読書日和

お気に入りの小説やマンガをご紹介。
好きな小説は青春もの。
日々のできごとやフォトギャラリーなどもお届けします。

「ユング名言集」カール・グスタフ・ユング

2015-09-12 20:22:11 | ノンフィクション・エッセイ


久しぶりに「小説」カテゴリ以外の読み物となります。
今回ご紹介するのは「ユング名言集」(著:カール・グスタフ・ユング、編:フランツ・アルト、訳:金森誠也)です。

-----内容-----
完璧ではなく充実した生を求めよ!
「分析心理学の巨人」による考察が凝縮された151の言葉。

-----感想-----
名前は聞いたことがあるユングについて、「ユング名言集」という本があったので読んでみることにしました。
偉人の言葉ということで、どんな言葉を遺したのか興味深かったです。
ユングの言葉について特に興味深かったものを紹介し、感想や意見を書いていきます。

P26 完全を望むな
自己の完成に向かって努力することは立派な理想である。
しかし私は次のように言いたい。
「お前はとうてい達成できないことに向かって努力するよりもむしろお前ができることを何か実現させよ」

これは一気に高いところに行こうとするのではなく、階段を一歩一歩上っていく方が良いということだと思います。
まず目標を高くし過ぎないことです。
また、高い目標を持つのは良いですが、そこに向かう道は一足飛びで行こうとするのではなく、自分の足元を見ながら一歩一歩行きましょうということだと思います。

P37 暗い性質も私の一部だ
これは自分自身が嫌だと感じている欠点のことです。
ただし、欠点があるのは悪いことではないです。
そういった性質も全て入れて、その人が形作られています。

P45 情熱地獄の恐怖
自分の情熱の地獄のような有様を通り抜けたことのない人間は、自分の情熱をけっして克服することはできない。
ここでの情熱とは、後悔の念や憂鬱な気持ちに沈み込んでいってしまうこととありました。
つまり「自分の情熱の地獄のような有様」とは、物凄く後悔したり憂鬱な気持ちになったりすることです。
これを経験したことのない人は自分の情熱をけっして克服することはできないとユングは言っています。
言い換えれば、物凄く後悔したり憂鬱な気持ちになったりした経験のある人は、自分の情熱を克服することができるということです。

P60、61 「ペルソナ」について書かれています。
ペルソナとは、もともと俳優が舞台でかぶることにより自分が演ずる役割をはっきりさせる仮面のこと。
ペルソナとは、その人には本来ないものでありながら、本人および他人が、その人の実情とみなしているもののこと。
その人の本来の姿ではないものを演じていて、本人も周りの人もその姿がその人の性格、普段の立ち居振る舞いだと思っているということで、ユングはこれを「ペルソナ」と名づけました。
「ペルソナ」という、社会的な役割を果たすために演じている仮面の後ろに、その人本来の姿が隠れているとのことです。

P92 生きる上で欠陥は不可欠
私たちの罪、あやまち、それにもろもろの欠陥は、私たちにとってはまさに必要不可欠である。
それというのも、それらがなければ私たちの精神の価値ある発展の可能性が奪われてしまうからだ。

欠陥があるのは悪いことではないということです。
自分自身にどんな欠点があるかを客観的に把握することができれば、その欠点を補うための対策を立てることができ、ユングの言う「精神の価値ある発展」につながっていきます。

P101 外的個性と内的個性
私は人それぞれの外的立場、性格をペルソナと名づけ、そして内的立場、性格をアニマ(魂)と名づけている。
ペルソナに続き、アニマという言葉が出てきました。
言葉の表現が抽象的で意味を捉えずらいのですが、なかなか面白いです。
「人には外向けの態度に個人差があるのと同様に、内的にもそれぞれの個性があることが認められている」とあり、これは人それぞれの考え方の特徴のことだと思います。

P134 人が個性を育成しつつ人生行路を歩むとき、しばしばあやまちを犯すことがある。さもなければ生は完全ではない。
これは間違いがあって当たり前ということであり、それが人生です。

P155 私たちはけっして「各人がなすべきこと」ではなく、「各人ができること」「各人がやらねばならないこと」に従って行動すべきである。
これは「その人なりにできることをやれば良い」ということだと思います。

P207 現にある物が大切なのだ
事物の存在がきわめて重要なのは、私にとって「それが現にある」ということであって、けっして、「そんなものはない」とか「それは前にはあったが今はもはやない」などということではない。
「そんなものはない」と卑屈になるのではなく、今あるものを見ましょうということです。
今あるものが何かを冷静に見つめ、それを認識し大事にすることが、前を向くことにつながっていくのだと思います。

P214、215
私は自分のわがままな心からつくり出された、多くの愚行を後悔している。
しかし、こうした愚行に走らなかったならば、私はけっして自分の目標に到達できなかったであろう。

今までの失敗があって、現在の到達点にいるということです。
失敗した道は無駄ではなく、目標到達への糧として現在につながっています。

P232 他人に接して苛つくことのすべては自分自身の理解に役立つ。
これは「人は鏡」ということです。
相手がやっていることで嫌だなと感じることは、自分自身が普段から嫌だなと思っていることです。
例えば周りに聞こえるように愚痴ばかり言っている人を見て嫌だなと感じるのは、自分自身が愚痴ばかり言うことを嫌なこと、やってはいけないことと思っているからです。
自分がよくないことと思っていることを相手が平気でやっているから、見ていて不快になります。


