東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

柳井市 干拓跡地などの史跡を巡るウォーキング(1/3)

2020年03月04日 | 歴史探訪他ウォーキング

 ここ最近の史跡巡りウォーキングは散々です。今回のウォーキングは2月予定だったのですが、雨天で3月に延期になってしまいました。行く予定だった雛祭りなどのイベントと重なりました。そもそも下見ウォーキングも雨で延期になってしまいました。今年は天候に恵まれないウォーキングが続いています。それでも何人もの参加者がいてありがたいことです。今回は柳井市の明治以降の干拓地史跡を巡るウォーキングをしました。ちなみに古開作と呼ばれる干拓地は江戸時代に、新地と呼ばれる干拓地は明治以降に干拓されました。

       明治以降の干拓地である新地の土穂石側を散策



 JR柳井駅に10:01に集合しました。多くの方はJR田布施駅から電車に乗り、柳井市のお住まいの方は直接JR柳井駅に集合しました。皆さんが集まると、さっそく出発しました。最初、古いレンガ作りの建築物史跡を訪れました。下見では分からなかったこのレンガ作りは、とある鉄工所の溶鉱炉の跡と分かりました。その鉄工所は今、田布施町に移転して今でも操業しています。

  集合したJR柳井駅   レンガ作り建築物跡    線路を渡って南浜に
  

 レンガ作りの溶鉱炉跡を見終わると、線路をまたいで南浜に出ました。南浜に出てすぐの場所に南浜大師堂があります。この大師堂の建物をよく見ると、南陽廿七番と刻まれていました。かつては巡礼ルートの一つだったのだと思います。上関半島を巡るように南陽霊場があります。防陽霊場が古開作を巡っていたことを考えると、南陽霊場は防陽霊場が廃れた後に整備されたのではないかと思います。

   南浜の南陽廿七霊場       南浜の胡神社と塩田会所鳥居
 

 南浜大師堂を過ぎて、近くにある胡神社と柳井塩田会所跡に行きました。ここは新地の塩田で作られた塩を、製錬したり出荷していた場所ではないかと思います。明治から昭和初期にかけて、塩を積んだたくさんの船が運河を通って行き来していたと想像できます。そして、その船は運河に架かる天津橋の下をくぐっていたのだと思います。

   桜土手に向かう   人柱伝説の大歳神社    桜土手を散策
  

 続いて、干拓地跡を横切って土穂石川に向かいました。途中、大歳神社に寄りました。何の変哲もない普通の神社とばかり思っていました。ところが、本殿内に何気なく置かれた板を読むと、江戸時代の古開作に関わる由来が書かれていました。今から400近く前、古開作で堤防決壊などの災難が続いたため人柱を立てたそうです。その時、「おとし」と呼ばれるうら若き乙女が選ばれて人柱になったとの話が書かれていました。その後、古開作を見渡せる場所に大歳神社が建立されたそうです。人柱の場所はいったいどこだったのでしょうか。般若姫伝説と似ています。何度もこの寂れた神社を訪れましたが、初めてその由来を知りました。

      今回巡った、柳井市新地の干拓に関わる史跡ルート

コメント
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