東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

柳井市 新庄~柳北方面 史跡巡りウォーキング(1/x)

2021年06月30日 | 歴史探訪他ウォーキング

 下見したコースとほぼ同じ、柳井市の新庄~柳北方面史跡コースを巡りしました。新庄Maxvalueに10:00集合、小学3年生1人が加わった楽しい史跡巡りウォーキングとなりました。予定通り新庄Maxvalueをスタートすると、緩い坂道を登って浄土真宗正念寺に向かいました。正念寺に到着すると、ご住職かどなたかがおられるかとチャイムを押しました。どなたもおられないようでしたので、静かに正念寺東側にある佐藤継信・忠信供養墓を見学しました。ちなみに佐藤継信は源平合戦時の八島で源義経の身代わりとして矢に打たれたとのこと。佐藤忠信も源義経に関わって亡くなりました。なお、元宰相岸信介・佐藤栄作を生んだ佐藤家には、遠いご先祖が佐藤忠信との言い伝えがあるそうです。

        暑い日差しの中、フラワーランドに向けて歩く


 続いて、源義経供養塔に向かいました。その昔、平安時代後期の源平合戦時に新庄,田布路木,上関方面で戦いがあったようです。実際、その言い伝えや史跡が数多く残っています。この源義経供養塔もその一つではないかと思います。上関方面では伝説や平家塚がいくつか史跡として残っています。田布路木には源氏に兵糧米を献上したとの話も残っています。源義経供養塔も佐藤継信・忠信供養墓も、関わりがあった人が供養するために建てたのでしょう。

 集合した新庄Maxvalue   正念寺に向かう    佐藤継信・忠信供養墓 
  

 次に古代の遺跡である多々野古墳跡に向かいました。この古墳は土盛りが無く、石室が露出しています。さらに、天井石は持ち去られてありません。江戸時代に岩政次郎右衛門が水路を作る時に誤って破壊してしまったとのこと。当時は古墳の知識が無かったため、水路建設の邪魔でしかなかったようです。今でも、土木工事の邪魔になるとのことで破壊される史跡が少なくありません。

   通りに面した源義経供養塔        多々野古墳跡の石室
 

 多々野古墳跡を過ぎると、右手に延命地蔵が見えてきました。このお地蔵様は近年建てられたのでしょうか。建物はセメント作り、ドアはアルミサッシです。高齢者の望みをかなえるべく建てられたのかも知れません。最近、延命,膝丈夫,健康成就,ぽっくりと称するお地蔵様をよく聞きます。これらは、今の時代に生きる人々の希望,関心,悩みを表しているような気がします。

  道上に立つ延地蔵   荒神社・明神社に向かう   荒神社・明神社
  

 続いて、民家の庭にある人丸社を道から見ました。そして、荒神社・明神社に向かいました。山に入る細い脇道を30m位進むと、そのお社がありました。傷みが進んだお社から推測すると、最近はお参りしたり管理する人が少ないのではないかと思います。少子高齢化の影響で、今後朽ち果てるお堂,お社,祠などが増えると思われます。さらに人々の信仰も失われると思います。やむを得ないことと知りつつ、昔の良さを知っている私としては少々寂しい気持ちです。

    楽しくウォーキングした柳井市新庄~柳北の史跡巡りコース

コメント
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