東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

平生町~柳井市 佐賀,皇座山,上関,阿月,伊保庄を散策(1/5)

2012年07月20日 | 歴史探訪他ウォーキング

 梅雨が明けたようなので、上関方面に散策に出かけてみました。半島の西側に位置する佐賀,尾国,そして半島の東側に位置する阿月,伊保庄などには、私の親戚が数多くあったため懐かしい場所です。最初に南周防大橋を渡って平生佐賀の田名に行きました。ここには阿多田交流館があり同じ場所に人間魚雷回天の記念館があります。そして、その南側には新光学院跡の広い更地が広がっていました。その新光学院跡地を前に一つの碑があることに気が付きました。その碑に、親戚の名前が彫ってあったのでびっくりしました。その名前の方は、私の母親の妹の夫の親(故人:金福新一)です。

      新光学院跡の広い更地          親戚の名前が彫られた碑
 

 なぜこの碑が立っているのかと言うと、戦前にこの田名地区が人間魚雷回天の基地として軍に接収された地区だったからです。住民は田名地区から魚見地区に強制移住させられました。戦後ずっとこの土地の返還運動があったようです。しかし、この地区は強制移住者に返還されないまま新光学園が建設されました。新光学園が建設された後も土地の返還運動が続けられたそうですが、月日が経ち高齢化などのため返還運動が下火となりました。そして、返還されないまま金銭和解となり碑が立てられたとのことです。その親戚の方は議員もしていたそうで、返還運動のリーダー的存在だったようです。

      人間魚雷の回天                  佐賀地区丸山の海水浴場
 

 新光学園跡地を去ると、佐賀地区の丸山海水浴場に行きました。この海水浴場は20年ほど前にできました。できた当時、息子達を連れて来たことがありますが、当時は砂浜はなくて砂利の海岸でした。このため、歩くと足が痛くてあまり良い海水浴場ではありませんでした。しかし、久しぶりに来てみると綺麗な砂が敷かれていました。

                  丸山海水浴場から見た、岬や島々


 この海水浴場には防波堤が海に向かって突き出ていました。その防波堤を歩いて進むと、瀬戸内海の島々が目の前に見えました。そして、振り返ると大星山の風車群や光輝病院が小さく見えました。

                左丸内は大星山の風車群、右丸は光輝病院


 次に、佐賀魚見地区の親戚を訪ねました。戦前に田名地区からこの魚見地区へ強制的に移住させられ、戦後土地の返還がかなわなかった親戚です。新光学園跡地に建てられた碑に名前が書かれた方です。私が子供の頃にこの親戚に何度か来たことがあるらしいのですが、私にはあまり記憶がありません。そこで、近くのお店に行って親戚のことを尋ねました。すると、その親戚の家はあるがもう誰も住んでいないとのことでした。数十年前は漁港の網本をするほどの名家だったのにとても残念です。少しがっかりした思いで、次に光輝病院の直下を通る昔道を通るため光輝病院への道を登りました。

     親戚のことを訪ねたお店         光輝病院に向かう魚見地区の登り道
 

コメント
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