時から午後1時までだ。給食はない。午後は、中学生が来る。
義務教育と公立大学は無償である。』 (教員は給料が安い)
そのときはただ「へーそうなんだ」くらいにしか思いませんでしたが、ここにチャウシェスクが登場したことで、より強く印象に残った思いです。
民主化革命の起源ですね。ガイド氏のとつとつとした話しぶりから、当時の状況がしっかり胸に伝わりました。
そのTV番組、私は見ていないのですが、コマネチが亡命する引き金だったのかもと思います。
サマンサどら猫さん、お早うございます♪
独裁政権の内容を聞いて、余りにもあぞましいので呆れ果てました。長い間国民は、さぞ辛かったろうと思います。
ダイソーですが、儲かる所なら世界中なんでしょうね。