東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 麻郷 高塔地区名の由来と国木田独歩

2013年08月20日 | 歴史探訪他ウォーキング

 私が夕食時に、母親と話をしていました。私が、たまたま高塔にある国木田独歩吉見家仮寓後の話をしていると、思いがけない昔の話をし始めました。
 今の高塔は世帯が400以上もある大地区になっていますが、私が子供の頃は30世帯ほどのさびしい地区でした。さらにその昔、麻郷の僻地のような場所だったようです。田布施地方史研究会会長のHさんによると、僻地となった理由は、軍が今の高塔地区に燃料倉庫を設けるために土地を接収したためだそうです。その時に国木田独歩が住んでいた吉見家も移転させられたようです。さらに母親が嫁いだ後に聞いた話では、戦時中、警備のため今の高塔に通じる道は閉鎖されていたそうです。そして、麻郷護国神社前と今の旭と新川の境近くの二か所の道に軍の検問所があったとのことです。なお、その燃料倉庫は普通の納屋か農業倉庫のように偽装されていた、とのことを私は聞いたことがあります。

                畜舎に改造した燃料倉庫 撮影1951年
               手前の檻で鶏が飼われているのが写る



 終戦後昭和20年代始め、海外にいた人々がいっせいに引き上げてきました。父親も引き上げ者の一人でした。そして開拓団として国から軍の土地や家を与えられて、今の高塔などに入植し始めました。テント,倉庫,掘立小屋などを与えられて、一つ屋根の下に2~3世帯の家族が住んでいたとのこと。
 私の祖父(故中田幸槌)が終戦後、麻郷村役場に勤めていた祖父の友人に、父親が軍の燃料倉庫をもらえるようかけあったそうです。その結果、父親はその燃料倉庫を払い下げてもらって親戚の人と住み始めたそうです。その後、私の父親を含め開拓を始めた周りの人々が、農業団体を組織しました。そして、その副団長に父親が選ばれたとのこと。そして桃などの作物を共同で作り始めたそうで、その後酪農も始めました。

             高塔山中腹から見下ろした高塔地区 撮影1957年
                   手前の丘には桃が植えられている



 その頃、住んでいる人があまりに少ないため、藤尾などの地区を合わせて新しい地区を作ることになったそうです。その時、新しい地区名を何にするかもめたとのこと。桃をたくさん作っているので、一時「桃山」地区にしようとの話も出たとのこと。なかなか新名称が決まらず、たまたま父親がそのことを母親に漏らしたそうです。すると、母親は国木田独歩が書いた作品「帰去来」に出てくる高塔を取って「高塔」地区にしたらどうかと提案したそうです。その案を父親が持ち帰って、みんなに話したところ、みんなが賛成して「高塔」地区に決まったとのこと。それでも、当時の高塔地区は30世帯ほどの少なさでした。

              高塔山裾野の畑から見上げた高塔山 当時まだ禿山 撮影1956年
                   頂上は眺めが良く、幼稚園の遠足コースにもなっていた



 作品「帰去来」に何度も出てくる高塔山は、国木田独歩が吉見家に住んでいた頃によく独歩自身が散策した山です。私が子供の頃(昭和30年代)は禿山で、頂上から八海,平生,曽根,水場などが眼下に見えました。祖父(故中田幸槌)とまつたけを取りに行ったことがあるなど、この高塔山周辺を駆け回っていました。また、父親は私のために、高塔山の一角に、将来家を建てるための木材にする木を植林をしていたことを覚えています。
 それにしても、まさか母親が高塔地区の名付け親だったとは。昔の地図には藤尾と書いてあるのに、どうして高塔の名前が出ていないのか不思議に思っていました。その謎が一つ解けました。母親は今も、独歩の作品「帰去来」が載っている「独歩郷土文学抄」(昭和16年発行)を大切に持っています。柳女(柳井高校の前身)時代に購入したそうです。

      独歩の作品集「独歩郷土文学抄」                  「帰去来」に出てくる高塔
 

 今の高塔地区が戦前に軍に接収された話で、思い出しました。私の母親の妹は、平生町佐賀の魚見地区にあった金福家に嫁ぎました。その金福家は、元々平生町阿多田半島の田名に家がありました。漁港があり漁業が盛んだったとのことです。しかし戦前、地区が丸ごと軍に接収されて、佐賀の魚見に地区ごと移転させられました。軍はその阿多田半島に人間魚雷回天の基地を作ったのです。この回天基地と高塔地区にあった燃料倉庫は、何らかの関係があったのでしょうか。※その後、母親に聞いた話では、九州の大刀洗(たちあらい)飛行場の燃料だったそうです。
 戦後、魚見地区の人々は田名地区を再興しようと国に陳情したそうです。しかし、新光学院を作るためとのことなどで、願いはかないませんでした。時は流れて世代交代が進み、魚見地区の人々は魚見がふるさとになってしまいました。今、阿多田交流館そばに田名地区を再興しようとした人々の石碑が立っています。母親の妹の義理の父親名(故金福新一)も刻まれています。阿多田交流館内に、戦前の田名漁港の姿が再現された模型が展示されています。
 阿多田交流館前に立って、原寸大の人間魚雷回天レプリカ,旧田名地区の方々の石碑,そして目の前に広がる新光学院跡の広大な空き地を見ると、時の無情さを感じます。

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