東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

柳井市 干拓跡地などの史跡を巡るウォーキング(2/3)

2020年03月06日 | 歴史探訪他ウォーキング

 桜土手を土穂石川沿いに海側に向かって歩きました。しばらく歩くと、今は通れない旭橋が見えてきました。この橋、最初は木造だったそうです。その橋を作った方々のうちの一人は私の母方曽祖父の兄とのことです。その兄は伊保庄に住んでおり、伊保庄の塩田を経営しており羽振りがよかったそうです。ところが、橋を架けて渡船の経営妨害をしたとのことで訴えられ、何と刑務所に入ったそうです。しかし、橋を架けたことで感謝され刑務所内に鯛や酒などが贈られたとの逸話が残っています。その兄「奥原松五郎」は、黒島に建つ石碑に名前が刻まれています。

        かつては塩田内の運河に架かっていた天津橋


 旭橋のすぐ傍の堤防は何故だか引っ込んでいます。この引っ込みは、かつての運河の跡なのです。この引っ込みの幅で、運河が胡神社・柳井塩田会所まで続いていました。その運河に天津橋が架かっていたのです。運河は埋め立てられ、数年前まで天津橋だけが残っていました。その天津橋は今、スタジアム傍に移築されています。

  通行不可の旭橋    運河跡の引っ込み    土穂石防潮水門
  

 旭橋と運河跡を見学し終わると、そのまま桜土手を歩き続けました。土穂石防潮水門を過ぎてさらに歩くと、グランドゴルフ練習場に出ました。ここで道を変えてビジコム柳井スタジアム方面に向かいました。そして、スタジアムの北側に移築された天津橋を見学しました。堂々たる石造りの橋です。橋脚が無いため幽霊橋とも言われたとか。せり出し式で掛けられたため橋脚が無いのです。運河を船が自由に通航できるように、橋脚を必要としないその工法で石橋を架けたのです。

 スタジアム北に移築された天津橋     防潮堤をぐるりと散策
 

 天津橋を見学し終わると、昼食休憩にしました。風が思いのほか強かったため、スタジアム近くの屋根下で昼食休憩を取りました。休憩が終わった頃、にわかに晴れてきました。日光の暖かさのありがたさを感じました。再び桜土手に戻り、こんどは周東環境衛生組合清掃センターの焼却場をぐるりと回るように防潮堤傍の道を歩きました。

  焼却場の煙突      国道188号線の橋   琴石山を仰ぎ見る
  

 周東環境衛生組合清掃センターの焼却場を過ぎると、車が行き交う国道188号線に出ました。そして、柳井港方面に向かって国道脇の歩道を歩きました。青空の下、南に発電所を北に琴石山を見ながらのんびり歩きました。国道の橋の下を見ると海が見えました。しばらく歩いて、オートレース場跡地に着きました。
 
    今回巡った、柳井市新地の干拓に関わる史跡ルート


      昭和22年 新地の塩田、運河、天津橋など

コメント
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