全体的に言葉が漠然としていて難しかったです。
ただその中で、何を伝えようとしているのか意味を感じとるのが面白かったです。
心理の概論を語っているため抽象的な表現になるのだと思いますが、抽象的な言葉から意味を感じ取れた時には達成感があるものだなと、この作品を読んで思いました。


※図書レビュー館を見る方はこちらをどうぞ。

※図書ランキングはこちらをどうぞ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ちょうちんそで」江國香織

2015-09-12 15:31:25 | 小説
今回ご紹介するのは「ちょうちんそで」(著:江國香織)です。

-----内容-----
いい匂い。
あの街の夕方の匂い―。
些細なきっかけで、記憶は鮮明に甦る。
雛子は「架空の妹」と昔話に興じ、そんな記憶で日常を満たしている。
それ以外のすべて―たとえば詮索好きの隣人、たとえば息子たち、たとえば「現実の妹」―が心に入り込み、そして心を損なうことを慎重に避けながら。
雛子の謎と人々の秘密が重なるとき、浮かぶものとは。
心震わす〈記憶と愛〉の物語。

-----感想-----
江國香織さんの小説は8月に「思いわずらうことなく愉しく生きよ」で初めて読みました。
今回の「ちょうちんそで」は本屋で文庫本を見かけ、その帯に解説が綿矢りささんとあったことから興味を持ちました。

「隣室の男がやってきたとき、雛子は架空の妹とお茶をのみながら、六番街の思い出について語り合っているところだった。」
これが物語の語り出しでした。
架空の妹とお茶を飲みながら語り合うというのはまともな状態とは思えませんし、異様さを感じました。
雛子は今年で54歳になります。
妹の名前は飴子といい、現実での飴子は今年で50歳になりますが、雛子が部屋で話す架空の飴子は30歳くらいだったり17歳くらいだったりします。
もう20年くらいは飴子に会っていないため、現在の飴子の姿は想像できないようです。

丹野という隣室の男がよく雛子の部屋にやってきます。
丹野は毎回弁当などの差し入れを持ってきて、なぜか雛子のこれまでのことを詮索します。
「雛子さんは昔、仙台にお住いだったんですよね」
「それで、そのあと横浜に移られたんでしたよね」
丹野は明らかに雛子の過去に興味を持っていました。
架空の妹は
「まただね」
「この人いっつも詮索するね」
と顔をしかめ、丹野のことが露骨に嫌いなようです。
私も詮索ばかりする人は嫌いなので、そんな人が寄ってきたとしても大事なことは話さないと思います。
ただ雛子は丹野のことが嫌いではないようで、聞かれたことに色々答えています。

物語の語り手が代わり、正直という男が登場します。
正直は妻の絵里子と生後6ヶ月の娘・萌音、そして大学生の弟・誠の彼女である亜美とともに海に来ていました。
誠は夏休みの間海の家で働いています。
この人達の物語と雛子の物語がどう関わっていくのか興味深かったです。

次は丹野圭子が語り手になりました。
雛子のところによく来る丹野の妻で、夫の龍次がたびたび雛子のところに行くことに呆れていました。

そしてなつきという小学校三年生の子が語り手の物語もありました。
舞台は異国で、どの国かは書かれていませんでした。
世界一住みやすい街で海の近くとあり、最初はヨーロッパのどこかをイメージしていたのですが、真赤な小鳥「カーディナル」を調べてみたら南北アメリカに生息しているとあったので、アメリカの海岸沿いのどこかかも知れません。
なつきは小学校のほかに日本人学校にも通い英語の補習を受けています。
この日本人学校の小島先生という女の人のことをなつきは凄く気に入っていました。
なつきの物語は正直の物語以上に唐突感があり、この物語が雛子の物語に関わってくるのだろうかと疑問に思いました。

雛子は二年くらい前、アルコール中毒状態で泥酔して昏倒し、救急車で病院に運ばれたことがあります。
退院した頃には雛子はもう以前の雛子ではなくなっていたようなのですが、その頃のことに意識が行くと、架空の妹が「ねえさんねえさんねえさん」と呼び掛けてきます。
「思いだすのやめれば」
「そんなことをすれば悲しくなるだけなんだから」
これは飴子の言っていることがよく分かりました。
この小説を読んだことにより先日の「記憶との付き合い」を書いています。

雛子には二人の息子が居るのですが、下の息子が雛子の部屋にやってくることになります。
下の息子は大学生で法律を学んでいます。
この息子が語り手の物語もあり、母親のことが語られていました。
母親には男がいて、夫と息子二人を捨てて家を出て行ってしまっていました。
そして二年半前、病院に担ぎ込まれて変わり果てた姿の母親と再会しています。
下の息子の物語では作品タイトルの「ちょうちんそで」の由来も明らかになりました。
ブラウスの袖がふくらんだものを母親が「ちょうちんそで」と呼んでいたとのことです。
ちなみに雛子は息子に「小人を見たことがある?」と言っていました。
突拍子もない質問なのですが、なつきの話でも小人が登場していました。
やはり物語が絡んでくるのだろうなと思いました。

そして物語が進んでいくと、それぞれの物語のつながりが浮かび上がってきます。
雛子が家族を捨て駆け落ちした男は既に死んでしまっているのですが、ある人物が関与しているような気がしました。
また、なつきの物語に出てくる小島先生の正体も明らかになっていきました。
物語の最後、これまでとは全く違う人物が雛子の部屋を訪ねてくることになり、雛子も架空の妹との世界から一歩踏み出すことになるような気がしました。
真に心を取り戻すためのきっかけになると良いなと思います。


※図書レビュー館を見る方はこちらをどうぞ。

※図書ランキングはこちらをどうぞ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする